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負債

作者: フクシマ

 ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ。

 目を開けると灰色の天井が降下していた。幻覚かと思ったが、天井はたしかに降下している。僕はベッドに寝転んでいて、逃げ出そうとしたのだが、体が動かなかった。これまで何度か経験したことがある。金縛りだ。

 天井がゆっくり降下してくる。非現実的なことで、まるで映画を見ているようだが、僕は恐怖を感じた。このままでは天井とベッドに挟まれて、肉の塊になってしまう。その未来が明瞭に想像できた。

 全身から汗が噴き出したが(どうして体は動かないのに汗が出るのだろう)、体が動く気配はなかった。助けを呼ぼうとしたが、声は外に出る前に喉の奥で死んだ。

 天井が腕を伸ばすと届きそうな距離まで迫ってきた。動揺のあまり気が付かなかったが、何か音が鳴っている。

ピ、ピ、ピ。

 それは車がバックする時の音に似ていた。僕は誰かが天井を操作しているかもしれないと思った。誰かが僕を殺すために天井を降下させている……?

 僕は心の中で叫び声を上げた。

「誰か助けてくれ! 僕は何も悪いことをしていないんだ!」

 何も起こらなかった。そして、天井が鼻に触れた。

 天井は降下を続ける。圧迫されて鼻に痛みが走り、鈍い音が出た。多分骨が折れた。

 ベッドと天井の間が五センチほどになった。息が跳ね返り、また喉の奥で声が死んだ。天井が止まる気配はなく、体には力が入らない。

 視界が灰色一色に染まった。全身に痺れるような痛みが走った。ボキボキと鈍い音を出して骨が折れていく。

 息が出来なくなった。肺が潰れたのだ。意識が曖昧になる。どうして雨風から身を守る天井が僕を押し潰すのだろう?

 ピ、ピ、ピ。

 視界が闇に覆われて、その音だけが耳に残った。走馬灯のように過去の記憶が蘇る。僕はこれまでの人生で何も悪いことをしていない。人に恨まれたこともない。ずっと誠実に生きてきた。それなのにどうして……。

 途切れゆく意識の中で、僕は自分が死ぬことを予感した……。


 目を開けると天井の位置は変わっていなかった。いつも通りの高さにあり、僕を守ってくれている。体が気怠く、胃が重い。酒が残っているせいで変な夢を見てしまったようだ。

 テーブルの上に麦酒と酎ハイの空き缶が散乱し、ベッドの下にパーカーやスカートが脱ぎっぱなしになっている。僕はゴミ箱に捨てられたティッシュペーパーを見て昨夜のことを思い出した。

 僕と加奈は色んな体位で性行為を行った。正常位。バック。対面座位……。加奈は豊満な体型で性欲が強い。僕は二回射精した。手にはまだ加奈の体の感触が残っている。少し飲みすぎたようだが充実した夜だった。

 枕元の目覚まし時計を見ると九時を指していた。二限の講義には十時半に家を出れば間に合う。加奈は十時過ぎに仕事に行くと言っていた。三十分になってから起こせば問題ないだろう。

 寝返りを打つと加奈が寝息を立てて眠っていた。風船のように膨らんだ顔で、蒲団からはみ出した腕にはたっぷりと肉が付いている。まるで熊のようだと思った。どうしてこんなにも沢山の肉を蓄えることができるのか、僕にはわからなかった。

 腕の肉を摘まんでいると加奈が「目覚まし」と寝言なのか判然としない声で言った。目覚まし時計は九時半にセットしたので鳴っていない。だが、たしかに耳を澄ませると微かにピ、ピ、ピという音が聞こえた。

 僕は頭を振った。さっきの音は夢ではなかったらしい。部屋の外で音が鳴っている。多分廊下の冷蔵庫か洗濯機が鳴っているのだろう。僕は面倒に思いながら体を伸ばしてパーカーを被った。

 廊下に出て確認したが、冷蔵庫は小さな声で唸っているだけで、洗濯機は沈黙していた。僕は大きな欠伸をしてから耳を澄ませた。すると音が玄関から鳴っていることがわかった。

 玄関には白いスニーカーと黒いブーツが並び、壁際に小さな靴箱がある。音は近くで鳴っているが、出所はわからなかった。狭い玄関なので音が反響し、四方から音が出ているように聞こえる。もしかしたらそれは眠気と酒のせいなのかもしれないが……。

 音の大きさはテレビのチャンネルを変える時と同じぐらいだった。それが断続的に鳴り続けている。

 靴箱を開けてみたが中には靴しか入っておらず、土間には埃が落ちているだけだった。隣人かと思って壁に左耳を近づけたが音は右耳の方がよく聞こえた。

 朝から一体何をしているんだろうと思いながら玄関を見回していると、ドアポストが目に入った。郵便物は階段下の集合ポストに投函されるのでドアポストに入っているのは郵便局の不在届けぐらいだ。僕は久しぶりにドアポストを開けた。

 ピ、ピ、ピ。

 埃が溜まったポストの中に薄い長方形の段ボール箱が入っていた。古いものらしく、所々黒く汚れている。僕は眉間に皺を寄せた。一体これは何だろう? 

 箱はA4サイズで厚みが六センチほどだった。宛名や送り主の文字はなく、ガムテープで頑丈に固定されている。一キロぐらいの重みがあり、試しに振ってみたが感触はなかった。きっと衝撃吸収材が入っているのだろう。

 ピ、ピ、ピ。

 箱の中で音が鳴っている。誰かが間違えて投函したなら開けない方がいいが、音を聞いていると何かが迫ってくるように感じる。多分変な夢を見たせいだ。

 僕は天井を見上げた。変わったところはない。静かに停止して、動く気配はない。僕は箱を開けて音を止めることにした。音を消して元に戻せば問題ないだろうと思った。

 部屋に戻って、ガムテープを切り始めたのだが、三重になっていたので、切るのが大変だった。鋏を鋭角に入れても、ガムテープが切れない。僕には送り主がこんなにも大切にしている物に名前を書かなかった理由がわからなかった。

 苦労して鋏を動かしながら、僕は中に手がかりが無かった時のことを考えた。その場合、送り主が取りに来るまで待たなければならない。問題な話だ。どうして送り主は部屋番号をちゃんと確認しなかったのだろう? もちろん送り物の可能性もあるが、何も言わずポストに入れるだろうか? 僕の誕生日は四か月前。誕生日プレゼントの可能性は低い。ピ、ピ、ピ。そんなことを考えている間も音は鳴り続けていた。

 もう少しでガムテープを切り終わる時に目覚まし時計が鳴った。加奈が重たそうに腕を伸ばして音を止めた。

「もう一つ目覚ましを買ったの?」と加奈は眠たそうな声で言った。

「鳴っているのは目覚まし時計じゃないよ」

 加奈は薄い目を開けて僕を見た。

「何でもいいからその音も止めてほしいな。あと十分だけ眠るから」

 僕が肯くと加奈は目を閉じて頭まで蒲団に包まった。僕は鋏を動かして最後のガムテープを切った。

 段ボールの中には同じ形の黄ばんだ箱が入っていた。元は白かったようで、角にその名残が残っている。この箱は透明のテープで二重に固定されていた。

 僕は腹を立てた。どうしてこんなにも厳重に包装されているのだろう? これほど開けにくいなら外に何が入っているか書いてくれてもいいのではないか……。毎日欠かさず朝食を食べているので腹が減っていた。僕は不快な音を止めて、早く朝食を食べようと思った。

 テープを切って黄ばんだ蓋を開けると、泡のような衝撃吸収材の上に「取扱注意」と書かれた古い紙が乗っていた。僕は一瞬「取扱注意」という言葉が理解できなかった。まだ頭が回っていなかったし、そんな文字を自分の部屋で見たことがなかったからだ。

 一息ついて言葉の意味を理解した僕は何か厄介なことに巻き込まれているのかもしれないと思った。「取扱注意」なんて普通に生きていれば見ない。蓋を閉めて段ボール箱に戻した方がいいのかもしれない……。だが、問題が一つあった。それはこのまま何もしなければ音が鳴り続けるということだ。僕にはそれが我慢できなかった。それに中身がわからない以上勝手に捨てるわけにもいかない。

 僕は紙をテーブルに置いて、衝撃吸収材を捲った。衝撃吸収材が何層にも重なっている。捲る度に不安が募った。そして、五層目を捲ると下から鉄の塊が姿を現した。

 僕は頭が真っ白になった。突然目の前の光景にリアリティが無くなった。もしかしたらこれは夢なのではないかと思った。だが、頬を引っ張っても痛みがあるだけだった。

 ピ、ピ、ピ。

 音を出して赤いランプが点滅している。箱に入っていたのは爆弾だった。

 爆弾は縦横十センチの正方形で厚さは三センチほど。中央にランプがあり角が銅色に錆びている。ランプ以外の装飾はなく、ランプが光る時に、ピ、という音が鳴っている。

 かなり古い物に見えた。鉄が錆びた匂いもする。僕は立ち上がってキッチンに向かった。冷たい水で顔を洗って冷蔵庫のブラックコーヒーを勢いよく飲んだ。目を閉じて自分の名前とこのアパートの住所を唱える。念のために所属している学部とサークルの名前も。大丈夫。意識はハッキリしている。酔いも醒めた。これは夢じゃない。現実だ。目を開けて部屋に戻る。音が鳴っていたのでわかっていたことだが、爆弾は変わらずテーブルの上で光っていた。

 僕は蒲団からはみ出た加奈の後頭部を眺めながら、一度冷静になって頭を働かせた。偽物に決まっている。僕が住んでいるのは大学の近くの何の変哲もない安アパートだ。ひったくりぐらいなら聞いたことがあるがこの街で爆弾事件が起きたなど聞いたことがない。

 宛名がないので誰かが直接ポストに入れたはずだ。僕がこの部屋に住んでいることを知っているのは……、そして、その中でこんな悪戯をする可能性があるのは一人だけだ。三年生ながらサークルで一番目立っているお調子者の高木。一か月前に酒の勢いで髪を剃ったので今は坊主頭に近く、丸顔で毬栗みたいな姿をしている。よく悪戯をするやつだが、その分やり返されるのでみんなから好かれている。僕はコンドームの隠し場所をサークルでバラされたが、仕返しに高木が熟女系のアダルトビデオを好んで見ていることをバラしてやった。あの時はみんなで腹を抱えて笑った。もう三か月も前のことなのに高木は未だにそのことを根に持っているのだろうか? 

