魂と命
セイリアが目覚めた時、キッテが地面に描いた痛みを和らげる魔法陣の上にいた。自分の隣にはイアン。
三角が連なって円を描いているような魔法陣の上にいると、お湯の中にいるようだった。頭からつま先までがじんわりと暖かく、体が軽い。外へ這い出ると、一瞬で体が重たくなった。そして、腹部の痛みが波を打つ。
「この子は心配ないよ。でも一応ね。君が一番重症だったんだ。今よく立っていられるね?」
「キッテさんのおかげです。」
「いや。君の回復力が高いんだと思うよ。」
他愛もない会話の後、キッテはキースの気持ちを話してくれた。キースの言葉を伝聞してきたのではなく、個人的な見解に過ぎない
。謙遜も遠慮もない言葉は、セイリアの肩に重くのしかかった。
その後、キースは去っていった。ごく当たり前にあっさりと。ティルは寝込んでいるし、イアンもあれきり目を覚まさない。今も二人はキッテの住処で眠っている。こうなっては自分も動けない。
「キースさんは、怖かったです。でも、悪い人ではありません。助けてくださったこともたくさんあります。私も、ちゃんとお礼を言いたかった。」
「この世界はね……」
この谷には風が時折強く吹き付ける。湿った空気を巻き上げて、砂と埃をまといながら、憂いさえにおわせる哀愁漂うキッテとそれを不思議そうに見つめるセイリアの間も通り抜けた。キッテはそう言って、しばらく黙る。その間の沈黙は、真横を通る風の唸り声さえ遠く思えるほど静かだった。
「この世界は、思ったより狭い。難しく考えようと思えばどこまでも難しくできる。今からだって、キースを追おうと思えばできるだろ?それを、君はなぜしないの?」
「そ、れは、」
「キースと君の縁は、今君の頭の中にあること、ただそれだけで切れるものだよ。キースが離れていくのも当然だ。お礼を言うのだって君のエゴ。自己満足のため。」
「……。」
「言い返さないんだね。認める?」
「はい。」
「そう。君は、君のやることがあるんだね。だから揺るがない。ティルは、揺らいでばかりだ。」
「ティルさん……。」
「僕は後悔が嫌いだ。だから自分に正直に生きるし、他人に自分の道を委ねたりしない。ティルのようにね。」
「……。」
「君も、その点は似ているか。」
くすっと笑うキッテから哀愁が抜ける。うって変わってご機嫌そうに地面に丸を描きはじめた。何か意見があったわけではないセイリアは、その丸を見つめる。キッテから魔法を教わろうとしたあの時と同じ丸。何に見えるか問われたことを思い出すと、やはり月が思い浮かんだ。しかしその後に、スライプのオーガの大きな目を思い出して肩が震え出した。
あの時、キースとキッテが崖の上で傍観していたということは知っている。セイリアはそれをきいて多少は辛く感じたが、ティルのように怒りの感情が湧くことはなかった。そう思うと、ティルはいつも感情的だった。しょっちゅう顔色を変えているし、自分も同じ感情をもつことがあってもティルほど強くはない。
「あ……」
「なに?何か思い浮かんだ?」
「はい。」
セイリアはふと、魔法を教えるティルの話を思い出した。怒りの感情が自分の中に駆け回るところから着想を得て、炎を発生させたという。
(何か、気持ちが動くことを思い浮べよう。)
一番に思い浮かんだのは、シィアだった。短い赤い髪で高身長、固い胸と肩、強い腕。彼女の温もりがたまらなく恋しい。自分に使命があるせいで今離れ、しかし使命があるから出会ったのだった。その理不尽さに対するセイリアの感情は、切なさ。
さざなみが引き、また押し寄せる。繰り返し繰り返し、セイリアの両側に広がっていくのは、悲しみに似た深い海。その切なさを、キッテの描いた丸の内側に閉じ込めていく。地平線に沿って伸びる波を閉じ込めるのは容易ではなかった。焦らず、少しずつを意識して、波を縮小させていく。
「……。」
集中力の途切れないセイリアを、キッテは辛抱強く見守っていた。頬杖をつき、格好こそ締まりはないものの、張り詰める緊張感の中静かに身を置いている。
セイリアは自分の体の外にあったさざなみを、自分の体の中に感じられるようになってきていた。絶えず揺れて形が定まらないが、律動を持って寄せて返すこれの正体をようやく知る。
