地獄の始まりはあっけない。
平日昼下がりのパン屋。
12時前後のピークを終え、次のピーク時である15時に向け少しばかりの休憩時間だ。
パン屋のお客さんは老若男女。
駅からそう遠くないこのお店は、学校に行く前か帰ってきた後かの自身と同年代のお客さんもくる。
そんなお店のバイトをしているのだから、恋の一つや二つ始まってもいいのではないだろうか。
まぁ、そんなに社交的なタイプではないし、積極的でもないのだから始まるわけもない。
「あの」
パンを乗せたトレーを手にしているスーツに身を包んだお客さんに声を掛けられたことでそんな考えが打ち消される。
20代前半だろうか、若く見える。
ピシッとしたスーツだが、着こんでいるのだろうか、ところどころよれている。
あぁ、この人も今の自分のようにたくさん自己分析を行い、ESを出し、面接に行ったのだろう。
もしかしたらグループディスカッションも行ったかもしれない。
そう考えると尊敬の念を感じる。
自分が何だこの客は、と思うようなお客さんもあの苦行を通ってきたのかと思うと尊敬してしまう。
年はそんなに離れているようでもないし、恋でも始まるだろうかなどど考える。
まぁ、大概が「このパンって、卵使ってますか?」とか「ここらへんのお店なんですけど、道がわからなくて」だ。
声をかけられたと思ったらそういった質問ばかり。
今回もそうだろうと『バイトの私に聞くなよ』と心の奥底で舌打ちを打ちつつも笑顔で応える。
「はーい、何でしょう?」
あぁ、どこか非現実的なことが起こらないだろうか。
変なことに巻き込まれたりしないだろうか。
現実的でもいい。恋でもしたいものだ。
今日も今日とて、暗く重たい現実に目を逸らしたいがための想像をする。
スーツ姿のお客さんは言いづらそうに口を開いた。
「あなた、ついてますよ」
「…‥‥はい?」
想像は現実となる。
ピーク時じゃなくてよかった。ピーク時なら私の顔は無表情か般若だっただろう。
忙しい時間に変なことは言うな、と。
『あなたついてますよ』???
何が??
え、もしかしてパン屑??
え、今日はまだまかない食べてないんですけども。
頭は混乱して、スーツ姿のお客さんに反応できない。
しかし、私とて3年程接客業をしているのだと、すぐに切り替えて質問をする。
「あ、あの、ついてるって。」
顔か頭に何かついていますか?
と聞くように、自身の顔や頭に手を置く。
「あ、いや…。…すみません」
「…」
何がついているのか言わないまま謝ったスーツ姿のお客さんースーツさんと呼ぼうースーツさんは黙ってしまった。
そしてレジ台に置いたパンの乗ったトレーを見つめている。
これは、先ほどの発言はなかったことにして、お会計の催促をしているのだろうか。
黙ってパンの袋詰めを始める私に安心したのか、スーツさんはカバンから財布を取り出した。
気が緩んだ隙を見て、再度質問する。
「何がついてるんですか?」
あぁ、やっぱりピーク時でなくてよかった。
ピーク時であれば、もう一度質問することはできなかっただろう。
パン屑ならそうと言ってくれ。
私の面目を守ってくれ。
次に来店するお客さんにも見られてしまうかもしれないだろう。
そう思いつつ、スーツさんのあせっている反応を見て、ついているのはパン屑なんかではないのでは、と思い始めていた。
接客業は世間話をする。
今日は暑いですね、寒いですね。雨すごいですね、気を付けて帰ってください。
知らない人であればあるほど、気楽に話せる。
初対面であれば、逆に後腐れなく話しやすいのだ。
自身に社交性も積極性もないけれど、3年も働いていれば自然と身につく。まぁ、働いている時だけだが。
これも世間話の一つだ。
しかし、目の前にスーツさんのように、思い悩んだ顔をするお客さんはいたことがない。
言い淀むスーツさんに、「まぁ、いいか。」と思い、お会計額を告げる。
「お会計450円です。」
世間話をしないお客さんの方が多いのだ。
時刻は14時。15時までのお客さんの数はすごく少なくなる。
ごくたまにピーク時のように人が集まることもあるが、今日はそんな予感はしなかった。
閑散時に、たまたまその一言を聞き、会話をしようと思っただけだ。
