第31話 賢明な判断
高坂は鈴木の田中に対する治療への否定の意志を受け止め、少し考えてから
「判断は君に任せる。田中さんの治療を続ける気になったら、また報告してくれ」
と言った。鈴木はそれを聞いて
「はい、その時は報告します。ではそれでは失礼します」
と言って内科部長室を出た。
鈴木は病棟に戻りながら、今度は田中の夫への治療の断念に付いて話す為の心
の準備を始めた。
鈴木は病棟に辿り着いて、まず武田師長に
「田中さんの件でお話が」
と武田に話し掛けた。武田はすぐに手を止め
「どうしたの?」
と言って話を聞く準備をした。それを見て鈴木は
「実は田中さんへの治療はこれ以上継続しても効果が無いので、治療を中止するこ
とにしました」
と言った。それを聞いて武田は
「そうですか。鈴木先生がそう思うなら仕方ないですね。で、これからはどうするつもり
ですか?」
と鈴木に問い掛けた。鈴木はその問いに
「治療はもう意味が無いですから、これからは緩和ケアを行います」
と言った。
「そう、それなら担当看護師にそう指示しときます」
「色々すみませんでした」
そう言って鈴木は武田に頭を下げた。この光景を見て神田は少しほっとした。ここは緩
和ケア病棟であるから、治療はお門違いで病棟の雰囲気を壊すものだと思っていた。
神田も治療で治るなら、治療は大いに受け入れるが、治らない治療で患者達が無意
味な希望を持ち、看護師達に迷惑な振舞いを起こされたら業務に支障をきたすと、過
度に考えていた。反面、」武田は残念に思っていた。治療がすべてに於いて何の意味
も無く終わったので、せめて何らかの進歩が有ればよかったのにと残念がった。
武田は田中の看護担当チームのチームリーダーの高橋に、田中の件を伝えた。高橋
は治療中止は受け入れたく無かったが、鈴木がそう判断したのだからと仕方なく受け入
れた。こうして田中の件に関しては、病院側は治療をやめて緩和ケアで対処することに
なった。
鈴木が田中の治療の後始末的な事をしている時に麻酔科の坂本が鈴木の元にやって
きた。坂本は鈴木を見て
「田中さんの件は聞いたよ。治療をやめて正解だ。無駄に延命しても田中さんがただ苦
しい思いをするだけだからな。この件に関してはお前の判断は間違っていない。後は俺
に任せろ。麻酔で痛みを緩和させて楽にしてやるから」
と坂本なりの励ましの言葉を鈴木に与えた。そんな励ましの言葉だが、治療をあきらめ
た鈴木には、それなりに心地よく聞こえていた。
夕方になり、昼勤の看護師達は準夜勤の看護師達に引き継ぎをして帰り仕度を始め
た。鈴木はこれから田中のお見舞いに来る田中の夫に話をしなければならないから、そ
のままナースステーションに待機していた。
しばらくして田中の夫がいつもと変わらぬ感じで、緩和ケア病棟に田中を見舞いにやっ
て来た。それに気付いた看護師がすぐに田中の夫を呼び止め、鈴木から話が有ると田
中の夫を病棟のカンファレンス室に案内した。田中の夫はカンファレンス室の椅子に座り
、じっと鈴木が来るのを待った。
「お待たせしました」
そう言って鈴木がカンファレンス室に入ってきた。田中の夫はどんな用事かと鈴木の顔を
見た。鈴木は椅子に座るなり深刻な顔をして
「奥様の事ですが、精一杯頑張って治療してきましたが、これ以上改善の見込みが無い
ので、申し訳ないですがこれで治療を止めさせていただきます。」
と言った。それを聞いて田中の夫はやはりと感じて無言だった。続けて鈴木は
「治療は中断しますが緩和ケアは続けますので、このまま普通に入院のままですから、今
と変わらずで何も心配はいりませんから安心してください」
と語った。田中の夫はこのことを予期していたのか、別に落胆する訳でもなく静かに
「そうですよね。敏江ももう治らないと分かっています。だけどここまで長生き出来たのは
鈴木先生のおかげだと私共々感謝しております。今まで本当にありがとうございました」
と鈴木に礼を言った。鈴木は田中の夫に礼を言われても、喜べるような結果ではなく、ただ
黙るしかなかった。そんな中、田中の夫が深刻に
「先生、治療を続けてもらえないでしょうか?」
と鈴木に頼んだ。突然の事で鈴木はどうすればいいかわからず答えようがなかった。




