第二部
第 二 部
織峰姫と星山敏彦が結ばれて一年二人に待望の子供が生まれた。双子の女の子だった。
喜怒哀楽を面に出さない父の芳造もこの時ばかりは疎剛を崩し笑顔になった。祖母となった母の美和も代わる代わる二人の孫を抱きしめ喜びを表した。
子供は長女が美里次女が里美と名づけられた。
そんな幸せな織峰の家に難題が持ち上がった。子供が生まれて一年、姫の産休が明けて学校に勤める始めると母の美和の体調が悪化した。育児を託せる母の体調不良は姫に取っては看過出来ない重大な問題だった。―私が教職を辞めるべきかー姫は悩んだ。そんな矢先の事だった。 出かけていた父芳造が帰って来ると家族全員を呼び寄せて、重要な話し合いをしなくてはならないと切り出した。
「皆が知っている通りお父さんの姉は河南町の杉山家に嫁いでいるが、その娘夫婦には子供ができない事がわかった。夫婦のいずれに問題があるのかは明かしてくれなかったが杉山家にとっては家系が耐える恐れがある。そこで杉山の三郎爺様から養女の話がでた。姉夫婦もお父さんに頭を下げてきた。要するにだ。速い話、姫の生んだ双子の一人を杉山家に養女にくれないかと言う話だ」
父の芳造が皆の顔を見回した。皆顔を上げず俯いている。芳造は続けた。
「杉山の娘夫婦。姫から言うと秋江伯母の娘、従姉の佳代夫婦は姫の子供なら否応もなく話を進めて欲しいと言っていた。義伯父の徳治も姉の秋江夫婦も弟の孫なら血の繋がりが有り是非にもお願いしたいと言った。子供の父親である敏彦君はこの事についてどう思うか聞かせて欲しい」
難題を振り向けられて敏彦は姫の顔を窺った。血の気の失せた白い顔の姫が俯いている。
「お父さん。確かに私は子供達の父親です。ですがこの件に関しては母親である姫さんの考えに従うつもりです」
敏彦はもう一度姫の顔を窺った。姫の顔は今にも泣きだしそうだった。芳造は続けた。
「姫には耐えがたい話だとは分かっている。ただ母さんが・・」
芳造は言葉を止め側に座り青白い顔で俯いている妻の美和を見た。芳造は話を続けた。
「姫は幼子二人をこのままお母さんに任せて教師を続けるのか。それとも教師を辞めて子供の養育に専念するのか」
母の美和が芳造の膝に手を置き姫を見た。俯いていた姫が頭を上げた。
「お父さん言いたいことは判ったわ。お母さんにこれ以上の負担はかけられない。一晩考えさせて・・」姫が立ち去ろうとすると母の美和が声を掛けた。
「姫ちゃんお母さんなら大丈夫よ。子供の面倒はお母さんが見るから・・」
「お母さんありがとう。でも・・」
子供の泣き声が聞こえた。姫はその場を立ち去り敏彦も席を立って部屋を出て行った。。
翌日の日曜日、姫は敏彦の運転する車に乗り二人で出かけた。
姫と敏彦が訪れたのは、河南町の杉山家のある集落だった。戸数十五戸程の集落をたどるとと漆喰土塀に囲われた門構えのひと際大きな旧家が見えて来た。姫が子供の頃に二三度訪れた事のある杉山家だ。敏彦は杉山家の敷地内にあるカーポートの空きスペースに車を止めた。カーポートには赤と白の二台の乗用車が止められていた。
姫と敏彦は杉山家の玄関に入った。出迎えたのは姫の伯母秋江と従姉の加代だった。二人は招き入れられて応接間に通され、高価な調度品が飾られた応接間の黒革のソファーに腰を下ろした。間もなく白髪で頭頂が薄い、ちょび髭を蓄えた背の高い老人が部屋に入ってきた。
「姫さん良く来てくれた。昨日芳造さんに話を持ち掛けたばかりなのに、早々と来てくれるとはありがたい。礼をいいます」
老人は伯母の義父の三郎だった。敏彦が立ち上がった。老人は敏彦を見ると目を細めた。
「君は確か星山君だったな。そうか君が姫さんの旦那だったのか。そいつは知らなかった」
三郎爺さんに旧姓で呼ばれた敏彦が大げさに頭を下げた。今は河南町の町会議員になってはいるが、三郎爺さんは元河南町農協の理事を務めていた。元はと言えば敏彦の上司である。
「星山じゃなかったな。今は織峰か。敏彦君今は身内だ肩苦しい挨拶は抜きにしよう。座ってくれ。今回の件は是非とも君にも協力してもらいたい。協力は可笑しかったな。この杉山の家を助けてもらいたい。この通りだ」
三郎爺さんが敏彦にも頭を下げた。伯母の秋江と従姉の加代がお茶と茶菓子を持ってきた。
従姉の加代は姫の三歳年上でショートカットでボーイッシュな感じの、色白で目元は何処となく姫に似た美人だ。伯母の秋江はソファーに座るとすぐに姫を見つめて語りかけた。
「姫ちゃんがこんなに早く来てくれるなんて思いもしなかった。私の旦那も知らずに朝から会社の仕事で出かけてしまった。本当にごめんなさいね。今回のお願いが姫ちゃんを悩まし苦しめたと重々承知しているわ。でもこの杉山の家を存続させるにはお兄さんと子供が二人いる姫ちゃんに頼むしか方法がなかったの。探せば何処かに養子にできる子供が居るかも知れない。でも血の繋がらない子供では杉山の家を託す事はできないと御爺さんは言うし、これが家族全員の意見なの。本来なら此方から空見の家を訪れて頭を下げてお願いするのが筋だと分かっているわ。昨日たまたま杉山のこの家に兄さんが立ち寄ってくれたのを幸いに私からお願いしたの。杉山の勝手な願いで足を運ばせてしまって、ごめんなさいね」
姫と敏彦は黙って伯母の話に耳を傾けていた。伯母が隣に座った娘の膝を叩いた。俯いていた加代にー貴女もお願いしなさいーと促した様だった。
「姫ちゃん無理なお願いをしていると分かっているわ。でも・・どうかお姉さんの頼みを聞いてちょうだい。お願いよ。私だって子供が生みたい。子供が欲しい。でもそれが叶わぬ今となっては姫ちゃんに頼る他はないのお願い姫ちゃん」
加代が手を合わせ懇願している。脇で見守る三郎爺さんも腕を組み天井を仰いだままだ。
姫と敏彦も俯いたままで一言も発しない。無言の時間が過ぎてゆく。
「姫さん敏彦君。姫さんは知っての通り、この杉山の家は元地主で資産もある。子供には何の不自由もさせない。望むならどんな教育も受けさせよう。何とか考えてはくれないか」
重苦しいその場の空気を一新するように三郎爺さんが口をひらいた。
「姫ちゃん子供をくれとは言わない。伯母さんと加代に預けてくれない。成人した暁には親子の対面を必ず果たすから。お願い姫ちゃん」
伯母の言葉に隣に座る加代が泣き出した。困惑した表情で顔を上げた姫が加代の側ににじり寄り、顔を押さえる加代の手をそっと掴んだ。
「お姉さん分かったわ。娘を一人お預けします。もう泣かないで」
そう言った姫の目からも大粒の涙がこぼれた。
「姫ちゃん本当なの。私良いお母さんになって見せる。信じて」
加代が涙の溜まった赤い目で姫に誓った。伯母が姫の手を取った。
「姫ちゃんありがとう。本当にありがとう。伯母さん一生恩にきますよ」
伯母の目も涙で潤んでいた。三郎爺さんも安心したかのように、うんうんと頷いていた。
敏彦はこの部屋の空気に耐えられず窓の外の庭に目を移した。庭木の枝で雀が遊んでいる。
子供を引き取るのは一週間後と伯母の願いを聞いて姫は小さく頷いた。
姫と敏彦は重苦しい胸を抱いて空見に帰った。
河南の杉山家から帰って一週間が過ぎた。その間母の美和は焦燥した様子で姫には多くを語らなかった。ただ双子の一人、妹の里美を抱いていることが多かった。その目には何時も涙が宿っていた。―私が元気でさえいたならばー美和の心には娘に対する負い目がある。
心を決めたはずの姫も昨夜は一睡もせず養女に出す幼い愛娘を抱いて一夜を過ごした。姫の嗚咽はとどまる事を知らず、枕を並べる敏彦も涙を抑える事が出来なかった。
当日の朝、役場勤めの加代の夫が運転する車で伯母と加代が織峰の家を訪れ幼い里美を引き取っていった。
千里の妹里美が河南町の杉山家に養女にいき早五年が過ぎた。千里は小学生になった。
通学困難とされていた空見から日田小学校までの通学路は整備され小学一年生から通学できる様になった。桜の峠から空見集落に登る石ころだらけの急坂道の町道は舗装されていた。
日田市場で食料品店を営む角沖商店の角沖作治は軽四輪ライトバンで近隣の集落を巡る食料品などの移動販売を行っている。その日も午後前回空見集落で注文を受けた品物を届けるため、桜の峠を登っていた。
「あっ。いたいた。赤いランドセルの妖怪が・・」作治は笑顔になって、その妖怪の後方から迫って行った。桜の峠の急坂道を赤いランドセルが左右に揺れ動きながら登っている。その赤いランドセルには細い小さな足が二本生えているが手も頭も見えない。赤いランドセルだけが見えるのだ。誰が言い出したのか正に赤いランドセルの妖怪だった。作治は車をその妖怪に並ぶように走らせ声を掛けた。「織峰の千里ちゃん。乗っていくかい」すると赤いランドセルの妖怪は「駄目だよ。小父さん知らない人の車には乗っては駄目だとお母さんが言ってたから私は乗らないよ」と返事を返してきた。作治は笑って「千里ちゃん。この角沖の車のお店屋さんを覚えておいてよ。千里ちゃんのお家にも何時も行くのだから。じゃあ気を付けてお帰りよ」
作治は赤いランドセルの小さな妖怪を追い越して桜の峠を登って行った。
河南町の杉山家に養女に出された里美は家でピアノのレッスンを受け、小学校には毎日義母となった加代が送り迎えし杉山家のお嬢さんとして大切に育てられていた。
十年の歳月が過ぎた。春、姫は日田小学から北勝小学校を経て遂に河南小学校に転任してきた。姫が待ち望んでの転任だった。―里美の顔が見えるー今はまだ親と名乗れる立場でないことは判っている。それでも姫は一日でも早く、成長したであろう娘の顔が見たかった。
河南小学校では姫は四年生の担任を任された。里美との面会は直ぐに訪れた。五年生になった里美は四年生の教室の隣にいた。姫は教室に向かう廊下で里美と対面した。
ニッコリと笑顔でお辞儀する里美はショートカットの髪型が、長い髪の美里と違えども顔は瓜二つだった。あえて二人の違いを探すなら千里には左の口元に鍼の先でつついた程の小さなホクロがある。それは母親である姫のみに分かる二人の違いだろう。
