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第2話

アフガニスタン、パキスタンとの国境付近のとある街。


雲のない澄んだ大空。

広大な砂の大地。

地平に連なる山脈の土肌の稜線。

目も眩むほどの陽光が乾いた地表に容赦なく照りつける。

揺らめき立つ陽炎の向こうから、

アスファルトがめくれあがった道なき道を、一台のSUVが砂塵を舞い上げながら走って来る。

それに気付いた翡翠色のヒジャブ(頭巾)を被った女性が往来の中程までやって来て、走って来る車に向かって無我夢中で両手を振った。


車は凸凹道でバウンドしながら、俄かにヘッドライトをパッシングして速度を下げた。

女性は手を振るのをやめて、後から出て来た髭の男たちに何やら指示を送った。

車は彼らに誘導されるかたちで、元はアーケードだったらしい廃墟地帯の中へと入って行った。

殆どの建物は半壊若しくは全壊していて、とても人が住める状態ではない。

その中にポツンと建つ粗末なトタン製のバラック小屋。

ヒジャブの女性や、髭の男はこの小屋に隠れ住んでいるに違いなかった。


車の中からは、最初に痩せ細った少年が降りて来た。

「連れて来たよ、本物の医者だよ」

そんなような事を叫びながら家族のもとへと走り寄ると、母親らしきヒジャブの女性へと抱きついた。

続いて車を降りたのは、日本人医師の安地元(あんちはじめ)だった。


「“息子が死んでしまう”と言っている」

女性の悲痛な嘆き声を、彼と同時に車を降りた運転手の男が冷静に通訳した。


「診せて、患者は?」

という安地を、女性の夫らしき髭の男性が小屋の中へと案内した。


室内は昼間とは思えないほど暗かった。

窓など灯をとるものは一切なく、壁のトタンにところどころ空いた虫食いのような穴から外光が小さく差し込むのみであった。そこら中に充満する砂埃を伝い糸状に伸びた光は、礼拝用なのか部屋の中央に敷かれたカーリッシュ絨毯のアラベスク紋様を浮き彫りにしていた。