 高木ではない可能性もある。高木は騒ぎすぎて隣人から嫌がらせを受けたことがあると言っていた。だが、僕の右隣は二か月前から空室で、左隣は二つ上の同じ大学に通う佐藤さんが住んでいる。彼女は田舎娘という感じだが、仕送りの野菜をくれたことがある。佐藤さんがこんな悪戯をするはずがない。

 ピ。ピ。ピ。ピ。ピ。ピ。ピ。

 静かな部屋に音が響く。

 無差別の悪戯の可能性もある。犯人が適当に僕の部屋を選んだ。だが、それならどうしてよりによって僕なのだろう? 僕はこれまで真面目に生きてきた。人を傷つけた記憶は小学生の時に過ってサッカーボールを友達の顔に当ててしまったぐらいで、大学では教員免許を取るために人より沢山の講義を履修して、奨学金のためにアルバイトもしている。サークルは息抜きのために顔を出している程度だ。真面目に生きている僕が狙われるなんて不平等だ……。

爆弾を手に取れば犯人の手がかりを掴める可能性はある。もしかしたら爆弾の下に「ドッキリでした」という紙が入っているかもしれない。状況を考えれば、これがおもちゃだとわかる。百パーセント偽物に決まっている。だが、もしかしたらという考えが頭を過る。世の中には頭がおかしい奴が沢山いる。精神病院を爆破したり、通行人を切りつけたり、車で歩行者に突っ込んだり、そういう奴等は何をしでかすかわからない。それに爆弾を作るのは難しくないと聞いたことがある。理系の大学に行けばプラモデルを組み立てるぐらい簡単だと……。

 点滅するランプを見ていると、心臓が締め付けられて、鼓動が早くなった。僕は衝撃吸収材を被せて蓋を閉めた。下手に動かすのは止めておこうと思った。

 気が付くと九時五十分になっていた。肩を揺すると、加奈は小さく唸ってから目を開けた。

「今、何時?」

「五十分」

「起こすのを忘れていたのね」

 加奈はそう言って頬を膨らませた。

「覚えていたけど忙しくて」

「まあ少しぐらい仕事に遅れても問題ないわ」

 加奈は上体を起こして部屋を見渡した。胸の辺りまで蒲団をひっぱり上げている。

「この音は何なの?」

 僕は黄ばんだ箱に目を向けた。

「中に爆弾が入っているんだ」

 加奈は少し間を置いてから何も言わず下着に手を伸ばした。

「中に爆弾が入っているんだ」と僕はもう一度言ってみた。

 加奈は器用に蒲団で体を隠しながら下着を身に着けた。

「遊んでいて起こすのを忘れていたのね。ほらこっちに来て。キスで許してあげる」

 何か言おうと思ったが言葉が出なかった。僕ですら信じていないのに誰がこれを本物の爆弾だと思うだろう?

 僕は加奈の唇にキスをした。加奈は嬉しそうに笑い「今日の夜も来ていい?」と言った。少し考えてから肯くと加奈が僕の唇にキスをした。

 加奈はしばらく僕の顔を見てからのっそりと立ち上がってキッチン兼洗面台に向かった。加奈の背中には腕と同じようにたっぷりと肉が付いていた。

 顔を洗って服を着た加奈はテーブルで化粧を始めた。ピンク色の化粧ポーチから次々に化粧品が出てくる。いつもなら隣で朝食を食べるのだが、腹が減っていなかったので、僕はベランダで煙草を吸うことにした。カーテンを開けると部屋に光が射し込んだ。

「中で吸ったらいいのに」と加奈が鏡を見ながら言った。

「朝は外の方が美味しいんだ」

 僕はそう言ってベランダに出た。偽物だとしても爆弾と同じ空間にいると落ち着かなかった。それにもし爆発したとしても窓が爆風を抑えてくれるかもしれないという淡い期待もあった。

 コンクリートのような厚い雲の間から太陽が顔を出していた。生ぬるい風が吹き、向いの家の洗濯物が微かに揺れている。

 僕はベランダに置いてあるパイプ椅子に座って煙草に火を点けた。二階のベランダから見えるのは家の連なりと空ぐらいで退屈だ。上の階に住めば景色は変わったがその分家賃が高くなった。奨学金を借りている僕には月四万のこの景色がお似合いだ。吐き出した煙が灰色の雲に向かって伸びていく。腰が曲がった老婆が前の道を歩いていた。

 警察に通報した方がいいだろうか、と僕は煙草の火を見ながら考えた。偽物なら恥を掻くが、本物なら警察に頼るしかない。僕には爆弾に詳しい友人はいないし、父は成績の悪い営業マンで母はスーパーマーケットでレジ打ちをしている。

 だが、と僕は煙を吐いてから考えた。もし本物の爆弾だったら僕は警察に捕まらないだろうか? 爆弾所持の罪。僕は警察に説明するだろう。

「今朝起きたらポストに入っていたんです。信じて下さい」

「でも、君の証言だけでは信じることができないよ」と警察官が怖い顔で言う。

 この安アパートには監視カメラがない。僕は自分の無実を証明することができるだろうか? それにもし運んでいる途中や警察署の中で爆弾が爆発してしまったらどうなるだろう? 運よく生き残れたとしても僕はテロリストになるのではないか? 

 僕は気分が悪くなって灰皿に煙草を押し付けた。警察は駄目だ。話が複雑になるだけだ。だが、ずっと自分の部屋に置いていくわけにもいかない。どこかに爆弾を捨てなければならない。僕は捨てる場所を考えながら、窓を開けて部屋に入った。

「ねえ、このおもちゃどこで買ったの? 素敵な音だから大きくしたいんだけど」

 眉毛を描いている加奈が鏡を見ながら言った。蓋が開いて、ピ、ピ、ピという音が部屋に響いている。

「僕にはわからないよ」と僕は狼狽しながら言った。

「わからないって、これは光ちゃんのものじゃないの?」

「朝起きたらポストに入っていたんだ」

「誰からの送り物なの?」と加奈は手を止めて僕を見た。「もしかして女?」

「名前がなかったんだ。それにこんな変な物を送ってくる女の子の友達はいないよ」

「変な物って、私はこの音、楽器みたいで好きだけどなあ」

 時計を見ると十時を過ぎていた。あとに二十分で家を出なければ講義に遅刻する。爆弾のせいで食欲が無かったので、僕は着替えて、洗面台で歯を磨いた。そして、大便をして部屋に戻ると、加奈は化粧を終えて櫛で髪を解いていた。僕は蓋を閉めて上から段ボールの箱を被せた。

「それどうするの?」

「どこかに捨ててくるよ」

「え、捨てちゃっていいの?」

 加奈の髪が顔の輪郭にぴったり吸い付いていく。髪で輪郭が消えた加奈の顔は小さく見えた。

「でも、これが本物の爆弾の可能性もあるんだよ。もしかしたらあと数秒で爆発して僕たち二人とも死んでしまうかもしれない」

 加奈は頭を振って色んな角度から自分の顔を確認した。ピ、ピ、ピという音が鳴る中で二十秒が過ぎた。

「こんなところに本物の爆弾があるわけないじゃない」と加奈は言った。「それよりそろそろ出ないといけないわ」

 加奈は化粧ポーチを黒色の小さな鞄に入れると、立ち上がってスカートの皺を伸ばした。

「光ちゃんは何時に家を出るの?」

「加奈が行ったらすぐに出るよ」

 加奈は玄関に向かって立ったままブーツを履いた。そして、振り返って僕を抱きしめた。

「ねえ、光ちゃんは私のこと好き?」

「嫌いじゃないよ」

「じゃあそろそろ付き合ってくれてもいいんじゃない?」

「そうだね」と僕は少し間を置いて言った。

「ううん、もう少しって感じね」

 これまで何度か加奈には付き合おうと言われていた。僕はその度に返事を濁していた。加奈は豊満な体で悪くないが、付き合うと加奈だけに絞らなければいけなくなる。僕はもう少し大学生の楽しみを満喫したかった。

「じゃあまた夜に」

 加奈はそう言って仕事に向かった。

 ピ、ピ、ピ。

 一人になった部屋にはさっきよりも音が響く。

 僕はリュックサックを背負って段ボール箱を紙袋に入れた。十時二十分。すぐにどこかに捨てて大学に向かえば講義に間に合う。僕は電気を消して家を出た。

 大学の前にはコンビニや飲食店が並ぶ二車線の広い道路が通っている。いつもならアパートからその道路に続く小学校沿いの細い道を抜けるのだが今日は止めた。小学校の前には監視カメラがあるのだ。

 僕はアパートの前に立って反対の道に進むことを考えた。ベランダから見える住宅街。古いアパートも幾つか立っている。でも、もし監視カメラがあったら……。

 ピ、ピ、ピ。

 辺りに音が響いていたので、僕は紙袋をリュックサックに入れた。少し小さくなったが、まだ音が聞こえる。このまま歩いていると通行人にも聞かれてしまう。

僕は今から監視カメラがないゴミ捨て場を探して捨てるのは無理だと思った。夜なら闇に紛れることができるが、今は目撃される可能性が高い。不審な動きをしているとすぐに目を付けられる。

時計を見ると講義の時間が迫っていた。安心して捨てられる場所は一つしかなかった。それはこのアパートのゴミ捨て場だった。

 僕は駐輪所を抜けてゴミ捨て場の前に立った。以前は柵で覆われているだけの簡素な造りだったが、一か月前に新調されて鉄製の頑丈そうな箱タイプに変わった。辺りを見回してから蓋を開けると三つのゴミ袋があって、腐ったような臭気がした。僕はリュックサックから紙袋を出してゴミ袋の間に置いた。次の収集は明後日。加奈の言った通り誰かが間違えてポストに入れたならすぐに取りに来るはずだ。明後日までに取りに来なければ僕の知ったことじゃない。蓋を閉めて、僕は逃げるように歩き出した。

 小学校の前を歩いていると、子どもたちの笑い声が運動場から聞こえてきた。僕はゴミ捨て場の中で爆発した時のことを考えたが、それは僕の責任じゃなかった。爆弾を送ってきたやつの責任だ。それにどうせあの大きさの爆弾ならゴミ捨て場が吹っ飛ぶぐらいだろう。と いうより、あれは単なるおもちゃなのだから……。

僕は小学校を通り過ぎて広い道路に出た。大学までは緩やかな坂道で、講義に向かう学生たちが見える。不快な音から解放された僕は深い安堵感に包まれていた。


 校舎の中には学生が溢れ、足音や立ち止まって話す学生たちの声で喧騒に包まれていた。僕は早歩きでダラダラと歩く学生や立ち止まって話す学生たちを追い越して、教室に向かっていた。

 いつもは余裕を持って教室に行くので、前の席を取れる。前の席に座る理由は、講義をしているとは思えないほど小さな声を出す教授がいるし、顔を覚えてもらえればそれだけで儲けものだからだ。今日は爆弾に振り回されたので時間がなかった。あと五分で講義が始まる。

 百人ほどが座れる中教室に入ると前から五番目の席に武田が座っていた。白髪交じりの教授は教卓でプリントを整理し、眼鏡をかけた武田は辺りを見回している。

武田はサークルの仲の良い同級生の一人で一緒にこの講義を受けている。一人の時は後ろの席で講義を受けると言っていたので、僕が来なければ席を移動しようしていたのだろう。武田を含めて教室には三十人ぐらいの学生がいた。

