キッテのおもてなし
「君はどう?飲む?」
「……。」
背を向けていて視線がわからなかったとしても、その声が自分にかかったことくらいティルにでもわかった。
キッテはキースの昔馴染みだと知った。自分から見ても良い関係であることはわかる。非常に寄り付きにくいキースであるのに、二人に壁は感じられないからだ。
ティルはただそれだけが、受け入れられないでいた。ひんやりとした洞穴の壁や床からは、誰の温もりも感じない。声でさえも、冷えているように聞こえる。
「上等なものだよ、これはここじゃ滅多に手に入らない果実酒だからさ。誰かと飲めたらって、こういう時のためにとっておいたんだ。」
「……。」
誰が返事をするわけでもない。洞穴の作り出す、ややくぐもったような独特な響きだけがキッテに返った。あからさまに眉を下げて、残念そうにする。
「君とは仲良くなれると思うんだけど。」
「ハッ……そんなわけないじゃん。」
「わからないだろ?ほら、セイリアちゃんも黙っちゃったし、キースは見込みなしだし、君だけなんだ。お客さんになってよ。」
興味がないわけではなかった。ティルはごそごそと態勢を変え、キースを一瞥する。いつもであれば、酒と聞けば間髪入れずに禁酒令を出してくるキースが、今回は珍しく何とも言わない。
この胸のわだかまりが憂いなのか怒りなのかすら、ティル自身理解できていない。そしてもちろん、解決法など到底思いつかないのである。
どうしたいかと聞かれたとしたら、今はとりあえず忘れてしまいたい。気分転換をしたかった。それに酒はもってこいだ。目先の欲求に従順なティルにとって、それを持つキッテが気に入らないということは、酒の前では一旦置いておけることだった。
「乳酒もあるよ。」
「なにそれ。」
「ヤギのミルクで作ったお酒だよ。こっちじゃ酒といえばこれなんだ。」
「ふぅん。」
ティルはできる限り、億劫そうにゆっくりとボサボサな頭をあげて、時間をかけてやっと体を起こした。ようやく目を合わせると、キッテの表情が花が開いたかのように明るくなり、笑顔になった。
それがまた心に火花を起こしたが、酒と天秤にかければ軽いものだ。差し出される酒に手を伸ばす。
「外行けよ。」
「わかってる。嬉しいよ、さぁ行こう。」
「気安く触るなよ。俺は酒にしか興味ないからな!」
「うんうん。誰かとゆっくり飲むなんて久しぶりだなぁ。」
「俺が言ったこと意味わかってる?その辺無視するなよ!」
最後は賑やかに姿を消す二人を横目で見送り、キースは薄く息を吐いた。
セイリアは唖然としたまま膝を抱えて動かない。心ここに在らずだ。このような無防備なセイリアを、この短期間で何度も見た。
イアンは泥のように眠っている。その薄汚れた寝顔を見て、キースは重たく瞼を落とす。
その瞼の裏に、二人仲良く手を取り合い、仲睦まじく話すセイリアとイアンが浮かんでいた。これは、二人の記憶だ。
「使命を全うするために、」
「ルマティーグでは……に、そして……」
「……は途方も無い旅になるでしょう。」
「僕が手伝います、だから……」
一つ一つの場面を丁寧にみない。キースは二人の記憶の中から何かを探していた。早送りで流れていく映像は、忙しく背景を変えて二人の姿をみせていく。
「……。」
固い瞼を上げると、紫の瞳の中で丸い明かりがぼんやりと映っていた。焚き火のように時々揺らめく明かりは、その中でも同じように揺れる。
ひと時の沈黙の後、手際よく武器の手入れを始めることにした。これは日課というよりは癖に近い、キースの当たり前の姿であった。
右腕に巻かれた布を取り外し、床に置いて広げる。そこには、この部屋の照明を僅かに反射させる精霊石の線があった。魔法線と呼ばれるこのキースの武器は、規則正しく渦を巻いて確と収まっていた。
それを手に取り、魔力を込める。すると細い指の皮膚に添い、ぴたりと吸い付くように広がった。あっという間に塊が解け、五本の線が並ぶ。
魔力を動かせば魔法線も動く。キースの魔力に応える精霊石が、魔法線に鋭さを与えていた。この狭い空間にそっと広げてから、また元のように渦の形に収めた。
その時セイリアが、視界で時々キラキラと光る物を見つけ、魔法線の動きを目で追っていた。茫と、遠くの景色を眺めるように。
「……キレイ。」
「……。」
「私、外の空気を吸ってきます。」
「一人になるなよ。」
「大丈夫です。ティルさんたちの所へ行きます。」
狭く低い穴の道をくぐっていく。穴から抜け出して立ち上がって見た外は、真っ暗で何の形も見えなかった。湿度が重く感じられる。