そこに雑然と置かれた土気色の毛布の塊があった。

髭の男は先んじて床へ中腰に伏すと何やら毛布を広げ始めた。

毛布の中から現れた赤ん坊は、生後3ヶ月ほど、

浅黒い顔で白目を剥いて、ポカンと口を開けたまま頻りに痙攣(けいれん)を繰り返していた。

その裸体を包む衣服代わりの白い綿布には、嘔吐の跡が点々と黄色くシミになっているのが見えた。

── 栄養失調から来る重度の低マグネシウム血症──安地は一見してそう診断し、すぐにペンライトをその円らな瞳に照らしてみるが、瞳は光を追おうとはしない。

聴診器を赤ん坊の身体に当ててみる。

「心音は微弱だ」

急ぎ注射を施し、

すぐ心マッサージを施したが、赤ん坊の意識は一向に戻る気配はなかった。


心配そうに見守る赤ん坊の両親や家族たちが運転手へ何やら詰め寄っていた。

「──ドクター、“どうか、助けて欲しい”と言っている」


「当たり前だ、何故こんなになるまで放っておいた── 」


「我々は難民キャンプにいる連中とは宗派が違う、キャンプに行くのは危ない、だから隠れた」


赤ん坊の父親が、運転手の口を借りてそう訴えた。


「とにかく急いで医療設備のあるキャンプまで搬送する、こんな場所じゃ、赤ん坊は時間の問題だ」


安地は、難色を示す両親を尻目に、毛布ごと裸の赤ん坊を抱えあげた。


次の瞬間、錆びたトタンの屋根を突き破りロケット弾が部屋の中へ飛び込んで来た。


「伏せろ」

安地は咄嗟に赤ん坊へ覆い被さった。


白い閃光。


紅蓮の炎。


弾頭は爆発したのだろうが、安地の耳にその爆音は聞こえなかった。


何もかもが爆風で吹き飛んで、後に残ったものは何もない。



視界は、一瞬にして炎と煙に覆われ、真っ暗な深い闇の中。



パキスタン、ペシャワールの病院。


全身を包帯でぐるぐる巻きにされた安地(あんち)(はじめ)は、大量の汗で湿り気を帯びたベッドの上で目覚めた。


「── あの爆発の中で、よく生きていたもんだ」


意識を取り戻した安地の耳に、

そんなフランス語が響いて来た。


「ステファン──」


安地は薄目を開けて、ベッド際に立つブルネットのフランス人男性を眺めた。


「──赤ん坊は、運転手は、あの家族はどうなった?」


安地の視線を受けながら、フランス人医師のステファンは終始無言で、ただ首を横に振った。


「そんな、誰も助からなかった?」


「君だけが奇跡的に助かった──それと、赤ん坊も君の腕の中で死んでいたって──」


そんなステファンの言葉は、耳鳴りの酷い赤く爛れた安地の耳でも、不思議と聞き取る事が出来た。


「日本の外務省から君に帰国命令が出ている、我々MSFもヨルダンへ人員を割くためにキャンプの再編を行う予定だ、合衆国がイラク侵攻を開始するらしい、“タツミ”って人からの電報だ」


