ログアウト不能の真実
「……満足されましたか?」
クロの声は、相変わらず揺るがない。敵意も怒りもない。ただ、事実を確認するように続ける。
「動かなければ、生きられる時間はまだ増えます。……さて、どうしますか?」
それは選択肢の提示でありながら、“最後通告”にも等しかった。
『ふざけんなッ! どこまで人を馬鹿にしやがって!』
ウイングの怒号が、通信に荒く乗る。
『そもそもおかしいだろうが! ダメージが入ってねぇ! チート使ってるだろ、お前!? 卑怯者っ!』
「……まあ、“存在がチート”みたいなものですので」
軽く受け流すように、クロは肩をすくめる。その直後、わざとらしく考える素振りで、首をゆっくりと傾けた。
「……ああ、でも。もし倒せたら、経験値――そうですね、53万ほど手に入るかもしれません」
その言葉は、まるで“ご褒美”でも提示するように穏やかだった。
『どこまでも……ふざけやがってぇっ!!』
ウイングの叫びが空間を揺らす。その間も、バハムートは一方的に斬撃を受け続けていた。
全身の装甲には無数の傷。中には、深く抉られた箇所すらある。それでも、バハムートは反撃せず、ただ立ち尽くしていた。
――そのとき、クロがふと問いかける。
「……最後に確認しておきます。ログアウト、できますか?」
『できるに決まってんだろ! このゲームはフルダイブ型で――』
その瞬間だった。
バハムートの巨体が、初めて――明確な“殺意”を帯びて動いた。
右腕がゆっくりと持ち上がり、手の中に一本の剣が形成される。
漆黒の重力をまとった剣――《フレアソード》。
その刃は、質量という概念を無視して存在し、ただ“触れれば終わる”という、圧そのものを帯びていた。
クロは静かに構える。剣を肩に乗せるようにしながら、淡々と告げた。
「全力で、避けなさい」
警告だった。忠告でもあった。だが同時に、それは“執行”の合図でもあった。
一瞬、空間が沈黙に包まれる。そして――バハムートの剣が、振り下ろされた。
その一閃が走った瞬間、場の“気配”が激変する。
音も、光も、時の流れすら一拍遅れるかのような錯覚。その一撃には、圧倒的な“死”が宿っていた。
ウイングは反射的に後方へと飛び退き、なんとか直撃を免れる。だが、その衝撃波は彼の機体の右腕を――肩口からごっそりと、まるで飴細工のように断ち切った。
『う、おおおおっ!? お、俺の……ストームシュトルムの、右腕がぁっ!!』
悲鳴と怒号が交錯する。
バハムートは、切断された腕を見下ろすウイングの機体を一瞥し、淡々と告げた。
「“ストームシュトルム”……直訳すると、“嵐の嵐”ですか」
一拍置き、まるで冗談でも聞いたかのように、わずかに首をかしげる。
「――随分と、風が重なってますね。けれど、その割に吹いてきたのは、ただのそよ風でしたよ」
その声音には、冷ややかな嘲りも、高ぶった優越感もなかった。ただ、“事実”を、淡々と――容赦なく突きつけるように述べるだけだった。
「ログアウトして逃げるなら、見逃しますよ」
口調はあくまで穏やか。まるで好意的な譲歩のように聞こえる。だが、その言葉の奥に横たわるのは――“見逃す”という選別者の立場。それがクロとウイングの間に存在する、絶対的な隔たりだった。
『……うるさい! 覚えてろよ、絶対に!!』
ウイングの怒鳴り声が響く。だが、それは“怒り”というより“逃げ場を探す叫び”だった。
その言葉と裏腹に、ストームシュトルムは動かない。消えることも、退くこともなく――ただ、虚空に佇んでいる。その異様な静けさに、かすかな焦燥が滲み始める。
バハムートは、じっとその機体を見下ろしていた。装甲に浮かぶ幾筋もの損傷を観察しながら、ただ静かに、何かを待っていた。
やがて、通信がかすかに震える。先ほどまで暴言を吐いていた男の声は、次第に掠れていた。
『……な、なんで……なんでログアウトできねぇんだ……?』
小さく、息を呑むような呟き。画面の向こうから聞こえるその声音には、明らかな動揺と混乱があった。
その一言が意味するのは、世界の構造そのものへの不信。
クロは一歩も動かず、静かに言葉を紡ぐ。
「ログアウト……できないんですよ」
その響きには同情も慈悲もない。ただ、一点の揺らぎもない“現実の証明”だった。
一拍の間を置いて、追い打ちをかけるように言葉が落ちる。
「……だって、ここは“現実”ですから」
ウイングは一瞬、返す言葉を見失った。頭の中で何度も“エスケープキー”を探すような思考が巡る。理屈を並べようとしても、声が出ない。
『そ、そんなはずは……そんなはず、あるわけがない……っ!』
叫ぶように言い返す。だがその声は震えていた。さっきまでの威勢はなく、言葉が自壊しかけていた。
“ログアウトできない”
“死ぬことがある”
“回復は自動で行われない”
“他者に救済コマンドを送ることもできない”
次第に、目の前の現象が全て“ゲームの想定”では説明できないことに気づいていく。
だが、それを認めた瞬間、彼の“世界”が崩れる。だからウイングは、必死で抵抗する。
『ログアウトできないわけ、ないだろ……! これはVRだ……プロローグだって、爺が言ってた……!』
その叫びに、すがるような必死さが滲んでいた。
クロは、その崩壊の進行を静かに見つめながら、最後の一言を投げかける。
「……では、試してみてください。ログアウトを」
それは提案でも、助言でもなかった。ただ、“幻想”を確かめさせてあげる――最期の優しさだった。
だが、返答はなかった。いや、返答“できなかった”のかもしれない。認識の全てが崩れ落ち、言葉すら出せぬ状態だった――ただ、虚空に呆然と佇むのみ。ウイングの姿は、そこに在るままだった。
沈黙だけが、唯一の答えとして――場に、重く、残されていた。