姫と顔を合わせた里美は清潔で精錬された衣類を身に着けていた。この事からして里美が大切に育てられて居ることが推察された。お辞儀をした里美に動揺を隠し姫も微笑み会釈を返した。すれ違った里美が嬉しそうな笑い声を発する声を姫は背中で聞いた。泣き出しそうになる心に耐えて姫は四年生の教室に入った。
姫は帰宅し美里の顔を見るたび深い溜息ををついた。それを見た美里が言った。
「お母さん。大きな溜息だね。何を吐き出しているのよ。部屋の空気をよごさないで」
と笑った。親の心子知らず、それも致し方ない何も知らない美里だった。
里美は新しく赴任してきた、四年生を担任する自分の母親と同じ年頃の女先生が何故か好きになった。その先生の笑顔に出会うと何故か心が和んだ。
里美はこの先生の事を母の加代に話した。その先生の名前が織峰姫と聞いて加代は少なからず動揺した。
遂に姫ちゃんが実の娘と対面した。何時かは起こりうる事と覚悟はしていても、どうにもならない起きて欲しくない現実が起きてしまった。姫が話す事はないと分かっていても加代の心はゆれ動いた。
―里美の成長を見てくれた。恥ずかしくない娘に育っていたでしょうー加代は自分と違う意味で心に動揺をきたしたであろう姫を思った。
姫にとって毎日通う学校が楽しいものになった。話しかける事はしないが、毎日娘の笑顔に出会える。これほど幸せな事はなかった。その幸せな時が年を超え里美は六年生になり、姫にとって娘と会える期間は一年を切って来た。
夏が過ぎ秋になった。里美にとって河南小学校最後の運動会が挙行された。運動場に三張のテントが張られ一張が来賓用だった。そのテントの下に、杉山三郎町会議員の後を引き継ぎ今は会社を辞めて町会議員となった秋江伯母の夫徳治が来賓の一人として座っていた。又徳治の娘加代も父兄に混じり運動場の観客席で、カメラを持って娘の出番を待っていた。
この時姫は進行係として入場門と退場門を行き来していた。加代にもその姿を捉える事ができた。運動会はプログラムに沿って、賑やかにかつ整然と進められていった。
プログラムの後半六年生の競技、買い物競争が始まった。一組六名がスタート直後にコース上に置かれた封筒の中の紙に書かれた物を探し、それを持って走りゴールする遊戯的な競技だ。
一年生を背負って走る者、父兄と二人三脚で走る者、縄跳びで走る者、皆それぞれ観客を沸かせて競技は進んでゆく。
里美の番が回ってきた。加代はスタートラインに並んだ娘にカメラを構えた。走り出した里美が封筒を拾い中の紙を見た。里美が何かを探している。来賓席に居る父親の徳治も、観客席に居る母親の加代も娘の里美の姿を目で追っている。里美が教職員テントに向かって走って行った。封筒の中身は好きな先生と手をつなぎ走るだった。
教職員テントで競技の進行を見つめていた姫は、テントに向かって走って来る里美に目をやった。「先生。織峰先生お願いします」走って来る里美が叫んでいる。姫は耳を疑った。
―娘が私を呼んでいるー姫は迷わずテントから飛び出した。
「先生手をつないで走って」里美の差し出す右手を握り姫は走った。やっと歩き出したばかりの幼子が今、母と知らず手を握り走っている。娘の手の温盛が手の平を伝ってくる。
―このまま走り続けたいー姫は力を入れて娘の手を握った。運動場のコースは短い。
―もっとゆっくり走ってー姫の願いも空しくゴールしてしまった。
「先生ありがとうございました」笑顔で礼を言う娘に返す言葉もなく、姫は泣き笑いの笑顔で片手を小さく上げてテントに戻った。この実の親子の一部始終を義母の加代親子は見つめて居た事になる。
―姫ちゃん良かったね。これで少しは気が晴れるといいねー手をつなぎ走る親子の姿に目を潤ませた加代だった。加代の父徳治も複雑な思いで実の親子の姿を見つめていた。
運動会が終わった後も姫と里美になんら変わりはなかった。姫はそれまでと変わりなく教員としての仕事を続け、里美は姫を慕いながらもそれまでと変わらぬ六年生の日々を送っていた。
冬が過ぎ春になった。里美の卒業式に姫は従姉の加代と顔を合わせた。姫にとって里美との別れの日でもあった。産みの親と育ての親、二人は里美にきずかれないように物陰で話した。
千里は空見から日田駅まで約三キロを歩き、隣の北勝駅まで列車通学し北勝中学校に通っている。日田駅と北勝駅を繋いでいるローカル線は朝昼と夕刻午後四時と夜八時の上り下りの八本のみである。
北勝中学校の放課後、部活動は活発に行われているが日田駅から列車通学している者の内、日田駅近辺日田市場等駅から近い集落に家がある生徒以外は部活動には参加しないで皆帰宅部である。夜の列車での帰宅は山坂を帰る特に女子生徒達にとっては危険だった。
放課後運動場の側を帰宅する千里達の目に走り回るサッカー部や野球部バレー部や陸上部等の生徒達の姿が映っている。千里達日田の生徒達は列車の時間を気にしながら駅への道を急いだ。。千里は河南町農協から北勝町農協に転職し車で通勤している父の敏彦から、乗せて行こうかと言われても、私は皆と歩いて行くと空見の友達と歩いている。
又ある時、敏彦が運動部に入りたいなら迎えに行ってやると言うと、私は運動が好きではないとあっさり断ってきた。
夏休みが終わり秋風が吹く頃運動会シーズンになる。御多分に漏れず、ここ北勝中学校でも運動会は開催された。運動会当日父親の敏彦は仕事の合間を見計らい北勝中学校の運動場に行ってみた。中学生ともなると、さすがに父兄の観客は少なかった。それでも何人かの父兄に混じり敏彦も運動会を観戦した。
プログラムの何番目か、マイク拡声器が一年生の対抗リレーを告げた。
―やっと出てくるかー敏彦は少し楕円コースに近づいた。
入場門から赤青黄色白緑紫六色の鉢巻きをした一年生が出て来た。千里はと見ると赤色鉢巻きで中程よりやや後ろに並んでいた。「よーい・・」号砲が鳴り鉢巻きが走り始めた。コース一周百メートルである。次々とバトンが渡ってゆく。緑と紫の鉢巻きがトップ争いを繰り広げている。赤はと見ると鈍ビリで走っている。五番手でバトンを受けた白鉢巻きの男子が前を行く四番手三番手の男子に追いつくと一気に追い抜いた。―ほー早い子がいるなー敏彦は腕組みでコースの熱戦を眺めている。赤の鉢巻きは依然として前に離されダントツの鈍ビリを走っている。敏彦は鈍ビリの子に、中学生だった妻の姫の姿に重ね合わて見ていた。少し歓声が起こった。目の前を長い髪の赤い鉢巻きが駆け抜けた。―千里か・・―赤い鉢巻きは離されていた前の女子の後ろに追いつき、ぴったりと着いて追い抜くことはしないでバトンを渡した。
敏彦は苦笑いを浮かべて踵を返した。―やっぱり母娘の血は争えないかー似るも似たり、こうも同じ様な光景が見えるとは。敏彦は否定的ではない明るい未来を見た様な気持ちになっていた。千里にも妻の姫と同じ同僚に恥をかかさない優しさがあった。不自由な足を忘れて敏彦の足取りは軽かった。敏彦が千里のリレーを観戦していた時、もう一人千里に注目していた観戦者が教職員用テントの下にいた。千里がそのテントの前を走り抜けた時その年配の教師が呟いた。「やっぱり姫ちゃんだ・・」側にいた女教師が「校長先生今何と言われました・・」
「私が何か言いましたか先生・・」「今確か姫ちゃんとか・・」「そうか。私は夢を見ていた様だ・・他意はないよ先生」
校長先生と呼ばれた男は、その昔織峰姫の担任教師だった町田先生だった。今は北勝中学校の校長先生になっていた。その事を敏彦が知っていたらどれ程驚いたことだろう。
ところが町田校長の他にもう一人千里に目をつけていた教師がいた。体育教師の安田だった。
安田先生が千里に目をつけたのには理由があった。ある日、町田校長から一年生の織峰千里について父母の名前を担任から聞いて見る様にとの理解しがたい支持を受けた。織峰千里の担任教師から保護者である両親の名前を尋ねたところ校長の言わんとした事の意味を理解した。
―あの星山敏彦と織峰姫が結婚し、その子供が織峰千里だというのかー
同年代で陸上競技を志した安田にとって忘れられない二人だった。
ー校長は私にこれを伝えたかったのかー安田は理解した。―一度確かめて見る必要があるー
そう決めた安田だったが、時は過ぎて行き年を超えた。
一月吐く息も凍る寒い朝。北勝中学校では全校生徒による恒例の寒中マラソン大会が執り行なわれた。
学校を出発し北勝町を横断し町裏を流れる高吉川の右岸堤防道路を右折北進し川に架かる参道橋を正面に春日神社の鳥居を見て渡り左岸堤防道路を南下し川下に架かる北勝橋を渡り左折して右岸堤防道路を北進、元来た道を北勝町を横断して学校に帰る約四キロのコースと決められている。
運動場に集まった全校生徒の内、三年生から順次スタートして行った。三百人近い長い生徒の帯が駆けて行く。要所要所に先生が立ち生徒達を見守っている。
一キロ。三年生の長い集団が堤防道路を駆けて行く。三年生が参道橋を渡り始めた頃一年生の集団はやっと町裏の堤防道路に出た。一キロを過ぎると三年生の長い集団もばらけて遅れる生徒も出て来た。そこに二年生の先頭集団が食い込んでゆく。ミニバイクに乗り生徒達と並走していた体育教師の安田は堤防道路の脇にミニバイクを止めた。その横を三年生と二年生が入り混じって走り過ぎて行く。二年生の後尾に一年生の先頭集団が混じって駆けて来るのが見えた。安田先生は走って来る一年生の集団を見つめた。―来ないな・・―安田先生が首を傾げた。
その時千里は数人のビリグループの最後尾を走っていた。走ると言うより早足程度のジョギングと言った感じでのんびりと歩を進めている。千里の前を行くのは肥満体の体操苦手か虚弱な生徒達ばかりだった。皆顎をだしハアハアゼイゼイと走っている。
「頑張って、頑張って・・」前を行く同級生を励まし千里は走っていた。その千里達ビリグループが安田先生の横を通り過ぎた。
「こらっ。織峰本気で走れ。何でお前がそんな所を走っている」
―多須田先生が怒っているー千里は後ろを振り向かず舌をだした。ミニバイクが後を追ってきた。「織峰千里怠けていると体育の点数を減点するぞ」安田先生は脅しに掛かった。
安田先生のミニバイクが千里の横に来た。
