仲間じゃない
「お兄さん人間ンー?」
「邪魔だ。」
「あーンつれないー。」
人だかりをすり抜けてきたキースは、セイリアに寄りかかるイアンの様子を伺う。青ざめた顔色に脂汗、忙しなく上下する胸。肩が震えて見えるのは、それを抱くセイリアの手が大きく震えているからだ。
その時、すぐ近くで物が割れる音がした。猫の魔人が二人、取っ組み合いになって激しく争い始めたのだ。
鋭い牙と爪だけでなく、ナイフや割れた瓶といった凶器を振りかざし、お互い早速血だらけになった。それでも鬼の形相で汚く罵り合っている。
「行くぞ。」
イアンを軽く抱き上げて、キースはすぐ歩き始めた。喧嘩に注目が集まっている今、すぐにこの場所から立ち去った方が賢明だ。だがしかし、血みどろの喧嘩にセイリアの足がすくんでしまっていた。何故か立ち尽くしているティルにセイリアを託す。
喧嘩に集まり時々歓声をあげる人々に背を向け、存在を消してこの場をあとにした。
「あのキッテって奴どこいったんだ?」
「さあな。」
「こんなテキトーな奴信用できるのか?」
「ああ。」
不機嫌極まりないティルは、矢継ぎ早に疑問を投げかけた。セイリアはまるで俵のようにキースに抱えられるイアンを見て、ティルの小脇に抱えられる自分の姿を客観視する気分だった。
恥ずかしくて、情けなく思う。もし足さえ動けば、自分はイアンくらい抱えて歩けるのに。二人の手を煩わせてしまっていることを悔む。
キースは迷うことなく歩き続けた。少し行くとすぐに人の気配が消えて、セイリアやティルは少し緊張が和らぐ。夜の闇の静けさが、今はこんなにも穏やかに感じた。
「これは罠だ!絶対!」
「……。」
「なんとか言えよキース!どんな関係が知らねぇけど、あいつは俺たちをとって食べるつもりだ!」
「食べないよ。」
「うわっ!」
「きゃあっ!」
音もなくまた突然存在を現したキッテに、ティルは大袈裟すぎるほど驚いてセイリアを落とした。セイリアはキッテに驚いたものの、それ以上に、腰を打った痛みに悲鳴をあげる。
キッテが静かに腰を落とし、セイリアの肩に手を置いて身体を支えようとした。ビクッと身体を強張らせて身構えられる。自分を警戒するセイリアに、くすりと笑えた。それでも強引に強張る手を取り、立ち上がるよう促した。
「大丈夫?」
「大丈夫です。あの……ありがとう。」
息がかかるほどの距離で見るキッテの横顔は、長い睫毛やくるくると巻く髪の毛がとても柔らかそうで、そして肌や毛の透き通るような白さが美しかった。
幼さのある目、小さな口、鼻。高く癖のない優しい声。どこを取ってももれなく美少女である。思わずセイリアはため息をこぼした。
「ダメじゃないかティル、女の子を落とすなんて。」
「はっ?何?」
「それに、僕たち猫族は人間なんて食べないよ。」
「どーだか!」
「キース、流石だね。
みんな、ついたよ。僕のうちへようこそ!」
人から離れれば離れるほど、建物という建物がなくなっていくことには気づいていた。今も大きな岩山ばかりが自分たちを囲んでいて、家らしきものはない。
岩山にはいくつか穴が空いていた。その内の一つの穴を、キッテは指差す。その低い穴に遠慮なく、腰を屈めて潜り込んで行ったのはキースだけであった。もちろん、気を失っているイアンも共に姿を消す。
セイリアは戸惑いながらもすぐに続いたが、ティルはずっとキッテを睨みつけて立っていた。憎悪の眼差しを受けてもなお、キッテは笑顔を絶やさず、穴へ入ることを手で促した。
「つまらないこと考えてたら、許さないよ。」
「つまらないこと?」
「俺たちを騙そうとか、色々。」
「うーん、大丈夫なんだけどな。でも疑うのは旅人として良いことだね。」
「……。」
「さ、入りなよ。」
後ろのキッテを十分警戒し、腰を屈めて穴に潜り込む。肩で壁を擦ると、埃っぽいにおいが立った。身長の高いティルはあちらこちらを汚しながら、その先の開けた空間にたどり着く。赤い絨毯に腰掛けているキース、その横で仰向けで眠っているイアン、その隣に寄り添うセイリア。炎のように揺れる光が三人の表情に濃い影を落としている。丸く開けた球状の空間、そのちょうど真ん中の足元に、光る丸い石が置いてあった。
