バカ!
「キース!お前!」
襟元に掴みかかりたいが、下半身が痺れて立ち上がれない。その代わり、両耳が張り裂けるような大声で叫んだ。精一杯睨みつけても、キースの表情は何一つ変えられなかった。
「……。」
相変わらずの無をもって見下ろしてくる紫の瞳が、こんなにも冷たかったことはあるだろうか。ティルは得体の知れない感情に背筋を震わせた。ここ数日間で募りきったキースへの不信感とは違う。これ以上、晴れない気持ちのまま叫んではいけない気がした。が、上手く平衡をとれる精神状態ではない。元々、ティルは理性的な方ではないのだから。
「お前、キース、見てたの。ずっと。いつから?」
「ああ。ずっと。」
「あの魔物が、きた時から?」
「いいや、ずっとだ。」
ききたいことはそんなことではない。キースの頭の中をかき乱してやりたい、核心をついて、心の底から後悔させてやりたい。何を?ティルはそれさえもわからなかった。しかしどうしても、自分のように簡単に揺れてくれないのがキースの感情だ。こんなに無様に足掻かなくても同じことだ。もはやティルの頭と心はぐちゃぐちゃだった。
「なんなの?」
「……。」
「なんでだよ、俺……食われるところだった。」
「そうだな。」
「あいつらもだぞ!」
「ああ。」
「よく、よくも!それでいいのか!お前は!」
パーティのリーダーとして、あまりにも責任のない行動だと思った。決まりにあることではないが、旅を共にする仲間を助け、支え合うのが普通のパーティなのに。キースは助けるどころか仲間の危機をただ傍観しているだけだった。思いやりの欠如なんてものではない。仲間が死にゆくのをなんとも思わないなんて。
しかしティルは失念している。仲間を支え合うのは、支えを必要としているもの同士だからだ。助けが必要だからパーティを組むのだ。それでもキースは、そのどれにも当てはまらないということを。そんなキースがティルやセイリア、イアンを連れている理由はたった一つ。
「邪魔なんだ。」
「……は?」
「旅に出るとき、お前は俺と約束をしたな。」
「そんなこと今関係ない!お前!今なんて言った?!もう一回言ってみろ!」
「関係ある。」
「俺の話を聞け!」
「お前は、約束を破った。」
「な……」
「俺との約束を、忘れたのか。」
「!」
ティルの頭にある場面が浮かぶ。幼いティルの両手が、同じ年頃のキースの腕を掴んでいる。ドクンと大きく心臓が鳴った。鼓動がうるさいからか、あるいは頭の奥が痛むからか、記憶の中の自分が、幼いキースに向けて言っていることがわからない。それでも、記憶の中のキースが言っていることはハッキリと聞こえた。
「俺の旅を邪魔しない。そう約束して。」
「――。」
「お前が強くなったら迎えに来る。」
「――。」
幼いティルは手を離した。えらく高圧的な物言いに対し、文句の一つも言わずに従う。昔の自分は物分かりがよかったのだろうか。感心するところであるが、実際は、途方に暮れて脱力し、そのまま目の前が真っ暗になっただけであった。耳の奥から声が聞こえ始める。
「……で」
鼓動が強く、そして速くなる。それに伴い、声が悲痛な叫びとなっていった。現実のティルは耳を塞いだ。それでも奥から奥から声がする。引き裂くような、声で言う。頭が割れそうに痛い。
「置いて行かないで!」
「止めろ!!」
声をかき消そうと叫ぶ。ティルの声で一旦は口をとじたキースだったが、この間何を言っていたかティルにはわかりたくもない。波打つ痛みを受け止めるのに精一杯だ、忘れたかった。
「止めて、やめてくれ、この話は……」
「いいや、やめない。」
「うっ……」
「旅の邪魔をしない、そう約束した。」
目の前のキースの姿が歪む。その代わりに、一回り幼いキースの陰が鮮明に浮かんでいた。先程の記憶のキースより、ずっと大人びた表情をしている。が、背丈は見慣れたキースよりもやはり低い。
頭の痛みは遠く、今は実態がなかった。目の前のキースの声だけが頭の中に静かに入ってくる。受け入れるだけ、与えられるものを受け取るだけの器になった感覚。そういう心を、ティルは知っている気がした。このキースの目の前にいた自分がそうであったことを思い出すのは、ずっと後になるが。
「もう一度、約束しろ。」
「キースの旅の邪魔はしない。」
「……。」
「命令には、従います。」
「約束だ。」
「うん。約束する。」
現実では、突然静かになったティルに、キースが冷たい眼差しを真っ直ぐ向けて立っていた。記憶ばかりを見つめている朧げなティルの瞳にキースは映っていない。今一度、確かめなければならないことがある。キースはティルの瞳に光が戻るのを待っていた。
「約束を、」
「……。」
「約束を破ったから、」
「……。」
「俺はいらない?」
「ああ。」
ティルは夢の中の出来事に感じていた。事実、記憶と現実が混ざり合ったところに立っている。何の感情もない声が冷たく感じるのは、その肯定する言葉の先に、自分が望まない未来があるからだ。そうわかると、力が抜けてその場に突っ伏すことになった。
