少女の肉体と、竜の魂
翌朝。クロはゆっくりと上体を起こし、軽く肩を回す。馴染んできたはずの分身体にも、まだどこか“他人の皮”をかぶっているような違和感があった。
――クロとして生きる、二日目。
「……まずは、シャワーでも浴びて、目を覚まそうか」
ぼそりと呟いてベッドを離れ、そのままシャワールームへと向かう。自動ドアが滑らかに開き、白い湿気と石鹸の匂いが鼻をかすめた。
服を一枚ずつ脱ぎ、柔らかな湯気の中に身を晒す。そして、曇った鏡の前へと立ったクロは――あらためて自分の姿を見つめる。
真っ直ぐに伸びた艶のある黒髪が腰のあたりまで流れていた。湿気を含んでわずかに波打ち、背に沿って自然に広がっていく。
少女のように華奢な体つき。しかし肩のラインは端整で、くびれた腰にはどこか意志の強さすら宿っていた。
胸元は控えめながらも、確かに柔らかな丸みを持っている。細く引き締まった四肢には、しなやかな筋肉が宿っていたが、それも“少女”という枠から外れることはない。
肌は淡く黄みがかっていて、ほのかに体温を感じさせる血色がある。その全体像は、あくまで“美しい”というより――“よくできすぎている”。
「……何度分身体を作っても、この姿にしかならないんだよな」
呟きながら、腰まで伸びた髪を指ですくう。するりと滑る感触に、体は間違いなく生身だと実感する。
「もっと男らしい体にしたかった。……高身長で鋭い目、戦士のような腕。そういう姿を思い描いてたんだけどな」
けれど、どれだけ作り直しても、何度試しても――必ずこの姿になった。
ふと、記憶の底で何かが引っかかる。
「……そういえば、あのとき。転生のときに見た女神……」
輪郭のぼやけた記憶。だがその笑みの形、髪の流れ、気配のようなものが――この身体とどこか似ている。
「……まさか、ね。でも……もう、思い出せない」
小さく笑いながら、クロはシャワーのノブに手をかける。軽やかな音とともにお湯が流れ出し、あっという間に白い湯気が空間を包んでいく。
クロはその霧の中へ、そっと身を沈めた。
首筋に落ちる最初の一滴。それだけで、思わず小さく息が漏れるほどの心地よさだった。
(……ああ、気持ちいい)
お湯が肌を滑り、長い髪を伝い、全身を優しくなぞっていく。何千年もの時を超えて――この“感覚”を、クロは久しぶりに味わっていた。
バハムートとして生きていた頃は、こんなものに価値を感じたことさえなかった。肌も、温度も、柔らかさも――すべては必要のない贅沢だった。
けれど今、分身体のこの体は――確かにそれを“心地よい”と感じている。
流れ落ちる湯音。霧の湿り気。肌に触れる温もり。
すべてが、懐かしくて……それでいて、新しい。
「……欲を言えば、風呂の方がよかったけど……まあ、十分だな」
目を閉じたまま、ぽつりと呟く。
十分に堪能したのち、クロはシャワールームを後にし、着替えて一階へ降りる。昨日とは違う顔ぶれのホテルマンに軽く会釈を返し、外へ出ると、目の前のギルド支部へ足を向けた。
ギルドの扉が開いた瞬間――空気がぴたりと張り詰める。
昨日とは明らかに違う雰囲気。ざわめきも笑い声も止まり、その場にいたハンターたちの視線が、一斉にクロへと集まった。
それは、恐れ――いや、“畏怖”だった。
「……クロ、ちょっとこっちに来い」
受付にいたグレゴが低い声で呼ぶ。無言のままカウンターへ近づくと、グレゴは無造作に言葉を投げる。
「壁の修理代の請求書データだ。今、送った」
クロの端末に通知が届き、すぐに確認画面が開かれる。その額を見て、クロの眉間にしわが寄る。
「……結構、いくのね」
「言っておくが、中に埋まってた配線や補強材も全部取り替えだ。こっちで値切って、これでも“まけて”100万C。期限は二週間」
「……わかったよ」
クロの短い返事に、グレゴはさらにひとつ釘を刺す。
「あともう一件。昨日言ったはずだ――お前の“機体”。まだ登録してないな? 今日中に済ませろ。未登録で活動したら、違反扱いになるぞ」
それだけ言い残すと、グレゴは業務に戻っていった。
クロは肩をすくめ、小さくため息を吐く。ロビーの端にあるテーブルに向かい、空いた席に腰を下ろすと、端末を取り出して依頼リストと賞金首の目撃情報を確認しはじめた。
「……外に出て、狩る方が早く稼げそうだな」
ターゲットのデータを端末に転送し、立ち上がる。そのままギルドの扉をくぐり、外へ出た。
歩きながら、ふと“もう一つの問題”が頭をよぎる。
「……機体の登録、ね。俺を“登録”って……具体的にどうするんだ?」
クロは端末を開きながら、登録手順の説明ページをスクロールしていく。画面には、登録に必要な三つの項目がシンプルに表示されていた。
――機体名。
――全体スキャン画像。
――ID。
「……機体名とスキャン画像は、まあ……どうにかなる」
小さく頷きながら、視線が自然と三つ目の項目へ吸い寄せられる。
「……問題は、IDか。俺……ロボットじゃないし、そんなもん最初から持ってない」
画面に指を当てたまま、ぽつりと呟く。人間のように戸籍があるわけでもなく、ロボットのように製造番号があるわけでもない。クロは、どこにも属さない存在だった。
登録の“前提”からして、最初から外れている。
「……ごまかせたり、しないかな」
その声は誰に向けたものでもなく、ただ独り言のように空へとこぼれる。そして、人々のざわめきに紛れて、静かに人混みの中へ消えていった。