風が鳴く
テーブルの上に立ててある、写真立てが倒れた。
風もないのに不思議なものだと直そうとすると、ピンポーン、と安っぽいチャイム音が鳴った。冷えたフローリングを裸足で歩くと、体温ですぐに生ぬるくなった。
「もー出るの遅いよ」
ドアを開けると、麻理が立っている。外は灼熱で、チャイムを鳴らしてから待たされたことに怒っているようだった。お盆のこの時期は、爛々と照る太陽にうるさいセミが一層暑苦しく感じさせる。
「……久しぶりだね」
「うん、久しぶり」
麻理はにっこりと微笑む。その笑顔に早く触れたいと伸ばした右手はあっさりとかわされる。慣れたように麻理は靴を脱ぐと、俺の横をするりと通り抜け、勢いよくドアを開けた。
そこは、昨日脱いだ服、畳まず置いてあるリビングだ。端にはたまりにたまったタオルと、当然のように昨日食べたものがまだテーブルに置かれている。
「やっぱり!散らかってる!」
「男子の部屋なんてこんなもんだよ」
綺麗に越したことないでしょと、部屋の端からタオルを拾っていく。少し怒りながらいう姿が、とても微笑ましかった。サラリと黒い髪が肩から落ちる。夏らしいひらひらとしたスカートは風になびく。靡いたスカートが夏の日差しに透ければ、まるでベールのようだった。
俺は、麻理の後ろから抱きしめた。
「もう、なに?」
力一杯抱きしめれば、耳元で嬉しそうに、苦しいよと聞こえた。汗1つかいてない、サラサラとした肌に鼻をすれば、くすぐったいよと笑う。
麻理のひんやりした首筋は俺の暑さを沈めてくれた。俺は、ああ、麻理だ、と出そうになる涙を奥歯を噛み締めて引っ込める。
幸せな空間に、風鈴の音が響いた。風流とは程遠い部屋に飾られた風鈴は、景色から浮いていた。
「部屋は汚くても、ちゃんと風鈴つけてるんだね」
すこしイタズラに麻理は微笑む。そんなことしてるなら部屋片付けなさい!と、優しく頭を叩かれた。
「粋な男だからさ、俺」
「こんな汚い部屋の粋な男いないよ」
夏祭りで、麻理と一緒に買った風鈴だ。いくつもの風鈴がなる中で、この音が一番綺麗と、麻理が選んだものだった。
もう、何年前だったか。夏の夜、露店に吊るされた裸電球が麻理を照らしていた。頬を染めて、あれも美味しそう、と指を指す麻理はすぐに思い出せる。ひときわ騒がしい風鈴の露店足を止めると、これがいいと手に取った。そんな沢山の音の中からいい音が分かるの?と聞いたら、これが良いの、と不貞腐れた。
浴衣から伸びる首と後れ毛は色っぽく、は釣り合いに無邪気な笑顔は、とても好きだった。
「……麻理らしくて、可愛い色だから」
そういうと、キョトンとした顔でこちらを見る。まるで珍しい動物を見るかのように、目をまん丸にしていた。
「健、いつからそんなロマンチストになったの?」
「いつもだよ」
「うそだね」
まとめたタオルを洗濯機に放り込むと、手際よく洗剤を入れてスイッチを押す。テーブルに広がった惣菜の空の容器も、一気にガサガサと捨ててしまう。あれだけ散らかっていた部屋が、もう綺麗になりつつあった。
「麻理はいいお嫁さんだね」
「もう、健も手伝って。健の部屋なんだよ!」
「はいはい、ごめんごめん」
部屋が綺麗になった頃、やっとソファに座って麦茶を出す。氷のぶつかる音が一層涼しげだった。麻理は俺の方に寄りかかり、満足そうに綺麗になった部屋を眺めて微笑む。
「ありがとう、綺麗にしてくれて」
「ほんとだよー、綺麗にしないと女の子連れ込めないよ?」
「連れ込まないし、それ麻理が言う?」
「ふふ」
そうでした、と笑う麻理はなんだか嬉しそうだった。その笑顔がなんとも愛おしい。その細い体が、ここからいなくなくなってしわまぬよう、力一杯抱きしめらる。
「こんな夏で暑いのに、今日はくっつくね」
「……いいじゃん、たまには」
「どうしたの?なにかあった?」
「なにも」