「先生。無理を言わないでください。私はこれでも一生懸命走っています」
千里は横目で安田先生を見てニッコリとほほ笑んで見せた。
「織峰。先生に噓をつくな。許さないぞ。尻を蹴飛ばしても走らせるぞ」
「先生。許さないと言われても、私はこれ以上早く走れません。それに御尻を蹴飛ばすなんて、それはセクハラですよ。私の前にいる皆にも聞こえていますよ」
千里はヨタヨタとふら付いて見せた。
「もういい。お前は減点だ」安田先生は本気で怒ったらしくミニバイクのエンジンを吹かせて前方へと走り去った。
「千里ちゃん。先生は何故怒っていたの」ビリをゆく同級生二三人が千里に歩調合せて来た。
「何故だろうね。私にも分からないよ。怖い先生だよね。あの安田って先生」
ビリ集団は頷きあい、ハアハアゼイゼイヨタヨタと走ってゆく。北勝橋ではビリ集団は十人を超えていた。中には二年生や三年生も混じっている。北勝町を横切る頃には、ビリ集団は倍の二十人を超えていた。学校の運動場入口には難しい顔の安田先生が帰って来る生徒達を待っていた。千里は四キロを鈍ビリで走り終えた。
恒例のマラソン大会が終わり、体育教師の安田は町田校長にマラソン大会無事終了と織峰千里について報告した。織峰千里は鈍ビリだったと。するとそれが当然とばかりに町田校長は大声で笑って見せた。
「やっぱりビリで帰って来たか。似なくても良い事まで似てしまう。親子とは不思議なものだな安田先生」
「えっ。校長はまさかこの事を予想されていたと。織峰千里がビリで帰ると」
「安田先生。織峰千里の母親織峰姫先生も中学生の頃何時もビリで走っていた。人と競い合う事が嫌いで、目立つ事も嫌いな生徒だったよ。優しすぎる子供だった」
「校長それでは織峰千里は人との競い合いが嫌いと言う事ですか。それなのに何故織峰千里の保護者の名前を確かめろと校長は」
「一時期学生陸上界で一世を風靡した両親を親に持つ織峰千里がただの子供ではないと先生でも判るだろう。一度父親の星山敏彦を訪ねて話せば何か得られるのではないか。安田先生」
「あっ。なるほど。しかし校長織峰千里が本当に走れるかどうかは、確かめて見ない事には納得できません」
「トンビがタカを生むという諺があるが、トンビとタカを間違えていたと言う考えはどうだ。
タカはタカを生むと私は信じているが、君はどう思うかね。確かめるのは安田先生君の仕事だろう」
こんな会話が校長と安田先生のあいだで交わされていた事など千里は知るよしもなかった。
その翌日安田先生は北勝町農協を訪れて敏彦と面会した。
「星山さん。あっ今は織峰さんでしたね。私は北勝中学校教師の安田と申します。宜しくお願い致します」安田が挨拶すると敏彦は怪訝な顔で首を傾げた。
「初めてお会いしますが、私を御存じですか。それとご用件は・・」敏彦が尋ねた。
安田は敏彦の顔をじっと見つめて話はじめた。
「星山さん。おっと又間違えた。織峰さん私達はお初ではありませんよ。もう二十年もっとなりますか、織峰さんが中学二年生で私は一級年上の三年生だった。県大会の千五百メートル走で一緒に走りましたよ。私は貴方に完敗でした。思い出してくれませんか」
「お顔は思い出しませんが、そうですか。あの時一緒に走ったのですか」
「そうですよ。星山いや貴方に全く着いていけなかった。貴方は途轍もなく早かった」
「そうですか。私は陸上競技の事は忘れる事にしています」
敏彦が左足を叩いて見せた。
「あっそうでした。足を怪我されて陸上競技を断念されたと聞いた事があります」
「随分昔の話です。ところで私に何か要件があったのでは・・」
敏彦は昔の話を避ける様に話題を本題に戻した。
「その件ですが、実は千里君の事で少しお話を伺いたいと思いましてね」
「千里が学校で何か問題でも起こしましたか」
「そうではありません。千里君は両親のDNAを受け継いだ子供だと思っています。走れるのに走らない。その理由が分からない。町田校長から奥さんの話も聞いています。奥さんも最初は走らなかったと」
「ちょっと待ってください。町田校長とは・・あの時の町田先生」
「そうらしいです。日田中学で貴方と奥さんの担任だった方ですよ」
「その町田校長が千里が走れると言ったのですか」
「はっきりと,そう言った訳ではありませんが、千里君が走らない分けは父親である貴方に聞けと言われまして、こうしてお伺いした次第です」
「千里が走らないという事実は何かありますか」
「実は昨日校内のマラソン大会を行いましたが、その際千里君はビリ集団の最後尾、鈍ビリで帰ってきました。この事を校長に話したところ貴方に会えと言われたのです」
「そうですか。千里が鈍ビリで走ったと・・。それは私の血ではありませんね。母親の血でしょう。競い合うことは、知らず知らずのうちに妬みを買い敵を作る。目立たず鈍ビリで走ればひんしゅくを買っても恨まれる事はない。本人が本気でそう思っているのかは本人しか分からないことです。人への思いやりや優しさだけでは世の中を渡っていけない事を教える歳になったのかも知れません。それを教えるのも先生の役目では」
「そうです。望もうが望むまいが今の世の中弱肉強食で成り立っていると言っても過言ではありません。純粋な少女にそれを教えるのは大変気を遣う作業です。間違えると教師としての対面を失う事になりかねません。何かいい方法は有りませんか」
「そうですね。何か衝撃的なシーンに出会えば千里の心に闘争本能が芽生えるかもしれません。一度地区大会の徒競走の応援に連れて行ってはどうですか。本人は嫌がるかも知れませんが何人か複数人連れて行けば納得するかもしれませんよ」
「なるほど。それは良い考えです。一度検討しておきます」
敏彦と安田先生の顔に笑みがこぼれた。
空見の自宅に戻った敏彦は安田先生が職場に尋ねて来たことを妻の姫に話した。千里が校内マラソンで鈍ビリだった事を話すと姫は声を上げて笑った。姫は笑ったがすぐに自分の中学生時代の事を思い出していた。千里があまりにも自分に似ている事に驚いた。敏彦が言った。
「このままでいいのか。世の中がそんなに甘いものではないことを姫さんも知っているだろう。人と人の競い合いで世の中は進歩してゆく。負ければ今度は負けまいと努力する。そのことを教えてやらなくてはいけないのではないのか」
「そうは言うけれど面と向かって其ことを話すとあの子はどう思うかな。思春期の娘に現実は厳しいなんて話せないわ。それとなく教える事を考えるべきね。私が考えてみるわ」
姫は思案顔で考えこんだ。
数日後の夕刻。姫はトレーニングウエアーを着込んで千里を呼んだ。呼ばれた千里は母の装いに笑った。
「お母さんその恰好は何よ。運動会には早すぎる気がするけど何をする気なの」
「お母さん最近少し太ったみたい。ウエストがきつくてスカートが合わないの。少しジョギンでもして痩せようと思ったの。貴方もお母さんに付き合って走ってくれない」
「いいわよ。お母さん付き合ってあげるわよ。その変わり私の欲しい物を買ってくれる」
「お母さんがもういいと言うまで、付き合ってくれたら欲しいものを買ってあげるわよ」
「分かったわ。私着替えて来る」
千里がスポーツウエアーに着替えて来ると二人は家を出て走り始めた。空見坂を下りだらだら坂をゆっくりと駆け下った。
姫は十数年のブランクを感じて走っていた。ジョギン程度で息切れするとは思っても見なかった。足が重く感じて太もものぜい肉がブルブルと震えるのが分かった。千里は何事もない様に後ろから着いてくる。―私も歳かなー姫は全盛期の自分を思った。負け知らずの自分を思った。夫である敏彦への負けん気が走る意欲を搔き立てたことも思い出させた。
だらだら坂を下りきるとUターンして今度は坂を上ってゆく。
「お母さん無理しないで、歩いてもいいよ」
千里は母の高鳴る息使いが気になり後ろから声を掛けた。
「大丈夫よ。これ位でギブアップはしないわよ。千里こそ大丈夫なの。苦しくない」
「私は平気よ。少しも苦しくなんてないわ」
ハアハアと息使いが早くなった姫とは違い千里の息遣いは静だった。姫は千里と同じ中学生の頃、地区大会に出場のために何日もこの坂道を駆け上った頃の事を思い出していた。
―あの頃はこんなに苦しい事はなかった。ただ走る事が楽しかったー
姫は何とかだらだら坂を駆け上り、空見坂に上りかけて歩いてしまった。ハアハアと息がはづんだ。千里が姫の腰を後ろから押してきた。
「お母さん本当に大丈夫なの。こんなに無理したら明日の学校は大丈夫なの」
「馬鹿な心配をしないでよ。これ位の事で仕事を休んだりしないわよ」
そう言いながらも姫は娘に押されている腰を放せとは言わなかった。
―これで千里に負ける様だと競い合いの意味を教える事は出来ないー
その日は姫にとって屈辱的な一日になった。翌朝姫は筋肉痛に悩ませられた。太ももにずっしりと重い、鈍い痛みが巻き付き足の運びがぎこちなかった。夫の敏彦は直ぐに妻の異変に気が付いた。
「おいおい、足は大丈夫なのか。一度に無理をするからだよ。足を洗ってもう十数年も経つのだよ。昔取った杵柄も徐々に戻していかなければ。それに歳を考えれば全盛期には戻れないよ」
「それは判っているわよ。今日も仕事から帰ったら走るからね。夕飯はお母さんに頼むから少し遅くなるかもね。止めても無駄よ。私は頑固だから一旦決めたら止めないからね」
敏彦に取り付く島も与えないで姫は言い放った。
「やれやれ昔の姫さんに逆戻りか。親子対決が見ものだな」
敏彦は姫が娘のために是ほど一生懸命になるとは夢にも思はなかった。安田先生との対話がこの様に進展しようとは思いも寄らぬ事だった。
姫は重く痛む足を庇いながら学校に出勤した。同僚の女性教師が姫の顔を不思議そうに見て呟いた。「昨夜は旦那と一戦交えたのかな。目の下に隈ができてる」
「えっ。先生止めて下さいよ。そんなんじゃありませんよ。ただ少し運動をやり過ぎただけですよ。少し瘦せたくて始めた運動なんです」
「へえっ先生がその細い体で痩せたいですって。信じられないわよ」
「先生これには訳が・・」
必死で弁解に努めようとする姫に、同僚の女性教師が笑い出した。