「飛んだかと思ったよ」

 僕が隣に座ると武田が苦笑いで言った。

「僕がこれまで講義を飛んだことがあった?」

武田は首を振った。「でも今日はかなり遅かったな。いつも十分前には教室にいるのに」

「面倒なことがあったんだ」

 僕はそう言ってリュックサックから教科書と筆箱を出した。

「もしかして彼女?」と武田は眉毛を上げて言った。

「違うよ」

「嘘だな」と武田は笑った。「早く観念して俺たちに紹介してくれよ。他の二人はまだ顔すら見ていないんだぞ」

 残りの二人というのは高木とサークルの同期の佐々木で、僕たちはいつも食堂で昼食を食べている。二週間前、武田に加奈と歩いているところを見られてから、毎回この話題が持ち上がる。

「僕には彼女はいないよ」

「手を繋いでいたようだけど?」

「だから、それは勘違いだって」

「恥ずかしがり屋の男はみんなそう言うよ」と武田は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。「それで結局どうするんだ?」

「どうするって何が?」

 僕の前に髪が長い女が座った。あと一二分で講義が始まる。

「光ってほんとに人の話を聞かないよな」と武田は笑った。「今日の河川敷の花火、俺たちか彼女、どっちと行くんだって昨日話をしていただろ?」

「ああ、その話か。僕は忙しいからいいよ」

「忙しいってバイト七時上がりだろ?」

「他の講義の課題があるから」

「そんなこと言って、どうせ彼女と家で見るんだろ? 光は男友達よりも彼女を選ぶ薄情者だな」

「だから、何回も言っているけど……」

 僕の声を遮るようにチャイムが鳴った。廊下から慌てて学生が流れ込んでくる。

「まあまあ続きは昼休みだな」と武田は白い歯を見せて言った。

 誰と見るんだと嬉しそうに訊いてくる高木の顔が頭に浮かんだ。僕は武田に聞こえるように溜息をついた。武田はそれを聞いて笑っていた。

 教授がレジメを配って講義が始まった。言語学。ノーム・チョムスキー。生成文法。普遍文法。この講義は教授がパワーポイントを読むだけなので退屈だ。教職に必要なければこんな講義は取らない。教授は右手に小型のボタンを持っていて、それを押すとパワーポイントが進む。レジメには空白があり、そこにパワーポイントの赤字を書き込む。

 講義が始まって十分で武田がテーブルに伏せた。辺りを見ると教室の後ろは半分以上テーブルに伏せている。教授にも非はあるが僕は同情した。ろくに話を聞かない学生を前にどんな講義ができるだろう? 僕は欠伸を抑えて教授の退屈な話を聞き続けた。もちろん高い評価で単位を取るために。

 講義が始まって一時間でレジメの空白が埋まった。武田は少し前に起きて僕のレジメを写している。教授が何かを話しているが僕はもう聞いていない。テストはレジメの空白を埋めておけば大丈夫だとガイダンスで言っていた。

 今日は三時から七時までアルバイトがある。今日の講義はこれだけ、食堂で昼食を食べて、家で休憩してからアルバイトに向かう。夜は加奈が来るからまたセックスができる。冷蔵庫の酒が無くなっていた。アルバイト終わりにスーパーマーケットに寄ろう。夕食はコンビニの廃棄がもらえるから心配ない。明日は昼から講義だ。加奈は仕事が休みだと言っていた気がする。明日は朝もセックスをしよう。加奈の豊満な体を思い出すと男根が熱を帯びたが、勃起するほどではかった。少し眠気があったので、僕は目を閉じた。

 ピ、ピ、ピ。

 半分眠っているような状態で俯いていた僕は反射的に顔を上げた。前の席の女の後頭部が視界を遮る。眼球だけ動かして上を見たが、天井は動いていない。爆弾はゴミ捨て場に入れてきたはずだ。どうして音が鳴っているのだろう?

 覗き込むようにして前を見ると、音の正体がわかった。教授が手を伸ばしてボタンを連続で押している。

 ピ、ピ、ピ、ピ、ピ。

「ちょっと待って下さいね。パワーポイントの調子が少し悪いようです」

 ピ、ピ、ピ。

 音は似ていたが、爆弾の方が高い音だった。違う音だとわかっている。だが、この音を聞いていても、鼓動が早くなった。どうして僕はこんなにも敏感になっているのだろう? あの爆弾はどうせ偽物なのに……。

 心臓の高鳴りが止まらなかった。僕は何に怯えているのだろうか? 一体何が迫ってきているというのだろう?

 爆弾はゴミ袋の間に収まっている。もし誰かが音に気付いて、爆弾を見つけたとする。そしてそいつが警察に通報したとしたら……。僕は追い詰められている。僕は致命的なミスを犯してしまった……。

 ……指紋だ。紙袋や箱に僕の指紋がべったりと付いている。もし犯人が手袋をして箱に爆弾を詰めたとしたら……。

 爆弾魔になるのは僕だ。頭が混乱して視界が歪んだ。犯罪者になるかもしれないと思うと気分が悪くなった。どうしてこんなことになったんだろう? 初めから警察に通報していたら良かったんじゃないのか。いや、でも駄目だ。爆弾に指紋がない可能性もある。警察に通報して安全なのは指紋が付いている爆弾を見つけたやつだ。今にもアパートの住人が爆弾を見つけているかもしれない。そして、警察に通報して……。

 僕は冷や汗を掻きながら廊下を見た。警察官が教室に入ってくる映像が明瞭に浮かんだ。

「光さん、署で詳しいことを聞かせてもらいます。ご同行願えますか?」

 胸の辺りが苦しかった。僕は口に手を当てて何度かえづいた。

「光、大丈夫か?」

 武田の呟くような音が聞こえた。僕は前を向いたまま肯いた。

 警察が参考人として武田に訊ねる。

「光さんはいつもと違った様子がありましたか?」

「そういえば講義中に気分が悪いと言っていました。今考えると光は良心の呵責に苦しんでいたのだと思います。光は優しいやつでしたから」と武田が深刻な顔で答える。

 ピ、ピ、ピ。

 パワーポイントが正常に動き、教授が講義を再開したのに音が聞こえる。僕は武田に大丈夫だというように手を上げてテーブルに突っ伏した。取り乱してはいけない。落ち着くんだ。講義はあと三十分で終わる。すぐにアパートに戻って爆弾を回収する。指紋を拭き取る。捨てるのはそれからだ。

 目を閉じたがこの瞬間にも誰かに爆弾を見つけられるかもしれないという恐怖からは逃れられなかった。何度も百パーセント偽物だと言い聞かせたが、それを信じ切れていない自分がいた。それは匿名で爆弾が精巧に作られているように見えたのも影響していた。そして、「取扱注意」という言葉……。脇の下に汗が滲み、酒を飲んだ時のように脈が激しく波打つ。鏡を見なくても自分が真っ青な顔をしていることがわかる。ピ、ピ、ピ。僕は顔を上げることができず、ただひたすら暗闇を見つめて時間が経過するのを待つしかなかった。

 地獄のように長い三十分だった。時間を確認するために何度も顔を上げそうになったが、人生が破滅すると思うと、暗闇に耐えることができた。講義が終わると、僕は顔を伏せたまま教科書と筆箱をリュックサックに詰めた。そして、椅子から立ち上がった。

「おい、光、そんなに急いでどこに行くんだよ?」

「ちょっと用事があるから家に帰る」

 僕はそう言ってドアに向かって走り出した。

「昼飯はどうするんだよ!」

 後ろから武田の声が聞こえたが、振り返るわけにはいかなかった。

 僕は廊下に溢れる学生たちに肩をぶつけながら外に急いだ。後ろから「痛いなあ」という文句が聞こえたので、僕は自分の置かれている状況を説明しようかと思ったが、もちろんそんな時間はなかった。校舎を出ると道が開けた。夥しい数の学生が歩いているが追い抜く幅は幾らでもある。僕はアメフト選手のように人を避けながら正門に向かって走っていった。

 小学校の辺りまで戻ってくると激しい息遣いになっていた。煙草のせいで体力が落ち、脇腹に激しい痛みがある。歩きたかったが爆弾を見つけられるかもしれないと思うと速度を落とすことはできなかった。

 肩で息をしながらアパートの前に着いた。駐輪所を抜けて、辺りを見回したが人の気配はなかった。僕は爆弾が残っていることを願った。誰かに見つけられていたら人生が終わってしまう……。

 ピ、ピ、ピ。

 その音を聞いて、僕は大きく息を吐いた。助かった。これで犯罪者にならずに済む。

ゴミ捨て場にはゴミ袋が山積みにされていた。僕は唾を吐きたい気持ちになった。どうして短時間でこんなにも多くのゴミが捨てられるのだろう?

 鼻を摘まんでゴミ袋を退けていく。五つの袋を動かすと紙袋が見えた。顔を上げてもう一度人がいないことを確認する。誰もいない。僕は手を伸ばして紙袋を拾った。ゴミに潰されて角が凹んでいるが開けられた形跡はない。僕は紙袋をリュックサックに押し込んで静かに蓋を閉めた。

 家に入って箪笥から手袋を取り出した。冬物で厚い素材だったが、これで新しい指紋が付く心配は無くなった。リュックサックから紙袋を出して念のために中身を確認した。爆弾は変わらず点滅して音を出していた。

 僕は蓋を閉めて指紋を拭き取る方法を考えた。濡らしたタオルで拭けば取れるかもしれないと思ったが、確証がなかった。それにどうやって指紋が付いている場所を確認すればいいのかわからなかった。

 僕に残されたのは爆弾を他の箱に入れ替えて捨てることだった。幸い爆弾には触れていない。多分加奈も。

 僕は近くの百円ショップで箱と衝撃吸収材を買い、爆弾を詰めて、それを捨てる自分の姿を想像した。完璧だった。僕が罪に問われることはない。誰も取りに来なければ二日後に爆弾から解放される。もちろん偽物で誰かの悪戯だということはわかっている。だが、一応念のために……。

 ピ、ピ、ピ。

 処理方法が決まると、気持ちが落ち着いた。そして、徐々に音に慣れ始めた僕は自分が空腹だということに気が付いた。朝から何も食べていない。十二時半。腹ごしらえをしてから百円ショップに行っても問題はない。いきなり爆発することはないだろうし、アルバイトまでにはまだ余裕がある。僕は腹の音を聞きながらキッチンに向かった。「取扱注意」と書かれた古い紙には指紋が付いていたのでゴミ箱に捨てた。

 鱈子ソースが残っていたので、鍋でお湯を沸かしてパスタを入れた。柔らかくなったパスタが鍋の底に沈んでいく。ソースを買えばパスタは茹でるだけで簡単だ。それにさらっとパスタが作れるとポイントが高い。

