不器用な夜、学ぶ者
ギルド内の空気は、張りつめたまま凍りついていた。誰もが目撃したのは、煽ったアレクが唐突に消え、次の瞬間、壁が壊れ外から鈍い音が響いたという事実だけ。
クロの一撃を、“見た者は一人もいない”。
だからこそ、その静けさには“畏れ”が混じっていた。
「……クロ。やり過ぎだ」
沈黙を破ったのは、グレゴの冷静な声だった。その声には感情よりも“秩序の責任”が滲んでいる。
「それと――壁の穴の修理代。正式に請求する」
クロは何か言い返そうと口を開きかけたが、グレゴはそれを遮るように、言葉を重ねた。
「確かにアレクが悪い。ハンター資格は取り消し、正式に逮捕される。攻撃についても、“相手の同意があった”という点で正当防衛が成立する。だが――」
そこで一拍、言葉を区切り、視線だけでクロを射抜いた。
「――俺は、“壁を壊していい”とは、一言も言ってない」
その明確な“答え合わせ”に、クロは口を閉じ、視線を落とす。無言のまま、静かに下を向いた。
「修理代は、金額が確定したら請求する。今日は帰って、寝ろ」
「……泊まる場所がない」
短く、クロがつぶやく。グレゴは数秒黙り――やがて、大きなため息を吐いた。
「……はぁ~。目の前に“格安ホテル”がある。自分で調べて、自分で泊まれ」
「……ありがとう」
クロは深く頭を下げると、静かにギルドをあとにした。
去っていく小さな背中を見送りながら、グレゴはふと振り返り、近くのハンターに声をかける。
「おい、アレクはまだ生きてるか?」
グレゴの問いかけに、様子を見に行ったハンターがどこか気まずそうな顔で戻ってくる。
「……生きてます。けど、顔が……その、見るに堪えないというか……」
「そうか。じゃあ治安局に連絡しろ。あいつはギルド内に縛って、しばらくそのままにしておけ。“ハンターの面汚し”には、ちょうどいい見世物になる」
グレゴは深く椅子にもたれ、ギルド内をゆっくりと見渡した。
「……お前らも、同じ目に遭いたくなければ――正しく、生きろ」
怒鳴ることはなかった。だがその声には、否応なく場の空気を引き締める“重さ”が宿っていた。
その頃、クロはギルドのすぐ向かいにあるホテルの自動ドアをくぐっていた。
“格安”と掲げられていたが、内部は想像以上に整っていた。大理石風の床は丁寧に磨かれ、天井にはシンプルながらも存在感のあるシャンデリアが静かに揺れている。
ロビーは落ち着いた雰囲気に包まれており、清潔感のある空間が広がっていた。カウンターに立つホテルマンも、仕立てのよい制服に身を包み、姿勢正しく迎えの態勢を整えている。
「いらっしゃいませ。……失礼ですが、ご家族の方はご一緒でしょうか?」
声は丁寧だったが、わずかに困惑が混じっていた。夜に、小柄な少女が一人でホテルを訪れるというのは、そうあることではない。
両親が先にチェックインしているか、あるいは後から合流するのか――自然と、そんな想像が浮かぶのも無理はなかった。
だが、返ってきた答えは、どちらでもなかった。
「いえ、両親はいません」
クロは短くそう答えると、腰のホルダーから端末を取り出し、ハンター資格の表示画面を無言で提示する。
「――これ。一応、ハンター資格です」
ホテルマンは受け取った端末を確認し、資格情報を丁寧に読み取った。そして、ほんの一瞬、表情をかすかに曇らせる。
(……そういうことか)
幼く見える少女が夜に一人で宿を取る理由。親をすでに亡くし、家も居場所も失い――生きる術として、ハンターになるしかなかったのだと。そう、勝手に“察して”しまった。
「……確認いたしました。大変失礼いたしました、お客様。ご宿泊は何泊をご予定ですか?」
「とりあえず、一週間で。延長は……可能ですか?」
「はい、もちろんです。一週間で、1万4千Cとなっております」
口調は変わらず丁寧だったが、どこか“哀れみ”を滲ませないよう気をつけているようにも感じられた。
「お願いします。先払いですか?」
クロの問いに、ホテルマンは穏やかな口調で頷いた。
「はい。追加費用が発生した場合は、チェックアウト時に精算となります。鍵の返却時に、まとめてご案内いたしますのでご安心ください」
「わかりました」
クロは頷くと、端末を取り出し、支払い操作に移ろうとした。だが――すぐに、手が止まる。
指が画面を滑るたび、眉間にうっすらと皺が寄る。画面を何度も切り替えるが、該当する支払いアプリが見つからない。クロは明らかに戸惑っていた。
(……操作が、わからない)
初めて見るアプリ群。設定の構造すら理解できておらず、焦りがにじみ始めている。
その様子に気づいたホテルマンは、すぐにカウンターから出てきた。無理に声をかけず、クロの隣にしゃがみこむと、そっと優しい声で語りかける。
「こちらの端末は、思考操作にも対応しています。ですが……どうやらまだ、初期登録が済んでいないようですね。よろしければ、ご案内いたします。操作画面はご覧になったことありますか?」
「……ありません。触ったことがないので……」
クロの正直な答えに、ホテルマンは一瞬だけ目を伏せた。そして――その目に、涙を浮かべそうになるのをこらえた。
(なんてことだ……この子、まだ親もいないのに、生活するだけでこんなにも苦労を……)
ホテルマンの中で、クロ=過酷な人生を一人で生き抜いてきた少女というイメージが、すでに完成しつつあった。
「……大丈夫ですよ。ゆっくりで構いません。最初から、ひとつずつ覚えていきましょう」
そう言って、ホテルマンはまるで教科書でも開くかのように、端末の操作を一から丁寧に説明していった。
登録方法、思考操作の初期設定、支払い画面の呼び出し方。ひとつひとつを、クロの理解速度に合わせて、落ち着いた口調で導いていく。
やがて、すべての手順と登録作業が完了した。
「――これで完了です。では、クロ様。もう一度、支払いを行ってみてください」
「……はい」
クロは静かに頷くと、試すように端末に意識を向けながら、横にある小さなボタンを押した。
すると――まるでそれを待っていたかのように、支払い画面が即座に立ち上がる。操作はスムーズで、入力ミスも一切ない。金額も正確に表示され、あとは“確定”を押すだけ。
そのあまりの簡単さに、クロは端末をまじまじと見つめた。
(……なぜ、今までできなかった?)
――思い返せば、ギルドでの端末操作。依頼の確認、録画の起動、データ提出……それらが問題なくできていたのは、すべてあらかじめグレゴやスタッフが基本設定を済ませてくれていたからだった。
“使える状態のまま”端末を渡され、必要な画面をタッチするだけで済んでいたのだ。
だからこそ、今回のように“自分で支払い画面を探す”という状況には、クロにとって初めての経験だった。
(……スマホみたいに簡単だと思っていたけど、全部――周囲のサポートがあっただけか)
クロは小さく息を吐きながら、内心でひとつ納得する。
だが、それでもなお――驚きは隠せなかった。
たった一つのボタン。そして、思考への反応だけでここまで簡単に扱える端末。その扱いやすさに、クロはあらためて“現代の便利さ”というものを実感していた。