SOUND1 序曲『静かなる胎動』
『人は欲に塗れている。
欲望は苦痛を乗り越える原動力となり、牙も爪も持たぬ人間を地上に君臨させた。
人とは何か。
私はその問いに『欲』だと応じる。
欲望こそが人であり、人こそがその体現者なのだ』
作者不明:『強欲なる覇者』より抜粋
お昼休み。
空が陽炎でゆらぐほどの熱を吐くその工房も、この時間帯は幾分かの落ち着きを見せる。
ガン・コイッテツ。
大陸でも五指に数えられ、武を嗜む者ならその傑作を手にしたいと渇望するだろう鍛治打ち。
その工房の屋根に奇妙な光景が広がっていた。
『にゃぁにゃぁ』
『なー』
『にゃ』
十匹ほどの猫がしきりに何かを話し合っている。
そして彼らの作る円の真ん中に小柄な人影がちょこんと座り込んでいた。
『にゃ?』
まるで判断を仰ぐように一匹の黒猫が中央の少女を見上げる。
「おっけ。わかったにゃ」
その言葉に猫たちは腰を挙げると四方に散らばっていく。
「ふーん。
いろいろ面白いことやってるにゃねぇ」
独特の語尾を帯びて少女は赤い二又尻尾を躍らせる。
「おーい、アル猫、休憩終わりだぞー?」
「はーい」
工房からの若い衆の声に、なんの躊躇いもなく屋根から飛び降りた彼女は純粋な体術一つで着地。
しかも全ての衝撃を吸収しきったことを証明するように足音一つしない。
その様子に感嘆のうめきを漏らす男を置いて少女は熱気篭る工房に入っていった。
頭の中にはとてもじゃないが、人には言えない危険な構想を抱えながら……
彼女は静かに大陸屈指の大都市を眺める。
風になびく金の髪。
纏う衣装も絹糸か、そよぐ風を柔らかく受け流している。
顔立ちもスタイルも造られたように美しく、しかしその表情は自嘲を色濃く映すために陰りを見せていた。
「貴女か」
不意に、傍らに気配と声が生まれた。
気軽に訪れ難いこの場所でのありえない会合。
様々な思惑と因果が交錯するその最初の結び目は間違いなくその場所であった。
「いかに目的が目的であっても、魔の者と組む事になるとは思いませんでした」
嫌悪を隠そうともせず言い放つ女の言葉に男は鼻で笑うと、
「勘違いするな。あくまで利用し合うに過ぎないだろう?」
その女性以外の何かへの忌々しさが篭めて言い放つ。
だが、極端な嫌悪でなくどこか感服にも諦めにも似た不思議な感覚が混じっているのを女性は聞き流した。
「そうですね」
女性は表情を改めぬまま同意だけを返す。
もし見る者が居れば相対する二人の姿はまさに対象と表するだろう。
「──── 名乗っておきましょう。
私の名はディプティ」
白の女が金の髪を風になびかせ、涼やかな声を大空に零す。
「……カラミティだ」
対する黒の男は最小限に言い捨て、そして沈黙。
風の音だけがその場を埋め、やがてそれに飽きた男から口を開く。
「疑問がある」
『災厄』の名を持つ魔王の腹心が一人は己を見ようともしない女に刃のような視線を向け、
「今ここで私が本気を出せば、貴女は為す術なく死ぬだろうな」
傲慢且つ剣呑な一言を躊躇いなく突きつける。
「その通りです」
だが、ただ事実だとそれをあっさりと容認する。
柳の葉のような態度に男は瞳に興味の色を濃くし
「それが少し条件の変わったところで覆るとも思わない」
と、更なる挑発を仕掛ける。
「否定いたしません」
だが、女の返答に全くの澱みはない。
「ならばこの関係、意味を為し終わった後、お前らに未来はあるまい?」
つまり共闘と言いながら単体で絶大な力を持つ魔が利用して終るという宣言。
協力関係という前提を全否定する言葉にはじめて女は視線を街から男に向ける。
「では、かつての大戦にて、あなた方は竜族を切り捨てるおつもりだったのですか?」
視線には常に酷薄な光。
百年を生きた聖者のように真摯で、千年を生きた老婆のような枯れた色。
それを盗み見て男はしばしの間を風の音に明け渡す。
「我らの軍門に下るつもりか?」
やおら問う言葉に女はゆるり首を否定と動かし、
「それを決めるのは私ではありません」
自嘲をわずかに濃くした。
「私は名前の示す通り、ただの代理人です」
「では、あの女か?」
「あれはその決定からさらに遠い位置にいます。
なぜなら彼女はあくまで願望器。
願いを代償を以って叶える存在でしかありません。
願望器が願望を持つのは矛盾ですから」
僅かに怪訝そうな顔をしたのは話題に上る少女の言動を思い出したからだろう。
女が口にした言葉と食い違う気もする。
「まぁ、それはどうでもよい。
ならば、誰が決める?」