「織峰先生冗談ですよ。先生は直ぐに真に受けるんだから可笑しくって」
近くに座っていた教師達からも笑いが起こった。姫は顔を赤らめた。足が痛かった。
昨年の秋、河南町では町を上げて体育協会主催の町民マラソン大会が催され、町のジョギングクラブに所属している里美の義母加代も参加していた。里美は母の応援のためマラソンコースの沿道にいた。加代はスマートな体系維持を目的にジョギングクラブに入会したが持ち前の勝気な性分から走ることにのめり込んでいた。その結果その実力はクラブのシルバー部門では三本指に入るほどの実力を身に着けていた。
マラソン大会がスタートすると五キロコースの女性部門でシルバーながら七位に入賞した。
それを沿道で応援していた里美は母の走る姿に感化され、年が明けると陸上部に入部した。
杉山里美の入部届を受け取った陸上部顧問の沢村由紀先生は首を傾げていた。入部届を提出しにきた杉山里美は今まで運動で目立った事のない,どちらかと言うと御淑やかなお嬢さんタイプと見て来た。それが時期外れに突然の入部願いである。どう言う風の吹き回しかしらと動機を訪ねるとただ走りたいと杉山里美は答えた。別に断る理由もないので入部届を受理したが部員に着いて走れるのかしらと半信半疑だった。
三年生は高校入試のため既に部活から身を引いており、里美は二年生先輩と先に入部している一年生部員の後に着いて走る日々が続いている。里美はピアノのレッスンやお花のお稽古より走る事の方が自分に合っていると思う様になっていた。顔に風を受けて走っていると何故か明るい未来が待っている様なさわやかで充実した気持ちになれた。入部して此の方走る事が苦しいと感じたことがない。そんな里美を沢村由紀先生は又首を傾げて見ていた。
―冗談で入部したのかと思ったけれど本気だったみたいねー今日も里美は部員の最後尾を遅れずに走っている。春が来て里美は中学生二年生になった。陸上部に一年生が五人入部してきた。
部員全員で走る時、里美は一年生部員の後を走っている。入部して以来この行動を変える事はなかった。―二年生になっても最後尾か。もっと積極的に前を走れないものかー陸上部顧問の沢村由紀先生は部員の練習状況を絶えず見守っている。里美が部員が練習を終えた後も絶えず一人、運動場のコース外を走っている姿を黙って見つめていた。
一年生部員が入部して一月が立ち更に一月が過ぎた。最後尾に里美の姿が無い。先頭を引っ張る三年生部員の後ろを走る里美の姿を見つけて沢村由紀先生は驚いた。里美は臆することなく三年生部員を追い上げてゆく。二年生一年生が遅れて行く。―杉山里美が脱皮したーこの日以来里美は河南中学校の陸上部のエースとして成長してゆく。
夏休みになった。河南中学校陸上部は秋の地区大会を目指して、日中の厚さを避けて早朝練習をしている。「今日は跳躍競技の部員を除いて運動場コースの外周を回る二百メートルコースを十五周走る三キロメートル走を男女混合で行います」陸上部顧問で監督の沢村由紀先生が指示を出した。
沢村先生は里美の実力を試してみたかった。
三年生部員を先頭に走り出した。里美は二年生の男女中距離走の部員の後ろを走っている。
六周目、七周目
一年生部員が遅れてきた。二年生の部員は三年生部員の後ろに必死に食らいつき、まだ差はついていない。八周目、九周目二年生の女子が遅れて来た。里美の横を後方へと落ちて行く。
十周目、里美の前を走っていた同じ二年生の女子部員が走るのを辞めた。前は二年生の男子部員だ。十一周目三年生の女子部員が遅れて来た。ハアハアと荒い息使いで里美の横を後退してゆく。十二周目二年生の男子部員が一人、三年生の女部員がまた一人里美の横を後方へと下がって行く。里美の前には三千メートル走の出場を目指す三年生の女子部員が走っている。その前方三十メートルのところを三年生部員二人が競い合って走っている。十三周目里美の前を行く
三年生の女子部員の走る速度が落ちて来た。ゼイゼイハアハアと苦し気な息づかいが里美の横を後方に下がった。里美のペースは変わらない。知らず知らずの内に里美はその三年生女子部員の前に出ていた。十四周目、前を行く三年生の男子部員二人のペースが上がった。里美もペースを上げて後を追った。里美の顔に苦し気な様子は見られない。ラスト一周三年生部員の一人がスパートしてもう一人を引き離し単独首位に立った。里美もスパートしたが、前の三年生男子部員との差は詰まらずそのまま三位でゴールした。里美の後からゴールした三年生の女子部員が苦しそうに肩で息をして倒れこんだ。里美は息づかいに乱れも見せず、三年生の女子部員を助け起こした。里美の前でゴールした三年生男子部員はゴールするとその場に座り込んでいた。
里美は次々とゴールして来る部員を横目に、ゆっくりと運動場の内側を走り続けた。
―杉山里美。この子の走りは天性のもの。単なる努力で得られるものじゃないー
入部して一年も経たない女子部員が目覚ましい進歩を遂げている。沢村由紀先生は信じられない思いで運動場の内側に沿ってゆっくりと走る里美を視線に捉えた。
千里は変わる事無く空見から日田駅への徒歩通学を続けている。ただ帰りは桜の峠下のお堂の前で空見の友人と別れ、通学カバンから取り出した細帯でカバンを背負い桜の峠を駆け上ってゆく。更には空見坂を駆け上り自宅に帰る。自宅に帰り一息ついて母親の姫の帰りを待つ。
母親の姫が帰って来ると二人そろってトレーニングウエアーに着替えて、空見坂からだらだら坂へと駆け下ってゆく。
一週間十日、姫の足の痛みや張は治ってきたが十数年のブランクはおいそれとは戻らない。
娘と競い合う事も人生には必要な時もある。闘争心も優しさも持ち合わせてこそ人間的に成長してゆけると教えたい。姫は千里に弱みを見せる訳にはいかなかった。一か月が過ぎ二か月が過ぎるころ、姫は手ごたえを感じていた。坂道では足は重いが息切れはしなくなってきた。
今少し、今少しと千里を従えて走る日々を送っている。千里はそんな母の思いを知る事もなく軽い足取りで母の後ろを着いてきた。ふっくらとしていた母の頬がこけて精悍ささえ漂わせてきた姿に、千里は母に痩せること以外に別の思惑があるのではと感じていた。
三か月が過ぎ季節は春になった。桜の峠の谷向いの山桜も早々と咲いている。千里は中学二年生になった。
授業を終え北勝駅で列車に乗り日田駅で降りる。駅から徒歩で日田市場を通り集落中程で左折して小学校下から桜の峠へと帰って来る。今日も変わらず通学カバンを背負って桜の峠を駆け上っていると峠の上から白いワンボックスカーが降りて来た。ボディに角沖商店とペイントしてある移動販売車だ。運転席から角沖作蔵が顔を出した。
「千里ちゃん。今帰りかい。カバンを背負って走るなんて何か走る大会にでも出るのかい」
「小父さん只今。そんなんじゃないのよ。部活をする暇がないから、これが私一人の部活なの」
「それは感心だけれど大変だ。子供は親に似て来るものだな」
「親に似るって私がお母さんに似てるって事かな」
「そう言う事だな。お母さんも元気だったよ」
「ありがとう小父さん。私はお母さんに似ていて良かったわ。商売繫盛頑張って」
「ああ小父さんも頑張るから千里ちゃんも。じゃあまたな」
角沖作造は手を上げて車を走らせ坂を下って行った。
ーあの子は母親の事を知らないのか。学生時代全国に知られた名ランナーだったことをー
そんな事は百も承知と思って口には出さなかったが、本当に知らないとしたら空見の七不思議の一つだなと又赤いランドセル妖怪を思い出し作造は笑いが込上げてきた。
六月汗ばむ季節がやって来た。今日も仕事から帰ると姫は千里を従えて空見坂を下った。
頬が落ち引き締まった体の母親が、一向に走る事を辞めようとしない事に千里は不審に思えてきた。―お母さんは昔からこんなに走る事が好きだったのかしら。普通のお母さんがこんな過酷とも言える坂道走りを続ける事ができるのだろうかー千里は走りながら母に尋ねた。
「おかあさん。もう十分痩せたと思うけど何時まで走るつもりなの」
「もうギブアップしたの。今度は千里が私の前を走りなさい。お母さんが着いていけない位走ってみなさい。そうすれば走るのを辞めてもいいわよ」
母に道を譲られ先に立って走り始めた千里だったが四十歳まじかの母がこれ程までの脚力走力を持っている事にやっと気づき始めていた。
千里がピッチを上げた。―お母さん着いて来れないでしょうー走っても走っても後ろの足音は離れない。母の吐く息の音も乱れる事がない。―どうなっているの。お母さんー千里が後ろを振り向こうとした。「前を見て走りなさい。後ろなんか気にして走る事は、その時点で負けているって事よ覚えておきなさい」
その母の言葉で千里は理解した。今まで知ろうとも思わなかった母の若い頃の走力の実態が垣間見えた気がした。―お母さんは走っていた。それも選手としてー
だらだら坂から空見坂を上り母と娘は家に帰って来た。汗を拭きながら乾いたタオルを千里に渡し姫はほほ笑んだ。
「お母さんもなかなかの者でしょう。近い内に勝負するかもね」
千里は汗を拭き拭き離れ屋の祖母の部屋に入った。年老いた祖母は横になって寝ていた。
千里が声を掛けると薄目を開けて起き上がった。
「千里ちゃん走って来たのかい。そんなに汗をかいてお水を飲んだかい」
「お婆ちゃん。聞きたい事があるの。お母さんの事だけど、お母さんは若い頃陸上をして居たの。その事が知りたくて」
「千里ちゃん。お父さんの足が悪い事は知ってるよね。お父さんがこの家に来た時から,その事は禁句になったの。走る事の出来ないお父さんに悪いでしょう。どうしても知りたいなら直接お母さんに聞いてよね。お婆ちゃんには話せないよ。悪いわね」
「へえっそうなんだ。だから家族から昔の話がでないのか。分かったわ。ごめんね。お婆ちゃん」
千里は消化できない思いを胸に抱いて祖母の部屋を後にした。
七月夏休みになった。空見の空にセミの声が騒がしい。母の姫が珍しく家にいた。夏休暇をもらったと、夏野菜が実る畑に出ていた。茄子に胡瓜トマトにピーマン籠一杯に収獲して家に持ち帰ってきた。母のこんな姿を見るのは珍しい。大抵は祖父か仕事から帰った父の敏彦の仕事だった。夕刻山の上の空見集落に涼しい風が吹いた。
