狩猟開始――星を断つ翼
クロは執務室を出て右手に視線を向ける。すぐ近くに、屋根裏へと続く階段が伸びていた。数段を上がり切ると、低い天井と斜めの梁が現れる。けれど、そこは予想に反して整った空間だった。床は丁寧に掃き清められ、壁際にはベッドとソファ。その一角には――先ほど、ギールが「触るな」と釘を刺していた場所が、まるで守るように仕切られていた。――なるほど。ギールの休憩場所か、あるいは寝泊まりの時に使っているのだろう。そんな感想を抱いた刹那、背後から張りのある声が飛んできた。
「クロ様、早く狩りに行きましょう」
クレアが嬉しそうに尻尾を振りながら、軽く跳ねるように近づいてくる。全身が“待ちきれない”と叫んでいるようだった。
「その前に……アヤコに“戻る”と言って出てきましたから、“戻らない”ことを伝えておきましょう」
クロは端末を取り出し、手短にメッセージを送信する。すぐに、画面には“OK”の文字と、小さな動物が笑っているスタンプが返ってきた。その様子に思わず頬を緩め、クロは静かに頷く。
「さて――では、ドックに転移しましょうか」
「はい」
次の瞬間、ふたりの姿は屋根裏部屋からふっと掻き消えた。ドックに転移したクロとクレアは、端末を操作しながら最近の襲撃被害についての情報を確認していた。画面に表示されたリストには、いくつもの地点と被害記録が並んでいる。
「なるべく大物を狙いたいところですが……物資や資材が不足気味、ということは」
クロは視線を移し、画面に浮かび上がる宙域図に注目する。
「このコロニーと、近くの惑星にある別のコロニー。そこを結ぶ航路付近の被害を重点的に調べれば――」
言いかけて、目を細める。
「……多いな」
端末から投影した宇宙図には、赤い警告マークがいくつも点在していた。交差する航路、隠れられる宙域、物資の供給路。そのすべてが狙われているかのような密度だった。クロはしばらく黙り込み、端末を見つめる。
「一番新しい襲撃地点から潰していくか、それとも……襲撃が集中している宙域を狙うか」
自問するように、静かに呟いた。
「よし、両方にしましょう」
クロは迷いを断ち切るように声を上げた。最新の襲撃地点も、最も被害の多い宙域も見過ごすことはできない。どちらも放置すれば、さらに犠牲が増える。ならば選ぶ必要などない。潰す――それがバハムートとしての在り方だと、彼女はそう理解していた。
「クレア。ちょっと帰りが遅くなりますが、潰せるものは片づけてしまいましょう」
その言葉に、クレアはぱっと表情を明るくし、嬉しそうに尻尾を振る。
「はい」
躊躇いも戸惑いもない返事だった。どれだけ過酷な任務でも、クロと共にあるならば怖くない――そう語るような目をしていた。クロは静かに頷くと、端末を操作してドック内のモードを切り替える。そして、クレアの方へと向き直る。
「では、始めましょう。まずは――融合の準備です」
軽く手を差し出しながら、言葉を続ける。
「クレア、本体に触れて、融合してみてください。手を当てて、“戻る”ように意識を向ければ自然と接続されるはずです」
クレアは真剣な面持ちに変わり、こくりと小さく頷いた。そして、ゆっくりとクロの胸元へ手を伸ばしていく。その指先が触れた瞬間、淡い光がゆらりと舞い上がった。光に包まれるようにして、クレアの姿は本体――ヨルハへと溶け込む。輪郭が滲み、霧のようにその存在が溶けていった。やがて、ヨルハの目が静かに開かれる。
「出来ました。久しぶりの本体ですが……意外と違和感はありませんね」
ヨルハの声が、口元から柔らかく響く。
「そういうものです。では、私も」
クロは軽く呟くと、バハムートに溶け込むように光になり融合する。重々しく、それでいて無駄のない変容。黒銀の装甲に包まれた巨躯の金色の瞳が開かれる。
「今回は、ここから出る。先にコンテナを受け取ってから向かうぞ」
その言葉と同時に、気圧の調整が終わったドックの扉がゆっくりと開かれる。バハムートは滑るように動きだし、仰向けの状態で足先からドックの外へと静かに姿を現した。異形の脚部を持つその巨躯に、他のドックにいた整備員たちは目を見張る。
「な、なんだ……あの足。下から……生えてきた……?」
「いや、ロボットだろ? でも……なんか……変な感じが?」
声にならない驚きが、いくつも漏れた。まるで生き物のように動くその躯体――それは、彼らの知る“兵器”の常識を超えていた。
やがてバハムートの全身が外へと姿を現すと、胸部に伏せていたヨルハが肩へと移動し、しっかりと掴まる。そして次の瞬間、その巨躯とは対照的な軽やかさで、バハムートはギルドの資材搬入用倉庫へと移動した。目的は、以前クロが購入した推進器付きの大型コンテナ。その倉庫から、ギルド職員がコンテナを運び出し、バハムートの後を追うように推進器を設定されていく。バハムートは、コンテナを引き連れながらクロの声で職員にお礼の通信を入れ、ゆっくりと宙域を離れた。
やがて喧騒が遠ざかり、コロニーを包んでいた人工の光が後方へと流れていく。静寂と星々の狭間に出たところで、バハムートは翼を軽くたたみながら、コンテナを別空間へと転送する。
「さて……一気に行くか」
バハムートから響く声が、肩に乗ったヨルハに届いた。
「ヨルハ。すまないが、Gを感じるかどうか確認してくれ」
「わかりました」
即座の返答とともに、バハムートは背部の翼を大きく展開する。硬質な羽が光を受けてきらめき、空間が軽く揺れる。次の瞬間、その翼が一閃のもとに羽ばたかれる。空間を割くような衝撃とともに、爆発的な加速が始まった。尾を引くような粒子光が伸び、機体は一瞬で軌道を離脱する。そして――数分と経たずに、最初の襲撃ポイントへと到達した。
「着いた。どうだ、ヨルハ。Gを感じたか?」
呼びかけに、ヨルハは小さくまばたきをして、首をかしげた。その動作はごく自然で、どこか柔らかい迷いを孕んでいた。
「……いいえ。加速の瞬間、何も感じませんでした。身体への圧もなくて……むしろ、何かに包まれていたような……」
その言葉に、バハムートはふと目を細める。
「……うーん、自分ではよく分からないが……たぶん、無意識のうちに、外側に薄い膜みたいなものが展開されたんだと思う。俺が何かしたわけじゃない」
そう言いながらも、バハムートの声には、どこか釈然としない色が混じっていた。それは意図して張ったものではない。ただ、生きた存在として――危険から仲間を守るために、ごく自然に起きた“反応”だった。
「……まあ、自分のことなのに分かってないっていうのも、情けない話だけど」
小さく息を吐き、言葉を継ぐ。
「バハムートの生態なんて、俺にも分からん。知らないことがあっても……仕方ないか」
その言葉には苦笑がにじんでいたが、どこか柔らかさもあった。
「……なぜ、そんな確認を?」
あどけない仕草で、ヨルハは不思議そうに問い返した。
「シゲルに確認されてな。何か……思うところがあるのかと思って、な」
バハムートの声は、どこかくすぐったそうな苦笑を含んでいた。