「言うなればあなた方『魔』以外の世界が」
交錯する視線。
試す問いの意思と風に揺れる柳の心が噛み合わず沈黙を量産するに終わる。
「まぁ、いい」やはり沈黙を嫌ったのはカラミティ。
「とにかく、序曲と行こうじゃないか」
想像だにできないほどの人が蠢く町を見下ろし口元を綻ばせると、
「もう、始めているんだろう?」
と問う。
「はい。
ですが、口火を切ったのは私ではありません」
「ああ、彼女の構想では恐らく私だ」
「はい」
彼女は己の体の一部を引き抜くと、そっと解き放つ。
「では、改めて宣言いたしましょう」
美しい声が宣誓する。
「罪すら自覚せぬ罪人達はこれより追憶を開始します」
「力なき強者はこれより心の弱さに牙を向けられるだろう」
カラミティが応じた。
ひらり、風に踊るそれがある形を為す様子を眺めて、二人は無言で一時のわかれとする。
大陸の覇者とも名高いアイリン王国。
その中で軍隊としては異例の組織があることは余りにも有名である。
治安組織『赤の軍』。
ある世界風に言えばそれは警察という組織に値する。
しかし軍の側面を持つ故にその能力は非常に高く、決して天下のアイリン軍の名を貶めるようなことはない。
しかし、王都アイリーン防衛を任されたある大隊本部の会議室は名声を返上したくなるほど沈鬱な空気がひしめいていた。
「さて、ライサ君。
説明を」
場を制する言葉を発したのはこの場でもかなり若い青年。
なにしろこの場に居る面々は彼を除けば上は少佐、下は中尉だ。
平均年齢も20台後半と言うところか。
威厳から言えば、制すると言うよりも純粋にその後に続く説明を渇望しているからこそだろう。
その傍らで立ち上がった少女はこの場の平均年齢を引き下げる一人。
15歳になったばかりの少女は、しかし臆する事なく全員を一度見渡し、
「今回の『本』の一件について説明いたします」
と、幼さが色濃い声音を会議場に染み渡らせる。
「まず、この『本』は召喚術を行なう道具だと前置きます」
異論はない。
その事実は皆痛いほど知っている。一拍の間を置いて少女は続ける。
「まず、皆さんもご存知でしょうが、この本の文字は何所の言語でもありません。
この本の最初のページにある説明文」
言いながらライサは簡素なその本の1ページ目を開く。
そこだけは共通語で、
『願いを頭の中で繰り返しながら文字を目で追ってください。
そうすれば貴方の願いは必ず叶います』
と記されていた。
「これに従い記号の羅列を目で追うと、読み手は催眠状態に陥ることになります。
催眠状態に陥った読み手は強制的にその先を読むことを強制されることになります。」
本の中身をちらりと見たことがあっても読むなと徹底された理由を聞き、顔を見合わせる。
「ここからが問題です。
続く部分を読む事で自動的に頭に魔術構成が構築されます。
つまり魔法を使うプロセスが始まるわけです」
ざわりと懐疑を含む声が広がる。
その中身を確実に聞き取り、
「もちろん、ご存知の通りこの『本』には一切の魔力はありません」
そのすべての疑問を飲み込むように、年不相応の落ち着いた声で制する。
「人間誰しも魔力は持っており、魔術を使うことが可能なのです。
そもそも、『マジックアイテムを起動させる』という行為も魔法の一種ですから」
発動の意志を魔道具に伝えること自体魔術なのである。
「つまり、人間誰しもが持っている魔力を無理やり使わせているというわけかな?」
ジュダークの問いに頷き、「ただし」と付け加える。
「本日までに回収された『本』は52冊。
それに対して事件の発生件数は7件です。
これは必ずしも『本』の読み手が召喚を成功させてしまうわけではない事を示します」
少女は少し躊躇うようなそんな間を置き、
「魔術師は訓練により高威力の魔術を使うことができます。
これは体内の魔力を効率的に使用する術を身に着けているからであり、これができなければ魔力はあっても魔術として発現できるものではありません。
しかし、生まれつき脚が早い、器用といったように、生まれつき魔力を効率的に扱える人間も少なからずいます」
「なるほど、7件はそういう人間に当たったということだね」
やんわりと、考えるような一言。
「はい。
基準を算出するのは非常に難しいですが、魔術師ギルドとしての見解はそうなります」
ご苦労様という言葉にライサははにかみながら着席する。
それにまったく気付かないジュダークは議事進行を促すように視線を送る。
「では、続いて『本』の経路について」
シェルフィの言葉に一人の中隊長が席を立つ。