 茹で上がったのでパスタを皿に移して、鱈子ソースをかけた。美味しそうな匂いを嗅ぐとまた腹が鳴った。ピ、ピ、ピという音も何かの電子音だと思えばそれほど苦ではなかった。天井が降下するなんて夢の中の話なのだから……。

 ベッドに凭れて、パスタを食べ始めた。三つで百円のソースだったが味は上手かった。かなりの空腹だったので、半分一気に平らげた。腹が少し膨れると、日常が戻ってきたように感じた。僕はテレビを点けた。

 初めに映ったのはワイドショーで、原発関連企業と政府の癒着について討論が交わされていたが、興味が無かったので、録画していた深夜のアニメを見ることにした。女子高生が主人公のサッカーアニメ。ちょうど県大会決勝戦でインターハイ出場をかけた試合だったので、僕はテレビに釘付けになった。パスタは思い出したように口に運んだ。

インターホンが鳴ったのは主人公がちょうどゴールを決めた時だった。アニメに熱中していた僕は一瞬それがテレビの音かと思ったが、それはたしかにインターホンの音だった。玄関、テレビ、段ボール箱と視線を移動させていった僕は自分が置かれている状況を思い出した。そして、テレビを消して息を潜めた。

 全身から冷や汗が出た。二人の警察官がドアの前に立っている映像が頭に浮かんだ。彼等は用心のため拳銃に手をかけている。通報では痩せ型の男だと言われていたが爆弾を持っているようなやつは全員何をするかわからない。アパートの裏には爆弾処理班も待機している。誰かが警察に通報したのだ……、そういった考えが一瞬で頭を過ったが、聞き覚えのある声が玄関から聞こえてきた。

「光、向かいに来てやったぞ。早くここを開けろ」

 それは高木の声だった。

「電気が点いているんだから居留守はできないぞ」

 僕は高木だったことに安堵したが、どうして高木に家に来たのかはわからなかった。僕は武田に用事があると言ったはずだ。

「おーい、光、早く開けてくれよ」

「今開けるよ」

 そう言って玄関に向かった僕は廊下で足を止めた。ピ、ピ、ピ。慣れてしまったせいで音が鳴っていることを忘れていた。僕は慌てて部屋に戻った。どこに隠せばいいだろう? 箪笥、ベランダ、トイレ? 候補が次々に浮かんだ。

「今更隠そうとしたって無駄だぞ。俺には全てわかっているんだから!」

 高木がドアを叩きながら大きな声を出した。

 僕は箪笥の前で足を止めた。やはり高木だったんだ。きっとここに来るまでに三人で僕のことを笑ったはずだ。

「高木がポストに爆弾を入れたせいで光はあんなに焦っていたのか」と武田が笑っている顔が浮かぶ。でも、どうして高木は一人で僕の家にやってきたのだろう? 馬鹿にするなら三人で来るはずなのに。

「開けるまでにえらい時間がかかったな」

 ドアを開けると高木が笑みを浮かべて言った。

「高木だとは思わなかったから隠そうと思っていたんだよ」

「光もなかなか人が悪いな」

「高木には負けるよ」

「俺なんて大したことないよ」と高木は手を振りながら言った。「それでやっと堪忍したってわけか」

 高木は緑色のパーカーを着て、服の上から筋肉が浮かび上がっている。身長が百六十センチぐらいなので威圧感はないが、織り込まれた耳からも元柔道部ということは容易に想像できる。

「どうして他の二人は連れてこなかったの?」と僕は訊いた。

「あいつらは興味がないんだと。まあ武田はもう見ているし佐々木は他人のやつには無関心だからな」

 僕は首を傾げた。「他人のやつには無関心ってどういうこと?」

「まあ細かい話はいいじゃないか。俺もすぐに帰るから」高木は僕の横を通り過ぎて靴を脱いだ。そして、廊下を歩きながら、「光の彼女さん、お邪魔してすみませんね」と言った。

 慌てて部屋に戻ると、高木が箪笥を開けていた。ピ、ピ、ピ。テーブルの上に段ボール箱がある。僕は高木がカーテンを開けてベランダを見た隙に箱を体の後ろに隠した。

「おい、光の恥ずかしがり屋の彼女は一体どこにいるんだ?」と高木は窓を開けて言った。

「僕には彼女なんかいないって何度も言っているだろ」

「でも武田がさっき光は彼女に会いに急いで家に帰ったって言っていたんだ。だから俺はわざわざここまで来たんだよ」

「僕は用事があるって言っただけだよ」

「彼女の用事だろ?」

「だから違うって」と僕は怒気を込めて言った。「僕にはちゃんとした用事があるんだよ」

「へえ、女じゃなくてちゃんとした用事ねえ」と高木が振り向いて言った。「それは一体何なんだ?」

 高木が演技をしている可能性がある。僕は言い方に気を付けて高木が犯人なのか確かめなければいけないと思った。高木に爆弾の存在がバレたら厄介なことになる。

「なあ、高木」と僕は少し考えてから言った。「悪戯っていうのは裏で隠れてやるものじゃないって言っていたよな。本人の前でやるから面白いんだって」

「ああ、そうだよ。それがどうしたんだ?」

「高木は今、僕に言いたいことはあるか?」

 高木は顔を顰めた。「一体、何を言っているんだ? もしかして彼女に振られて頭がおかしくなったのか?」

 爆弾は高木ではなかった。単純な高木にこんなに上手い演技はできない。友達の中でこんな幼稚な悪戯する人はもういない。入れ間違え。無差別の悪戯。それとも本物の爆弾か……?

「まあ彼女に振られたって世の中には女が幾らでもいるんだから気にするな」と高木は笑って言った。

「そうだな」と僕は肯いた。もう彼女に振られたことにする方が全て上手くいくような気がした。

「じゃあ、心を癒すために一人にしてくれよ」と僕は下を向いて言った。

「もちろんだ。俺は空気を読める男だからな。でも帰る前にその箱の中身だけ見してくれよ。どうしてさっきから大事そうに抱えているんだ?」

 息が詰まり、心臓が縮み上がった。

「別に大事なものじゃないよ。ただの電子機器さ」と僕は乾いた声で言った。

「ずっと音が鳴っているようだが」と高木は言いながら近づいてきた。「電池が無くなるから音を消した方がいいんじゃないか?」

「高木が帰ってから消すよ」

「なあ、光、俺にはその中に何が入っているのかわかっているんだ」

「何が入っていると思っているんだ?」と僕は動揺で変に高い声を出してしまった。

 高木は少し間を置いた。

「アダルトグッズだろ?」

「はあ?」

「ほらさっさと見せろ。彼女と別れたんだからもう光にアダルトグッズは必要ないだろ」

 否定したが、高木が腕を掴んできたので取っ組み合いになった。そして、抵抗虚しく僕は足を掛けられて投げ飛ばされた。高木が僕の背中に跨る。何とか首を動かすと、高木が嬉しそうに箱を開けていた。

「おい、やめろ。アダルトグッズなんて面白いものじゃないから」

「それは自分の目で確かめるよ」

僕は腕を伸ばしたが、高木は箱を胸の高さまで上げた。高木は蓋を投げ捨て、衝撃吸収材を捲った。

「なんだこれ?」と高木は立ち上がって言った。「こんなアダルトグッズ見たことないぞ」

 高木は爆弾を鷲掴みにしていたが、僕は何も言わなかった。

「光にこんな趣味があったなんてな」

「アダルトグッズじゃないって言っただろ」と僕は起き上がって言った。投げられたせいで腰が痛かった。

「たしかに光の言った通りだ。それでここのランプを押したから音が止まるのか?」

 高木はランプを押したが音は止まらなかった。

「どうしたらこの音止まるんだ?」

「僕にはわからないよ」

「これは光の物じゃないのか?」

「今朝起きたらポストに入っていたんだ。誰かの悪戯だと思うよ」

「ふうん」と高木は鼻を鳴らした。

 早く取り返したかったが、手荒な真似をするとまた高木に投げられることがわかっていた。僕は念のために床に落ちていた手袋を付けた。高木は興味みありげに爆弾を眺めている。

「それにしてもよく出来ているな。本物って言われても納得できる作りだ。鉄の錆具合なんかも完璧だ」

「そうだな」と僕は言った。「でも、高木、それは僕のものじゃないんだ。だから、傷つけたら悪いしそろそろ箱に閉まってくれないか?」

「ああ、そうするよ」と高木は言って爆弾を裏返した。「あ、でも、ちょっと待て。後ろに何か文字が刻まれているぞ。えっと、『ゲンシリョクバクダン』。なんだこれ?」

 一瞬頭が真っ白になった後に浮かんできたのは、小学校の留学旅行で訪れた原爆ドームだった。廃墟みたいな建物が並ぶ退屈な施設。仕方なく折った鶴を学級委員が飾る。僕は友達の変顔を見て笑っていたのだが、担任にゲンシュクな顔をしろと言われて頭を叩かれた。僕は頭を抑えながら、担任と同じような顔を作った。その時の修学旅行で他の担任と性行為をして異動になったデブで中年の担任と同じような顔を……。

「何だか一気に冷めたな」と高木は低い声で言った。

 僕は高木の気持ちがわかった。これは確実に偽物なのだ。

 高木は興味を失ったようだったが、なぜか音だけは止めたいらしく、躍起になった。爆弾の角をテーブルにぶつけたり、手でランプを叩いたりしている。僕は黙って眺めていた。どうせ趣味が悪い偽物なのだからと。

「もしかしたら振れば止まる仕組みなのか」

 高木はそう言ってカクテルを作る要領で爆弾を激しく振った。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ!!