どうせスーツさんが退店すれば、数分から数十分はお店に一人になるのだから。
一人になった後鏡を見て確認すればいい。
500円を受け取り50円を返す。
レシート要りますか?と聞くと、首を横に振る。
自動的に出てくるレシートは捨て、パンの入った袋の持ち手を持ちやすいように広げながら手渡し「ありがとうございました」と見送る。
結局何が「ついている」のかわからぬままだ。
さて、鏡で確認しよう、と考え、店頭から奥に下がろうとした。
お客さんが来ないからといって仕事がないわけではない。
パンを焼くための鉄板掃除、トレーやトングの洗浄など、やることは山積みだ。
話している場合ではないのだ。
一人重労働の割に合わない薄給である。
「あ、あの、」
まだ店内にいたスーツさんから声をかけられたので、何かお会計を間違えてしまったのかと思い少し焦る。しかし、自分が考えていた内容とは全然違う話であった。
「肩に、あの…。ついてます」
「え」
何が。
一瞬そう思ったが、あぁ、ゴミかなと先ほどの自分の考えを思い出した。
ありがとうございますと言い、自身の肩を払うが何もついていないように思えた。
「…ゴミとか、パン屑じゃなくて、」
スーツさんの顔は少し青白い。
初めに声をかけられたときからそんな顔色だったかもしれない。
「…おばけが」
「…?…あー、おばけですか!おば、……け?」
スーツさんが何を言ったかわからず返答に迷っていると、新たなお客さんが来店した。
そうすると、スーツさんは何か、現実に引き戻されたかのようにはっとして、急いで退店してしまった。
「…」
噓でしょ。
その言葉はお客さんからの声掛けで表に出ることはなかった。
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存在は信じているが、霊感というものがない。
そのため生まれてこの方おばけというものを視認したことがない。
昔から、漫画や小説を読むのが好きで、非現実的な物に興味がある。
現実でありえないものに遭遇したかった。
だがしかし、
自身に憑いているとなると気が気ではない。
ワクワクする気持ちとともに、不安な気持ちも湧き出る。
「…くそぅ」
言い逃げしやがって、あのスーツ野郎。
沸々とどす黒い感情が湧き上がる。
スーツさんは、視える人なのか。
言いたくなさげだったのに、
なぜ、憑いてますよ、なんて言ってきたのか。
もう会うことはないだろう社会人に振り回されている自分に嫌気がさす。
やらなければならないことがたくさんあるのに。
そう、言い逃げされたようなものだ。
もう会うことはない、そう思っていたのに。
「あの、」
「…」
「増えてます…」
何が、とは聞かない。
この前は気付かなかったがスーツさんの目線が私の後ろに行っている。
私の後ろか肩におばけがいるのだろう。
意を決して誘う。
「スー…。…お兄さん、この後時間ありますか」
スーツさん、と声に出しかけて辞めた。
バイト終了まであと数十分。
空いているのであれば詳しく話を聞かせてほしい。
「え、……」
「あとちょっとでバイト終わるんです。時間があれば、そこの角曲がったところのカフェで待っててください。」
そう言ってお会計を終わらせた。
次のシフトの人に引き継ぎを終えてお店を出る。
スーツさんはいるだろうか。
もしかしたらいないかもしれないと思いながら、カフェの窓から店内を覗く。
「…居た」
タブレットを見ながら珈琲を飲んでいる姿は、パン屋のレジで慌てる姿とは大きく異なるものだ。
ウェイターに待ち合わせです、と伝えスーツさんの席に向かう。
「…こんにちは」
数十分前に会った人にどう声をかければいいのかわからず無難な言葉を選ぶ。
席に着き、飲み物を頼む。
頼んだものが来るまで、話すことはしなかった。
数分後、注文したカフェオレがやってきた。一口飲み、口の中を潤す。
「…お兄さんの、基本情報を知りたいのですが。お名前、年齢、出身地、職業をお聞きしてもいいですか」
まるで、面接で自己紹介を促すかのように聞く。
少し呆気に取られた顔をした後、そういえば何も言ってませんでしたね、と話し出す。
「…山本章友です。25歳。出身は京都で、職業は…銀行関係です」
