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糸の魔術師

作者: 宝探しの靴

「ヒウラ・フォンアウト、本日付で王都都政室よろず課課長に任命する」


 24歳のヒウラは呆気にとられていた。ヒウラは王都特別区のいち職員である。朝出勤するやいなや、都政室への出張を命じられた。何ひとつ説明のないことに疑問を持ちはしたものの、下っ端役人としての返事は「承知しました」以外にはない。驚くべきことに、都政室に到着すると都長秘書の出迎えを受けた。そして、普段は決して通されることのない奥へと案内された。足が沈むような柔らかな絨毯を踏み歩いた。見るからに重厚な扉の前に立った。都長秘書にうながされ、ヒウラひとり、その扉から中に入った。見慣れない上質な応接セットが目に飛び込んできた。そこからいきなり冒頭の一言に見舞われたのである。


「フォンアウト、座れ」


 そう命じた男をヒウラは知っていた。上質なソファに負けることのない瀟洒な存在感を放つ彼の名はシュロ・ターク。アイスブルーの冷え冷えとした眼光、肩までのプラチナの髪をきれいになでつけ、後ろでひとまとめにしている。ダークスーツと相まって嫌味にすら感じられる怜悧な印象。シュロは、その印象を裏切らない頭脳の持ち主であることをヒウラはよく理解していた。

 事態を読み込むことを諦め、ヒウラはシュロの手が示す彼の向かいのソファへと腰を下ろした。シュロは満足そうに目を細め、再び口を開いた。


「王都都政室よろず課は王都都民の要望に応じる何でも屋に相当する。しかしながら、よろず課を王都都民に大々的に打ち出すことはしない。広報しないのであるから、それほど荷が重い仕事は来るはずもない。課長として細々と担うがよい。それはあくまでも表向きの業務である。さて、ここからは王国参謀室における密命となる。他言無用」


 展開が早い上、物騒な話になってきた。ここは王都都政室であるが、シュロは王都の役人ではない。シュロは王国参謀の一員なのである。ヒウラは警戒した。しかし、警戒したところで成すすべなどない。この部屋にはヒウラとシュロ、二人しかいない。話は唐突なままシュロのペースで進んでいく。


「失われし『糸の魔術』の再現が、この課の本題である」


 シュロは一旦言葉を区切った。ヒウラは真剣な顔を崩しはしなかった。聴き返しもしなかった。シュロはヒウラの反応を受け、満足そうに頷いた。


「では続けよう。我がグレア王国は数々の戦火をくぐり抜け、発展を遂げ、今日の繁栄を築きあげた。次の年は記念すべき建国300周年を迎える。記念すべき時期に当たるわけだが、このところ、隣国デルゲル王国の動きが実にきな臭い」


 ヒウラは黙って聞きながら話の行く末を待った。シュロは細長い指を左右組み合わせ、組んだ膝の上に乗せながら続けた。


「隣国デルゲル王国は、魔術を武力とした威嚇行動を最近繰り返している。かつての戦争において、各国で多くの魔術師が死に、魔術は衰退した。しかし近年、デルゲル王国では魔術の復興が成し遂げられつつある。非常に危険かつ目障りなことである。そこで」


 シュロの右の口角が上がった。ろくな話ではないことをヒウラは直感した。


「対策の一環として、我が国固有の魔術を復活させるという計画が打ち立てられた。古来の魔術、すなわち『糸の魔術』。今回はその計画の一部を命ずるために私が足を運んだ。フォンアウト」

「はい」

「都政室よろず課課長として王都都民に尽くす働きを隠れ蓑にしながら、糸の魔術を復活させよ。糸の魔術の復活は貴様にとって最優先事項となる。手段は問わない。特別区の職務は解任。都政室に部署を設ける。よろず課として必要があれば人材は自分で集めなさい。予算はこの後提示する。糸の魔術についてはこちらで入手している限りの文書を渡す。何かあれば私に電話を。尚、この件を知っているのは王都幹事長以上である。何か質問は」


 シュロがわずかに顎を上げて問いかけてきた。ヒウラは言うべき答えを知っていた。


「ありません」

「よし。以上」


 シュロは、ソファの横に置いてあったブリーフケースを丸ごとヒウラに差し出した。ヒウラがそれを粛々と受け取ることで、話は短時間のうちに終わったのであった。




 シュロとヒウラは王都学院時代の先輩後輩の関係にあった。6歳から入学する全寮制の学院であるが、5歳年上のシュロはヒウラにとって畏怖の対象であった。天才肌であり優等生ではないシュロであったが、どうしたことか真面目で平凡で地味なヒウラをいたく気に入った。「口は固いし、裏切らないし、一途だし、かわいい」シュロはそう言って何かとヒウラを連れ回した。シュロの無茶な命令にヒウラが必死に応じ続ける学院生活であった。「ヒウラといると退屈しない」シュロはしばしばヒウラの茶色い髪をぐしゃぐしゃと手でかき乱した。シュロが18歳で学院を卒業するとヒウラの生活は一変した。毎日が平穏で髪が乱れることもなくなった。

 今回のことは、シュロの学院卒業後、連絡を取り合うこともなかった二人が、およそ10年の空白を経て再会した場面なのであった。ヒウラも背が伸び、長身のシュロと変わらぬ上背となっていた。茶色の目とアイスブルーの目が並ぶ高さで視線が重なることは新鮮な感覚であった。しかし、ヒウラは変わらぬ関係性を理解した。そうであることに反発心ひとつ湧かないというのはよいことなのかどうか。シュロの話全般、端折られ過ぎていてよく分かりはしなかった。しかし、分かりましたと返事をして、後は察する以外にないのである。


 隣国デルゲル王国への牽制のため、『失われた糸の魔術が再現された』という事実が欲しいのだろう。糸の魔術の再現は隣国対策のごくごく一部である。その魔術の再現にもさまざまな手立てが講じられていて、今回ヒウラに来た話はいくつもある手立てのうちのひとつに過ぎない。学院でヒウラが魔術の歴史を研究していたことをシュロが思い出したのか。ヒウラであれば言いなりになるだろうし、万が一失敗があっても犠牲としては小さいとも読んだに違いない。隠れ蓑としてのよろず課など、シュロの面白半分が混ざっているようにも感じる。一度そういうことかと思うと、そうとしか思えない。優等生ではないシュロが、国の重要事項に悪ふざけを盛り込むなどありそうなことだ。実際の魔術再現について、ヒウラには大して期待もしていないのではないか。