 僕は慌てて耳を塞いだ。爆弾が防犯ブザーのように大きな音で鳴っている。高木は驚いて爆弾から手を離した。僕は恐怖で身を縮めた。

 ピピピピピ、ピピピ、ピ、ピ、ピ。

 振動が止むと音は小さくなり、間隔が広がっていった。

「急に大きな音が鳴ったからびっくりしたよ」と高木は苦笑いをした。「どうして先に言ってくれなかったんだ?」

「振ってないから知らなかったんだよ」と言って僕は恐る恐る爆弾を拾い上げた。

「そう言えば入っていたのは今朝って言っていたな。じゃあ他にどんな仕掛けがあるか俺が調べてやるよ」

 僕は首を横に振った。「もうやめてくれ」

「おい、急にどうしたんだよ」と高木は笑って言った。

「これが本物の可能性もあるだろ?」

「そんなわけないだろ。ほら貸してみろ。偽物って証明するために俺がもう一度振ってやるから」

 僕は我が子のように爆弾を抱えて高木から距離を取った。

「あのな」と高木は呆れて言った。「ここは紛争地帯じゃないんだから爆弾なんてあるはずないだろ。それに『ゲンシリョクバクダン』って書いてあるんだぞ? おもちゃに適当なことを書いてビビらそうとしているに決まっているじゃないか」

「僕だってそう思うよ」と僕は反発するように言った。「でももしかしたらって考えると……」

「光って本当に面白いな。ビビりにもほどがあるよ」

 高木はツボに入ったらしく、腹を抱えて笑っていた。僕は爆弾を箱に戻して蓋を被せた。

「このことは誰にも言わないでくれよ」

「そんなの無理だろ」と笑い続けている高木が言った。「今日中にサークルのみんなの耳に入っているよ」

「高木、もし言ったら絶対に許さないからな!」と僕は怒気を込めて言った。

「おいおい、冗談だろ? 面白いけどそんなに恥ずかしいことか? コンドームをベッドの下に張り付けている方が傑作だったぞ」

「高木頼むよ。この通りだ」

 僕は深々と頭を下げた。

「あれ、もしかして本当に知られたくないやつ?」と高木は口調を変えて言った。

「うん、そういうやつ」

「もうしょうがないな。これは貸しだぞ」

「ありがとう」と僕は顔を上げて言った。「明日ちゃんとカレーライス奢るから」

「カレーか」と高木は少し考えてから言った。「それはお釣りが来るじゃないか」

 高木は弱いのにパチンコに行くのでいつも金欠だ。僕はこれまで何度か高木に昼食を奢って借りを消している。きっと今回も高木は約束を破らないだろう。満足気な顔を見ているとそれがわかる。僕は時計に目を向けた。一時五分。三時間目の講義は十五分からだ。

「今日の三限目はもう遅刻できないんじゃなかったのか?」

「ああ、そうだよ」と高木は言って時計を見た。「おい、もうこんな時間じゃないか。どうして早く言ってくれなかったんだよ」

 高木は走って玄関に向かった。そして、踵を踏んで靴を履いた。

「じゃあ明日の昼食はよろしくな」

「誰か一人にでも言ったらカレーは無しだからな」と僕は言った。「別に爆弾が好きなやつなんて世間に幾らでもいるんだから」

「ああ、わかっているよ。じゃあな!」

 高木がドアを開けて外に出ると、僕は大きな溜息をついた。

 ピ、ピ、ピ。

 静かになった部屋に音が響く。


 雲が空を覆い、太陽が見えなくなった。雨が降りそうなので、通行人の中には傘を持った人もいる。僕は無事に百円ショップで箱と衝撃吸収材を買うことができた。カモフラージュのために洗濯バサミも買った。手袋を付け、念のために、ニット帽とマスク、服は買ってから一回しか着ていないサイズが大きな紺色のトレーナーを着ていった。

 部屋に入ると爆弾は変わらず音を出していた。僕は黄ばんだ箱と同じサイズの新しい箱に衝撃吸収材を敷き詰めて、爆弾を入れた。衝撃吸収材を上から被せて蓋をすると音が小さくなり、頑丈にテープを張った。手袋のおかげで指紋は付いていない。僕は自分の仕事に満足した。

 アパートのゴミ捨て場に行くと、ゴミ袋の数が増えて、臭気が酷くなっていた。僕は顔を歪め、辺りに人がいないことを確認してから箱を置いた。ゴミ袋が増えたおかげで音は微かに聞こえる程度まで小さくなった。

 爆弾に高木の指紋が付いていることはわかっていたが、僕は百円ショップで買い物をしている時に、指紋が見つかっても、警察に登録されていなかったら問題ないことを思い出した。それにもし今回のことで登録されたとしても、今後指紋を取られるような罪を犯さなければ問題ない。高木の指紋が既に警察にあったとしたらそれは僕のせいじゃない。高木の責任だ。それに僕は高木に爆弾に触ってほしいなんて頼んでいない。というか、一番悪いのは爆弾を僕の家のポストに入れたやつだ。僕は何も悪くない。悪いのは周りの奴等だ。僕はゴミ捨て場の蓋を閉めて階段を上がった。

 アルバイトまであと一時間だった。僕はベッドに寝転んでテレビを点けた。録画していた韓国の連続ドラマがある。流行っているのでこれを見ておけば話に付いていける。数十年ぶりに再会した男女の恋愛話だ。言語学の講義と同じぐらい退屈だったが、僕は話題のために我慢してテレビを見続けた。

 三時前になるとパーカーとデニムパンツという恰好で家を出た。僕は大学前の道路沿いにあるコンビニエンスストアで働いている。去年まで駅前の居酒屋で働いていたが武田からコンビニが楽だと聞いてアルバイトを変えた。武田の言った通りコンビニは楽で、客がいなければ事務所で休憩できて、腹が減れば廃棄を食べることができた。勤務中に食べる飯の美味しさときたら。僕は居酒屋で走り回って客に文句を言われながら働いていた自分が馬鹿らしくなった。給料はどちらも最低賃金だった。

 コンビニに入ると、主婦の田中さんとフリーターの前澤さんがレジに立っていた。田中さんは四十代の主婦で、前澤さんは店長よりもシフトに入っている仕事のできる人だ。今日は前澤さんと一緒に働く。前澤さんは仕事を完璧に出来て気が利くので一緒に入ると気持ちが楽だ。僕は自賠責保険など幾つかの仕事を忘れているので、後輩とシフトに入る時はいつも冷や汗を掻いている。三か月前に一度自賠責保険の客が来たが、「現在こちらのコンビニでは取り扱っておりません」と頭を下げて言った。そんな方法が何度も通用するとは思えない。僕は二人に挨拶をしてから事務所に入った。

 薄暗い長方形の事務所には奥に監視カメラの映像が映るデスクトップパソコン、真ん中にレジの裏に続くドア、手前に新聞紙や郵便物、そして、壁際に制服が掛かっている。僕は自分の名札が付いた制服を取って袖を通した。

 二時五十五分。僕は椅子に座ってパソコンを覗いた。店内には二人の客がいる。飲料コーナーに若い女、雑誌を立ち読みしている汚い中年。レジにいる田中さんと前澤さんの姿も見える。二人は口を動かしながら、お金を数えたり、煙草を補充したりしている。店長は監視カメラを確認しているが話をするぐらいでは怒られない。何なら六十歳の店長が一番話をしているような気がする。しばらくすると田中さんが前澤さんに声をかけて事務所のドアを開けた。

「光君、お疲れ様。今日も五分前に来てくれたわね」

 田中さんが子供を褒める時のような口調で言った。

「当然ですよ」と僕は立ち上がって言った。「五分前行動は常識ですから」

「もっと光君みたいな子が増えてくれるといいわね」

「たしかにそうですね」と僕は微笑んだ。

「じゃあ私は上がるからあとはよろしくね」

「はい。お疲れ様でした」

 僕は田中さんが笑顔で肯くのを見てからレジに出た。

 店内はバドミントンのコートぐらいの大きさで、商品が所狭しと並んでいる。前澤さんはカートンの封を切っていた。僕は名札のバーコードを読み取って出勤を済ませた。

「光君、おはよう」と前澤さんが顔だけを向けて言った。

「おはようございます」と僕は言った。「どうですか、今日は忙しいですか?」

「いつも通りだよ」と前澤さんが笑みを浮かべた。「昼を過ぎてからはずっと暇だよ」

 近くに他のコンビニがあるので忙しくなるのは昼間だけだ。それはいつものことだが、暇だと聞くと嬉しくなるので、僕は出勤する度に忙しいかを訊くようにしている。

 店内には雑誌を立ち読みしている汚い中年しかいなかった。レジ横のホットショーケースを見ると、焼き鳥やコロッケは充実していたが、フライドチキンが少なくなっていた。

「チキン作っておきますね」

「ありがとう。光君はやっぱり気が利くね」

 僕はレジの後ろにある冷凍庫の中からフライドチキンを取り出した。袋に入っているフライドチキンは白っぽくて氷のように固まっている。僕は袋を持ってフライヤーがあるレジの隅に移動した。

 フライヤーの底には脂が溜まり、「上昇」「降下」といったボタンが幾つも付いている。僕は網にフライドチキンを五つ並べて「6」(フライドチキンというシールが貼られている)のボタンを押した。網が降下して香ばしい匂いと共にパチパチと弾けるような音が出た。三分すればフライドチキンが揚がる。若い男が来たので僕はレジに入った。前澤さんは隣のレジでお釣りを渡していた。

 僕はバーコードを読み取りながら、ポイントカードがあるか訊ねた。男が首を横に振ったので、合計を言って、お金を受け取った。お釣りとレシートを渡して、商品を袋に詰める。慣れた作業なので、口と手が勝手に動いた。

「ありがとうございました」

「お、ありがとうな」

 僕が頭を下げると、男は手を上げて店を出て行った。

「今日もいい接客するね」と前澤さんが隣に来て言った。

「そうですかね?」

「ちゃんと頭を下げるのは、学生の中で光君だけじゃないかな? 他の人はけっこう適当だよ」

「僕は最低限普通のことはしたいんですよ」

「それができない人も沢山いるからね」と前澤さんが店内を見回して言った。

 汚い中年は変わらず雑誌を立ち読みしていた。彼は毎日来るので多分ホームレスだ。

「あの人は仕方ないですよ」と僕は言った。「それより前澤さん、お腹減りませんか?」

「いいね。僕もそろそろ廃棄を取りに行こうと思っていたんだよ」

 廃棄になった商品は飲料コーナー裏のバックヤードに集められる。基本的におにぎりは無限にあるが(米が固くなって不味い)、人気の弁当類があるかは日によって変わる。

「今日はどうですか?」

「オムライス、焼き肉弁当、あと天津飯かな」

「いいですね。前澤さんは何を食べます?」

「僕は後からでもいいよ。先に光君が並びな」

「いやいや、前澤さんの方が先輩なんですから」

 若い女が入ってきて一直線にレジに向かってきた。話を止めて僕がレジに入った。

「28」と化粧の濃い女は投げやりに言った。

 僕は煙草を取ってバーコードを読み取った。若いので二十歳を越えているかわからないが、年齢確認はしない。面倒だし、売り上げは少しでも高い方がいい。

「四百円になります」

 女は無言でトレイに五百円を投げた。僕はレジを打ち込んで百円を返した。

「ありがとうございました」

 女は泥棒のように煙草を取って颯爽と出口に向かった。

「本当に先に選んでいいの?」と前澤さんが言った。

「もちろんですよ」

「じゃあ天津飯をもらおうかな」

「焼き肉じゃなくていいんですか?」

「いいよいいよ。学生は一杯食べないといけないから」

「ありがとうございます」と言って僕は頭を下げた。

 選ぶ権利を譲ろうとしたので、前澤さんが先に食べていいよと言ってくれた。僕はバックヤードに入り、廃棄が詰まったビニール袋の中から焼き肉弁当を取って、電子レンジで温めた。客は汚い中年一人だけで、前澤さんがフライドチキンをホットショーケースに入れてくれた。僕は礼を言ってから事務所に入った。

 元々七百円の焼き肉弁当の蓋を開けると、湯気と共に肉の香りが噴き出した。僕は腹が減っていたので(高木のせいでパスタが固まって半分しか食べることができなかった)勢いよく肉と米を頬張った。バイト中に食べる食事は本当に美味しかった。

 タレが浸み込んだ牛肉を噛んでいると、ドア越しに接客の声が聞こえた。監視カメラの映像を見ると前澤さんが笑顔で老婆の会計をしていた。前澤さんはスタイルが良く短い髪に整髪剤を付けている。今年三十五歳になったらしいが二十代と言われても納得できる。

 僕は前澤さんがスーツを着たらやり手の営業マンに見えるだろうと思った。生気が無い万年平社員の父とは大違いだ。温かい笑みを浮かべて、商談する前澤さんの姿が容易に想像できる。どうして前澤さんはこんなコンビニでアルバイトをしているのだろう? やはりあの噂は本当なのだろうか?