「千里ちゃん。いよいよ今日はお母さんと勝負するわよ。勝てば何でも好きな物を買ってあげるわよ。負ければ一人で一月間走らせるわ。いいわね」母の挑戦だった。千里はその負ける気のしない挑戦を受けた。
母と娘は「よーいドン」と家の門から走り出た。空見坂を千里が前に駆け下り、だらだら坂を千里に続いて姫が駆け下ってゆく。二人は飛ぶように走った。だらだら坂を下りきるとUターンして登りにかかった。ここまでは五部の勝負。これからが本当の勝負になる。
千里の後ろにぴったりと着いて姫が追いかけて行く。何時もより千里のペースが速い、それでも姫は動じることなく平然と千里の後を追ってゆく。千里の息が少し上がって来た。登りの坂道は平道の何倍もの体力を消耗する。ペースを上げ過ぎると体力が持たなくなる。それでも千里は後ろの母を引き離そうとペースを落とそうとしない。千里の息遣いが荒くなった。
千里の耳にひたひたと母の足音が何処までも追ってくる。だらだら坂の頂上が見えた。後は空見坂だけ。千里は歯を食いしばって登ってゆく。千里の側を熱い何かが追い越して行った。
「あっお母さん・・」千里の前を母が駆け上って行く。だらだら坂から空見坂へ。千里は母に追いすがる事が出来ない。その差が開いて行く。―私負けたくないー千里は初めて競い合いに目覚めた。空見坂の頂上付近で母は待っていてくれた。
「ペースを守らないから。こんな結果になるのよ。今日はお母さんの勝ちね」
ハアハアと大きく息を吐く千里と姫は肩を並べて家に帰った。千里は落ち込んでいた。中年の母親に完敗した自分の経験の無さが思い知らされた。
「お母さんはもう走るの辞めるの」千里はおずおずと尋ねた。
「すぐには止めないわよ。リバウンドが怖いし夏太りもいやだしね。もう少し一緒に走ってあげるわよ」
千里は安堵した。負けて終わりにしたくない。母に勝って母を見返したい。勝負にこだわる千里の誕生だった。夏休みの期間中、姫は娘の千里と共に走り続けた。ペース配分ラストスパートの時期、力の温存と走法について等それとなく教えていった。
夏休みが終わる前日、姫は千里と再度の勝負を実行させた。
今度は姫が先行してレースは始まった。姫の後を千里が追う展開がだらだら坂の中腹まで続いた。姫のペースは一定でスピードの上げ下げはなかった。その姫がスピードを少しずつ上げていった。千里の呼吸に変化はなかった。規則正しい千里の呼吸が後を追ってくる。
だらだら坂から空見坂に進路が変わった。登り始めて間なしに姫は千里にラストスパートを告げた。二人は一斉に加速した。空見坂の頂上が見えた時、姫の前には千里が走っていた。荒い呼吸だが足は動いていた。姫の呼吸も荒かったが顔は笑っていた。坂の頂上に登り切った時、先に登った千里の尻を姫はポンと叩いて完走勝利を祝った。こうして千里の夏が終わった。
秋の地区大会の日が迫っていた。北勝中学校の運動場では陸上部の練習が熱を帯びている。
千里が運動場を横目に下校しようとしていると後ろから安田先生に呼び止められた。
「織峰ちょっと話がある。此方に来い」安田先生は運動場脇の桜の木の下に千里を連れていった。「先生私は何も悪い事はしていませんよ」「ああお前は何も悪い事はしていない。お前を呼んだのは他の件だ」「では要件を早く教えてください。私急いでいるので」
千里は嫌いな安田先生の元から一刻も早く離れたかった。
「そうか。では手短に話そう。今度の地区大会には応援に来てくれ。これはお願いではない。強制の命令だ。この件については、お前のお父さんの許しを得ている」
「お父さんの許し・・。先生私のお父さんに会ったのですか」
「ああ会った。お前のお父さんに会ったのは二度目だった。二十年ぶりだったがな」
「二十年ぶりにお父さんに会った。何処で会っていたのですか」
「そうだな。あれは先生が中学生の頃、陸上の県大会だった。お前のお父さんと千五百メートル走で競いあった。お前のお父さんはダントツで早かった。当然先生は完敗だったよ。それが一度目のお父さんとの出会いだよ。二度目は身上書の保護者欄でお前のお父さんが、あの時の星山敏彦と判って会いに行った」
「先生私のお父さんは陸上をやっていたのですか」
「なんだお前は何も知らないのか。お前のお父さんもお母さんも学生時代全国に名をはせた選手じゃないか。そんな事も知らなかったのか」
「お父さんも陸上を・・」「そうだ。名門大学に入学が決まっていたのに不運な怪我で走れなくなったと聞いている」「そうだったのですね。それで口に出来ないとお婆ちゃんが」
「お母さんも走っていたのですね」「おう走っていたとも。お母さんも空見の織姫と誰もが知っていた徒競走の選手だったよ。数々の大会で優勝していたが、早々と陸上界を去って小学校の先生になってしまったがね」
「先生その話と応援の話とどういう関係があるのですか」
「陸上は他の運動部と違い個人競技だ。他人との競い合いは元より自分との闘いでもある。
そんな選手達の姿をお前に見せたいとお父さんは思ったのだろう。他の運動部も応援に来てくれる。お前も必ず来ること。いいな」
安田先生は千里の返事を待たず校舎に戻って行った。
―お父さんもお母さんも陸上の選手だったー千里は母の走力が老いても健在の訳を知ることができた。
河南中学校の運動場では里美と先日里美に抜かれた三年生女子部員の早坂泉が白線が引かれたコースを走っている。
「早坂さん。ペースが速すぎるよ。そのペースでは三千メートル走を走り切れないでしょう。
杉山さんもっとペースを上げて貴女ならもっと早く走れるはずよ」
激を飛ばしているのは陸上ぶ顧問監督の沢村由紀先生だった。早坂泉を三千メートル走に、杉山里美を千五百メートル走に出場させる予定で練習を重ねさせていた。他の短距離走の選手や跳躍の選手もそれぞれ練習をに励んでいる。
今年こそ中距離走では良い成績が残せると自身を深めている沢村由紀先生だった。
地区大会の日がやって来た。日田駅から千里の他運動部に所属する生徒達が、地区大会が開催される久津駅目指して列車に乗り込だ。北勝駅からも選手や応援の運動部員等大勢が列車に乗り込んだ。久津駅には北勝中学校の他河南中学校やその他の中学校の生徒達が集まり、ぞろぞろと開催場所である久津町町営グランドに向かって歩きだした。
久津町町営グランドには周囲に応援席が設けられ、そこが選手達の待機場所でもあった。
地区内七中学校の選手達が集合しいよいよ大会が開催された。
大会で注目された中距離走の千五百メートル走は男子に続き女子の部が始まろうとしていた。「おい、あれを見ろ。あれは織峰じゃないか」河南中学校のカラーである黄色のランニングシャツとパンツの女子選手を指さして運動部の誰かが言った。頭髪は短いショートカットだが顔は千里によく似ている。千里もその女子選手を見た。―私によく似ている。髪が長ければ私と間違われるかもー応援席の皆の視線がその選手と千里の間を行き来した。
「誰だ。あの選手は・・」選手名簿を手にした安田先生が「あれは河南中学校の杉山里美だ」と皆に教えた。―河南中の杉山里美かー千里の脳にその名はインプットされた。
グランドコースは一周四百メートル。広いグランドである。入場門に近い応援席ゆえに千里によく似た杉山里美の顔を見ることができた。この世に是ほど似た人間がいるとは、他人とは思えない感情が千里の胸に沸き起こっていた。
女子千五百メートル走の選手十四人がスタートラインに並んだ。各校二名がエントリーできる。号砲がなり選手が走りだした。千里は杉山里美の黄色いランニングシャツを目で追った。
黄色いランニングシャツは先頭三番手に着けている。―いい位置―千里の目は追い続けた。
コース三周と三百メートル。一周目二周目三周目依然として先頭三人の位置は変わらない。
三周目が終わり金が鳴った。ラスト三百メートル、杉山里美が金の音を合図にスパートした。あっと言う間に先頭に飛び出した杉山里美はグングンと後方との差を広げてゆく。河南中学校の応援席から歓声が上がった。五メートルから十メートル。二十メートルの差をつけ杉山里美はゴールした。―早い。私より早いかもーゴールして河南中学校の応援席に手を振る杉山里美の姿を千里は見つめていた。河南中学校の応援席で沢村由紀先生がガッツポーズを繰り返していた。
進行係のテントから男子三千メートル走選手の集合を告げるマイク放送が流れた。北勝中学校の応援席から二人の男子選手が立って行った。
「おい織峰こちらに来い」後ろの席から安田先生が千里を呼んだ。
千里が安田先生の側に行くと、先生は見慣れたナップザックを千里の膝に置き言った。
「これに着替えてこい。内の選手が一人欠場となった。代わりにお前が走れ」
千里が渡されたナップザックの中を覗くと白いランニングシャツとパンツが、それと千里が家で吐きなれているランニングシューズが入っているではないか。
「先生これは・・」「織峰黙って着替えてこい。お父さんもお母さんも了解済みだ」
「でも私は・・」「でももヘチマもない。急いで着替えてこい。これは命令だ」
反論できぬまま千里は更衣室で着替えて元の応援席に戻った。
「おおっ・・」驚きの声と皆の視線が千里に集中した。
「おい杉山、じゃない織峰いつの間に我が北勝中学校の選手になったんだ」
笑いが起こった。
「千五百メートル走同様に三千メートル走も頼むよ」
又笑いが起こった。―私は誰。私は織峰千里。杉山里美に負けないー
男子の三千メートル走がスタートしたが、その光景は千里の目には映らなかった。この男子が走り終えれば、次は千里に取っては初となる競い合いが始まる。勝敗にこだわりのない千里にとって不安は感じられなかった。
後ろの席にいる安田先生の横に町田校長が座った。
「いよいよだな安田先生。楽しみな事だ。二十年前を思い出すよ。場所もこのグランドだった」
「この場所からあの天才と呼ばれた・・」「安田先生天才は二代続くと思うかね」
