SOUND2 小夜曲『禁じられたマジナイ』
『『願う』という言葉のなんと虚飾にまみれたものか。
『祈り』という言葉のなんと浅ましいことか。
そのどれもこれも、欲望の化身でしかないのだから。
人は望み続ける。しかしそれを否定し美化しようとし続ける。
それこそが浅ましく傲慢であると気付かずに』
作者不明『強欲なる覇者』より
風に舞い散るそれを見遣り、女はただ静かに虚空を見上げる。
青い空。
知らない空。
そもそも自分が知っている空などどこにもなく、これこそが唯一自分の知る空だと思い直す。
「よろしいか?」
しがれた老人の言葉が女の視線を呼び戻す。
対してぎこちなく一礼する老人は一言で言って異様。
黒のローブに鳥を思わせるマスク。その下から白い髭が豊かに伸びている。
「小僧は還りましたか」
「はい」
問いに小さく首肯。
女の髪が柔らかく揺れる。
「ではワシの番ですのぉ」
しみじみと呟くような声には、遠く思うような響きを内包する。
「代行者殿」
老人は仮面の奥から美しい女を見、問い掛ける。
「この行い、正しいと思われますかな?」
風の聖域にて女は一度空へと視線を向け、それからゆっくりと首を横に振る。
「私はすでに知っています。
この行いの悲しさを」
「諌める権利すらもおありでないか。
代行者殿」
老人の揶揄するような問いに、静謐な瞳は揺るぐ事もない。
「あります。
どういう理由か、彼女は私に自由意志を与えていますから」
目を細め、老人は確かめるように仮面に触れた。
「では、如何してこを進めるか」
「同時に賛同者でもあるからです。
そして彼女が与えたこの手段が、彼らにどんな未来を導くのかを知りたいと思いました」
「左様か」
老人はすっと右腕をめくる。
そこにあるのは枯れ枝のような老人の腕におぞましく踊る斑模様。
見る者が見ればそれは毒か病か、少なくとも死に至る何かと想像するのは過ぎたことではない。
「代行者殿。
世界の何割が悪人なのでしょうな」
老人は最後にそんな言葉を言い捨てて何処かへと去っていく。
「立場が違えば、善悪は容易く逆転します」
誰も居なくなった場所で女は静かに応答する。
「意思在りし、善悪を問う者の数の限り善はあり、悪はあるのでしょう」
故に是非など問う事は真に不可能。
「なればこそ、此度私たちは問うのです。
かの者達の是非を─────」
「セニエン皮膚炎ですな」
魔術師ギルドの一角。会議室に集まった学術員は皆医療系の面々だ。
「私と同じ結論ですな」
張り詰めた空気が俄かに和らぐ。
「処置方法は確立されていますね」
「うむ。マリアルロ草は温室でなら2週間もあれば芽を出す。
もし広まっても問題あるまい。
念のために栽培を急がせよう」
彼らが話し合っていたのは先日とある医者の元にやってきた患者について。
その患者の体には真っ黒でコインほどの大きさの斑点が広がっていた。
驚いた医者が魔術師ギルドに問い合わせを行なったのだが、ここ最近立て続けに起こる奇妙な事件の数々ギルドとしても慎重に対応する結果となったのだ。
「しかしセニエン皮膚炎が最後に確認されたのはもう20年前ですな。
……今ごろ再発するとは」
一人が零した言葉にしんと会議場が静まり返る。
背筋が凍るような数秒を壊すように一人の導師が問う。
「これの感染元は?」
しかし問われた方は僅かに顔を顰める。
「当時は混乱しており、発生の原因は不明です。
人体に感染した後は接触感染です」
このセニエン皮膚炎は最初にほくろのような痣がぽつりぽつりと増え始める。
次にそれが広がり最後には皮膚が腐敗して出血する。
しかしあまり強い病気ではなく、そこそこの抵抗力がある者は出血まで至らず回復に向かう。
マリアルロ草を煎じて呑んでいれば回復も早い。
ふむ、とこの場を取り仕切る上級導師が顎鬚を撫でる。
「念には念を入れておこう。
2~3人の導師をこれの研究へ。
マリアルロ草は少し大目に栽培を。
患者は隔離し、周囲の人間に感染がないかの確認を。
誰か結果を軍へ報告してくれぬか」
「私が」
一人の若いギルド員が手を挙げそのまま外へと向かう。
「……」
そんな光景を、一人の老人がとても辛そうに眺める。
気分が優れないわけではない。
身体に以上があるわけでもない。
ただ、長きを生きた経験と勘が、誰にも理解できない不安と恐怖を老いた心臓に刃を付き立てていた。
誰にも説明できぬこの痛みは未来を知るより他取り除くことなどできはしない。
それもまた彼の知るところ。
「ねえねえ、知ってる?」
「なぁに?」
「願いをかなえるおまじない」
「え? なに? どんなの?」
「右足と左腕に包帯をぐるぐる」
「それだけでいいの?」
「その下にねマリアルロ草を煮込んで造った染料でおまじないの印を書くの」
「どんな?」
「こーんな」
「それだけでいいの?」
「うん。
これで一週間。
誰にも見せなければ願いは叶うんだって」
「効き目ありそうだね」
「皆にも教えよう」
「皆にも」
「皆にも」
「……」
「……… でもね」
「でもね」
「それを誰かに見られると」
「それを誰かに知られると」
「黒い悪魔がやってくるんだよ?」
「……」
「…………」
一人の老人が町を逝く。
身に負うは過去の災厄。
望まぬ傷痕、望まぬ粛清。こつりこつりと杖を突き、老人は静かに町を逝く。
暴虐の痛みを引きずりながら
残虐なる悲しみを引きずりながら
老人は静かにただ町を逝く。
死者を悼む巡礼者の如く。
神を悲しみ喪に服すように。
こつりこつりと町を逝く。