「我が隊では『本』の入手経路、並びに製造場所の捜索を行っています」
響く野太い声はまずそう言い放ち、続いて渋い顔となると
「最初にお伝えしますが、残念ながらまったく目処が立っておりません」
と声のトーンを落とし、気を取り直すような咳払い一つ。
「まず、押収した『本』のうちそのほとんどが露天商の持ち物でした。
その入手経路は『いつの間にか持っていた』が大半を占めます」
聞いた者よりも発言者が渋面を濃くする。
「譲渡や売買の例もありますが、その上流を調査するとやはり同じ結論となります。
有象無象の物の取引を行う旅商人があまり商品の来歴を気にしないことを逆手に取っていると思われますが……」
「それ以上に、誰もいつ忍ばせられたか気付いていないということが問題、というわけだね?」
「はい。
隊長殿の仰るとおりです」
沈黙。
十数秒続いたそれを打ち切るためにジュダークは先を促す。
男はしぶしぶ頷くと資料に再び視線を落とす。
「また、今回の『本』がどこで製作されているか、について。
アイリーン内にある全ての輪転機を調査した結果、どれもそれらの本を製造した形跡はありませんでした。
また、その前後にも我が隊の隊員を張り付かせていますが不審な動きはありません」
完全に手詰まりだと言わんばかりの報告に居並ぶ面々が顔を見合わせる。
「外からの流入については?」
「それについてはこちらから」
別の男が立ち上がり、資料を片手に周囲を見渡す。
「『本』の摘発を開始してから、外部から持ち込まれそうになった『本』の数は1冊のみです」
「それでは?」と言う声が、視線が飛び交う。
「結論を急ぐべきではないと思います。
少なくとも、正規の方法では持ち込まれていない、というだけです」
ライサの諌めに静まると、ジュダークは苦笑をひとつ浮かべて、それから考え込むように目を閉じた。
どれもこれも予想通り。
つまり、正規の方法では埒が明かない。
「バレイア中尉、セラント中尉」
『はっ!』
先ほど報告をした二人はすっと立ち上がり、敬礼。
「あなた方は現在の調査方法を継続してください。
可能性がある以上、これは必要な行動です」
『了解しました』
多少、納得いかないニュアンスを含みながらも二人は着席。
「他の隊の者は引き続き市内にて『本』の探索をお願いします。
今まで通り、普通に買い取ってください」
「隊長殿」
一人の女性が立ち上がる。胸には大尉を示す印を持つ凛々しい女性だ。
「いまだ、市民には『本』のことを伝えないのですか?」
「伝えない」
ジュダークの即答にしばし面食らったような顔。
次の句を次ぐ前にジュダークはゆっくり立ち上がる。
「今回の一件、何が問題か、皆さん、理解なさっていますか?」
きっかり3秒。
「先ほどのライサ臨時中尉の言葉通り、この『本』には一切の魔術的加工はありません。
返せば知識がなくてもまったく同じものを作るだけでこの事件は模倣できるということです」
そして、と事実に気付いた面々の顔を見渡しながら、吐くように告げる。
「この世界にはすでに印刷という技術があります。
もし、これを兵器として他国にばら撒けば、どうなるか……」
安易な兵器は相手も利用できるということに他ならない。
そして敵国人に読ませなくとも、これを敵国で一斉に読めばどうなるか。
「犯人の目的はわかりません。
それゆえにこの一件は内々に片付ける必要があります」
ゆっくりと両手を机の上に置く。
重い息を吐くと改めて面々の面持ちを見やる。
「下手な情報公開は混乱の引き金になりかねません。
そして、安易に情報を撒けば、未だ出元不明である故にこれを悪用される可能性は多大にある」
神妙な言葉に重すぎる沈黙が会議室を埋めつくす。
「将来的にその必要性も出るかもしれません。
ですが、そうならないために我々は居るのです」
反射的に、そして様々な思いを秘めて頷き、小さな返事がもれる。
「我ら赤は民の平和を守る者。
その誇りを胸に、各位尽力願います」
ざっと居並ぶ面々が立ち上がり、一糸乱れぬ敬礼を送る。
そんな面々を見ながら、ジュダークは重苦しい物を胸の奥に抱えていた。
簡単ではない。
それは余りにも明確で、覆しがたい事実。
いかなる一手が状況を好転に導くのかかけらも思いつかない。
彼だけではない。
敬礼をする者全てが同じ気持ちをその胸に深く抱いていた。
そう────
赤の戦いはまだ本当に始まりでしかないと、誰もが知らない。
しかし、その誰もがその事実の一端に薄々気付き始めていた。