二人の先生の話の間に男子三千メートル走はゴールを迎え北勝中学校の選手は五位六位で善戦した。千里は進行係のマイク放送前に席を立った。町田校長と安田先生が黙って見送った。
女子三千メートル走選手は入場門に集まりスタートラインに出て来た。
河南中学校の応援席で望遠カメラを構えていた引率の先生が驚いた表情でカメラから顔を外した。「沢村先生杉山里美が居ます」「先生馬鹿な事を言わないでください。杉山里美は此処に居ますよ」 沢村先生が隣に座る里美を見て言った。
「でも北勝中学校の選手を見てください。髪は長いですが、あれは杉山ですよ」
その先生が望遠カメラを沢村先生に渡した。カメラを受け取った沢村先生はスタートラインに並んだ白い北勝中学校ユニフォームに焦点を合わせた。カメラから目を離すと、もう一度カメラを覗いた。「噓でしょう。この子杉山里美ちゃんにそっくりよ。まるで双子みたいよ」
沢村先生はそう言うとカメラを杉山里美に渡し「貴女も見てみなさい」と言った。
里美はカメラを覗いた。そこには自分そっくりの選手が立っていた。里美はカメラから目を離せなかった。マイク放送が選手紹介を流している。北勝中学校の織峰千里が紹介された。頭を下げた千里を杉山里美は尚も見つめたままだ。―織峰千里。まさか織峰先生の子供―杉山里美はカメラを先生に返しスタートを待った。三千メートル走はグランドコースを七周半走る事になる。号砲が鳴った。十二名の女子選手がスタートを切った。半周も走らない内に集団は縦一列になった。河南中学の早坂泉は先頭を走っている。北勝中学の織峰千里は最後尾を走っていた。縦長の選手達が河南中学校の応援席前を通過して行く。どよめきが応援席から起こった。
「杉山里美が走っているぞ」皆口々に叫んでいる。里美は複雑な気持ちで最後尾を走る千里を目で追っている。二周目三周目まだ先頭と最後尾に差は開いてはいない。四周目先頭集団五人の後に差がでてきた。三メートルから五メートルその差は徐々に開きつつある。先頭集団から最後尾の千里までの差は約三十メートル。五周目千里が北勝中学の応援席前に来た。
「織峰。お父さんお母さんに恥をかかすなよ」安田先生が大声を張り上げた。
千里の表情が変わった。目が先頭集団に向けられと千里のピッチとスライドが伸びた。前を行く選手達を瞬く間に追い抜き先頭集団の後ろに着いた。六周目北勝中学の応援席前で加速し先頭に飛び出しそのまま加速し続けてゆく。千里と後方集団との差がどんどんっ開いてゆく。誰も千里を追う者はいない。七周目千里は単独走になった。遥か後方を河南中学校の早坂泉が歯を食いしばって千里を追っている。その差は開くばかりだ。北勝中学の応援席前を通過するときは大きな歓声が沸いた。その中に笑顔の町田校長と安田先生の顔がある。
千里は蓄えていた体力を一気に解き放ちラストスパートした。坂道で鍛えた瞬発力は凄まじかった。見る間に後方との差が五十メートルを超えた。千里はゴールした。千里のあまりの速さにグランドのざわめきは治まらなかった。「先生やはり血は争えないものですな。天才は天才を生むですな」町田校長が安田先生と握手しながら言った。
「安田先生。織峰があんなに走るなんて、どうして分かったのですか。こんな話をしても此処に来ていない者は誰も信じてくれませんよ」応援の生徒達が尋ねた。
「それは誰にも内緒だよ。先生は伊達に体育教師をしていない証拠だろう」
安田先生が豪快に笑い飛ばした。
河南中学校の応援席でレースを見つめていた里美は、まるで自分が三千メートル走を制覇したような感覚に包まれていた。実に摩訶不思議な感覚だった。
千里が笑顔も見せず応援席に戻って来た。皆は拍手で迎えたが、千里は頭は下げたが嬉しい素振りは見せなかった。千里の胸に宿るのは、この日の為に一緒に走ってくれた母への感謝の思いだけだった。勝敗に拘らないこと。そう言った母はやはり娘には勝たせたかった。
それが分かる千里だった。―お母さんありがとうー
千里は空見の家に帰って来た。夜仕事から帰宅した母に、今日起きた地区大会での出来事を話した。母の姫は千里の話がレースから杉山里美に移ると戸惑う様子を見せた。姫は河南小学校で杉山里美に出会った事を隠せなかった。
「あの杉山里美ちゃんが千五百メートル走で優勝したの」
一瞬笑顔になった母の顔から笑顔が消えた。千里が自分と瓜二つの杉山里美について、里美の家の場所を訪ねたからだ。姫は迷った。教えるべきか。知らないと拒むべきか。
姫は里美の祖父が河南町の町会議員をしているとだけ答えた。千里はそれを聞くと、それ以上聞く事はなかった。姫は胸を撫で下ろした。
河南町の杉山家でも里美が地区大会のレース結果と、自分と瓜二つの織峰千里について母の加代と祖母の秋江に話していた。里美の話がレースから織峰千里に及ぶと加代と祖母は思わず顔を見合せた。「織峰千里って、もしかして織峰先生の子供かもしれない。織峰と言う姓は珍しい姓だからお母さん一度先生に尋ねてくれる」娘の里美にそう言われて「そんな事があったの。世の中には似た人が何人か居ると聞いているけど。織峰先生に聞いて見る」加代は娘にそう答えるしかなかった。戸惑い答える娘加代の顔を、側で祖母の秋江はいたたまれぬ思いで見つめていた。
地区大会から数日経った日曜日の午後。千里は河南駅に降り立った。
駅前の商店で杉山町会議員の家を訪ねると店主は親切丁寧に杉山家のある集落を教えてくれた。町外れの川に架かる橋を渡ると、稲刈りの終わった稲株が残る田んぼの向こう、山裾に広がる集落が見えた。集落近くで畑に出ていた初老の男に杉山家を尋ねた。その男は千里の顔を驚きの表情で見つめ、白い土塀の門構えの大きな家を指さしておしえてくれた。
千里はその家の門をくぐり、広い庭先を通って玄関に向かっていると庭の隅で草抜きをしているお婆さんがいる。玄関のチャイムを鳴らした。すると、直ぐに玄関ドアが開き千里の母と同じ位の女性が顔を出した。色白でショートカットの似合う綺麗な人だった。その女性は千里の顔を見ると大きく目を見開き、そしてニッコリとほほ笑んだ。
「あのー杉山里美さんはいますか」千里が尋ねると、その女性は杉山里美の母親らしく
「里美は習い事で出かけているの。後一時間位経ったら帰ってくると思うわ」
と里美の不在を告げた。千里は考えた末「では又改めて出直します」と杉山家を後にした。
杉山家を出ると千里は元来た道をぶらぶらと駅に向かった。川に架かる橋のたもとまで来ると、前方から若い女性が赤い自転車を踏んでくるのを認めた。自転車が目の前まで来て急ブレーキをかけて止まった。「織峰千里ちゃん」「杉山里美ちゃん」二人は名前を呼びあいほほ笑んだ。
「織峰千里ちゃん。なぜこんな所にいるの」「杉山里美ちゃんの家を訪ねて、いなかったから帰るところよ」「私に会いに来てくれたの。私も織峰千里ちゃんに会いたいと思っていたの。会えてよかったよ」「そうだね。この橋の下で話そうか」二人は橋の下の河川敷に降りて腰を下ろした。二人は向き合いお互いの顔を見つめ合って口を開いた。
「私達・・」二人から同じ言葉が漏れた。「本当に・・」また同じ言葉が「よく似ている」続いて出た。「えっ・・」驚く声も同じだった。
千里が里美の口に人差し指を立てた。チョット黙ってという合図だった。
「私達二人はあまりにも似すぎている。私の織峰の家と杉山の家に血の繋がりが有るのかも知れない」千里は話終えると里美の口から人差し指を引いた。
「もう話してもいいの。私も同じ考えよ」「それじゃあ二人で調べて見ようよ」
ふたりの意見が一致したところで里美が千里に尋ねた。
「千里・・ちゃん。と呼んでもいい」「それじゃあ里美ちゃんと呼ぶことにするわね」
「里美ちゃん誕生日は何月何日なの。私は十月十日よ」「えっ私も十月十日よ」
二人は又見つめ合った。「私達もしかして・・」同じ言葉が途切れた。
もし二人の思いが同じなら、そこには恐ろしい真実が隠されている。それは年若い乙女にとって口にはできない悪夢だった。もしも二人が双子なら、どちらかの親が産みの親ではない事になる。その先を二人は口にする事が出来なかった。二人の沈黙が続いた。
「千里ちゃん。貴女のお母さんは、もしかして河南小学校の織峰先生ではないの」
里美が話題を見つけてきた。
「そうよ。もしかして貴女もお母さんに習った事があるの」
「残念ながら私は織峰先生の担任する学年ではなかったの。でも私の憧れの先生だった。運動会の買い物競争で先生と手を繋いで走ったわ。あの時は本当に嬉しかった」
当時を思い出すように里美は視線を川面に投げた。
「そんな事があったの。私はお母さんと手なんて繋いだことあったかしら」
今度は千里が橋の下から空を仰いだ。
「二人の・・」また二人の言葉が重なった。千里がお先にどうぞと手を差し出した。
「私達二人の繋がりの手がかりがあったら連絡を取り合おうよ」里美が提案すると千里もすぐに同意した。二人は手を握り合い、後ろ髪を引かれる思いで別れて行った。
千里が訪れた杉山家では里美の母加代が胸の動悸を押さえ思い悩んでいた。
―まだ早すぎる。二人が何かを感じてもそれを止める手立てはない。どうしようー
加代の懸念は里美と千里の出会いが蟻の一穴になりはしないか。里美が全てを知り過激な行動に出はしないか。此の事を産みの親である姫さんはどう考えているのか。先走る懸念は尽きることはなかった。加代の心配をよそに時は流れて行く。
祖母秋江の様子がおかしい。物がないと騒ぐ事が多くなった。明らかに痴呆の症状が現れていた。
昼と夜の区別がつかないのか、昼に横になり眠っている事が多くなった。夜になると野良着に着かえて畑に行くと家を出ようとする。加代はそんな母を必死で止めている。そんな母を加代は病院に連れて行き診察を受けさせた。痴呆を治す薬はないが痴呆の進行を遅らす薬はあると、医師は薬をくれた。また一つ加代の悩みが増えてしまった。
