あしあと
長い階段を上がっている。真ん中には自転車の通れる道がある。そこを歩いても楽にはならないので、通らない。階段の左右は覆われてないので、周りの景色が見える。遠くに集合住宅が見え、うんざりとした気持ちになる。階段を上るのに疲れているのかもしれない。後ろを振り返るが、誰も来ていない。学生服を着た女の子が、反対の方向に進んで行くのが見える。僕は前を向いた。老婆がこちらに向かって降りてくる。髪がクルクルしている。真っ直ぐ長い髪をした老婆に会ったことがない。歳を取ると、ああなるのか。僕の母親は老婆ではないが、目が小さくなった。僕はまだ、自分の身体に変化があったようには感じない。周りからも、変わらないね、と言われる。老婆とすれ違う。老婆は階段の一段一段を見ながら降りていくが、実際は何を見ているのか分からない。よいしょ、よいしょ、と心の声を見ているのかもしれない。
遠くでクラクションの音が鳴る。車のぶつかる音はしない。僕は階段を上りきる。短い通路を歩いた後、緩い坂道が前に伸びる。切り立った山のような地形に、住宅街が広がっている。僕は歩く。犬の散歩をしている主婦に、こんにちは、と挨拶をする。ここをもう少し歩いたら、実家に着く。手土産を買って来ればよかったと思ったが、もう遅い。母とは何時に着くかのやり取りしかしておらず、何が欲しいのかも分からないし、そのことを考えなかった。駅でそういうものを目にしたら、買ったかもしれない。
テレビの音が聞こえ、そちらに目をやると、背もたれ椅子に座ったおじさんがテレビを見ている。何を見ているのかは分からない。夕飯の匂いがする。醤油の匂い。まだ醤油の匂いがしている。している。している。消えた。
僕は角を曲がる。実家が見えてくる。実家はアパートの一階だ。チャイムを押さずに、ドアを開けようとしてみる。鍵が掛かっていて、開かない。だから、チャイムを押す。中で犬が鳴いている。リョウスケだよリョウスケ、と母が犬に僕の名前を言っているのが聞こえる。そういうところは何も変わっていないのだな、と僕は母に対して思う。ドアが開く。犬が足元でパタパタとしている。
あっこに階段出来たんだね、と僕は言う。前に来た時はなかった。うん最近ね、と母は言う。何をしに来たというわけではない。僕はしゃがんで、犬の頭を撫でる。それから、遠かったわ、と母に言った。犬には、遠かったよ、と言う。相手の返事など考えずに言う。何も変わっていないみたいだが、自分がもう子供ではないんだな、とそんなことを感じる。入らないの? と母に言われ、靴を脱ぐ。今日と明日泊まって、明後日には帰る。