面接でないのだから、強みや自己PRをすることはない。
人に聞くだけ聞き、自分は言わないのもなんだから自己紹介をする。
「近藤…秋香。21、大学生です。」
続けて、話の本質を突く。
「山本さんは、視える人ですか。」
目の前の人は、一瞬身じろいだ後、観念したかのように頷いた。
「あの、いつから視えるんですか?どんなやつが私に憑いてますか?山本さん、視えることを隠しているようですけど、なんで初対面の私に憑いてるなんて言ったんですか。」
視えていることを確認すると、気になっていたことを一気に聞いた。
いわゆる質問攻めである。
このお店のこの時間は穴場だ。
雰囲気はとてもよく、評判もいい。
しかし、この時間は美味しい珈琲を入れるマスターが席を外すため、あまりお客さんが入らないのだ。
現に今も私と山本さんしか店内にはいない。
普通の音量で会話すれば何を話しているか悟られることもないし、聞かれることもない。
早口の私と正反対でスーツさんー山本さんーは冷静に、ゆっくりと話し出す。
「物心ついた時には視えていました。
憑いているものの見た目は何と説明したらいいのかわかりません。
あの日、よっぽど疲れていたみたいで、思わず口に出してしまいました、すみません。」
そういえば青白い顔をしていたな、と思い出す。
例えるなら、テスト前に内容を詰め込むため2、3徹しているような顔であった。
やっぱり社会人になりたくないな、と考える。
「…山本さんって、祓えるんですか?」
おばけーなんて可愛くいっているが、山本さんの顔を見る限り、おぞましい見た目なのだと思うーは祓うものなのかどうかわからないが、聞く。
もし祓えるのであれば頼みたいし、身近な人に専門の人がいるのなら紹介してほしい。
憑かれている状態は良くない、と本で知った。
「いえ…、いや、はい、いいえ」
「どっちですか」
曖昧な答え方をするのに少しイラつき、性急に返答を求めてしまう。
生きたいと思っているわけじゃない、むしろ今、死にたい。辛い思いをする前に。
そう考えれば、別に祓ってもらわなくてもいいのか、なんて考えに行きついてしまう。
憑いた状態でもいいけれど、しんどいのはきついな。
身体が一段と重くなるのを感じた。
「祓えないことは、ないのですが」
なら一思いに祓ってくれよ。
「少し、特殊というか」
特殊って何。普通って何。
「君自身が何とかしなくては」
私自身が何とかするって何。私には何も出来ないのに。
「一度いなくなっても、またすぐに憑かれる。」
店内はシンとしている。
空調の音と、食器を片づけている音。お店の外では、はしゃいだ声、バイクの音。
そういった何気ない音に耳が敏感になる。
山本さんは沈黙を破るかのように話し続ける。
「…今、このカフェに来てこの話を始めてから、更に増えています。
…僕が憑いていると言った時から、何で憑いているのかわかっていたんじゃないですか?」
「……」
「…酷い顔ですよ」
「…山本さんさぁ、意外と酷いこと言いますよね。ほぼ初対面の女子大生ですよ。JDに向かって酷い顔とか」
優しく、諭すように話す山本さんと対照的に、明るい声で返す。
この空気から抜け出すために。
「…無理しているようにみえました。」
偶然通りかかったお店の窓から見える店員さんなんて、山ほどいる。
しかし、笑顔の奥で渦を巻くように、何かに耐えているかのような顔を見て、背後にいるナニカに気を取られ、気付けば店内に入り「憑いている」と言い放った。
「…」
この世から消えてしまいたいと。
早く死にたい。
辞めてしまいたい。全て、投げだしたい。
生きたくない。
そんな考えが止まらない。
この間でも、おばけはまだ増えているのだろうか。肩が重い。
「僕は教師でも、聖職者でもありません。君の親でもない。
だから君が死のうがどうでもいいんです。…君の言う通り、僕は酷い人間ですね。
ですが、大人にはそんな考えの人はたくさんいます。
子どもは純粋に人を傷つける。大人は不純な動機で人を傷つける。
同じことをしていてもまったく違うんです。」
大人にも、子供にもおばけは憑いている。
どんな人間でも負の感情を抱くから。