そういうと、麻理の細い首筋に唇を落とす。ひんやりとした肌がピクリと跳ねた。細くて、か弱い首に何度もキスをする。たまに食んでみたり、頬をすってみたりした。いくら強く抱きしめても、まだ足りない。久しぶりの麻理を、堪能するように抱きしめる。
「麻理……」
「ん〜?」
「会いたかった……」
「……私も会いたかったよ」
麻理の小さい手が俺の頭を撫でる。また一層強く抱きしめて、今度は唇にキスをする。もう何回もしているはずなのに、すこし照れ臭そうに笑う麻理は綺麗だった。おでこ、頬、耳、首、麻理を確かめるように唇を落としていく。麻理はくすぐったそうに、嬉しそうに笑う。
久しぶりの心地よい麻理の声に、うっとりと頬をする。
「愛してるよ」
「私も」
優しくソファに寝かせれば、これからする事を想像してなのか両手で顔を隠す。胸が締め付けられる。愛おしい、ただそれだけの感情だった。前髪をかきあげておでこにキスすれば、両手の指の隙間から大きな目が、すこし困り顔でみている。頬を撫で、手のひらにキスを落とす。
「麻理」
ギュウとまた力一杯抱きしめる。服を脱いで抱きしめても、まだ足りないくらい、くっつきたくて、いまは皮膚さえ邪魔だと感じるほど、1つになりたかった。何回愛してるといえば伝わるだろうか。何度と言ったって、きっとまだまだ足りない愛の言葉を降らせていく。いくら言っても足りない、いくら抱きしめても足りない。会えなかった期間を言葉で埋めるように、触れ合えなかった期間を埋めるように。
「……麻理」
一糸纏わぬ姿になった麻理の滑らかで白い肌はいつみても綺麗だった。それを確かめるように俺の節々しい手で撫でる。ああ、麻理だ、麻理がいる、と嬉しくて泣きそうだった。その懐かしいサラサラした麻理の肌に、汗ばんだ俺の手は不釣り合いだった。そんな手をとって、麻理の小さな唇がキスをする。麻理は、ふふ、と楽しそうに笑う。綺麗な姿の麻理と、後ろには可愛らしい風鈴がある。リン、と鳴る涼しげな音色はは、このすこし生々しい部屋に不釣り合いではあるけれど、とても綺麗に響いた。
「……幸せだ」
カーテンから透けた木漏れ日を映す麻理は綺麗だった。ずっと、この景色を見ていたい。なんとしてもこの目に焼き付けようと、麻理を見つめる。恥ずかしいよと笑う麻理も、肌に感じる心地よさも、心をギュウと締め付ける。麻理の綺麗な頬に、一粒水滴を落ちた。涙なのか、汗なのか。暑い部屋に吹く風に揺れる風鈴が、部屋に響く。
俺は、露店にいた。たこ焼き、やきそば、焼きとうもろこしにわたあめ。賑わっている露店は、人でごった返している。キョロキョロと見渡しても、顔見知りはいなかった。
「健」
聞きなれた声に振り向くと水色の浴衣に身を包んだ麻理がいた。片手には風鈴をもって、嬉しそうに微笑んでいる。にっこりと微笑む麻理は、顔の横で風鈴を揺らしてリンリンと鳴らしていた。可愛い、綺麗な風鈴を買ってご機嫌というような感じだった。
「ふふ」
「1人でいたら、はぐれるよ」
「んーん、大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ」
そう言って手を伸ばすと、麻理は、切なく苦しそうな顔をして笑った。顔を、横に振る。ザワザワと騒がしいはずなのに、他の人には靄がかかったみたいに麻理だけがはっきり見えた。はっきり聞こえた。
「麻理?」
人と人の隙間から伸びてきた片手には、風鈴を持っていた。渡してきたのだと思い風鈴を受け取ると、麻理の腕はまた人混みに消えていく。
「その音を頼りに、健がわかるから」
大丈夫なの。そういうと、人混みに紛れてもう麻理がどこにいるか分からなくなった。人の流れの中に、麻理はにっこりと微笑んで手を振っていた。雑踏の中、麻理の振る腕と、風鈴の音だけが俺の中に残る。
「割らないようにね」
「待って」
「じゃあね、健」
「麻理!」
行かないで、そう言い終わる前に、目が開いた。伸ばした手は空をかき、見慣れた天井はもう暗かった。ああ、またこの夢かと、深い息を吐いた。