 ヒウラはそう考えた。そうであっても特に異論はなかった。与えられた職責をまっとうするということは、ヒウラの性質に合っていた。やるべきことを真面目にやる、それがヒウラという男なのであった。

 




「何であたしがやんなきゃなんないわけ。めんどくせー」

「頼むよ」


 都政室よろず課は、王都都民のなんでも相談担当という位置づけで開設された。都政室の隅の隅の隅にひっそりと一席設けられ、課長一人という無茶な配置なのであった。開設したことを王都都民に広報すらせず、役人が「これはうちの仕事ではない」と困った時にまれに思い出して、相談事を投げ渡す場となった。表向きやることがほとんどないため、課長ヒウラは糸の魔術についての文書を読み込んで解析する裏業務にいそしんでいた。そして、まれに投げ渡された相談事に対応するという日々なのであった。

 今日はその、まれな相談事のため、ヒウラは幼馴染のナムナルを呼び出した。ナムナルはヒウラの家の裏手に住んでいる3つ年下の女である。黄色いネイルをなでながら、つけまつげに縁取られた丸い目をパチパチさせてやってきた。緩く編んだ茶色の髪はラフであるが、メイクは隙なく仕上がっている。胸が強調されるような小さめのTシャツにジーンズという姿での登場であった。


「電話でも話したけど、16歳の女性、病気がちで家を出られないから話し相手が欲しいんだって。ナムナル、話すの好きだろ? バイト代は規定通りに出す。やってくれないか」

「家事手伝いで忙しいんですけど」

「おばさんがナムナルはヒマしてるって」

「ちっ。余計なことを。んで、何? しゃべるだけ?」


 しゃべるだけである。これが好評だった。ナムナルは王都学院を中退して以来、家事手伝いと称しフラフラ生活していた。ひと所で長く働くことはなく、あちらの手伝いこちらの手伝いと渡り歩いた。ナムナルは意外と器用に何でもこなした。また、こだわりのない気軽さで誰とでもコミュニケーションをとり、話すネタは尽きないタイプなのであった。そんなナムナルである。結果、口コミで「話相手ナムナル」の顧客は増えていった。


「ねえ、ヒウラ」

「うん?」

「あたし、ヒウラの部下ってことでいいの?」

「いや、そういうわけでは」

「そういうわけなんで。あたしの席どこよ」


 都政室よろず課に、いつの間にか課員が増えた。秘密厳守の裏の仕事がやりにくいとヒウラは思った。しかし、ナムナルは存外有能で、飛んでくる相談事をサクサクとさばいていった。王都都民から「ありがとう」というお礼の声が届くようになった。これはこれで悪くはないとヒウラは思い直したのであった。




 ある時、「古寺の奥の間から夜な夜な幽霊のうめき声がするので何とかほしい」という依頼が、よろず課に寄せられた。それはよろず課対応の範疇なのかとヒウラは首をかしげたが、有能なナムナルは「やるっす」と返事をした。たらい回しの誹りを受けるのもよろしくないと断るわけにはいかなくなった。早々にヒウラとナムナルは、古寺で現状確認をすることにした。依頼のあったその夜のことである。


 使われなくなって久しい古寺は、ところどころの板が腐り、危うく踏み抜きそうになる有様であった。ライトで照らしあげながら、明るいうちに確認していた動線を辿り、奥の間へと向かった。奥の間は12畳ほどの広さの板の間であった。ヒウラとナムナルは腰を下ろした。


「そろそろ時間じゃね?」

「ああ。もう少しで幽霊の声が聞こえると言われる時間が来る。ナムナル、腹は減ってないか?」

「はあ? お前、このタイミングで何の話してんの?」


 ヒウラはスーツの上着を脱ぐと、向かい合うナムナルの膝にかけた。


「何これ」

「夜は思うより寒いだろ。貸す」


 ショートパンツのナムナルは何かを言いかけて口を閉じた。つけまつげが揺れた。

 ヒウラは小ぶりのボストンバックから握り飯を取り出した。


「やるよ」

「はあ? 何それ。まさかの手作り?」

「まあな」

「まじか」


 ナムナルは一度身を引いた後、体を戻した。そして、ヒウラの握り飯を受け取った。ナムナルは水色のジェルネイルに彩られた指先で、握り飯のラップをほどいた。ナムナルが握り飯にかぶりつくと、ヒウラはシャツの袖をまくりながら言った。


「ナムナルには感謝してる」

「はあ? お前、どういうタイミングなんだよ、だから」

「よろず課のこと、俺だけではやりきれなかった。ナムナルに声をかけてよかったと思ってる」

「おう。そう? うまいよ、これ」


 ナムナルは少し頬を赤くした。

 ヒウラは腕時計を見た。


「そろそろだ」


 部屋の一番奥の板壁がみしりと鳴った。ヒウラは左手を向き、向かい合わせのナムナルは右手を向いて、その壁を見た。内側に盛り上がるように、ミシミシと壁は鳴った。ナムナルの手から食べかけの握り飯が落ちた。


 キエーキエーンキエーン


 壁の奥から何者かの声が近づいて来た。板壁は板とは思えぬ柔らかさでしなり始めた。溶けた鉄のようにぐにゃぐにゃと壁は波打ち、その奥から泣いているようなうめいているような恐ろしげな声が迫ってくるのであった。


「マジのやつだ。マジでやべえヤツ来た」


 ナムナルは無意識に膝にかかるヒウラのスーツを握りしめた。


「ちょ。立てねえ」


 ナムナルは腰を抜かして青ざめ、涙目でヒウラを見た。ヒウラは波打つ壁をじっと見ていた。


「これは本当のことなのか」

「お前、その無駄に冷静なの、何なの?」

「そこに誰かいるのか」

「おい! 何やってんだ!」


 ヒウラは立ち上がり、悲鳴のような声が迫る波打つ壁に向かった。ナムナルは焦った。


「バカ! ヒウラ! 行くな!」

「何かいる」

「ヒウラ!」


 ヒウラはゆっくりと一歩ずつ壁に向かった。ヒウラがじっと見つめる先に、ごくわずか、切り傷のような板の裂け目があった。声はそこから響いてくるようであった。ヒウラが目を凝らすと、空間の歪みのような裂け目の奥に、声の主なのだろうか、生き物のような影がチラついて見えた。


