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「宇野くん」
その言葉で僕はハッと我に返った。
田沢先生が僕を訝し気に見ていた。クラスメイトが僕に注目している。
全員の視線が自分に注がれているこの感覚がとても苦手だ。出来るだけ目立ちたくないのに……。
体が熱くなり、注目されていることにとても恥ずかしさを覚える。
「ちゃんと話聞いてた?」
クリッとした瞳が僕を見据える。
田沢紗希、現代国語の先生だ。美人だし、優しいから、生徒からとても人気がある。
恋人がいるとか、いないとか……。
「すみません。聞いてませんでした」
正直に答える。
表情を崩すことなく答える僕に田沢先生は不思議そうに見つめながら、フゥッとため息をついた。
僕に呆れたのか、疲れたのかよく分からないが、何となく後者のような気がする。
「正岡子規の死因は?」
僕は迷いなく「結核」と答えたが、少しして違和感を覚えた。
今、高瀬舟を学んでいるのに、どうして正岡子規が出てくるんだ?
……森鴎外じゃなく?
「あら」
僕の返答に田沢先生は驚きと言うよりも感心したような表情を浮かべた。
「知っているのね」
「はぁ、一応」
僕の弱々しい声が教室に響く。
「好きなの?」
「正岡子規をですか?」
「いや、文豪とか……」
「文豪は嫌いです」
何故そう答えたのか自分でも分からない。
好きでも嫌いでもない。ただ、その瞬間は僕は「文豪が嫌い」になった。
理由は分かっている。文豪のせいで教室で目立ってしまったからだ。それに、正岡子規は文豪ではない。
一体どこを取って僕を文豪好きだと思ったのだろう。
「そう……」
田沢先生は困惑した様子だった。僕のことを扱いにくい生徒だと今日で分かっただろう。
僕も僕で自分なんかが生徒にいたら嫌だ。しかし、僕には「優等生」を演じるような気力もない。
先生の瞳を見つめながら、この瞳の色は何色なのだろうとふと思った。
鳶色、なのか焦げ茶色なのか、それとも、もっと黒に近いのか……。
知らなくてもいいようなことを疑問に思いながら、僕は先生から視線を逸らす。
「まさか宇野くんが正岡子規の死因を知っていたなんてね」
田沢先生の明るくて高い声が耳に響く。それが酷く耳障りだった。
これ以上、僕に話しかけないでほしい。僕を空気として扱ってほしい。
そんな思いが僕の内側で叫んでいた。
「正岡子規は七年間も結核に苦しんだと言われているわ。凄いわよね。宇野くんもそう思わない?」
僕がこのクラスに馴染めていないことを前から知っていたのか、クラスメイトたちが僕を知るきっかけを作ろうとしているように見えた。
悪意のない田沢先生の様子に、時に「良い先生」というのは有難迷惑になるのだと実感した。
「僕が正岡子規なら自殺しますね」
僕は思ったままのことを口に出した。
口に出してしまってから、しまった、と思った。これだとますます奇妙な奴だと思われる。
なんなら、誰も僕と関わりたがらない。そっちの方が楽だけど……。
この教室では僕がどのような人生を歩んできたかを知っている人は一人もいない。中学卒業後、僕は寮のある高校へと行く為に生まれ育った町を出たのだ。
特に理由はなかったのだが、きっと、宇野家崩壊の事実を忘れ去りたかったのかもしれない。
だが、環境を変えても、過去は変わらない。
ずっと孤独は僕につきまとうのだろう。