ベッド際で書類を広げながら説明するステファンの声が、どこか遠くで響いた。


「イラクだって、テロの報復でアフガンを侵攻しておいて、なぜいまイラクなんだ──」


安地は、大きく溜息をついた。

まるで身体全部が深い水の中に沈み込んでゆくようだった。

その視界はゆらゆらと揺らめいて、やがて、凡ゆる物質に彩りを与えていたはずの陽光すらも、迫りくる洪水の中へと飲み込まれて行くようだった。





成田からのシャトルバスが東京駅八重洲口に着いた。


安地元(あんちはじめ)は、大きめのスーツケースを引きずりながら、駅の中へと入って行った。


八重洲口は大規模な改修工事の真っ最中で、通路がまるで迷路のように入り組んでいた。

3ヶ月前にここを訪れた時とは、駅の表情がまったく違っていた。

東京は、何かに追い立てられるように日々変わり続けている。

至るところでこんな大規模な建築工事が進んでいる。


平日の人混みの中、頭ひとつ出ている安地の肩に平気でぶつかってくるサラリーマン。

怪訝な顔で通りすぎて行く大勢の人々。

その誰もが、まるで何かに追い立てられているようだった。


アフガニスタンの乾いた風、砂埃の匂い。

不衛生な難民キャンプで暮らす人々の精一杯の笑顔がふと脳裏をかすめた。


「まるで別世界だ」



豊かさを享受しながら不幸そうな形相を浮かべ働く人々。

豊かさを知らず日々の糧を模索する人々。

ほんの20時間と少し前まで、安地は内戦のため国全体が荒廃してしまったアフガニスタンに居た。


毎日どこかで銃声が鳴り響いていた。


改札付近の切符売り場の前で、安地がぼんやりと路線図を見上げていると、背後から彼を呼び止める声があった。


「安地?」


振り返ると、青い半袖のワンピースを着た髪の長い美しい色白の女性が立っていた。

安地はパチパチと瞬きをして、何やらふくれっ面で自分を睨みつけているその女性に見入った。


「……まさか、“婚約者(フィアンセ)”の顔も忘れた?」


(みお)か?」

安地は婚約者と聴いて合点がいった。


「いや、ごめん、あんまり綺麗になってたから、見違えた──」


彼のそんな素直な言葉に、澪は少々頬を緩めたが、また思い出したように眉間にしわを寄せた。


「なぜ、電話に出ない!」


澪に怒鳴られて、安地は徐に二つ折りの携帯電話を開いた。


「ああ、ごめん着信、10回も──」


「今日帰って来るって言ってたから、空港まで迎えに行ったんだよ、」


「ごめん、」


「シャトルバス追跡しちゃったじゃん」


「ごめん」


「いっつも、そうじゃん──毎日電話するって言ったくせに」


「ごめん」


「心配したんだ、こっちは──キャンプが襲撃されたって聞いたから」


「キャンプじゃないよ、俺が病気の子供を診に行くのに、キャンプから離れたから襲撃されただけで──ほら、どっこも何ともないだろう、ピンピンしてる」



安地は、笑顔で両手を広げ、澪に体を見せつけた。


それを見た澪は、人目もはばからず泣き出してしまった。

俯いたままその場にしゃがみ込む澪を、

安地はどうしたものかと狼狽えながら、とりあえず自分も同じように跪坐いて彼女の頭を撫でた。

その手が振り払われると、今度は恐る恐るゆっくりと抱き寄せた。


「はいはい、ごめんね、俺が悪かったよ、許して──」


安地は、優しく囁きながら、嗚咽を漏らす澪の背中をさすった。


「うぇ、うぇ」


「うぇ?」


「ウェディングドレス、着るのに、ダイエットした──」


澪は、声を震わせながら安地の顔を見上げた。


「あ、それでか、3か月前よりずっと綺麗になった、一瞬気づかなかった」


「努力したよ──それじゃ3か月前はブスだったみたいじゃんか──」



「3ヶ月前は3ヶ月前で可愛いかったけど、今の方がもっと綺麗だってことだよ」


「ふーん」


安地は片手にスーツケース、もう片方の手で澪の肩を抱きながら、再び八重洲口を出た。


晴海通りに待たせてあった車に乗り込むと、澪は打って変わって人目を気にし始めた。


「後で、2人きりで少し話がしたいの」


「今は?」


安地がそう尋ねると、澪は運転手の方をチラチラ見ながら無言で首を横に振った。


「これから、新宿のレストランを予約してあるの」

澪はしれっと話題を変えた。


「レストラン?」

安地はあからさまに表情を曇らせた。


「医学部の同窓会も兼ねて、みんな集まってるのよ、みんな久しぶりに安地に会いたくて集まってくれるんだから、そんな嫌な顔しないでよ」


2人の乗せた黒塗りのセンチュリーは一路新宿を目指し首都高都心環状線へと入って行った。






西新宿にある箱型のその店には看板はなかった。

突然、扉がグイと開き中から派手な花柄のシャツの男が耳障りな高笑いを発しながら店の外へ踊り出て来た。

それに続いて銀のスパンコールだらけのドレスの女性が現れ先を行く男にヨロけながら抱きついた。酔っているのかこれまた大声で笑って男の名前を呼び続けている。

澪と安地は、開いた扉口から漏れ聴こえて来た軽快なダンスミュージックの重低音に耳を疑いながら、店を後にする男女を目で追った。


「澪、“レストラン”って言ったよな──」


安地がポツリと言うと、

澪は、自分の地味な服装を確認しつつ、コックリと頷いた。


「──やっぱやめておこう」

安地がそう踵を返すと、澪はすかさずその腕を取った。


「なんでもいいじゃん、みんな待っているんだから」


「何かの間違いだよ、こんなどう見てもレストランじゃないよ」


色々文句を言って帰ろうとする安地を引きずるようにして、澪は店の入り口まで来ると、そこに立っていた黒服のボーイらしき男へ臆せず話しかけた。


「“小林”で19:00から予約があると思うんですけど──」


「はい、小林様、──」

黒服の男は耳につけたインカムのマイクで店内へ確認した。


「──この店じゃないよ、絶対!」

と声を荒げる安地をよそに、

黒服の男は、澪へ満面の笑みを向けた。

「お待たせ致しました、ご予約頂いてございます、小林様とお連れ様はすでにご到着で、店内でお待ちです、テーブルまで店の者がご案内致します」


「ほら──」

勝ち誇った顔の澪は、戸口から顔を出した別の黒服の男の後をホイホイついて行ってしまった。


店内からは、聴く者を急き立ててるだけのような無機質な電子音のリズムが振動となって漏れ聞こえて来ていた。

安地は、この手の日本製のダンスミュージックがすこぶる苦手だった。

彼は、夕闇に浮かび上がった黒く四角い箱のような建物をあらためて見上げると、まるで雪解け水を多く含んだ春先の滝を目前にして滝行へ臨む覚悟をする修験者のように、深く深く深呼吸をしたのだった。






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