「ヒウラ! 離れろ! そっち行っちゃだめだ!」


 ナムナルは這うようにしてヒウラに向かった。死に物狂いで手を伸ばし、ヒウラのズボンの裾を握った。ヒウラはそれに気がつかないほど集中していた。何かに憑かれたように、ヒウラは裂け目に両手をかけた。


「ふん!」


 ヒウラは力の限り裂け目をこじ開けようとした。

 ドンッ

 裂け目に内側からぶつかってくるものがあった。それは裂け目の外に出ようとするかのように、何度もぶつかってきた。


 キィーキィーキィー


 激しい声が伴っていた。ヒウラは力を込めた。


「出たいのか」

「バカ! やめろ! ヒウラー!」


 ナムナルは泣きながらヒウラのズボンの裾を引いた。ナムナルの腕に力は入らず、ヒウラは揺るがなかった。ヒウラは額に汗をにじませながら、裂け目を左右に引っ張った。裂け目はいよいよ縦30センチメートルのアーモンド型にまでなった。内側から体当たりする何者かの感触が、ヒウラの手に伝わり始めた。それは長めの体毛らしき感触であった。


「獣か」

「ヒウラ! テメエ! いい加減にしろ!」


 ナムナルの悲鳴虚しく。ヒウラはおもむろに右の手を裂け目に突き入れた。ヒウラは体当たりする物体の体毛をつかんだ。柔らかな感触だった。どうにも頼りない手触りだったので、もう少し踏み込んで体表ごとがしりとつかみ上げた。


「うおおおお!」


 ヒウラは平素の彼らしからぬ雄叫びをあげて、裂け目から物体を引き抜きにかかった。左手も差し込み、物体を抱え込んだ。革靴を履いた右足を振り上げ、壁に踏ん張った。ズボンの裾をつかんでいたナムナルは、手を振りほどかれてしまった。ナムナルは緩く編んだ髪を振り乱して、ヒウラの腰にしがみついた。歪んだ裂け目は内から外へとめくれてゆき、徐々に亀裂を大きくした。ヒウラは腕の中に赤褐色の毛むくじゃらを抱き込み、裂け目から引きずり出そうとしていた。


「来い!」


 ヒウラは手ごたえを感じた。その時はあっけなく訪れた。赤褐色の毛むくじゃらは、すぽんと裂け目を抜け出た。


「うわ!」

「わあ!」


 ヒウラは反動で毛むくじゃらを抱えたまま、ひっくり返った。ヒウラの腰に腕を巻きつけていたナムナルも、ついでにひっくり返った。


「ごめん!」

「いってーな! どけよ!」


 ヒウラは下敷きにしてしまったナムナルから、慌てて身を離した。そして、腕の中でほの温かく息づく毛むくじゃらを床に下ろした。あれほど波打っていた壁は黙り込んだ。ただの板に戻っていた。持参のライトが照らすのは夜の板の間に過ぎなかった。ヒウラとナムナルの乱れた呼吸だけが響いた。

 ヒウラは毛むくじゃらの側にかがみ込んだ。ヒウラがそっと手を伸ばすと、毛むくじゃらにピンッと二つの小山が立った。


「耳…キツネか」


 ヒウラが声をかけると、呼応するようにぴょこりと顔が出た。突き出た鼻先から顎、胸元にかけては白い毛、その他は赤褐色のふさふさとした体毛のキツネなのであった。キツネは黒く輝く瞳をうるうるとさせながらヒウラを見た。ナムナルは膝元にヒウラの上着を引き寄せて座り直しながら、何とも胡散臭い気持ちでキツネを見た。


「何なの、マジで」

「俺にもどういうことなのか、さっぱり」


 ヒウラはキツネの横に座り、ネクタイを緩め、シャツの胸元のボタンを二つばかり外した。逃げる様子もなく見上げて来るキツネの頭を、ヒウラは二度ほど撫でた。キツネは急にひょいと立ちあがった。それからふさふさの尻尾を揺らし数歩歩いた。そして、ナムナルが落としたヒウラ手製の握り飯の前に立った。


「あ、ちょっと、それ」


 ナムナルはなぜだか焦った。キツネは焦るナムナルをチラリと一瞥し、ぱくりぱくぱくと落ちた握り飯を食べてしまった。


「! こいつ…」


 ナムナルはかちんときた。ナムナルが思わず右の拳を握りしめた時、キツネがその場にすっと座った。そして、キツネは目を閉じてプルプルと震え始めた。


「どうした?」


 ヒウラが問いかけた瞬間、震えていたキツネはグルグルと渦を巻き始めた。ヒウラの目の前で赤褐色の毛がグルグルと回った。あれよあれよという間にそれはモコモコと形を変えた。ナムナルは大口を開けて目を見張った。


「お助けいただき、ありがとうございまする」


 ヒウラとナムナルの前に、桃色の着物を来た女がいた。年の頃は10代後半というところか。赤褐色の髪が腰まであるが、それ以上に目を引くのは頭から出ているキツネの両耳と臀部から出ているキツネの尻尾なのであった。


「キツネ、ですか」


 若干青ざめたヒウラが尋ねると、女は頬を染めて頷くのである。


「あい。私、化けキツネでございまする。うっかり異界の狭間に迷い込んでしまいまして、難儀しておりました。ある時、小さな出口を見つけたのです。夜半にのみ空間が重なり開く口なのですが、あいにく小さすぎると言いますか、私が大きすぎると言いますか、とにかく私自身の力では出られず、誠に困り果てておりましたところ」


