優しい気持ち
「イアンくん!」
意識という蝋燭の灯が消える。キッテが見えなくなるとイアンが倒れ、セイリアがなきじゃくりながらその身を抱えた。未だに心を支配する恐怖と不安と、そして心配のためだ。それ以上は何かしてあげられることすらない。側から見れば、すがっているようにしか見えなかった。
「キースちょっといい。」
それを眉間に皺を寄せて見ていたティルは、気にかけてやる素振りすらない自分のリーダーに声をかけた。あの二人は確かに、正式には仲間ではない。だが引き受けた以上、責任をもつべきではないかということを思っていた。と言ってもやたらとモヤモヤするだけで、ティルはそれを怒りでしか表現できない。ただ、キースならそうするだろうと考えていて、理想通りにならなかったというだけだ。
「なんだ。」
「あのさ、もうちょっとさ、優しくしてやらない?イアン、いつの間に目を覚ましたの。そんな時に連れ出さなくてもいいだろ。」
「あいつは旅の仕方を教えろと言った。」
「いや、だから、もっと優しく教えてやらないとさ!」
「優しくとは?」
「は?」
「俺は神父でここは学校ではない。」
「どういう……」
「あいつらが旅をする段階まできていない、ただそれだけのことだ。」
「どうしてそういう話になるんだよ!俺の話聞いてた?!」
自分が吠えきるのを待たず、キースは行ってしまった。赤い大地がキースの陰を飲み込んでいく。到着した昨夜には気づかなかったその赤は、どこを切り取っても見たことのない景色を彩っている。どこまでも広く、遠かった。何があるのかなんて、予想もできない。
ティルは憤りを隠して、泣くばかりのセイリアに近寄る。何も言わずにイアンを抱き上げて、キッテの住処に戻ろうとした。セイリアはそれについてくるしかないし、自分も、あの胡散臭いキッテの家しかアテがないのだ。そのことを酷く残念に思いながら。
「あのさ、」
「……はい。」
「魔法、おしえるよ。」
「はい。」
それ以降声は発さず、帰路はセイリアのすすり泣く音しかしなかった。キッテの住処、暗い洞穴の中にイアンを寝かせるまで。一息つこうかと腰を下ろしだす直前、セイリアが喉をひきつらせながら、訴えるように力強く目を向けて言った。キッテの魔法で仄暗く揺れる光る石の影にのまれながらも、真っ直ぐ。
「魔法、教えてください。」
その手には自分が貸している本がある。自分が光魔術を学んだ本だ。ふと、この本を手にした幼い頃を思い出す。厳しくも優しい大人たちと共に文字を追い、その意味を一つ一つ丁寧に教わったことを。ティルはハッとした。目の色が変わる。ハッキリ、瞳孔が動きを定めた。
「うん、いいよ。外に出よう。」
その頃、キースはキッテといた。切り立った崖のずっと上、大きな赤い石と言うよりは丸い土の塊の上に、並んで座っている。キッテは微笑んでいて、その浮いた足元のずっと下に見える、自分の住処の穴を見つめながら、鼻歌も歌っていた。
穴からティルとセイリアが出てきた。小さくて遠くて、会話は聞こえないが、概ね予想通りのことを話しているだろう。キースも冷徹な眼差しを二人に向けている。キッテはその紫の瞳と出会った頃のことを思い出した。鼻歌をやめて口を開く。
「懐かしいね。」
「……。」
「僕ら二人で、エラムとトトの真似ごとをするなんて。ああ、なんて嬉しい。」
「キッテ。」
「なに?」
「……。」
茶色の固い革製の鞘から、白い大剣を抜く。薄い刃、広く長い剣は、キースの武器である魔法剣・レタリオだ。赤く大きな石が唯一の装飾で、剣先は菱形になって窄む。それをキッテに差し出した。キッテは、柄を握ってもう一方の手にそっと刃を乗せる。レタリオが陽の光を反射させ、キッテの顔はますます白くなっていた。陶器のようなその頬に、涙が伝っていた。
「ああ……。」
「……。」
「トト。」
「……そうだ。」
「……そうか……」
震える刃に頬を寄せる。涙の雫がレタリオを濡らし続けた。キッテの表情に美しさなどなく、苦しく歪まれて皺だらけだった。嗚咽が漏れだし、柄を握る手が力を保てなくなってくる。キースはその上から強く柄を握り、キッテに持たせてやった。
「っく、エラムは?」
「わからない。」
「う、うっ……そう。」
「ああ。だが、生きている。」
「そうだね、そうだね。」
「……。」
「ありがとう。」
レタリオに力が加わって動くと、キースは手をずらして直接柄を握り、鞘に納めて膝に乗せた。キッテは両手のひらを顔に擦り付けて豪快に涙を拭った後、赤くなった顔と目と鼻を下に向けた。切り立った崖の下、小さく見える桃色の髪と金髪。セイリアとティルを見る。大した動きはない。
「可愛いね。トトとエラムは、こんな風に思っていたかな。」
「さあな。」
「キース、“この”後どうするの?」
「ナロアラに渡る。」
「ナロアラか。……懐かしいね。」
「……ああ。」
「キースと話していると、懐かしい気持ちにしかならない。辛くて、嬉しくて楽しくて……悲しい。優しい気持ちだ。」
「キッテ。」
「わかってる。明日は革命だ。」
強く風が吹いた。キッテの長い巻き毛がふわっと浮き、キースのジャケットも捲き上る。静かなレタリオの横で、キッテは牙をむき出しにして小さく唸っていた。目と目の間に皺を集め、血走った眼で遠くを睨む。キースは、目だけを足元の二人に向けて、冷淡に見下していた。キースとキッテはそうして彼らを“見守る”。その日は住処に戻ることはなかった。
20190227