ただ、遠くでなく蝉の声だけが部屋に届いていた。麦茶の氷は溶けきっている。となりで抱きしめているはずだった麻理は、もういなかった。勢いよく起き上がると、ソファが軋んだ。
「……麻理?」
ソファから体を起こせば、飲んでいない麻理の麦茶だけが残っている。結露がテーブルを濡らしている。忘れ物なんて1つもない、あるのはただ麻理の残り香だけ。キョロキョロと見回せば、ただ綺麗に片付いた部屋だけが目に入った。
横目でチカチカと光る携帯が目に入った。液晶に出ていたのは、懐かしい同級生の名前だった。
「……もしもし」
『あ、もしもし?健?お前またお盆帰ってこねーの?』
「……ちょっと忙しくて」
『お前去年もそう言って……』
「仕事なんだよ」
『仕事仕事って……』
しょうがないだろ、とぶっきらぼうにいうと、電話の向こうの同級生はすこし怒り気味に言った。ため息を吐いてソファに座ると、伏せてある写真立てが目に入る。そうだ、まだ直してなかった、とテーブルの上の倒れた写真立てを直すと、そこには満面の笑みの麻理と俺がいる。何気ない、日常の一枚だった。
『麻理ちゃんの墓参り、しなくていいのかよ』
もう撮れない、一枚でもある。
シンと、少しの沈黙の間、電話の向こうでセミがけたたましく鳴いていた。窓から生ぬるい影が吹いて風鈴を揺らす。全く声を発さない俺に、まずいことを聞いたと思ったのか、慌てたような声で友達は話し始めた。
『……ごめん。仕事忙しいんだろうけど、たまには帰ってこいよ』
「……ありがとう」
部屋に風鈴の音が響く。夜の黒と月の白を透かしたガラスは、とても綺麗だった。
麻理は、5年前、交通事故で居なくなった。
麻理がいなくなってはじめての盆。麻理が死んだことを認めたくなくて、墓参りにはいかなかった。だって、昨日まで隣で笑っていたのだから。
そんな中、ドアを開けると麻理がいた。どうしたの、そんなに泣きはらした目して、と笑っていた。……いつも通りの笑顔だった。俺が驚いたのは、いうまでもない。何度も頬を叩いて、つねって、夢ではないかと確認した。泣いて、泣いて、嬉しくて、幸せで。一生離すものと抱きしめて寝たが、朝にはいなくなっていた。2度、麻理を失った気分だった。
それから、毎年麻理はお盆に会いに来てくれる。去っていく絶望、現実ではないのだという虚無さえ我慢できるほど、会えること奇跡だった。……会えるだけで、幸せだった。幸せだと思っていたい。
「……綺麗な音」
俺は後悔した。なんであのとき守ってやれなかったんだ。あの日出かけなければ。なんでもっと一緒に居てやれなかったんだ、抱きしめなかったんだ、素直に気持ちを伝えなかったんだ。ただ毎日、好きだよと伝えれば何倍もあの笑顔が輝いただろうに。
毎年お盆に現れる麻理は、後悔を晴らしたい悲しい虚しい自分の幻想なのか、本当に麻理が会いに来てくれているのか、わからない。引き止められるなら、ずっと引き止めておきたい。連れて行ってくれるなら、連れて行ってもらいたい。
引き止めようと、付いていこうとするも、いつの間にか目の前からいなくなっている。まるでおとぎ話のようだと馬鹿みたい苛立った日もある。
俺を訪れる麻理が、悪霊だっていい。俺の幻想だっていい。周りから頭がおかしいと言われようが、麻理に会えるのであれば、俺は何だってよかった。
「麻理……」
たった1年に、1度だけ会える日。せかせかと部屋を片付ける姿はまるで思い描いていた結婚生活ようで、前日にわざと散らかす部屋も虚しい行為だった。ただここに残っているのは、綺麗に片付いた部屋と風鈴だけ。
手のひらを涙で濡らし、大の大人が嗚咽を漏らす。いくら目を擦っても、涙は止まってくれなかった。ぐずぐずに濡れた顔は、麻理に見せられないなとどこか頭の片隅で思う。いくら息を整えようと深く空気を吸っても、胸に突っかかって肺に入っていってくれない。
「……会いたいよ……麻理……」
風鈴の音だけが部屋に響いた。