 女は三つ指を突いて頭を下げた。ヒウラが茫然とするうちに女は顔を上げた。切れあがった黒い瞳をきらめかせ、女はヒウラに言った。


「化けキツネは御恩を決して忘れません。ヒウラ様、とおっしゃるのですね」

「どうして名前を」

「そちらの方が何度も呼んでおりましたゆえ」

「チッ」


 ナムナルはヒウラの名を連呼したことを悔いた。小奇麗な顔の女が気にいらなかった。女は目を細めて微笑んで言った。


「ヒウラ様。謹んでとり憑かせていただきます」

「はい?」

「は? てめえ、ヒウラに助けてもらったくせに、何言ってんの、バカじゃねえの!」


 ナムナルは即座に言葉による攻撃を繰り出した。ヒウラは呆気にとられ顔中に疑問符をくっつけている。ヒウラは当てにならないと判断し、ナムナルは不要なものを反射的に叩き返そうとした。


「恩を仇で返してんじゃねえよ! 帰れ! 化けキツネ!」

「ヒウラ様のお側にいて、どのような危険からも必ずお守り申し上げますゆえ」

「はあ…」

「はあ、じゃねえし!」

「うれしい! ご了承いただきありがたき幸せ」

「バカ! ヒウラ! 悪徳商法に生返事とか、お前はバカか!」


 女はそれ以上対話しようとせず、しゅるしゅると回り出した。赤褐色の色の渦は縮んでいった。やがて手のひら半分ほどの小さなキツネが現れた。キツネはふわりと宙を跳ねて、ヒウラの肩に乗った。そして、ささやきかけた。


「申し遅れました。私の名はカミツレ。以後、お見知りおきを」


 てめえ勝手に決めてんじゃねえよ、と叫び上げるナムナルの声虚しく。こうして化けキツネカミツレは、半ば強引にすばやくヒウラに憑いたのであった。





 中間報告を聞いたシュロ・タークは背を震わせて笑った。


「よろず課は迅速丁寧と王都都民に好評。特に派手なバイトが活躍。また、化けキツネが密かに手伝っている。機密文書に関しては、『糸の魔術を呼び覚ますと思われる儀式について』解析中」


 多忙を極めるはずの王都参謀室の男は、取るに足りない立場の課長と密会をしに都政室の奥の小部屋にわざわざやってきたのであった。滑らかな光沢を放つ仕立ての良いスーツを着こなし、足を組んで笑うシュロは相変わらず優雅である。ヒウラは肩に乗るカミツレの頭を撫でながらシュロに説明した。


「この小さなキツネがカミツレです。普段は姿を消しています。ご報告の通り化けキツネですが、彼女は古代文字に詳しいのです。文書解析に力を貸してくれました。他言無用とのお話でしたが、カミツレに隠し事をするのは正直難しい部分があります。また、カミツレは誰かれ構わず物事を言いふらすような存在ではありません」

「あい。ヒウラ様をお助けするだけにございまする」

「他言無用は人間のルールだ。ふふ」


 シュロは化けキツネの存在にも動じなかった。ヒウラは当初、カミツレがシュロに利用されはしないかと心配したのだが、カミツレは堂々と行きましょうとシュロに身を明かした。こうして両者が相まみえると、シュロは人よりカミツレに近いのではないかと一瞬思ってしまうヒウラなのであった。シュロはあっさりとカミツレを受け入れ、それ以外特別沙汰無しなのであった。シュロは長い足を組み直しながら笑いをかみ殺しつつ言った。


「フォンアウト。想像以上だ。そのまま進めたまえ」






「ねえ、ヒウラ。お母さんがさあ、ご飯食べにおいでって」

「おばさんが? なんか懐かしいな、そういうの」

「うちのお母さんはさあ、前からヒウラのこと気にいってるから」

「小さい頃はずいぶん世話になった」

「あたし、ヒウラの幼馴染だもんね」

「ああ」

「今は部下だし」

「ああ」

「それだけ?」

「うん?」


 ナムナルは、つけまつげに縁取られた大きな瞳でヒウラの茶色い目を覗きこんだ。今日のカラーコンタクトは昔ヒウラが好きだった群青色だ。今も好きなのかどうか、なぜかそれだけのことも聞きにくい。ナムナルはヒウラのネクタイが曲がっているのを見つけた。ナムナルは手を伸ばした。


「曲がってる。ほら」


 ナムナルはイスに座るヒウラの前に立ち、少々曲がっていただけのヒウラのネクタイを強引に外してしまった。


「自分でできる」

「いいから」


 ヒウラの言葉を無視してナムナルはヒウラのネクタイを直し始めた。胸元の開いたTシャツに対して教育的指導を受けてしまい、出勤時はブラウスを着るようになった。とはいえご自慢のEカップはブラウスであっても存在を主張している。ヒウラはどう思うのかと気になって、ナムナルはさりげなくヒウラの視線を追う。ヒウラは困ったような気まずい表情で横を向いている。ナムナルは、ヒウラからありがちなそういう視線を一向に感じることがなく実は不満だ。


「やべえ。むかついて首絞めそう」

「勘弁してくれ」


 おぼつかない手つきのナムナルから、ヒウラは苦笑いでネクタイを取り戻した。慣れた仕草でヒウラはネクタイを結び直した。その時ちょうど電話の呼び出し音が鳴り、ヒウラはよろず課ですと応じた。ナムナルが少々不機嫌な顔をして自席へ戻ろうとした時、宙から声がした。


「ヒウラ様の首を絞めようものなら、私が先にナムナルをくびり殺しますぞ」

「化けキツネかよ」

「あい」


 ナムナルはドスンと音を立ててイスに座ると、頬杖をついて気だるい口調で言った。


「ばっかじゃねえの。あたしを殺したら、おまえがヒウラに憎まれるだけっしょ」

「…その理屈はよく分かりません」

「キツネには人間のことが分かんねえんだな」


 宙の声は黙り込んだ。ナムナルは群青色に塗り替えたネイルを、グーにしたりパーにしたりしながら見ていた。突然、ナムナルの後頭部にパシッと小さな衝撃が走った。


「いってえ! てめえ! カミツレ! やりやがったな!」

「あいすいません。なぜだかつい手が」


 勘の良いナムナルは、目に見えないカミツレ目がけて、思い切りはたき返した。ナムナルの右手はカミツレの後頭部にヒットした。


「あいた! ひどい!」

「おめえが先にやったんだろうが!」


 いつしか桃色の着物姿のカミツレが現れ、ナムナルと取っ組み合いになっていった。耳と尻尾を隠す分の理性はカミツレに残っていたようだ。電話を終えたヒウラが焦って二人を止めに入った。フロアの端の端の端にある部署とはいえ、女同士の取っ組み合いはさすがに耳目を集めた。