「魔力……」
久しぶりに喉が動くと、乾いていて痛んだ。セイリアは自然と閉じていた目を開ける。日が傾いていた。頭頂部から手足の爪先にかけて、全身が重く腰掛けるのもやっとの疲労。激しく胸が上下して呼吸が乱れていた。
「そう、魔力だ。君たちの体の中にある、魂。」
頭を垂れるしかない自分の顔を覗き込んで来ると、キッテがそう言った。その無表情の向こうにあるキッテの心はどんな感情なのか、セイリアは考えた。
魔物であるキッテは魂と魔力を持たない。魔物は魔力を心底羨ましいのだとキッテは言っていた。キッテも羨ましいだろうか、それとも憎いのだろうか。そもそもなぜ羨ましいのだろうか。
「魔力、魂は……それをもつものが未熟である証です。」
「そう言う人もいるね。」
「キッテさんは?どう考えていますか?」
「僕は、永遠だと思ってる。」
「永遠?」
「……。」
先ほどの哀愁がまた漂う。眉を顰めながらも目と口で微笑むという、歪な笑みを浮かべるキッテにまとわりつくのは、自分が思い出した切なさと類似している。切なさを押し殺している、セイリアはそう感じた。キッテが口を開くのを待つことにする。話してくれるなら、大きな手がかりになるような気がしたからだ。
「……。」
「参ったな。セイリアちゃんって結構、頑固だよねぇ。」
「そうかもしれません。」
ヘラヘラと茶化すキッテは想定内であった。しかしセイリアは無理に聞き出すことはしない。あの表情の向こうは、自分が簡単に踏み込んではいけない領域だ。ずっと張り詰めていた空気が緩み、セイリアも微笑んだその時、突然キッテが飛びついてくる。
(しまった!)
「……。」
できる限りもがいて、密着を避ける。キッテに力では敵わない。頭を振り絞って離れないと、またキッテのなすがままになってしまう。だがセイリアは混乱するだけで知恵は浮かばず、泣くしかできない。
もがいていると様子が違うことに気づくのが遅れた。キッテはただ抱きしめるだけで、それ以上何もしてこない。とは言えこの状態もセイリアにとっては非常事態なのだが。これだけなら、なんとか離れるよう言って聞き入れてもらえないかと目論む。
「あの、キッテさん……。」
「君たちは、」
「……。」
「死んでもまた生まれ変わって、出会うことができる。」
「……!」
「魂は永遠だ。僕たちは、死んだらそこでおしまい。種は繋いでも、グェッ!」
「わーっ!?」
ずっとセイリアとキッテの二人きりだった空間に、青い目を鋭く尖らせたイアンが飛び入って来るや否や、キッテの頭を問答無用で蹴りつける。耳元で潰れた奇妙な声を上げられ、雰囲気に飲まれそうになっていたセイリアは色気もなく叫んで慌てふためいた。
イアンが肩で息をしながら、あまり体勢の変わらないキッテを睨みつけて立っている。どうしてもセイリアから離れないので、白い毛の生えた三角の耳をつまんで引っ張った。
「いっだだ!」
「離れろ!」
「過保護すぎるん……痛い!わかったから!」
両手を大きく上げて立ち上がる。目に生理的な涙を浮かべてキッテの耳は、後ろを向いて下がっていた。解放されたセイリアは呆気にとられている。ただ身を縮めで転がっているだけだ。
キッテが襲っているように見えたイアンは衝動で蹴りかかったが、後から後から二人の会話と二人の心が頭に流れ込んできて、状況を渋々だが理解した。セイリアは未だ立て直すことができていないが、キッテも概ね順応している。
「魔法の、話をしていたんですね。」
「そうだよ。」
「魔力、魂の話も。」
「うん。」
「……だからってセイリアを抱くことありますか。」
「えへへ、僕の習性だよ。」
「……。」
イアンは目を閉じる。この茶番に流されてはいけない。自分の心を鎮めて、有意義な話をしたいと思った。すぐセイリアに手を出すキッテは憎らしいが、お陰で魔力と魂について、もう少しで掴めそうだとセイリアの心が言っている。
「僕も、魂について思うことがあります。」
「なに?」
「魂は、命なのではないかと。」
「命……。」
「魂と魂を繋ぐもの。ここでいう魂は、魔物がもたない魂のことではなくて、命。命と命を繋ぐことができれば、セイは、魔法は使えるようになるかもしれません。」
20190806