闇を駆ける狼
マーケットが締まり、オンリーワンの一日目が静かに幕を下ろす。上層部の店舗は次々と明かりを落とし、人々の足音も次第に遠のいていく。だがその下層、街の腹部にあたる一角では――まったく異なる光景が広がっていた。
明かりが灯る飲食店、響く笑い声。住人や商人たちが集まり、酒と料理に囲まれて、夜の宴が始まっていた。
「……で、なんで一番働いてた俺がお前らに奢らなきゃならんのかって話だ!」
シゲルの怒鳴り声が、店内に響き渡る。その前で並ぶのは、アヤコ、クロ、クレア、ウェン、ノアの五人。すでにテーブルには豪華な料理が並び、手にはフォークや箸が握られていた。
「聞いてんのか、お前ら!……ったくよ」
文句を垂れながらも、シゲルはジョッキを手に取り、勢いよくビールを煽る。アヤコは「うるさいなぁ」と笑いながら分厚い肉を頬張り、クレアは皿の上に盛られた焼き魚の香りに鼻先をひくつかせる。ノアは落ち着いた手つきでサラダを取り分け、向かいのウェンが受け取った皿を手に嬉しそうに笑った。
その中央で、クロは湯のみを両手で包みながら、どこか遠くを見るようなまなざしで皆の様子を眺めていた。
「クロ、食べないの?」
アヤコが肉を頬張りながら振り返る。クロは小さく頷き、湯呑に口をつけたまま目を細める。
「はい。少し眠くなってきたので……これから、少し寝ます」
「は?」
ウェンの口から、素っ頓狂な声が漏れた。まるで「このタイミングで!?」とでも言いたげな視線がクロに向けられる。だがクロは、それに応えることもなく、静かに目を閉じるだけだった。
アヤコは何事もなかったようにフォークを動かしながら、端末をさりげなく手元へ寄せる。テーブルの下――他の誰にも気づかれぬよう、ノーブルから聞いた“フロティアン軍の異常な動き”をシゲルへと送信する。
画面を伏せると同時に、アヤコは隣のウェンの肩を肘で軽く突いた。
「ウェン、大丈夫。すぐ起きると思うよ」
不思議そうに眉をひそめたウェンだったが、ふと、クロがこの二日間ほとんど休んでいなかったことを思い出し、ぽつりと小さく頷いた。それ以上は何も言わず、皿の上の料理に視線を戻す。
そんな様子を見届けたシゲルが、ジョッキを片手にどんとテーブルを叩いた。
「夜は長ぇぞ。これからじっくり飲み食いしながら、情報も拾っていく。アヤコ、ウェン――今のうちに顔を売っとけ」
そう言ってから、空になったジョッキを高く掲げる。
「いいか? この場はな、ただの食事じゃねぇ。顔を覚えてもらう場だ。俺みてぇに交友を広げるチャンスでもある」
店員が運んできた新しいビールを片手に受け取りながら、さらに続ける。
「食い終わったら俺が紹介してやる。端末持って、情報交換しとけ。表の技術も、裏の技術も、全部だ。話して、学べ。こういう場を逃すなよ」
その言葉に、アヤコとウェンの表情がぱっと輝いた。ふたりとも、まだ知らない知識に触れられる機会に胸を躍らせていた。
そしてその横で、目を閉じたまま動かぬクロの肩で――クレアもまた、そっとまぶたを閉じていた。
仰向けに横たわっていた巨体が、静かに目を開ける。意識だけを分身体から本体へ戻した、バハムートだった。その胸に伏せていた影――ヨルハも同時に目を覚ます。
「……ついて来たのか?」
低く抑えた声に、ヨルハは鋭く耳を動かして顔を上げた。
「はい! バハムート様の意識が分身体から離れたのが分かりましたので……私もお供いたします!」
胸の上に伏せながら、誇らしげにそう言い切る。主を見上げる金の瞳は、迷いなく澄んでいた。
「……まあ、いい」
バハムートは小さく呟き、空間を歪めてその巨体を透明化させる。ヨルハもすぐに後を追い、姿を霞ませると、二体は同時に転移する。
転移先は、不干渉領域の外縁。遠くに、小惑星のシルエットが浮かんでいた。
「ヨルハ。今から、オンリーワンが感知しない位置まで離れる。本来の姿に戻るためだ」
その言葉に、ヨルハの金色の瞳がきらりと輝いた。主の本体。バハムートの真の姿を、間近で見ることができる――それは、彼女にとって栄誉そのものだった。
「すぐ行きましょう!」
声を弾ませながら、ヨルハはバハムートの肩を前脚で軽く叩いた。
「……わかった。まずはいったん距離を取ろう」
バハムートはゆっくりと宙へ舞い上がり、光の粒子を曳きながら一気に加速する。オンリーワンの索敵網から外れた空間まで飛翔し、滑るように停止した。
星の光が淡く揺らぐその宙域で、バハムートが声を落とす。
「……さて、ヨルハ。まずはお前からだ」
「はい!」
力強い返事と同時に、ヨルハの身体が静かに震え始めた。四肢を覆っていた装甲のような外装が光に溶けるように消え、輪郭が静かに揺らぎ始める。人工的な節構造はゆるやかにほどけ、内側から本来の骨格と筋肉が浮かび上がってくる。
眠っていた“獣”が、ついに目を覚ました。
漆黒の体毛が流体のように広がり、空間の深部から紅の光がほとばしる。それはただの色ではない。圧力、質量、存在の格――すべてを包み込む威圧だった。
肩から背にかけて走る筋肉の隆起は、まるで空間の線を歪ませるように蠢いている。風も重力もないこの宙域でさえ、彼女の躯は周囲を沈黙で満たした。
太く、しなやかな四肢が確かに空を踏みしめ、爪が触れぬ虚空をも裂きそうな切断の気配を放つ。口元には、熱線と黒炎の前兆が滲み、ただ呼吸するだけで空間がわずかに軋む。
そして――金色の眼がゆっくりと開かれた。その眼差しは、感情と共鳴するように淡く脈動しながら、獲物ではなく“敵”だけを捉える。
姿を現したその巨影。
全長約600mを超える狼型生命体――バハムートウルフ。
光と空間を呑み込む、漆黒の巨体。その存在は荒々しさとは無縁だった。戦うために進化し尽くした、美しき破壊の結晶。
密度の高い筋繊維と再構築された骨格が生む輪郭は、獣としての威圧感を“武”へと洗練させていた。力に飾りはなく、威容に虚飾もない――ただ、極限まで磨き上げられた“生”がそこにある。
それはもはや、動物でも怪物でもない。一体の生命が、ただ一つの到達点へと辿り着いた姿だった。
ヨルハはゆっくりとその身を起こし、宙に漂う主の方へと首を垂れる。
「……バハムート様、準備完了です」