 この日からよろず課に、着物姿の女が新たなバイトとして加わったのである。






 満月の夜。ヒウラはカミツレとともに、小高い丘の上にやってきた。丘の上には平岩たいらいわと呼ばれる岩がある。二人掛けのベンチのような平たい岩である。日中は子どもたちの遊び場になり、夜には街灯に照らされてデートスポットにもなる。ここは王都都民におなじみの憩いの場なのであった。深夜とはいえ、今日はヒウラたちの他に誰もいない。それは、ヒウラがお役所パワーを発揮し、赤色三角コーンとチェーンを設置、立ち入り禁止としたからなのであった。


「まさか平岩が魔術の鍵になるとは思いもよらなかった」

「あい。意外と身近なものでございますね」


 ヒウラはキツネの姿で構わないと言うのだが、カミツレはこのところ頑なに人型で通していた。今は人気がないので耳と尻尾は出ている。カミツレはふさふさの尻尾をふりふりしてご機嫌であった。


「他言無用でございますもの。他の人間共はあっち行きやがれでございます」

「ん? ああ。そうこれは内密に行わなければならないことだから」


 ヒウラは平岩を撫でた。今宵は、カミツレとともに解析した文書に記された条件が揃った夜である。いよいよ儀式を行う時がやってきた。

 ヒウラはボストンバッグから事前に紙に描いてきた魔法陣を取り出した。そして、その紙を平岩に広げて置いた。満月の光が魔法陣に降り注いだ。


「あとはこの樹液」


 ヒウラは次に小瓶を取り出した。植物園で特別に許可を得て、樹齢千年といわれる古木の樹液をもらい受けた。ヒウラは左手に文書を持ち、書かれている呪文を読み上げた。満月の光は文字を読むのに十分な明るさなのであった。そして、右手で小瓶を傾け、樹液を魔法陣に垂らしていった。

 カミツレの赤褐色の髪の毛と尻尾がぶわっと広がった。


「ヒウラ様、何か来ます!」


 ヒウラは呪文を唱えながら頷いた。魔法陣がキラキラと星屑のようにきらめき始めた。そこから天に向かいひときわ明るい光の帯が伸びた。下から上に向かって風が吹き、ヒウラの髪もネクタイも舞い上がった。

 魔法陣の中心から小さな丸い緑の物体が飛び出した。

 光の帯は瞬く間に消え去り、風も止んだ。紙の真ん中に穴が開き、魔法陣はなくなっていた。

 緑の小さな物体だけが平岩の上でピョンピョン跳ねて残った。


「これ…だけ?」


 ヒウラは目をぱちくりとした。ついでに周囲を見渡したが、他には特に何もなかった。カミツレが言った。


「化けまりもにございますね」

「化けまりも」

「あい」


 まりもはピョンと大きく跳ねて、ヒウラの頭の上に乗った。そして、ゴロゴロと左右に転がった。


「ヒウラ様のことが好きみたいですよ」

「そうなのか」

「かわいらしいですね」

「いや、まあ、確かに、うん」


 あっさりと儀式は終わった。ものの数分であった。解析にかけた労力との兼ね合いについてヒウラは一瞬考えそうになり、思考を止めた。


「さ、片づけよう」

「あい」


 ヒウラとカミツレは満月の光の下、後片付けをした。ヒウラがその後すぐに帰ろうとしたところ、カミツレが言った。


「ヒウラ様、ほんの少しご一緒に月を見ませんか」

「うん? ああ、そうか。気がきかなくてすまない」


 カミツレは窮屈な異界の狭間に閉じ込められていたのだ。あやかしの好きな月の光も満足に浴びる機会もなかったことであろう。ヒウラは頷いて平岩に腰かけた。カミツレははにかんでヒウラの隣に腰掛けた。二人は静かに満月を見上げた。やがて虫の声が響き出した。


「ヒウラ様」

「うん?」

「私は死を覚悟しておりました」

「そうか」

「あい。ですが、ヒウラ様のおかげで、今はこんなによい気持ちです」

「うん。よかった」

「ヒウラ様のおにぎり。とってもおいしゅうございました」

「うん」

「ヒウラ様にとり憑けて、私本当に果報者です。私何でもしますから」

「十分に尽くしてくれた。ありがとう。もう、カミツレの自由に生きていいんだ」

「もう少しお側に」

「うん?」

「もう少しだけお側に置いてください」

「そうか」

「あい」


 ヒウラとカミツレは並んで月を見上げ続けた。ヒウラの頭の上の化けまりもが、はしゃぎ疲れて眠りにつくまで。

 






 『糸の魔術を呼び覚ますと思われる儀式』。それを行った結果報告を受けるため、シュロが三度都政室の奥の小部屋にやってきた。ヒウラは水を張った中瓶に化けまりもを入れて、テーブルに置いた。化けまりもは楽しげに浮き沈みしている。


「以上の結果でした。残念ですが、これらの文書に記されている内容は、糸の魔術につながるほどのものではありませんでした。しかし、これもささやかながら魔術のひとつであり、この筋で研究を重ねることによって、いずれは糸の魔術に辿りつくのではないかと存じます。力及ばず失礼いたしました」


 ヒウラはシュロに許されて、ソファに座ったままそう説明し頭を下げた。カミツレは、ヒウラの座るソファの左後方に立ち、関係者としてコクコクと頷いた。表情を変えず化けまりもを見ていたシュロは、急にすっくと立ち上がった。ヒウラは頭を上げた。シュロは長いリーチの歩幅でカミツレの前に立った。カミツレはきょとんとしてシュロを見上げた。

 シュロは右ポケットに滑らせた手に札を持っていた。奇術師のように滑らかな動きで、シュロは縦長の札をカミツレの額に押し当てた。


「いやあ!」


 カミツレは悲鳴を上げた。額に張り付く札には紋が記されていた。その紋が鈍色の光をにじませ、突然にカミツレの全身を見えない網で絡め取った。カミツレは身動きできなくなり、宙に十字に張り付けられた。