町会議員の父徳治も夫の健も我関せずと祖母秋江に拘わろうとはしない。里美は母の力になろうと時々祖母の様子を見ようと祖母の寝所を訪れていた。この日も里美が祖母の寝所に行くと祖母は大きないびきを立てて眠っていた。余りに祖母のいびきが大きいので心配になり里美は祖母の体を揺すって起こそうとした。「お婆ちゃん。お婆ちゃん起きて」何度も呼んでいると祖母のいびきが止まった。祖母が薄目を開けて里美を見た。
「おや里美かい。お前何時髪を切ったの。この前は長い髪だったよ」
「お婆ちゃん。私は髪なんか切らないよ」「いや確かにお前の髪は長かった」
里美は直ぐに気が付いた。祖母は千里ちゃんと私を混同していると。祖母は千里ちゃんが尋ねて来た時会っていたのだと。
「お婆ちゃん。髪の長い子は私の友達だよ。よく似ているから間違えたのよ」
「間違えた。間違えるはずがないよ。血は争えないね・・」
祖母はそれだけ言うと目を閉じて眠ってしまった。―血は争えないー里美はこの言葉で祖母が何かを知っていると思った。
一月が過ぎた。その間祖母は財布がない。お金がないと騒ぎ立てて家族を慌てさせた。財布もお金も祖母の寝所から見つかり、痴呆の祖母の置き忘れと判り一件は落着した。
その日は日曜日で祖母の監視を里美に任せ、加代は夫と二人で買い物にでかけて行った。
「加代さん、加代さん」祖母の呼ぶ声に里美が祖母の寝所に行くと、祖母は余所行きの服装で化粧までしていた。
「お婆ちゃん。そんな恰好で何処に行くのよ」里美が尋ねると祖母はこう答えた。
「何処って決まっているでしょう。空見に里帰りをするのよ。貴女も帰るでしょう。早く用意をしなさい」里美は驚き又尋ねた。
「お婆ちゃん。空見の何処に帰るの。私はその家知らないわ」すると祖母は
「お前空見の織峰を知らないはずはないだろう」
「えっ空見の織峰・・お前も帰る・・」
痴呆の祖母の一言で里美の疑問は一度に消えた。
―祖母は空見の織峰からこの杉山家に嫁いできた。そして織峰先生の子供、即ちこの私を養女に迎え母加代の子供として育てたー
そう結論ずけた里美は涙が止まらなくなった。祖母の首に抱き着き声を上げて泣いた。
そこに母の加代が買い物から帰って来た。母の寝所を訪れた加代は母秋江の首に抱き着き泣いている里美を見た。「里美・・」声を掛けると里美は涙で濡れた顔を向けると、黙って寝所から出て行ってしまった。その後加代が涙の訳を尋ねても里美は何も語ろうとはしなかった。
数日後里美は学校を早退して列車に乗り北勝中学校に向かった。里美は北勝中学校の校門前で下校する千里を待った。授業終了の鐘が鳴ると下校する生徒達が次々と校門を出て来た。
里美は校門に背を向けて顔を隠して千里が出て来るのを待った。
校門から出て来る生徒がじろじろと里美を見た。
「織峰に似ていなかったか」「あれは噂の河南中学校の杉山と言う子じゃないのか。本当に似てたな」「まるで双子みたいだな」「何しに来たのだろう」様々な声が通り過ぎて行った。
「里美ちゃん。里美ちゃんよね」千里が駆け寄ってきた。「千里ちゃん・・」
里美の顔が今にも泣きだしそうだった。「こっちよ」千里が里美の手を握り駆けだした。
二人は学校近くの神社まで駆けた。神社の石段に腰を下ろすと千里が先に尋ねた。
「里美ちゃん今日学校はどうしたの。まさか休んだの」
「私どうしても千里ちゃんに伝えたい事があって早退してきたの」
「早退までして私に伝えたい事ってあの事よね」「そうあの事よ聞いてよね」
里美は数日前、痴呆症に掛かっている祖母との会話から知った内容を千里に話した。
「母が時々話している秋江伯母さんとは里美ちゃんのお婆さんの事だったのね。お婆さんは織峰のお爺さんのお姉さんと言うことね。と言う事はお母さん同士は従姉妹ってことね。血の繋がりは確かにあった」「それだけではないわ。どうやら織峰から養女にだされたのは私みたい」
「私達双子だった。里美ちゃんこの話は私達二人の秘密にしたい。此のことを私たちが知ったと二人のお母さんが知ったらきっと悩むと思うわ。それにはそれなりの訳があったはず、今それを表ざたにしてもお母さん達を苦しめるだけになりそうな気がするわ」
「私は杉山のお母さんを苦しめたくない。お母さんを愛しているし、このまま私達知らぬ顔でいたほうがよさそうね」
「でも私と里美ちゃんが双子の姉妹だったことが分かって嬉しいよ。これからも仲良くしましょうね」千里と里美は手を取り抱き合った。
秋から冬へ年が明けて、北勝中学校では恒例の校内マラソンが実行された。
千里は前年同様に鈍ビリで大会を終えた。ビリで走る千里に安田先生は何も言わなかった。
昨年の秋、陸上の県大会を千里が辞退した事に関係があるのかも知れない。安田先生の真意の程は分からなかった。
春四月千里は中学三年生になった。空見の集落を回す回覧板を見ていた父の敏彦が妻の姫と千里を呼んだ。敏彦は姫と千里に回覧板を見せた。回覧板の中に挟んであった広報紙には、次の事が載っていた。
北勝町久津町河南町奥新町の四町の地域振興の一環として、町の商工会農協が主催する四町対抗の駅伝大会を催す事になった。各町最低二チームとし各種団体企業も参加できる。各チームの構成人選は各町にゆだねられる。開催日程は五月予定で日時は後日発表。選手選考は四月中に希望者を募る。
と記載されており、北勝町は集落が多い日田地区からも一チームを出場させる事になっている。
更に、日田地区の選手選考は体育協会委員を兼ねる町会議員の鈴森と体育協会役員で決めるとの記載いもあった。
「お母さんこの件をどう思う」
「どう思うかって私達には関係ない話じゃないの。千里はどう思う」
「ここには人員とか年齢とかは書かれていない。これだけでは答えようがないよ」
「そうだな。もっと詳細が記載されてなくては日田の皆も答えようがないだろう」
「まあいいじゃない。私と千里にはどうでもいい話だから無視しておきましょう。触らぬ神に祟りなしって言うしね」
「そうか。俺はてっきりお前達が乗り気になると思ったが思い違いだったか。しかしだな。日田の住人がこのまま黙ってはいないだろう。いずれ何か言ってきそうな気がするが」
「何か言ってきても断ってね。貴方は人がいいから心配よ」
そんな家族の思いはもろくも崩れた。数日後町会議員の鈴森から電話が掛かって来た。
駅伝の出場人員は男女四名づつ八名八区間二十五キロで各区間は約三キロ。出場選手は男女とも中学生一名高校生一名二三十代一名四十歳以上のシルバー世代一名と決まったが、日田の住人一同空見の織峰親子の出場を望んでいる体育協会員も同じ意見だと鈴森は言った。
電話を受けた敏彦は返事に困った。その場は妻子と相談すると返事を先延ばしにして電話を切ったが出場に否定的な姫と千里にどう伝えようかと悩んだ。
日曜日には親に内緒で千里と里美は何度も会っていた。この日は久津町の町営グランドで会っていた。二人ともスポーツウエアー姿でグランドの内側外周をジョギングしていた。グランド内では何処かの草野球チームが試合をしている。二人は何やら楽し気に話しながら走っている。里美が千里に話しかけた。
「千里ちゃん。四町対抗の駅伝大会の話を聞いている。私とお母さんは河南町の選手に選ばれているの。千里ちゃんも当然選ばれているわね」
「その駅伝大会の話は知っているけど、お母さんは出たくない様だし、我が家にはまだ何の連絡もないから私も出ないわ」
「えっお母・・千里ちゃんのお母さん、織峰先生は学生時代陸上選手だったと聞いているわ。それに地区大会で優勝した千里ちゃんを選ばないなんて北勝町の人は信じられないわ」
「北勝町ではなくて日田地区から一チーム出るのよ」
「日田地区ならなおさら二人を選ぶべきじゃない。私は千里ちゃんのお母さんと走れると期待していたのに」
「あっ,そういう事だったのね。それは里美ちゃんの為に何とかしないと、お母さんを何とか説得してみるわ。でも日田地区の人が私とお母さんを選んでくれない事にはどうにもならない」
「千里ちゃんとお母さんを忘れるはずはないわ。今頃家に出場依頼があったかも知れないよ」
「もしも依頼があったならお母さんを説得してみせるわ」
翌日千里は駅伝大会の選手選考の話を父敏彦に向けて見た。父の敏彦はその話を何処で聞いてきたと尋ねたが、母と千里に日田地区の体育協会役員から出場依頼があった旨をお母さんには伝えておいたと話し、お母さんからは未だに返事がないと言った。
その夜千里は学校から帰宅した母に駅伝大会に出てもいいかと尋ねてみた。
「千里もお父さんから聞いたのね。千里は出ればいいけれど私は仕事柄ちょっとね。今思案中」
「お母さん何を考えているの。私が出たいと言っているのにお母さんが出なくてどうするのよ。
お母さんに伝えて置きたい事があるの。河南町の杉山里美ちゃんを知っているわね」
「杉山里美ちゃん・・。さあその人は・・」
「お母さん。しらばっくれないでよ。お母さんと小学校の運動会で手を繋いで走った子じゃない。知らないなんて言わせないわ」
「あっあの子。思い出したわ。その子がどうしたの。でも何故千里がそんな事を知っているの」
「私と里美ちゃんは地区大会で出会ってから友達になったの。それから・・姉妹になった」
「えっ。姉妹ってどういう事よ」
「お母さん。私達もう子供じゃない。何もかも知っているのよ。私達が一卵性双生児だって事をね。もし私の考えに間違いがなければ織峰から養女に出されたのが里美ちゃん。産んだのはお母さんじゃない」
「千里どうして其ことを・・」
「誰が見ても私と里美ちゃんは双子の姉妹だって事を気付くはずよ。杉山のお母さんの叔母さんは、内のお爺さんのお姉さんて事も知っているわ。それに里美ちゃんのお母さん加代さんはお母さんの従姉だって事も。もう里美ちゃんは産みの親はお母さんだって事を知っているのよ」
「里美ちゃんのお母さんも千里達が知った事を知っているの」
母姫は血の気の失せた顔で大きく溜息をついた。
「杉山の加代小母さんはまだ知らないわ。私がお母さんに話すのが初めてだから。お母さん。
里美ちゃんはお母さんの事恨んだりしていないよ。当分は今のままでいいって。杉山のお母さんを悲しませたくないって言ってるよ」
「貴女達何時の間に・・・」姫の目に涙が滲んだ。