 前澤さんには、特殊詐欺に関わって逮捕歴があるという噂があった。古株の主婦によると前澤さんが入ってきたのは三年前で元々店長の知り合いだったらしい。今でこそ店長を上司という感じで話しているが、当時は事ある毎に頭を下げてまるで命の恩人に接するようだったと、彼女は得意げに話していた。二年前から働いている武田も仕事以外では前澤さんとあまり関わらない方がいいと言っていた。仕事が出来て良い人だけど仲良くなりすぎると悪いことに誘われるからな……。

 真否はわからない。既に辞めている主婦が前澤修二という名前で調べてもそんな事件は出てこなかったとか、前澤さんは偽名を使っているなどという話もある。僕は気になって一度どうしてここでアルバイトをしているのかと訊いたことがあるが、その時は「夢を追いかけているんだよ」と即答されたが、その夢が何なのかは教えてくれなかった。

 焼き肉弁当を食べ終わったので、僕は前澤さんと入れ替わった。レジに入って客が来ると会計をして商品を袋に詰めた。焼き鳥が無くなったので、タレをかけて電子レンジに入れた。焼き鳥が焼き上がるまでやることが無かった。僕はドアを開けて事務所を覗いてみた。

 前澤さんが天津飯を美味しそうに食べている。だが、事務所で廃棄を食べる三十五歳の姿は虚しかった。前澤さんが本当に逮捕歴のせいでここにいるのかはわからない。ただ僕は心の底から前澤さんのようにはなりたくないと思う。三十五歳なら結婚してローンを組んででも一軒家が欲しい。前澤さんは独身で僕と同じような安アパートに住んでいる。飼い猫の写真を見せてもらった時に、それがわかった。

 ピ、ピ、ピ。

 僕は突然爆弾の音を思い出した。ゴミ袋の間に爆弾がある。小さな音。中身を知っている人でなければあれは拾ないだろう。それにもし拾ったとしても捕まるのは高木だ。僕が犯罪者になることはない。僕は前澤さんになる可能性はゼロパーセントだ。

「やっぱり天津飯は美味しいね」

 食事を終えてレジに戻ってきた前澤さんが言った。

「はい、勤務中に食べる廃棄が一番です」

「どうしたの?」と前澤さんが流しで手を洗いながら言った。「僕がいない間に綺麗な人でも来た?」

「来てないですよ。どうしてですか?」

「光君が何だか嬉しそうだからさ」

「嬉しいことなんて何一つないですよ」と僕は言った。「ただ前澤さんのことを考えていただけです」

「お年寄りを揶揄うな」と前澤さんは満更でもない顔で言った。


 七時にアルバイトを終えて外に出ると辺りは暗くなっていた。雨が降っているかと思ったが、雲の厚みが増しているだけだった。前澤さんは同じ時間に退勤だったが発注があると言ってパソコンを操作していた。僕はビニール袋を持っており、中に六時で廃棄になったサーモンのサラダとお好み焼きが入っている。あとは酒があれば完璧だった。

 スーパーマーケットに入って、缶麦酒と酎ハイを持ってレジに向かった。三時間半はレジに立っていたので足に疲労があった。三時からの勤務は夜に比べて客が多いのであまり休憩できない。週四回のうち今日だけが早い時間の勤務だ。残り三回は準夜勤で半分以上事務所で休憩することができる。四か月前に店長に頼まれたので三時の早い時間に入ることになった。コンビニは基本的に人手不足なのだ。

 酒を買って住宅街を歩いているとアパートが見えた。カーテン越しに自分の部屋が光っている。加奈が来ているのだ。僕は加奈に予備の鍵を渡している。鍵を欲しいと言われた時に迷ったがそれぐらいはした方がいいと思った。加奈には会う度に楽しませてもらっている。

 少し心配したが、アパートにはいつも通り侘しさが漂っていた。駐輪所には埃を被った自転車が溜まり、ゴミ捨て場は変わらず置かれている。僕は安堵して階段を上がった。

 ピ、ピ、ピ。

 それはまさに青天の霹靂だった。ドアを開けた僕はビニール袋を土間に落とした。音が鳴っている? 講義の時みたいなに幻聴だろうか? いや、違う。たしかに部屋から音が鳴っている。シャツとパンツ姿の加奈がキッチンに立って鍋を覗いでいたので、玄関からは部屋の様子が見えなかった。 

「おかえりなさい」と加奈は鍋を覗いたまま言った。「たまには料理を作ろうと思って」

 僕は靴を脱ぎ捨てて部屋に向かった。加奈が後ろで「もう何するのよ」と文句を言った。

 箱に入った爆弾がテーブルに置かれている。衝撃吸収材がテーブルに散らばり、テープがゴミ箱に捨てられていた。

 ピ、ピ、ピ。

 頭が混乱した。どうして爆弾がここにあるのだろう?

「ああ、それ間違えて捨てられていたから拾っておいたわよ」

 背後から加奈の声が聞こえた。

 僕は叫び声を上げて後ろを振り返った。加奈が驚いた様子で僕を見ている。

「どうして、急にそんな大きな声を出すのよ。びっくりするじゃない」

 鍋を煮込む音と爆弾の音が部屋に響く。加奈はお玉で鍋を混ぜた。僕は加奈の隣に立った。

「間違えて捨てたんじゃないよ」

 加奈は火を弱めて鍋に蓋をした。そして、手を洗ってから僕を見た。

「どうして捨てたの? 誰かが間違えて入れたなら取りに来るはずでしょう?」

「あれは本物の爆弾かもしれないんだよ」と僕は腹を立てて言った。「僕は指紋とかそういうことを考えて大変な思いをしてあれを捨てたんだ。なのにどうしてそれを拾ってくるんだよ!」

「まだそんな子供みたいなことを言っているの?」と加奈は呆れて言った。「本物の爆弾なわけじゃないじゃない」

「じゃあどうして送り主の名前がないんだよ」

「私が察するに」と加奈は少し考えてから言った。「きっとこのアパートには離婚して小さな子供を一人で育てている女の人が住んでいるの。それで別れた男がな、直接会えないからわざわざ朝方に名前を書かずにプレゼントを入れたの。それがあの爆弾のおもちゃ。きっとその子は爆弾が好きなのよ。子供って音がなるおもちゃが好きじゃない?」

「ここは学生専用アパートだけど」

「そうだったの」と加奈は残念そうに言った。「じゃあもしかしたら爆弾マニアの彼氏が彼女へのサプライズで……」

「もういいよ」と僕は吐き捨てるように言った。「僕が何とかするから」

「何とかするってまた捨てるわけじゃないよね?」

 僕は深いため息をついて部屋に入った。ピ、ピ、ピ。大きな音が鳴っている。米が炊けた時と同じぐらいの音だ。

 僕にはどうして加奈がこんな音が鳴っている中でいつも通り生活できるのかわからなかった。普通の人なら気になって料理なんて手に付かないはずだ。いや、思い返してみると加奈はこれが綺麗な音だと言っていなかったか……? 

 加奈には理解できない所が沢山ある。貯金せずに稼いだお金を全て使うところ、派手な服を着るところ、フリーターなのに将来のことを何も考えていないところ……、まあそんなことは今はいい。問題は爆弾が戻ってきたということだ。それに加奈は爆弾を捨てることに反対している。解決方法は一つしかない。僕は手袋を付けて衝撃吸収材を爆弾に被せた。

「何をしているの?」と加奈が怪訝な顔で言った。

「警察に届けに行くよ。もし誰かが取りに来ても警察に届けたって言えば大丈夫でしょ?」

 加奈の顔が晴れて、納得したように肯いた。そして、鍋の様子を見るためか、部屋から出ていった。

 しばらくしてから加奈の声が聞こえた。

「もしかして今日もお酒を買ってきてくれたの?」

「そうだよ」と僕は適当に返事をしながら、テープを張っていった。

 加奈が冷蔵庫に酒を入れた。そして、部屋に入ってくると僕に抱きついた。加奈の胸は大きくて柔らかい。

「私は優しい光ちゃんが好き」

 加奈は囁いて口にキスをした。僕はテープを張り終えた箱を退けて口を開けた。舌が絡み合い、唾液が混じる。目を薄く開けると加奈が艶めかしい顔をしている。男根に熱が入った。僕は手袋を外してはち切れそうな胸を揉んだ。加奈が喘ぐ。大きな胸だ。何時間でも揉んでいたい。加奈が男根に触れる。男根が固くなる。僕は今すぐ加奈の中に入れたいと思う。だが、男根はいつものように勃起しない。ピ、ピ、ピ。音が耳に入る。意識が乱れる。勃起に集中できない。加奈が違和感に気付いた。色んな方からから男根を刺激する。僕は男根に意識を集中させる。ピ、ピ、ピ。どうして爆弾が頭を過る。男根が勃起しない。僕たちは長いキスを終えて体を離した。

「音が気になるせいだ」と僕は言い訳するように言った。

 加奈が自分の唇に付いた唾液を舐めた。

「私は全然気にならないけど」

 僕は肩を竦めた。「とりあえず、警察に届けてくるよ」

「そうした方が良さそうね」と加奈は慰めるように言った。

 僕は手袋を付けて爆弾入りの箱をリュックサックに入れた。そして、外に出ようとするとスウェットパンツを履いて黒色の鞄を持った加奈が視界に入った。

「もしかして付いてくるつもり?」と僕は驚いて言った。

「ええ、ついでにスイーツでも買いに行こうと思って」

「何が食べたいの?」

「まだ決まってないけどプリンとか?」

「僕が買ってくるよ」

「そこまでしてもらわなくていいわよ」と加奈は手を振って言った。「まだメイクを落としていないから何も問題ないわ」

「でも、肉じゃがの様子を見ておかないと。火事になったら大変だよ」

「こうしたらいいじゃない」と言って加奈は火を止めた。

「でも僕は帰ってすぐに出来立ての肉じゃがを食べたいな」

 加奈はしばらく僕の顔を見つめた。リュックサックの中から爆弾の音がする。

「光ちゃん、そんなに私の料理が食べたかったのね」と加奈は微笑んだ。「仕方ないわね。じゃあ留守番して肉じゃがを美味しく煮込んでおくわ」

 僕はリュックサックを背負って、急いで玄関に向かった。

「プリンを忘れずに帰ってきてね」と加奈はキッチンから言った。

「任せて」

 僕はそう言って逃げるように外に出た。

 背中から音は聞こえたが、今は朝と違って闇に紛れることができる。僕はアパートの裏手に回ってベランダから見える住宅街を歩き出した。大学沿いの道に比べて、こっちの道は街灯が少なかった。