「カミツレ!」


 立ちあがったヒウラの前にシュロが立った。シュロは鋭くヒウラの胸を押し、尻餅をつかせる形で再びソファへと押し返した。ヒウラが胸の痛みに顔をしかめた時、シュロはヒウラのネクタイを外した。そして、あっという間にそのネクタイでヒウラの手首を縛りあげた。


「一体、何を!」

「コーヤの札による一時的な呪縛だ。カミツレに害はない」


 ヒウラはカミツレを見て眉を潜め、それから自分のくくられた両手首をシュロに差し出した。


「これは何ですか! ほどいてください! 冗談にもほどがある!」

「冗談?」


 シュロは、ヒウラの手首に巻きつくネクタイの一端を左手に絡めて引き絞り、ヒウラの動きをいなしながら長身をかがめてささやいた。


「ヒウラといると退屈しない」


 ヒウラは反射的にひざ蹴りを繰り出した。シュロは動きを読んでいたかのように、自らの膝でそれをつぶした。ソファに座るヒウラの両腿にシュロの体重が乗り、ヒウラは痛みも相まって動けなくなった。


「逆らうか」


 シュロはヒウラの顎に手をかけ、上向かせた。アイスブルーの瞳から何かを滴らせるように、ヒウラの茶色の目を覗きこんだ。


「糸の魔術師、ヒウラ・フォンアウト」


 ヒウラはぎりりと強い視線を返した。シュロは笑んだ。


「瞳孔が反応している」


 シュロは顎から手を外し、右手でヒウラのシャツのボタンを3つ外した。そして、そのまま右手をヒウラのシャツの中に滑り込ませた。シュロの右手はヒウラの大胸筋をなぞり、右胸に留まった。


「ほら。胸が強く打ってる」


 体の奥の鼓動を生々しく暴かれ、ヒウラは羞恥に打たれた。ヒウラはシュロから視線を逸らし、逃れようと身をよじった。シュロは左手に握る手綱を引き絞ることでヒウラの両手の動きを封じ、ヒウラの大腿部を踏みつぶす左脛に更に体重を乗せることで痛みを加え、逃げる気力を削いだ。ヒウラの口から呻きがもれた。


「ぐあ…」

「さっきより速くなった」


 シュロは追い打ちをかけるようにヒウラの鼓動についてつぶやいてみせた。ものを考える前に体が反応し、ヒウラの全身はカッと発熱した。シュロの右手はヒウラの脇腹から脇の下までを辿り、柔らかく脅した。


「汗ばんでる」


 ヒウラはこの時、シュロの言葉に小さな棘を感じた。生理的な部分に触れてくるシュロは、隠し立てを一切許さないと咎めているかのようであった。そんな無茶苦茶な、と反射的にヒウラが思った時、シュロはもう一度言った。


「糸の魔術師、ヒウラ・フォンアウト」


 シュロの右手は肌の上を滑り、今度はヒウラの首筋に触れた。ヒウラの肌は粟立った。シュロの手はヒウラの耳の後ろから後頭部へと回っていった。シュロはヒウラの耳に口元を寄せた。


「学院ですでに成し遂げていたのだろう。糸の魔術の復活を。適当なにぎやかしを見せつけてこの程度の成果ですなどと言って私を騙せると本気で思っていたのか」


 ヒウラの耳に唇が触れる近さでシュロはささやく。ヒウラは必死に顔を背けるが、シュロの唇が追ってきた。ぬるく背筋に染みいるような声がヒウラの耳を通った。


「あらゆるあやかしに糸をつなぎ、その妖力を最大限に引き出し、操り使役する。糸の魔術は、非常に危険な魔術である。我が国として見過ごすわけにはいかない。しかし、ヒウラはずいぶん下手くそな魔術師だ」


 シュロはヒウラの大腿部に今一度体重を乗せ、強い圧をかけた。ギリギリとした痛みが増し、ヒウラが顔を歪めると、シュロはヒウラの首に手をかけた。


「天才ヒウラ」

「うぐっ」


 シュロはヒウラの喉元に置く手の力を強めた。シュロの額からプラチナの髪が一筋はらりと落ちた。


「二度と逆らうな。私の手の内にいるのだ」


 あまりの痛みと苦しみに、ヒウラは足をばたつかせ両手を振り回した。いや、そのつもりであったのだが、実際の動きはシュロに抑え込まれ、更なる痛みと苦しみが返ってくるのみであった。息が詰まり、ヒウラは意識を手離しそうになった。ところが性質が悪いことに、気を失いそうになるとシュロは手を緩めるのだ。ヒウラは息も絶え絶えにあえぎ続ける以外になくなってしまった。


「たす…け…」

「ん? 何か言ったかい?」


 ヒウラが助けを求める言葉を口にしていることを理解しているはずであるが、シュロはそれを無視してヒウラを痛めつけた。隠し事をしたからだとヒウラは思った。シュロは制裁を加えて、ヒウラのすべてを完全制圧しようとしているのだとヒウラにも分かった。もういい、もう許してと願ったが、シュロはヒウラにそれを言わせなかった。ヒウラには永遠にも感じる時間が流れ続けた。

 絞めて潰して緩めて絞めて潰して緩めて。

 絞めて潰して緩めて絞めて潰して緩めて。

 いつの間にか、シュロの手が首から離れていた。ヒウラはソファで荒い息を繰り返していた。知らぬ間に手首のネクタイもほどかれていた。ヒウラの意識はゆっくりと浮上した。体中がだるくてまったく動けなかった。上質なソファに身を沈めて、ヒウラはハアハアと呼吸するばかりだった。


「喉が渇いたろう」


 シュロがティーカップを持って立っていた。先程まで太ももを踏み潰していた重みが脳裏に蘇り、ヒウラの体は硬直した。シュロはそれを意に介さずヒウラの横に跪いた。そして、ティーカップをそっとヒウラの口元に添えた。


「飲め」


 シュロの命に体が反応した。ヒウラは呼吸の隙間で必死に紅茶を飲んだ。確かに喉は渇いていた。一気に飲み干した。冷めた紅茶は妙に旨かった。はあ…という深いため息がヒウラの体の奥から出てきた。シュロは空になったティーカップを持って立ちあがった。


