目の前にあるもの
遠くで声が聞こえている。その声が声帯を通ってきたものなのか、頭に流れ込んだ心の声なのか、イアンには区別がつかない。辺りを見渡そうとしたが、体が動かなかった。しかし目は動くようだ。
肉声と同じように、心の声にも強弱がある。感情の強さに影響されるようだが、そのものの性格や意思のあり方も関係しているらしい。それはごく最近学んだ。
キースは心の声が聞こえない唯一の人間だったので例外としても、それ以外のティルやセイリアなど、人間と一緒にいるようになって、驚くほど多種多様でたくさんの思いを抱えていることを思い知ったのだ。
それまで人間への接触はほとんど自分から一方的に行っていたし、長くは干渉しなかったので、気がつかなかった。イアンは生まれてからしばらく、精霊としか触れ合わない環境にいたからである。
精霊は恐らくだが、感情と意思を統制することができる。また彼らは一貫して自らの使命を理解しており、それ以外のことについてはあまり考えていない。そのため、精霊の声を聞くには“耳”をすませないといけなかった。
そう、イアンは、無意識のうちに常に“耳”をすませている。その行為は小さな心の声も拾い、強い心の声を直に受けとめてしまうことになる。
「う……う、」
「イアン?」
「イアン君!」
まだうまく身体が動かせないが、イアンに意識が戻ったと知り、セイリアは顔を覗き込んできた。その悲しみと笑顔が混ざったような表情から、彼女が安堵したというがわかる。
「良かった。」
イアンの“耳”にそう届いた。自分を抱えているティルの胸に耳を当てて聞く彼の心音と同じ大きさだ。実際に呟いたのか、心の声か、そして誰がそう“言った”のか、わからない。
「イアン君、そのままきいてね。今からこの島を出ます。」
「あれ、何を探すんだっけ?」
「えっと……まずは……」
「お腹減ったなぁ。」
「キッテさんから通行証をもらいました。」
「あーあ、こんなのホント今すぐ破り捨てたい。」
「新しい通行証をもらわないと。そのためには……」
「通行証ってイアンわかるのかな?俺よく知らない。」
「……。」
頭がはっきりしない。心の声と声がごちゃごちゃと混ざり合って聞こえる。イアンは“耳”をすませるのをやめようと試みた。難しいことだった。とにかく耳を傾けて、ティルの心音を聞くに徹する。これは鼓膜を通ってくる音だ。それと同じものかどうかを判断していくしかない。
「キッテさんの通行証を使って、島を出て、えっと……」
「新しく通行証を作るんでしょ?」
「はい。その……その場所の名前を忘れてしまって。」
「メシェネトネフェル。」
「メしえネトネへル。」
「メシェネトネフェルだ。」
(言い辛い名前だなぁ、もうなんなの。)
「メシえ……ネトへル王国に行きます。」
(メシえネトへル、メシえネトへル。うう、覚えられない。)
「とにかく、そこじゃないと、すぐ手に入らないんだって。」
「国や街を渡るためにキッテさんの……」
(正確に言えばキッテさんの盗んだものだけど。)
「……通行証を使うのだけれど、その時に通行証に書いてある名前を名乗らなければならなくて。」
「あいつのじゃないんだよね、それが。」
(誰なんだよ、トトって。全くセコイやつだ。)
(マーリー・トトさん……すみません。どうかあなたが新しい通行証をすぐ手に入れていますように……。)
声に区別がつくようになってきて気づいたことが一つ。身体を動かそうとすると軋むように痛むので、黙っているしかないが。
この堂々巡りを聞いているだけなのは正直苦痛だった。口を挟んで整理したくてしかたない。そんなことを考えていると、“三人”の話を聞き逃してしまった。さほど問題はないだろうが。
「ここはエムハブ……」
(どうしよう、忘れちゃった!)
「エムハブカーサァセケムィブブ。」
「もういいじゃん、エムハブで。めんどいよ。長すぎ。」
「言えないと苦労するぞ。」
「そうですね!エムハブに略します。」
(それで、どこまで話したかな。)
「えっと……エムハブ、そう!エムハブは時間が狂っているそうなので、メシえ……」
(こっちも忘れちゃった!)
「メシェネトネフェル。」
「だーかーらー、もういいって、メシえで伝わるから!」
「言えないと苦労するぞ。ここの民は名前に誇りをもっている。」
「今はいいじゃん!」
(細かい奴だな!)
「そうですね!メシえで!」
「せめてメシェにしろ。」
(ああ……もうどうでもいい。この会話。)
イアンは自分の心の声を最後に、目を閉じて聞くことをやめようとする。考え事をしている時は、耳の方は静かだった。
自分のやることはただ一つ。まずはこのスライプ大陸で、スライプの塔を見つけなければ始まらない。塔は、文字通りの塔の形とは限らず、これといって特徴は決まっていない。勘だけが頼りだ。
行って、見て、聞いて、そうやって探すには、まず自分の身体を取り戻す必要がある。こちらは問題なさそうだが、“耳”はどうにも不安だ。なんとか制御していきたい。
「なんかさ。」
この苦痛な会話を終わらせたのは、意外にもティルであった。それまで話の腰を折ったり足を引っ張ったりしていたにも関わらず、いつになく真剣な顔をしていた。
心の中も、整然としているように感じる。怒りと悲しみが渦巻いていた様子を忘れるくらいに。言葉よりも先に、その清々しい心がイアンに伝わってきた。目を見開いて驚く。
「俺はお前らを助けようと思ってるんだ。」
「ティルさん?」
「よくわからないけど、そう思ったから、そう決めた。……そりゃ、キースがいれば、良かったって、今も思うけど。」
「……。」
「でも、いつかはこうなる気がしたから、だから、これでいいんだろうって……思う。」
心の中はどうあれ、ティル以外の誰も話さなかった。うつむき気味のティルの視線の先には、赤い大地にうつる自分の影がある。風が吹いていて、髪が揺れていた。静かに。
「今までさ、ちょっとだったけど、旅をしている色んな奴を見てきた。その国に入っちゃえば、そいつがどんな家で育ったかなんて、誰でもどうでもよくて。なんてことない顔して、みんなそこでやることをやる。それだけなんだよ。」
「俺たちも、そうならないといけない。」
「大事なのはメシえとか、エムハむとか、そういうことじゃなくて、何をやるかじゃないの?」
「だから俺はそっちが知りたい。」
真っ当なことだった。セイリアに至っては人が変わったのではと疑うほどに。
イアンは喜んだ。この旅には、ティルの協力も必要だと感じていたからだ。感情的になってキースと別れたのではなく、心のどこかで折り合いをつけ、選択をしてここにいるということが心強かった。
そして何より、イアンは聞こえることが全てでないと知った。自分には全てが見え透いていたと思っていたのに、そこにないこともあるのだとわかって、胸を打たれたのだ。
(見えてしまうから、そこにあるものしか見ていなかった。なんて愚かなんだ。)
「お前らよりは旅のことわかるつもりだよ。だから、ちゃんと手伝えると思う。」
「ティルさん、私……あなたのことを、心から頼りにしています。」
「うん。お前らのやりたいこと教えてよ。通行証とかじゃなくてさ。」
「はい!」
20200106