キッテがティルの横を通り過ぎ、横になっているイアンの側へ向かう。セイリアとキッテの影が重なった時、キッテは膝をついて心配そうにイアンの顔色を伺っていた。そしてボソボソとセイリアと言葉を交わす。ティルは慌てて後に続いた。
「イアン君だっけ。この子、どうしたの?」
「わかりません。」
「……敏感な子みたいだね。」
「え?」
「なんとなくそう感じるんだよ。そして経験上、それは本当だろう。」
「……。」
「こんなところ、ずっといたら俺でもおかしくなりそうだ。」
あまり敏感でないティルは自覚があったのか、そんな言葉を乱暴に放り投げた後、キースの横で絨毯に身を投げ出し壁を向いて不貞寝を始めた。セイリアがそれを見届けた後はティル以外の部屋にいる全員がイアンを見ている。
滲み出ている汗がイアンの肌に不自然な曲線の影をつくる。呼吸が荒い。苦く歪められた表情も和らぐことはなかった。
イアンは人の心の声が聞こえる。恐らく、それによって疲弊し倒れてしまったのではないかとセイリアは考えていた。しかしこの憶測が正しいのかわからない。何かの病気かもしれないからだ。そして何よりも、イアンのその能力を自分の口から明かすということに抵抗がある。黙って待つしかない。
抱え込む膝をギュッと抱くセイリアの肩をキッテが撫でる。微笑みを浮かべているが、逆光でよく見えない。それでも優しい手の温もりに、少し心は和らいだ。こういう時に同性がいると心強いと思った。
「キース、こんな子“たち”連れて何しに来たの?」
変わらない穏やかな口調のまま、キッテが胡座をかきながら尋ねた。何も疑問を持たずについてきていたセイリアの胸がドキリと動く。ティルも、黙ってはいるがその一言で息をひそめた。
この土地は、経験のないセイリアとイアンには過酷すぎる。並の旅人でさえもあまり好んで近づかないようなところなのだ。そんなことはキースならよくわかっているはずだ。敢えてここを選んだ理由があるだろう。着いてきた皆は、そう信じて疑わない。
「お前がいたからだ。」
「僕に、この子たちの世話をさせるため?」
「そうだ。」
「ふーん。」
「なんだよそれ!」
「……。」
「イアンやこいつは仲間だろ、キース!ちょっとは…」
「仲間じゃない。」
「えっ!」
「え?!」
「……?」
「旅を教えろとイアンは俺に言った。」
「……。」
「ここで教えて、別れる。」
「そんな!」
理解に苦しむティルと深く干渉するつもりのないキッテは、それぞれ似たように首をかしげるもののここまで大人しくきいていた。血相を抱えて立ち上がるセイリアは一人穏やかではない。
冷徹で粗暴でも、誠実で、思っていたよりも思いやりのある人物だと思い始めていた。そんなキースの印象が一気に、出会った頃のものに戻る。
「何度も言うが、お前たちの事情は俺には関係ない。巻き込むな。」
「そう言って、でもずっと……!」
「そう。ずっと、仕方なかっただけだ。」
「そんな……そん、な……。」
「俺には俺の旅がある。」
「……。」
全員が黙った。それぞれの胸中は絡み合うようで合わない。関心の薄いキッテが腰を上げて、背中にあった独特な模様の掘られた木箱を漁り始めた。取り出したのは取っ手のない丸いコップ一つ。これにも独特な模様が描かれている。波のようにうねる線が蔦のように絡み合い、左右対称に横へ伸びる、単純な模様だ。
コップに薄汚れた瓶から液体が注がれた。甘い木の蜜のような香りに、青ざめた顔をセイリアが顔を向ける。キッテが一口含み、コップを手渡してきた。
「飲む?落ち着くよ。」
「……。」
「酒だろう。」
「……やめておきます。」
「ね。キースはさ、物知りとは言っても全然喋らないでしょ?若いけど強くて、経験も豊富だ。でも、別に一緒にいれば絶対助けてくれるってわけじゃない。」
「?」
「僕にはわからないな。セイリアちゃんが、キースとの旅にこだわる理由が。」
白い肌、髪。青い目。キッテの全てが遠く感じた。その優しい少女のような声が、セイリアの重たい頭の中に響く。
どうしたいか、どうすべきか、どうしなくてはならないかが、上手く折り合わないでいた。頑なに結びつけていた心と体が、今プツンと音を立てて離れた。頭が真っ白だ。
20161001