「もう一度言おう。糸の魔術は非常に危険である」


 シュロはティーカップをテーブルに置いて、ヒウラの向かいのソファに腰掛けた。


「フォンアウト。自分一人で隠し通すつもりであったか。冗談じゃない。すべてを私に明かせ。何もかもひとつ残らず、私に。すべて、だ」


 アイスブルーの瞳が微笑んだ。ヒウラは震えた。消されるかもしれないと予感した。糸の魔術を差し出した途端、不要になった命は握りつぶされるのだと思った。ヒウラの頬がぴくりと動いた。ヒウラの恐れを読みとったのか、シュロは少しばかり身を乗り出し早口で言った。


「私ときみとの仲だろう。ヒウラ。きみにだけは嘘をついてほしくない。それだけだ」


 妙に日常的なトーンであった。ヒウラは混乱した。力が入りきらず震える手を額に当てた。汗ばんでいた。シュロにすべてを明かす。別にそれでも構わないと思えてきた。



 ヒウラが糸の魔術について解き明かしたのは、学院卒業の年であった。真面目にコツコツと文献研究を重ねてきた。フィールドワークに出た先の古老に気にいられ、誰にも言うなと言われながら、見たこともない古書を読む機会を得た。ヒウラの脳の中で化学反応が起こった瞬間だった。ヒウラは糸の魔術を理解した。滅びた魔術の復活は、多くの研究者の悲願であった。また、その利用価値は計り知れないものだった。ヒウラは驚きと歓喜の中で、やがてその成果の行く末を背負いきれないと思うようになった。滅びたものには滅びたなりの理由がある。それが強大な力であるならば、紛争の元になることは必至。これは、失われし夢として眠っていた方がよい力なのではないか。


 ヒウラは口をつぐんだ。学院を普通に卒業し、王都特別区職員として入職した。勤勉に過ごし、平和を生きることを望んだ。魔術は一度も使っていない。シュロから謎の命令が下りてきた時、ヒウラは危ぶんだ。シュロはどこまで何を知っているのか。とにかく、お茶を濁して終わろうと思った。シュロがどうしたら納得するのか。手渡された文献はどれも大した内容ではなかった。ちょっとした妖魔を呼び出して終わる程度の儀式が記されていた。シュロの好きそうな成果を見繕うことにした。


 繰り返すが、ヒウラは糸の魔術を一切使ってはいない。しかし、どうしたことか、勝手にいろいろなあやかしがヒウラに紐づいていく。早いところシュロからの命を終わらせたかったのだが。



「ヒウラ。ちょっと機会を与えただけで、あれもこれも惹きつけてしまった。面白かったけど、どうも危なっかしい」


 シュロは柔らかな声で呼びかけた。ヒウラは思考が乱れてまとまらなかった。シュロが畳みかけた。


「ヒウラ、私がきみを守る」


 ヒウラはシュロの強さにすがりたくなった。冷静に考えれば、ここに至るまでのすべての危機はシュロが与えたものなのであるが、何しろヒウラはまともに思考できる状態ではなかった。諸手を上げてヒウラがシュロの懐に飛び込みそうになったその時である。

 がちゃっという無粋な音とともにドアが開いた。人払いは完璧にしているという頭のシュロが、さすがに驚いてドアの方に顔を向けた。


「課長ー、いる? あ、いた」


 本日は、頭の上にメロンのように髪をまとめ上げたナムナルの登場であった。ブラウスにタイトスカートという出で立ちで、ナムナルはまっすぐヒウラに向かった。これにはシュロが慌てた。


「きみ、今は会議中…」

「だって、長げーんだもん。海浜公園のヨドじいさんが急ぎだっつって何回も電話してきてて、あいつほんとのじじいだから、あんま待たせると死ぬよ。ま、それはいーんだけど、あとまだあってさ」


 ナムナルはシュロに背を向け平気でヒウラに話しかけ始めた。雑な扱いに慣れていないシュロは呆気にとられた。ナムナルはふと気づいて首をかしげた。


「ん? 課長。何その格好、やばくね? ん?」


 シャツもズボンも乱れ切っていたヒウラは、慌てて胸元のボタンを閉め、シャツの裾をズボンに押し込んだ。ナムナルは必死に身だしなみを整えるヒウラとポカンとするシュロを交互に見て、ハッとした。


「そういう、プレイ?」

「ばっ! ちがっ!」


 ヒウラは首まで真っ赤になった。あまりの反応にナムナルの体に電流が走った。


「まじか」

「違う! 断じて違う!」


 どこに余力があったものか、ヒウラは必死に否定した。ナムナルは再び気がついた。真っ赤なヒウラを置き去りに柔らかな絨毯を踏みしめて部屋の隅に向かった。そこには額に札を付け、両手を十字に広げて浮かぶカミツレがいた。


「何これ」


 ナムナルは有無を言わさず札を取った。カミツレはキツネの姿になって落ちた。ナムナルはその体をキャッチして気を失っているカミツレを床に置いた。くるりと振り返り、ナムナルはヒウラの元に戻った。


「プレイは自由だけどさ、カミツレに口封じ? やばくね?」

「本当に本当に違うんだ」


 半泣きのヒウラである。ナムナルは腕組みをしてそこに胸を乗せた。長いつけまつげをパサパサとして見せてシュロに言った。


「あたしも一緒にしたい」

「やめなさい!」


 ヒウラは青ざめて止めた。シュロが立ちあがった。シュロは一筋垂れた髪を後ろに撫で上げて直した。


「さて私はここで失礼する」


 その言葉にヒウラは目を見張った。シュロは数歩でヒウラに近づいた。そして、ヒウラの髪に手を置き、グシャグシャにかき乱した。


「また会おう。フォンアウト」


 シュロはナムナルに端正な顔を向けた。


「結界破り。厄介なお嬢さんだ。機会があったら一度私と遊びましょう」

「いーよ」

「やめとけ!」


 ナムナルがひらひらと手を振る中、シュロは颯爽と帰って行った。シュロの背中がドアの向こうに消えると、ヒウラの力が抜けた。ヒウラはどさりとソファに沈み込んだ。


「あれ。どうしたヒウラ」

「いや」


 ヒウラは右手で両目を押さえた。猛烈な脱力感があった。ぐったりと動けなかった。ナムナルはそういった様子のヒウラを少しの間見下ろしていた。それから、一人掛けとはいえ大きめのソファに腰を割りこませて隣に座りに行った。疲れ果てた様子のヒウラは反応が薄い。ナムナルはチャンスと感じた。