 人通りが少なく、燐寸のような街灯が所々で光っている。季節外れのイルミネーションを飾る家を避けて、十字路で曲がると、滑り台がある公園が見えた。そして、交番は公園の隣にあった。ライトは点いているが、警察官の姿は見えない。夜間のパトロールでも出ているのだろう。

 僕は交番から距離を取って歩き続けた。警察に行って危険を冒す必要はない。暗くなったので、アパートから離れた所に捨ててしまえばいいだけの話だ。

 どこに捨てようか考えながら歩いていると、小粒の雨が降り出した。暗灰色の雲から霧のような雨が落ちてくる。雨に打たれていると、僕は住宅街の先に隣の市を隔てる大きな川があったことを思い出した。最適な場所だと思った。川沿いには街灯がなく、雨で川に近づく者はいない。爆弾は川を流れて海に出る。そして、広大な海を漂流する。爆発したとしても被害は出ない。運悪く海に出られなかったとしてもダムが爆発するぐらいだ。誰かに見つかる可能性は限りなく少ない。

 僕は住宅街を抜けて、土手に出た。対岸にはこちらと同じように家々が並んでいる。胸の高さまである草が斜面に生い茂り、黒い沼のような川が流れていた。近くには階段がなく、斜面を下るためには、三十メートルほど先の橋の辺りまで行かなければならなかった。僕は淡い光を放つ橋に向かって歩いていった。

 霧のような雨が降り続き、家のライトが土手を照らしていたので、僕はフードを被った。斜面までは光が届いておらず、川は橋のライトに照らされた部分だけが見えた。ドロドロとした水面に木片やビニール袋が浮かんでいる。汚い川だった。僕は対岸を見ながら歩き続け、爆弾を捨てて早く家に帰ろうと思った。

 橋に着いたので、手すりを持ちながら段差が高い階段を降りた。川沿いには石が敷き詰められ、雨で不揃いの模様が出来ている。橋のライトは弱いが、僕は念のために橋の下に入った。橋の下は洞窟のように暗く、足元には濡れた短い草が生えている。車が橋を通過すると上から砂が落ちてきた。

 暗闇でも近づくと川が見えた。木片とビニール袋以外にもペットボトル、空き缶、スナック菓子の袋が流れている。そして、汚いだけではなく、匂いも酷く、まるでゴミ捨て場のような匂いがした。

 僕は咳き込みながら、リュックサックを開いて箱を出した。

 ピ、ピ、ピ。

 音が暗闇に響く。

 僕は屈んで箱を水面に浮かべた。顔を近づけるとさらに酷く匂ったが、これでやっと解放されると思うと笑みが零れた。今日は高木に投げられるし、性行為を逃すし災難な日だった。帰って肉じゃがを食べて酒を飲んで加奈と性行為をして何度も射精しよう。

 箱は手を離しても水面に浮いた。ゴミと混じって箱がゆっくりと流れていく。僕は振り返って階段に向かった。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ!

 突然、巨大な音が闇を切り裂いた。僕はパニックになった。何が起こっているのかわからなかった。火災報知器のように音が鳴っている。早くあの音を止めなければ取り返しのつかないことになってしまう……。

 僕は慌てて走り出して、爆弾を追いかけた。箱は橋の下から流れ出してライトに照らされている。川に飛び込んだとしても箱を捕まえなければならないと思ったが、幸い岸の近くに浮かんでいたので、腕を伸ばすと掴むことができた。

 ピピピピピピピピピピピピピピ。ピピピピピピピピピ。ピピピピ。ピピピ。ピピ。ピ。ピ。

 引き上げると音が小さくなり、間隔が広がっていった。僕は顔を上げて辺りを見回した。斜面の上には監視塔のように家々が並んでいる。誰かがさっきの音を聞いて様子を見に来るかもしれない。それに僕は今ライトに照らされている……

 僕は箱をリュックサックに押し込んで階段を駆け上がった。川に流すのは駄目だ。きっと箱の中に水が入り込んだのだ。あと少しでも上げるのが遅かったら爆発していたかもしれない……。水気がないところ、やはり監視カメラがないゴミ捨て場に捨てなければならないようだ。僕は足音を消して、できるだけ早く土手から逃げ出した。

 僕は自分と関わりのない場所に捨てるために橋を渡って住宅街を歩き出した。監視カメラがない古いアパートを探したが、しばらく西洋造りの一軒家が続いていた。

 ピ、ピ、ピ。

 家を出た時と同じ大きさなのに音が大きくなったように感じる。暗い道なので顔は見えないが、前から二人組の男たちが歩いてきた。

「なんかさっき鳴ってなかった?」

「気のせいだろ」

 男たちはそう言って通り過ぎていった。僕は一刻も早く爆弾を捨てなければいけないと思った。

「緑園荘」という古いアパートを見つけたのはそれからすぐのことだった。外壁が剥がれた二階建ての木造建築で、今にも崩れてしまいそうな雰囲気がある。そして、豆電球のようなライトが点いていたが、それは建物を弱く照らしているだけだった。僕はしばらく塀に隠れて監視カメラを探したが、見つからなかった。監視カメラは防犯のためにもわかりやすいところに設置するのが鉄則だ。こんな古いアパートの大家が裏をかいてわかりにくいところに設置するはずがない。

 鉄の柵で作られたゴミ置き場はアパートの前にあった。錆びが目立つ粗悪な造りで、生ごみ、缶、ペットボトルが混じったゴミ袋が柵を圧迫するように捨てられている。このアパートの住民は分別せずに捨てているのだ。吐瀉物のような臭気のせいで、蠅が集り、ゴミ袋の周りを飛んでいた。

 僕はリュックサックから箱を出した。ピ、ピ、ピ。音は響いたが、辺りは暗く、僕は完全に闇に包まれていた。圧迫するようにゴミ袋が入っているが、箱を差し込むぐらいの隙間はある。僕は箱を縦に向けた。手を離せば爆弾が落ちる。そして、僕は音から解放される……。

 吐き気を催す酷い匂いに我慢しながら、僕はしばらく箱を持っていた。どうしても箱が手から離れなかった。

 僕は朝からずっと不満を感じていた。どうして僕だけこんな風に爆弾に踊らされなければならないのかと。おかしいじゃないか。僕はいつだって真面目に生きてきたのにこんな酷い目に遭うなんて……。それにもしこれが本物の原子力爆弾ならゴミ捨て場に捨てるのは危険だ。何かの拍子で爆発したら、この辺り一帯が放射能で汚染されてしまう。

 雨は降り続け、どこかで犬が不機嫌そうに吠えた。初めから荷が重かったのだ。まだ子どもの僕に爆弾を処理できるはずがない。それに何より僕には爆弾を引き受ける責任などありはしないのだ。

 責任があるのは爆弾をポストに入れたやつだ。そいつのせいで僕はこんなにも苦しんでいる。だが、これが原子力爆弾の可能性があるのは、上の世代のせいだ。原子力爆弾を作り、賄賂と無知のために原子力発電に頼り続ける頭のおかしい奴等の責任なのだ。僕たちは生まれた時から負債を背負わされている。返済不可能だど思えるほどの大きさ負債を……。

 アパートの一階は三つの部屋に電気が点いて、両端が消えていた。チラシがドアポストに押し込まれた右端の部屋に近づくと、チラシが老人ホームのものだとわかった。

ピ、ピ、ピ。

 膨らんだ負債はもうどうすることもできないが、自分たちの愚かな行いに責任を取ってもらうことは必要だ。

 ピ、ピ、ピ。

 緊張で心臓が引き締まった。こんな感覚は大学の受験以来だ。あの時は息が詰まるほど緊張した。そして、第一志望の大学に落ちたのだ。

 僕はドアに耳を当てた。音は聞こえなかったが、ポストに入れたらすぐにこの場所から逃げだそうと思った。僕はチラシを押して箱をポストに差し込んだ。そして、深い息を吐いてから手の力を抜いた。

 ポトンという音がして箱がポストの底に落ちた。僕は踵を返して歩き出した。後ろで微かに爆弾の音が聞こえる? いや微かではない。爆弾が赤ん坊のように大きな声で鳴いている!

 ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ!

 僕は無我夢中で走り出した。訳が分からなかった。振動と水を与えなければ音が鳴らないはずではなかったのか? ポストに落ちた振動で? いや、高木が与えた振動に比べれば大したことはない。では、ポストに水が溜まっていた? いや、そんなはずはない。ポストに水が溜まるなんて聞いたことがない。きっと振動と水以外にも爆発を誘発させるものがあったのだ。騙された。クソ野郎、よくも騙しやがって!

 僕は全力疾走でアパートから数十メートルの距離を取って、電柱の後ろに隠れた。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 距離を取ったので小さく聞こえるが、音は同じように鳴り続けている。僕はいつ爆風が来てもいいように電柱の影で頭を低くした。きっとこの電柱が僕を守ってくれるはずだ。

……だが、しばらく経っても爆風が襲ってくることはなかった。爆弾はただ泣き声のような音を鳴らし続けている……。

 全身から力が抜けて、僕は地面に座り込んだ。そして、声に出して笑った。

「加奈が言った通りあれはおもちゃだったんだ!」

 悪戯で揶揄われたことには腹が立ったが、馬鹿らしくて笑いが止まらなかった。僕は腹を抱えて笑った。

 ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ。

 しばらく笑い続けた僕は地面に手を付いて立ち上がった。手袋とお尻が濡れていたが、そんなことは気にならなかった。家で肉じゃがと加奈が待っている。肉じゃが、サーモンのサラダ、お好み焼きで乾杯だ。僕は陽気な気分になったので、口笛を吹きながらコンビニに向かった。


 家に帰ると加奈はテレビを見ていた。バラエティー番組が映り、演出の笑い声が聞こえる。「どうしたの。機嫌がいいみたいけど」と加奈は僕を見て言った。

「そうかな?」

加奈は肯いた。「それでおもちゃはちゃんと警察に届けてきたの?」

「もちろんさ。あんな素敵なおもちゃを捨てるわけないよ」

 僕は蓋を開けて鍋を覗いた。豚肉、人参、ジャガイモなどが入った肉じゃがは美味しそうな匂いがした。

「光ちゃんもあのおもちゃを気に入ったのね。それなら今度私ああいう音が鳴るおもちゃを買ってこようかしら。何だか楽器みたいな音が鳴っていると落ち着くのよ。もちろん音の止め方がわかりやすいやつにするけど」