でも、憑いているモノが違う。
人によるが、子どもなら可愛い見た目のモノが多く、大人にはグロイ見た目のモノが多いらしい。
年齢を重ねれば重ねるほど、グロテスクな見た目に変化する割合が高い。
ただ、それは周りの環境によって変えられるものだ。
なだらかに変化する人もいれば、急に変わる人、グロテスクな見た目からかわいらしい見た目になる人がいる。千差万別。
「…世の中には、いろんな人がいるでしょう?」
「……」
声を発することが出来ず、ただ頷く。
「人がおばけを変えているのか、おばけが人を変えているのか、科学的な根拠はないです。ただ、人が移り変わりやすいというのは確かな事実。」
早く決めなければならない。そう思い悩んでいた気持ちが晴れていくような感覚がした。
あぁ、何て単純な人間なんだ。
「そんなに思い悩むことはないですよ。」
「人間こそ、めんどくさくて、面白い生物はいません。」
『人なんて』、そう思いながら生きてきた。
接客業は向いていないなと思いつつ、高校3年生から始めた。
これがまた楽しくて、辛いこともあったけれど、どこか報われる瞬間があった。
大学生になり、入った学生団体でも、何だこの人は、と嫌気を指す人、居心地の良い人、たくさんの人に出会った。
いろんな人と接する中、嫌な気持ちになる自分が嫌いになった。
自分なんて。
なんであの子は。
そういったどす黒い感情はあふれるばかりで、もう駄目だと思った。
この環境では私は成長できない、もう離れなくてはいけない。
そう思っているのに、離れられない。
「……たくさん悩んで失敗するのが、子どもの特権です。」
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オーナーが帰ってきてお客さんも増えたため、確かな答えは出さないまま終わった。
もう、この人と会うことはないな、そう思い顔を上げた。
…上げた……。
「…何か、視えるんですけど」
「え」
カフェを出ると、明らかに人ならざぬものがいる。
おかしい。私にそんな能力はない。
ハッと思いつきカバンの中から鏡を取り出し、自分の後ろに焦点を合わせる。
「……」
いる。視える。自身に憑いているものが。
その見た目はあまりにもグロテスクで、華のJDに憑くものではないだろうと言いたくなった。
何か考えていた山本さんが思いついたかのように口を開いた。
「……近藤さん、あなた、もしかして偽名を使いましたか?」
「え、はい」
そう、偽名を使った。
だって怪しい人じゃないか。基本情報を知ったからと言って山本さんが本当にことを言っているかなんてわからない。
安心が得られなかったから、嘘をついた。
「……僕と長い間同じ空間で話をしたこと、偽名を使ったこと。この2つが重なり完璧に見える状態になってしまったのかもしれませんね」
偽名を使うだけでは何もないのだという。
ただ、偽名を使うことに何かしら負の感情を抱いている場合、話は違う。
そして、長時間山本さんと同じ空間で話したことで山本さんの力に吸い寄せられてしまった。
しかし、山本さんはまだ納得がいかないようで何か考えている。
「……近藤さん、本名は?」
「……山本……陽菜」
「……ははっ、…なるほど」
初めてパン屋で会った時からこの人の印象はころころ変わる。
初めは、頼りのないただの社会人。
2回目ー今日ーは頼りがいのある不思議な大人。
そして今はーー
少し、怖い大人。
少し空気が変わったような気がした。
逃げたいのに足が動かない。
「君が視えるようになった原因ですが、さっき言った理由以外に、最も有効なものがわかりました。」
「……」
先ほどの、善人のようなやわらかい笑顔ではない。
影のある、わざとらしい笑顔。
今にもおばけが寄り付いてきそうな雰囲気だ。
「血が混じってます。僕と、君。」
「……山本さんって、多重人格だったりします?」
「…はは、そうかもしれませんね」
冗談で言ったものが肯定される。
まさか本当に多重人格なのかと疑ってしまう。
「山本さん」
本名を呼ばれ、返答するように見上げる。
目の前の大人は二コリと笑い、こういった。
「君の思う地獄は終わりです。…また、新しい地獄の始まりです。」