「ヒーウラ」


 ナムナルは横からヒウラの頭を抱き込んだ。ヒウラはおとなしくナムナルの胸に抱かれた。ナムナルはヒウラの汗と血のにおいを感じた。キュンときて、もう少し強く抱きしめた。ヒウラは抵抗しなかった。


「怖かった…」

「そういうプレイ?」

「いや、そういうことでは」


 ナムナルは状況がよく分からなかったが、どさくさに紛れて好きなだけヒウラに抱きつくことができるので満足した。ついでに聞いてみた。


「ヒウラさあ、群青色って今も好きなの?」

「ん? うん」


 ナムナルは更に満足した。ふと、さっきのプラチナの髪の男のカフスも群青色であったことに気がついた。何となく胸がざわめいて、ナムナルはヒウラの頭に頬を押し付けたのだった。

 テーブルの上で化けまりもは、相も変わらず浮き沈みを繰り返していた。






 さて、後日。王都都政室よろず課は、解散されることなく残った。ヒウラはてっきり茶番のすべてが終わると思っていたのだが、そうではなかったらしい。ヒウラが糸の魔術を使えることを確信したシュロが、ヒウラを捕獲するべくすぐさま再来するかと怯えていたが、それも違っていた。いつまでたってもシュロから声がかかることはなかった。危険で看過できないとあれほど言っていた割に、まるきり放置なのである。

 複雑な心境の中ヒウラが思ったことは、シュロこそ秘密主義であるということだった。シュロは、ヒウラのことを公にするつもりはないのかもしれない。何かしらの切り札として取り置いている、ということも十分にあり得る。あまり接触を重ねると、ヒウラに特別な何かがあると勘ぐられてしまう。誰に対して何について駆け引きしているのかは知る由もないが、再来を控えているシュロの考えとしてあながち間違ってはいないだろう。


 ナムナル、カミツレと共に、王都都民のよろず相談に応じる。デスクに置かれた中瓶の中で踊る化けまりもを見ながら、この平和な多忙に埋没したいとヒウラは望んだ。


「課長ー、ハンコちょうだいー」

「離れなさい」


 ナムナルはあの日からヒウラに対する距離感が近いのであった。書類を持って身を寄せて来るナムナルに、ヒウラはいつも通り注意した。


「ヒウラ様、お茶が入りました」

「離れなさい」


 ナムナルを見てカミツレまでも距離感がおかしくなった。お茶をデスクに置くために、なぜかヒウラにくっつこうとするカミツレに、ヒウラはいつも通り注意した。


 かりそめの平和、という言葉が脳裏をよぎり、ヒウラは頭を左右に振った。先日のことは思い出したくもない。今もまだ体が痛む。シュロはまた来る。必ず来る。ヒウラは困っていた。対抗策をとらなければ、何を差し出そうとも、きっと理不尽な理由でまたいたぶられてしまう。痛いのも怖いのも金輪際御免である。あのシュロに対抗する策といえば、ヒウラにはひとつしか思い浮かばない。


 糸の魔術。


 そのレベルでしかシュロを押し返すのは無理だ。他では何ひとつかなわない。絶対にそうだ。ヒウラにはそれしかない。だが。


 それこそシュロの思うツボなのではないか。


 このままでは、闇に眠らせておこうと思っていた糸の魔術を、ヒウラは完成させてしまう。我が身かわいさのあまり、紛争の種を復活させてよろしいものなのか。いや、ヒウラに解析できたのだ。いずれ誰かが同じ結果にたどり着くであろう。ならば今、ヒウラがそうしてもよいのではないか。それとも。

 ヒウラの心は千々に乱れた。


「ヒウラ、顔色悪いよ?」

「大丈夫でございまするか、ヒウラ様」


 ヒウラはハッとした。ナムナルとカミツレがヒウラの顔を覗き込んでいた。ヒウラは慌てて言った。


「いや、少し考え事をしてただけで」

「あれか、ド変態のことだろ」


 ヒウラの心臓が飛び跳ねた。ナムナルは勘が鋭い。カミツレの頭からピョンと耳が飛び出した。


「ド変態のことでございますね! 先日は不覚をとりましたが、私、次にド変態にお会いしましたら、必ず返り討ちにいたしますから!」

「いや、ド変態というわけでは」

「いやいやいや、あれはヤベー奴だって」

「カミツレ、耳を仕舞いなさい」

「あい」


 ヒウラの指摘を受けてカミツレの耳が引っ込んだ。ナムナルは不敵に笑いながら、群青色の指先でヒウラの眉間を撫でた。


「ここ、しわ寄ってる。悩み過ぎ。あたしがド変態と遊ぶから、ヒウラは引っ込んでろよ」

「今度は私があのド変態を磔にしてやりますから!」


 ヒウラは胸に手を当てた。どうしたことか、黒煙のような不穏の塊が胸の底からすうっと抜けていくようであった。それから、何とも言えない気恥ずかしさが湧いてきた。制御の効かない熱がヒウラの頬に上った。


「…ありがとう」


 ヒウラは視線を落として、真っ赤な顔でやっとそれだけ言った。ナムナルはつけまつげをパチパチとさせた。カミツレは再び耳が出そうになり、慌てて引っ込めた。それからナムナルとカミツレはどちらからともなく視線を交わした。行き来する視線の中で何を語り合ったのか。やがて二人は力強く頷き合ったのである。










 いつか、そう遠くはない頃合いに時機を見て、シュロ・タークはやってくる。ヒウラは苦悩の中、糸の魔術師となる。巨大な力たちに翻弄されるヒウラを、ナムナルとカミツレが軌道修正する。きっと。


 ヒウラはそう思った。


 その時、机上の化けまりもが七色に光って見せた。突然の変化を見て三人は笑った。









 ヒウラはその未来を受け入れることにした。


















最後までお読みいただきありがとうございました!

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