「それは止めた方がいいじゃない」と僕は驚いて言った。「もしかしたら隣人に聞こえていたかもしれないし」

「ええ、どうしてよ」

「欲しいなら自分の部屋に置いたらいいじゃないか」

「私の部屋は弟の横だから音が鳴るおもちゃは置けないわ。あの子すぐに文句言ってくるのよ」

 僕は話を逸らすために袋からプリンを出した。

「まあ、これでも食べて気分を変えてよ」

「忘れずに買ってきてくれたのね」と加奈は嬉しそうに言った。

「忘れるわけがないよ」と僕は言った。

 加奈が肉じゃがを皿に盛り付けて、僕がサラダ、お好み焼き、酒をテーブルに用意した。肉じゃがあるだけで豪華な夕食になった。

「作ってくれてありがとう」

「胃袋はちゃんと掴んでおかないとね」と加奈は笑みを浮かべた。「それより冷めないうちに早く食べましょう。久しぶりに作ったから味には自信がないけれど」

 僕たちは麦酒で乾杯した。乾いた喉が痺れ、麦酒の苦みが全身に染み渡った。仕事終わりの麦酒は最高だった。加奈に見られながら、僕はじゃがいもを食べた。初めから言うことは決めていたが、じゃがいもは出汁が染みて美味しかった。

「とても美味しいよ。加奈はやっぱり料理が上手いね」

 加奈は満面の笑みを浮かべた。

「口に合って良かった。一杯食べてね」

 僕たちは肉じゃがやサラダを摘みながら酒を飲んだ。テレビは連続ドラマが始まった。加奈が見ている刑事ドラマ。名前は忘れてしまったが、実力派若手俳優と言われているやつが主演だ。全ての連続ドラマが退屈であるように、このドラマも退屈だったが、加奈は熱心に見ていた。

「この間の報道は本当にびっくりしたわね」と加奈はコマーシャルに入ってから言った。

「何の報道だっけ?」

「光ちゃんはもう忘れたの」と言って加奈は目を細めた。「この前話したじゃない。幸之助君が広田まいちゃんと手を繋いでいるところを週刊誌で撮られたって。それで事務所は否定しているけど、噂によれば結婚を視野に入れて付き合っているらしいって」

 若手実力派俳優の名前が幸之助、朝ドラに出演していた女優が広田まい。たしかに加奈はそんな話をしていた気がする。

「二人ともまだ若いのに仕事して結婚も考えているってすごいよね。たしか幸之助君が光ちゃんと同じ歳でまいちゃんが私と同じ歳だったはずよ。三歳差って何だか丁度良い気がするわ」

 僕は肯いてサーモンを食べた。賞味期限は切れているが数時間なら味に問題はなかった。

「二人の赤ちゃんは絶対に可愛い子になるわねえ」と加奈はテレビを見ながら言った。「私もいつかは可愛い子どもが欲しいわ。女の子だったら可愛くお洒落して男の子なら格好良くバッチリ決めたいわ。ああ、いいな。結婚」

 僕は曖昧な返事をして豚肉と人参を食べた。さっきまで美味しかった肉じゃがが、上手く喉を通らなかった。

肉じゃがを作ってくれたので、今日は僕が洗い物を担当した。スポンジに洗剤を付けて食器を洗う。鍋にはまだ肉じゃがが残っていたが、僕はそれを捨てようと思った。もう当分加奈の料理は食べたくなかった。明日加奈が帰ってから捨てれば問題ない。

 食器に付いた洗剤を流していると、僕は爆弾のことを思い出した。音が鳴っているので家主はすぐに気が付くだろう。あの古いアパートに住む貧乏な老人は爆弾を見て何を考えるだろう? 僕みたいに本物の爆弾だと考えるだろうか? 全うな大人なら責任感がある。適切に対処してくれるはずだ。警察に持って行った場合は……、大丈夫、あのアパートに監視カメラはない。それに指紋が付いているのは……、僕は難しい問題について考えることを止めた。高木とは少し距離を取ろうと思った。

 洗い物を終えると、僕は部屋に戻ってベッドに寝転んだ。僕はあまり酒が強くないので、顔が火照り、鼓動が早くなっている。

「ねえ、今いいところよ」と加奈は言ったが僕は話題に上らないドラマには興味がなかった。

灰色の天井が見える。僕は腕を伸ばしたが。天井までにはまだかなりの距離があった。天井は雨から僕を守ってくれている。そう言えば服が濡れていたのだ。陽気になって、すっかり忘れていた……。

 不意に欠伸が出た。少し眠気がある。疲れている時に酒を飲むと眠たくなることができる。体は疲れていない。爆弾のせいで気疲れしたのだろう。

 僕は目を閉じた。眠るわけじゃない。少し休むだけだ。テレビから刑事の叫び声が聞こえてきた。そして、少し間があって拳銃が発射された。加奈は最後までドラマを見るので性行為はそれからだ。僕は体の力を抜いた。目の前には闇が広がっていた。


……僕は轟音とアパート全体が軋むような振動で目を覚ました。初めそれはテレビから出ているのかと思ったが、それにしては音が大きかったし、何よりも体に響く衝撃があった。

 首を動かすと加奈が僕を見ていた。テレビではコマーシャルが流れている。

 目を擦って口を開こうと時に、もう一度轟音が鳴って振動が襲ってきた。近くで何かが爆発している。加奈がポカンと口を開けているので、僕と同じことを考えているのだろう。爆弾が爆発したのだ。やはりあれは本物の爆弾だったのだ。

 僕は木造のアパートが全壊する映像を思い浮かべた。跡形もなく吹き飛んで行った人もいるだろう。だが、ここまで規模が及んでいないところを見ると原子力爆弾ではなかったのだ。

 僕は安堵した。小規模の被害で事は済んだ。『原因不明の爆発によりアパートが全焼。七人の住民が死亡。警察は原因究明のため捜査を開始』。明日の朝刊の隅に記事が乗るかもしれないが、それだけだ。大衆の記憶からはすぐに消える。

「何の音かしら?」と加奈は間抜けた顔で言った。

 僕は勘違いをしていた。加奈は何も考えておらず、爆弾が爆発したなどとは夢にも思っていないのだ。

 加奈に真実を知らせてやろうかと思ったが、僕にはわからないことがあった。どうして爆弾は一つなのに二回も爆発したのだろう? それになぜかライトを当てられているみたいにカーテンが光を受けている。距離があるのに、火柱の光がここまで届いているのだろうか?

 僕は窓に近づいてカーテンを開けた。火柱を探したが、街は闇に包まれている。僕は首を傾げた。一体何が起きているのだろう? 爆弾が爆発してアパートが全壊したはずではないのか?

「何かあったのかしら?」

 加奈が隣に立って言った。

「爆発したんだよ。やっぱりあれは本物だったんだ」

 加奈は怪訝な顔した。まだそんなことを言っているのかいう風に。僕は不意に加奈を殴りたくなった。

 だが、その感情は夜空に舞い上がる閃光によって絶たれた。それは空気が抜けたような音を出しながら夜空に舞い上がった。僕はその閃光に目を奪われた。

 閃光は天まで昇っていくと思われたが、徐々に速度を落とした。そして、一瞬空で停止したかと思うと、轟音と共に爆発した。僕は咄嗟に顔を伏せた。爆風に襲われると思ったからだ。

 だが、幾ら経っても窓は割れず、爆風は襲ってこなかった。僕は恐る恐る顔を上げた。すると夜空に円形の光の粒が浮かんでいた。

「綺麗な花火ね」と加奈が呟くように言った。

 一瞬何が起こっているかわからなかったが、堰を切ったように、次々に花火が打ち上がった。それは月のように、夜空を明るく照らした。そう言えば河川敷で花火が上がると武田が言っていた。それにたしか去年もこの時期に花火が上がっていた気がする。加奈が窓を開けて僕の手を取った。茫然としていた僕はされるがままベランダに出た。

 他の家のベランダにも人が出て、花火を見ていた。雨が止み、厚い雲は掃除機で吸われたかのように、所々穴が開いていた。僕は爆弾を置いたアパートの方角を見たが、煙は上がっておらず、救急車のサイレンも聞こえなかった。花火が上がると、加奈は嬉しそうに声を上げた。

 僕は釈然としない気持ちになった。爆弾が爆発する可能性が残っている。それが気に入らなかった。たとえ犠牲が出ても、それが少ない犠牲なら爆発してほしかった。もしかしたらあれは原子力爆弾だったかもしれない。今この瞬間にも爆発する可能性がある……。

 僕は自分が酷く矮小な存在に思えた。自分の選択など関係ない。他人の愚かな行いで、今この瞬間に命を落とす可能性がある……。

 花火が上がり続けて、遠くから子供の喜ぶ声が聞こえた。僕は加奈の横顔を見た。たっぷりと肉が付いた加奈の顔が可愛く見える。僕は加奈の全てが愛おしく思えた。

「ねえ」

「どうしたの?」と加奈は花火を見ながら言った。

 僕は少し間を置いた。

「良かったら僕と付き合ってくれないかな?」

 加奈は小さな口を開けたまま銅像のように固まった。そして、しばらくしてから振り返った。

「本当?」

 僕は肯いた。

「やった!」

 加奈は僕を抱きしめた。加奈の大きな体に抱かれていると守られているように感じる。僕は加奈の背中に手を回した。肉が付いた加奈の体は抱き心地が良かった。

「ねえ、光ちゃんってこんなにロマンチストだったの?」

「そういうのじゃないよ。ずっと言おうと思っていたんだ」

「ふうん」と加奈は頬を摺り寄せて言った。

 僕たちは花火の音を聞きながらしばらく抱き合っていた。加奈の体は暖かく、厚い膜に覆われているようで、僕は深く安堵した。もう危険な世界に晒されたくなかった。僕は一生この膜に覆われていたかった……。

 そんな僕にとって、その音は初め幻聴のように聞こえた。遠くで微かに聞き覚えのある音が鳴っていた。だが、それは現実の音だった。花火の音よりも明瞭に耳からその音が入ってくる。音は徐々に近づいてきて、もう逃れられない距離で僕の耳を捉えた。

 ピ、ピ、ピ。

 僕は恐怖を感じて反射的に体を離した。爆弾はアパートに捨てた。距離があるので、音は聞こえないはずだ。それなのにまだ近くで音が鳴っている。

 ピ、ピ、ピ。

 僕は身を震わせながら加奈を見た。加奈はワニのように大きな口を開けている。

ピ、ピ、ピ。

「これって幸運を呼ぶ音だったのね」

 加奈は微笑みながらそう言った。

 全身から力が抜け、僕はベランダに手を付いて項垂れた。この世界は腐っている。逃げ場所なんてありはしないのだ。死は至る所で口を広げ、僕を待ち構えている……。どうして、そのことに今まで気が付かなかったのだろう?

 花火が打ち上がる。加奈が僕を見下ろしている。爆弾が鳴っている。蟻が歩いていた。僕は重い腕を上げて、蟻を叩き潰した。


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