第2話 現実
鈴木は、医者としてホスピスがどんな場所か知っていた。確かに治療しても治らない、もう手遅れの
患者達を集めた病棟だと知っている。しかし、病院は常に患者の為に最善を尽くす場所であり、医師は
患者の為に全力を尽くすべきだと思っているから、カルテの記述には激しく憤慨した。だが、治らない
のならば、患者にとって治療は最善ではなく、苦しまずに死ぬことだった。医師は薬の副作用で患者を
苦しめないのが医師の義務だった。
聖マリアンヌ病院はキリスト系の病院として、患者の苦痛を和らげることを第一としていた。ホスピ
スも患者の苦痛を和らげるために設けられ、他病院からも末期がん患者を受け入れるなどして、キリス
ト教的博愛を実践していた。キリスト教徒ではない鈴木は、そのような博愛精神は持ってないから、苦
痛より治療のことを考え、副作用による患者の苦しみを軽視していた。だから前任者の薬を患者に与え
ない治療をすぐには理解できなかった。
少しずつホスピスを理解し出した鈴木はもう怒ろうとせずに改めてカルテを見だした。看護師達も鈴
木の相手をしている余裕など無いから、本来の業務に戻り出した。鈴木はカルテだけではもの足りず前
任者の業務日誌も読みだした。鈴木の前任の内科医は、ただ淡々に日誌を書いて記述を終わらせていた。
薬を患者に投与しないのなら、内科医は存在意義がなく、日誌に書くようなことはほとんどなかった。
ただ内科医は、患者を診て麻酔を打つか打たないかの判断をしているだけだった。
「君が新任者か?」
そう聞かれて鈴木は顔を上げた。質問してきたのはこの病棟の麻酔科医の坂本だった。坂本は鈴木より
10歳ほど年上で、普段は手術用の麻酔などを打っていた。鈴木は坂本の顔を見るなり
「治療しないのなら、医師は何でここにいるのでしょうか?」
と嘆くように聞いた。
「おいおい、それは君の仕事であって、僕は麻酔を打ちにここに来ているだけだよ。」
「それに治療したいなら治療すればいいのじゃないか?」
と坂本は他人事のように鈴木に答えた。医師の立場として、ここでは内科の鈴木の判断で治療が行われ
る。坂本の方が年上だが、鈴木の指示で坂本は麻酔を打つことになる。それで坂本は、患者の治療に関
しては他人事のような感覚だった。坂本に言われて鈴木も治療を考えたが、抗がん剤が患者に与える苦
しみを考えたら、治療に踏み切ることが出来なかった。
「ここの患者さんは幸せだよ、痛みさえなくなれば、自然に意識を無くして苦しまなく死ねるからな。」
と坂本の言葉が、鈴木への免罪符のように心に響いた。




