繋がる血筋、変わりゆく立場
その一言に、さすがのシゲルも笑みを引っ込めた。
一瞬、空気が凍る。ノーブルも息を呑み、わずかに眉をひそめる。場の緊張は限界まで高まりかけた――だが。
オンリーだけは、まったく動じなかった。
バハムートの圧も、金の瞳の閃きも、そしてこの小惑星を消し飛ばすとまで言い放った“最後のひと言”さえ、すべてを受け止めたうえでなお、微笑みを絶やさない。
その姿勢は、どこか慈母のようでもあり、強者としての矜持のようでもあった。
そして――
「なるほど。“引きこもり”という言葉――私にも、少し刺さったわね」
陶器のように滑らかな指先が、茶器の縁をそっとなぞる。静かな声音には、どこか自嘲めいた柔らかさが宿っていた。
「だって私、この小惑星に引きこもってるもの。……だから、わかるのよ。外に出るのって、自分を知ってもらうのって怖いのよね」
オンリーはゆっくりと立ち上がり、クロへと向き直る。そして、悪戯を仕掛けるように唇の端を上げた。
「ねえ、クロちゃん? シゲルちゃんに――お仕置き、お願いできるかしら?」
その一言に、シゲルの肩がほんのわずかに跳ねた。
だが、オンリーの瞳にはいたずらの色と共に、確かな信頼と期待が混ざっていた。“クロなら、冗談と本気の境目を見極められる”という確信――それが、彼女の瞳にあった。
クロは、オンリーの言葉を静かに受け止めた後、ゆっくりとシゲルの方へ視線を向けた。その顔には、ほんの僅かな笑みが浮かんでいる。
「大丈夫です。私から手を出すことはありませんよ」
その声音は穏やかだったが、どこか含みがある。
シゲルが怪訝そうに眉を寄せたその瞬間――
「……ただ、お姉ちゃんに伝えるだけで済みます。ビールとか、つまみとか……全部“処分”してもらえばいいんですから」
にこりと笑いながら放たれたその一言に、シゲルの目元が引きつる。
それはまさに、最も効果的で、そして最も容赦のない“お仕置き”。本人に手を出さずとも、精神にじわじわと効いてくる、極めて現実的かつ確実な手段だった。
「……っお前、それだけはやめろ」
シゲルは思わず椅子の背もたれに深くもたれかかり、天井を仰いだ。
その反応を見て、ノーブルが吹き出しそうになるのを堪え、オンリーは楽しげに小さく拍手を打った。
「ふふ……完璧だわ、クロちゃん。まさに“大人のお仕置き”って感じ」
オンリーはくすくすと微笑みながら椅子へと腰を下ろし、視線をクロに向ける。トバラもまた、お茶のお代わりを注ぎつつ微かに口元を緩めていた。
「……多少置いてきぼりなんだが、まず確認させてほしい」
それまで独白の中、沈黙していたノーブルが、ふいに声を発した。場の温度が、わずかに変わる。
「前に会ったとき気になっていたのよ。ヨルハ――あの狼型のロボット。あれは、そこのクレアちゃんの“本体”ってことでいいのか?」
その問いに、クレアはすっと胸を張り、はっきりと答える。
「はい。人間社会に適応するため、クロ様の指示で擬態しています」
「……なるほど。それでか」
ノーブルは腕を組み、納得したように目を細めた。
「以前、ステルス検知で捉えられなかった理由がようやく腑に落ちた。機械的なステルスではなく、能力によるステルス――納得した」
そこで、クレアがそっと前足を挙げる。
「――私からも、ひとつ質問してもよろしいでしょうか?」
ノーブルは驚いたように眉を上げたが、すぐに柔らかく頷く。
「構わない。どうぞ」
「数日前から、我が家――つまりクロ様たちの住む区域周辺に、あなた方に近い“匂い”を感じていました。敵意はなかったので静観していましたが……あれは、どなたかの関係者ですか?」
その一言に、クロは小さく首を傾げ、右肩に乗るクレアへと視線を向ける。
「……クレア、それ、私も初耳なんだけど?」
問いかけに、クレアは一瞬だけ気まずそうにまばたきをし、すぐに小さく頭を下げた。
「申し訳ありません、クロ様。危険性はないと判断し、ご報告は控えておりました」
その返答に、クロはあっさりと頷く。
「……なら、問題ないです」
まるで気にしていないというように、さらりとした口調だった。
だが、その軽さに反して、ノーブルの顔にはわずかに困惑の色が浮かんでいた。やがて、彼女は息を吐き、ゆっくりと打ち明けるように言葉を紡ぐ。
「正直に言うと、君たちの動向を静かに“観察”させてもらっていた。機会があれば接触を――と考えてはいたけれど……もう引き上げるよ。君たちの正体を知った今となっては、それ以上の必要もない」
言葉に曇りはない。ただ、誠実さだけがあった。
そして、そのまままっすぐにクロとクレアを見つめて、確認するように続ける。
「クロ、そしてクレアちゃん。君たちの“正体”について――申し訳ないが、一部の情報を伏せたうえで、信頼できる者にだけ“注意人物”として伝達しておきたい」
その意図を問うように、クロが視線を鋭くする。
「……理由を伺っても?」
その問いに、ノーブルは即答した。
「単純な話よ。クロ、あなたが帝国に足を踏み入れたとき、余計なトラブルが起きないようにするため。私自身が、迎えに出られるようにもしておきたい」
その言葉のあと、ノーブルはひとつ姿勢を正し、明確な意志を示すように言葉を結ぶ。
「そしてもう一つ。君は、シゲルの“養子”となった。であれば――君は、帝国の皇族としての籍を持つことになる」
その一言が室内に落ちた瞬間、時間がわずかに凍りついたような静寂が訪れた。
クロの瞳がかすかに揺れる。オンリーがティーカップを口元に運ぶ仕草さえ、どこか緩やかになる。
そして――その沈黙を破ったのは、シゲルだった。
「だから、ちがうってのによ……」
心底面倒そうに眉間を押さえながら、低く呟く。
だが、ノーブルは動じなかった。その口調はむしろ穏やかで、少しだけ茶目っ気を含んでいた。
「アヤコちゃんであれば、それも微笑ましい話になるのかもしれないけど……クロとなると、さすがに周囲の反応は違うわね。いくら“ゲイツ”の姓を捨てたとはいえ――あなたの血筋、そして立場の影響は、消えない」
クロではなく、あくまで“シゲル”に向けられた言葉。それは、彼の過去と重みを知る者としての、穏やかな忠告だった。
シゲルは大きく息を吐き、頭を軽く振る。
「……親父も、最後までそれ言ってたな。しつけぇったらありゃしねぇって」
過去を思い出したのか、少しだけ苦笑する。それは、どこか懐かしさと諦念が混ざったような表情だった。