「里美ちゃんが今度の駅伝大会、河南町の代表で出るって。そこでお母さんと又一緒に走りたいって言ってるよ。お母さん出場依頼を断れないでしょう」
姫は娘の言葉にコクリと頷いた。千里の母親説得は成功した。
五月の日曜日久津町の町営グランドに四町八チーム役場農協混成チーム二チーム企業三チームの計十三チームが集合し駅伝大会が開催された。各チーム八名八区間二十五キロ各区間約三キロ。走る順序は各チームの監督に任されている。日田チームは第三区に千里が第六区に姫が配置されていた。河南町チームの第三区に里美の母加代が、第六区に里美が配置されていた。
午前十時久津町営グランドで号砲が鳴った。一区のランナーが勢いよくグランドから久津町の外周を廻る道路に飛び出して行った。
三区のタスキ渡し場所にいる千里の背後から声を掛けられた。
「おい。織峰千里、県大会は辞退してもこんな場末の駅伝には出るのだな」
聞き覚えのある声に千里は後ろを振り向いた。安田先生が怖い顔で立っていた。紺色のランキングシャツにショートパンツ。その胸には久津町Aチームと三区を示す三の字が記されたゼッケンが着けられている。
「あっ。先生。まさか先生も駅伝に出るのですか」
「まさかとは何だ。先生が走る事がそんなに不思議な事か。先生が言ったはずだ。先生はお前のお父さんの星山敏彦と競い合った仲だとな。学生時代は中距離走の選手だったとな」
「そうですか。私先生と走れるなんて光栄です。先生に追い抜かれない様に頑張ります」
「ここは大人の競い合う場所だ。中学の大会ではない。まあビリグループで走るのが好きなお前だ。せいぜい頑張るんだな」
安田先生がその場を離れた。里美の母加代が側に寄ってきた。
「千里ちゃん。今の人は先生なの。何だか余り感じの良い人には見えなかったわ」
「小母さんにはそう見えたかも。でも悪い先生ではないよ。少し怒りっぽいだけよ」
「そうなの。でもあの先生だけには負けたくないわね。小母さんがあの先生を追い抜いて鼻を明かせてやるからね」
「小母さん相手は体育教師よ。無理はしないでね。先生がどれ位速いか見てみたいな」
周りの中学生からシルバー世代の男女選手達までが騒めいてきた。道路前方に一位の選手が駆けて来るのが見えた。二番三番の選手も見える。呼ばれたチームの選手が次々と路上に出てゆく。
一位で来たのは四町の選手ではなく久津町役場と農協混成チームの男性だった。混成チームの男子中学生がタスキを受け取り走り去った。二番三番四番とタスキが渡ってゆく。五番目に久津町Aチームの女子中学生が駆けこんできた。タスキを受け取った安田先生が女子中学生の背中をよく頑張ったとポンと叩き走って行った。河南町Aチームの走者が来たのは六番目だった。里美の母加代がタスキを受けて走り出した。直ぐに七番目で日田チームの男子中学生が苦しそうに走つてきた。「ラスト・ファイト」千里が同級生の男子に向かって叫んだ。
タスキは千里の手に移った。倒れこむ同級生を尻目に千里は前を行く加代小母さんを追いかけた。
ものの二百メートルも走ると、ショートカットの頭髪とピンクのテーシャツ、ピンクのランニングシューズの加代小母さんに追いつき後ろに着いた。ピッチ走法で走る加代小母さんに千里は声を掛けた。
「小母さん。ピッチが速すぎるよ。もっとコンパスを広げてゆっくり行こうよ。その走りだと先がもたないよ」
「駄目よ。千里ちゃん。あの先生に勝たなければ・・」
「小母さん。あの先生はきっとばててペースを落とすから、このまま追って行けば追いつくよ」
「そうなの。でもあの先生自信あり気だったから・・」
「二キロを過ぎて少しピッチを上げれば追いつくと思うから、それまで無理な走りは禁物よ」
「では千里ちゃんを信じてこのままペースを上げずに行ってみる」
二キロ過ぎ前方に紺色のランニングシャツとパンツの安田先生の姿が大きく見えて来た。
加代小母さんのペースも落ちて来た。
「小母さん。安田先生に追いついて来たわ。もう少しだけペースを上げれば先生に勝てるかもしれないよ」
「千里ちゃん。小母さんはいっぱいなの。これ以上ペースを上げられない。お願いだから先に行って先生を追い抜いてちょうだい」
ハアハアと吐く息が大きくなって苦しそうな加代小母さんと並んで走っていた千里は、
「小母さん。里美ちゃんと私が姉妹だった事は里美ちゃんも知っているから。それから里美ちゃんが加代お母さんを愛しているって言ってたよ」
「えっ里美が知ってた・・」加代小母さんの足が止まりそうになった。
「駄目よ小母さん。タスキを里美ちゃんまで綱がなきゃあ。ここで止めては里美ちゃんが悲しむよ。最後まで頑張って。私は安田先生に勝ちに行くから」
千里は少し元気を取り戻した加代小母さんの側を離れ、ピッチを上げスライドも広げて加速して行った。
安田先生はひたひたと後を追ってくる足音に苦しい息の下でピッチを上げた。それでも足音は迫って来る。タスキ渡しまで四百メートルを切った。三百メートル、二百メートル。安田先生の横を白い風が音もなく通り過ぎた。
「織峰千里・・。今年の県大会に辞退は許さんぞ」苦しい息の下で安田先生が叫んだ。
千里は安田先生の声を後ろにラストスパートに入っていた。差は二十メートルから三十
メートル。差はますます広がって行く。差は五十メートル千里はタスキを日田の次の選手に手渡した。安田先生がタスキを手にやって来た。そのすぐ後ろに加代小母さんが迫っている。
「加代小母さん。ラスト・・」千里の声に加代小母さんは安田先生と並んでタスキを渡した。
六区のタスキ受け渡し場では姫と里美が今や遅しとタスキが来るのを待っていた。
待ち受ける選手の中に、チラチラと姫の顔を見る女性がいる。姫と同じ歳恰好の女性だ。胸には北勝Aナンバー六の文字が見える。姫もその視線が気になり、その女性の顔を見た。何処かで会った気がする女性だったが思い出せない。姫の横にはぴったりと里美が寄り添っている。まだ二人は親子の会話も対面も果たしていない。
五区の選手が見えた。奥新町Aチームの青年だった。百メートル程遅れて久津の企業の黄色いランキングシャツを着た女子選手が続いている。奥新町の六区のシルバー男性にタスキが渡った。続いて久津の企業がタスキを繋いだ。三位四位五位の選手が団子でやって来た。久津町Aが先頭で四位には久津町の役場と農協の混成チームが五位には北勝町Aチームが来た。少し遅れて久津町Aチームが来た
里美が六番目でタスキを握って走り出した。その背を見送り姫は日田チームの来るのを待った。日田チームは三十秒ちかく遅れて七番目でタスキを姫に渡した。
姫が走り始めた。速い入りだった。五百メートルを過ぎると里美の背中に追いついた。誰かに追いつかれたと里美がペースを上げようとした。
「里美ちゃん。そのままのペースで行きましょう。肩の力を抜いてリラックス。胸を張って顎を引いて・・それでいいわ」
横に並んだ姫の顔に笑みがこぼれた。
「先生・・お母さん・・」里美は小さな声で母を呼んだ。姫は小さく頷いて言った。
「さあ前を追って行くわよ。着いていらっしゃい」姫が少し前に出た。
二キロ手前で五番目を走る女性に追いつき、これをかわして姫と里美は五番目六番目に上がった。五位にいた北勝町Aチームの女子選手は三位まで順位を上げて走っていた。タスキ渡し場所で姫を見ていたシルバーの女性だった。二キロ過ぎ姫と里美は久津町Aチームに追い着き、これを交わして四位五位と順位を上げて三位の女性に迫った。姫と里美に呼吸の乱れはない。淡々と三位の背中を追った。タスキ渡しまで後五百メートル。姫が里美に前に出る様に手を振って合図を送った。里美は指示に従い姫の前に出た。
「里美ちゃんペースを上げて前の女性の背中に着いて。ラストと言うまでそのままで走って・・」
里美は前を行く女性の後ろにぴったりと着いた。前を行く女性は後ろに着かれた事に気が付いてスピードを上げた。
「着いていくの。遅れないで・・」里美の後ろから姫が指示を送っている。里美は離されず前の女性を追った。後四百メートル。後三百メートル。タスキ渡しまで後二百メートル。
「ラストスパート。行くの里美・・」里美の後ろから激が飛んだ。
―ハイお母さんー里美が全力疾走移った。必死に逃げる北勝町Aチームの女性をを交わして里美がのスライドが伸びて行く。差はどんどん開いた。北勝町Aチームの女性の横を、前に行った中学生の女の子を追う様に姫が走り抜けた。―速い追えないー北勝町Aチームの女性は諦めた。
里美は三位でタスキを次の走者に渡した。次に姫がタスキ渡しを終えた。姫は走り終えた里美の肩をポンポンと叩いて健闘をたたえた。里美の顔は明るく輝き笑顔に満ちていた。
「姫ちゃん。貴女には勝てないよ。私を忘れたの黒沼美紀よ。今は北勝町に嫁いで木村姓だけどね」北勝町Aの女性が黒沼美紀と名乗るのを聞いて姫は驚いた。黒沼美紀の顔に衒いはない。穏やかな昔を懐かしむ目が姫に注がれている。
「黒沼美紀ちゃん。何処かで出会った人だと思っていたの。確かにそう言えば美紀ちゃんだ」
姫が黒沼美紀の顔を見つめて言うと二人の顔に笑いが弾けた。
「姫ちゃん。私を追い抜いて行った中学生ね。昔の姫ちゃんを見ている様だった。もしかして」
「この子の事かな」姫の後ろに隠れていた里美の肩を抱いて黒沼美紀の前に押し出した。
「この子よ。でも河南町のゼッケンだね。姫ちゃんの親戚の子なの。よく似ているもの」
「そうよ。親戚に預けている私の娘よ」「えっ実の娘なの。驚いたわ。道理で足は速いし似ているはずよね」顔を見つめられて里美は恥じらいの笑顔を見せた。
「お母さん。里美ちゃん」呼ばれて二人は振り返った。千里と里美の母加代が小走りで駆けて来た。千里の顔を見た黒沼美紀は目を丸くして側にいる里美の顔と見比べた。
「美紀ちゃん驚いた。そうよ。双子なの」姫に言われて黒沼美紀は頷き言った。
「貴女には勝てない事ばかりね」笑って黒沼美紀はその場を立ち去った。
春の澄み渡った青空に白い雲が浮かんでいる。桜の峠からも空見の山頂からも同じ空が見えただろうか。新緑の山を渡る風が木の葉を揺らした。桜の峠を角沖作蔵の移動販売車がエンジンを吹かして登って行った。
完