外気に触れたその一瞬で恐怖が頭をよぎり、セイリアの足がすくんだ。頭と体が異なる反応をしたせいで、そのまま動けなくなってしまったその時。
「気安く呼ぶなよ。俺はまだお前を信用してない、っていうか嫌いだ!」
「そんなのどうでもいいじゃない、今だけなんだから僕に付き合ってくれればさ。」
「イヤだね!」
(ティルさん……。)
通ってきた穴は、岩山の斜面の麓の方にある。そこからもう少し下ったところ、平らな岩肌に二人が腰掛けているのが見えた。
その背中の影に気づき、セイリアは空を見上げる。そこには、溢れんばかりの星が散りばめられた星空が広がっていた。
その絶景に思わず息を飲む。足は止めたままだが、恐怖は失せていて、今のセイリアの心は喜びに満ちている。
「セイリアちゃんも来たの?」
「あっ!はい!」
「おいでおいで。」
「すごいです、星が……!」
逸る気持ちを抑えながら、確かに一歩一歩踏みしめながらセイリアは下っていく。小さな石ころを連れながら、セイリアは最後の一歩は思い切り蹴って、両足を揃えて着地した。
星の明かりは、これだけ集まると二人の顔を照らすのには十分だった。ティルの頬がほのかに紅潮していることまでわかる。キッテも、嬉しそうに目を輝かせているのがわかった。
「セイリアちゃんも飲む?」
「お酒は……その、すみません。」
「謝んなくていーのいーの、ティル君が付き合ってくれてるからさ!」
キッテが声を大きくして、だらしなく背中を丸めて座って飲んでいたティルの肩を抱く乱暴に抱き寄せる。それを見てセイリアは声を殺して驚いた。
そしてティルが目と鼻の先にあったキッテの顔を殴りつけそうになると、小さく悲鳴をあげた。
「なんだよ。」
「え?!いや、その……!」
「セイリアちゃんはティルが暴力的だから驚いたんだよねぇ。」
既のところで止められた拳をするりと避けてティルから離れ、キッテがセイリアに近づいてくる。その足取りは真っ直ぐだ。が、キッテの瞳は潤み、頬も鼻も首まで赤かった。
キッテはセイリアの腰に手を回し、もう片方の手を肩にかけた。そして体を密着させて耳元に頬ずりしてくる。その仕草も酒の香りもセイリアはくすぐったく思った。
「ちょっと、もっと気をつけた方がいいんじゃないの。」
「ごめんねぇ、いつもと違うお酒を飲んでるから、ちょっと難しくって。」
「?何がですか?」
「酒の飲み方だよ。こいつ、俺より下手なんじゃないの。」
「君は乳酒しか飲んでないからだよ、それって弱いからさ。」
キッテに強く腰を押されて、ティルの側まで密着したまま行く。その姿を見たティルが軽蔑するような冷たい眼差しを投げかけてきていた。
会話の流れをつかめていないセイリアがどう参加しようか考えている間に、キッテは背中に回りこんだ。両手をセイリアの胸の前で組み、もたれかかるようになる。
見過ごせなくなったティルは冷たい目をしたまま立ち上がり、キッテの小さな肩を掴んでむしり取るように二人を引き離した。そしてキッテの尻を蹴って捨てた。
「ティルさん!」
「なに?」
「蹴るなんて良くないですよ!」
「は?お前そういうの平気なの?」
「セイリアちゃ~ん、痛いよ~。」
仰向けになって転がっているキッテは、両腕を伸ばして甘えた声を出した。それを聞いたティルは舌を出して眉間に皺を作る。思いつく全ての嫌悪の表現だった。
「大丈夫ですか?ごめんなさ、いいっ!?」
差し伸べられた手を取ろうと触れた瞬間、力強く引き寄せられ、セイリアは受け身を取る間もなくキッテの胸に倒れこんだ。
目を白黒させていると、キッテの手が頬へ伸びてきて、顎を撫で始めた。そこでようやくセイリアは違和感をもちはじめる。
手をついて上体を起こすと、キッテの手が引き剥がされて落ちる。見上げる方と見下ろす方で二人は見つめ合った。キッテはおもちゃをもらった子どもさながら、無邪気な笑顔で喜びを表現している。セイリアはと言うと、僅かに表情が硬い。
「お前が平気ならいいけど、俺はそういうの気持ち悪いから、俺のいないとこでやってくんない。」
「どうする?セイリアちゃん、二人だけでどっか行っちゃう?」
「あの……」
「だから、今ベタベタすんなよ、気持ち悪い!」
「セイリアちゃんみたいな可愛い子、放っておくなんて男が廃るよ、ティル君!」
「おっ……男の人ぉ!?」
美少女だと思った。同性がいて心強いと思ったこともあった。だからこそ許してきた触れ合いも、今となっては羞恥心を煽る記憶でしかない。キッテとのこれまでを思い、自然と出たセイリアの絶叫は、穴の中で眠るイアンを叩き起こすに相応しい声量だった。
20180825