ティルはまだ、キースにすがりついたあの時の自分に支配されている。だが、伸びた腕脚、大きく硬くなった骨。地面に沈むと、それらの感覚が強くなる。旅を始めてから今まであった出来事を思い出すと、心がこの身体に追いついてくる。最後に頭に浮かんだのは、セイリアの怯えた表情に血走った目をしたイアン、スライプの赤いオーガの顔、その殺気と、体の痛み。この記憶が蘇る頃には、心と身体はすっかり現実のティルのものとなっていた。
地面に足の裏をつけて、身体を持ち上げる。そしてゆっくりと立ち上がる。ティルの目線はキースよりも高い。キースと目を合わせようとすると見下すようになるのだ。焦点の合う瞳を、キースは下で受け止めた。
「ティルさん!キースさん!」
上から下から、無言で見つめ合う二人にかけられた声は、吐息交じりで苦しそうなセイリアのものだ。駆け寄るセイリアの後ろに、のほほんとした足取りをしたキッテの姿も見える。湿気を帯びる空気の流れを思い出し、現実が戻った時、ティルはどこからどこまでが記憶だったのか、それとも全て白昼夢だったのか、ほんの数分の出来事が曖昧になった。このまま忘れてしまっても都合は悪くない。たがそれはキースが許さなかった。セイリアがティルの側についた時、鋭く睨みをきかせながら言い放つ。
「これまでだ。」
「キース……。」
「わかるな。」
「わかる。わかるよ、でもこんな、もう、ダメなのか?」
「十分待った。」
「そうだな。……キース、お前はさ、冷たいよ。でも正しい。俺だって正しい。」
「ああ。」
「そう、だよな?」
「ああ、正しい。」
セイリアは黙ってティルの隣に立っていた。ティルと同じように正面にキースをとらえる。ボロボロと涙をこぼすティルの横顔すら、見てはいけない気がして、真っ直ぐキースだけを見つめる。キッテが、水を差してはならないと言った。それだけは厳守して、優しいティルの心根をひたすらに想う。
「よかった。」
「……。」
「あれもこれもは無理なんだ。それでも俺は、一番は……お前の側にいたかった。でも、俺はキースの力にはなれない。」
「……。」
「してやれることは、ない。」
「そうだな。」
「迷わず言うなよ……。」
「……。」
「それに俺、こいつとイアンを放って行けない。だから、これ以上お前との約束を、守るなんて、言えない。」
「ああ。」
「……お前はどこに行くの?もう、」
「迎えには来ない。」
記憶を辿り、ティルはとある場所を思い出していた。キースと二人で育った小さな家。そこで自我を育み、のびのびと幸せを育てたあの頃を。キースも同じであったはずだった。そうでないという事実に気づいていたようで、気付きたくなくて忘れたふりをしていたことも。そうして今まで、自分の思う型にはまらないキースに一人、ひたすら気をもんできた。
同じでないのは二人は別の自我をもった生き物なのだから当然だ。ようやく真正面から受けとめ、認められる。しかし、もう二度と戻ることができないことは認めたくなかった。
「じゃあ、また会いに来てよ。」
「どこへ?」
「……。」
キースは返事を待たなかった。答えられないことを知っているからだ。人差し指と親指で輪を作り、唇にくわえる。ピィーという細く高い音が響き、ティルとセイリアが全身を強張らせて我に返った。キッテが谷底の方を見て唇を尖らせ、ピューと口笛を鳴らした。喜びと感心の混ざったまん丸の瞳で大きな影を見る。
ぐわっという音で谷底から持ち上げられた空気は、赤い砂を巻き上げて皆の視界を霞めた。その突風を作り出したのは、鳥のような大きな羽4本を広げた魔物だ。長い首、ガサガサの羽根の生えた細長い尻尾も含め、全長およそ縦に4メートル、横に3メートルという、重量感のある魔物だった。
キースはその魔物の首に腕を回し、足、というより爪の上に足を乗せる。魔物が羽ばたくと、あの突風に吹きつけられたセイリアが転がり、地面に這いつくばるような格好しか保てなくなった。ティルも膝と両手を地面につけてなんとか上体を起こしていた。
キッテだけが平然と立っていて、呑気に両腕を振ってキースに別れを告げている。それを見てティルはこれが別れだと認めざるを得ず、憤慨した。最後というのに、型破りで強引なキースに対する怒りが、腹の底からふつふつと湧き上がってきて抑えられなかった。
「キース!お前なんか、お前なんか……バカだ!最後くらいなんか言えよ!これで、こんなのが最後ってどういうことだ、バカ!」
「今までありがとう。」
「バ、」
魔物が尾で谷の淵を叩き、崩れた足場がガラガラと落ちていく。砂埃と何よりも吹きすさぶ風の音で、その場は騒然としきっていた。
すっかり静かになった頃には、その場にうずくまり顔を伏せたティルがいて、しばらく動かなかった。胸中は計り知れない。セイリアは嗚咽をききながら、見守るしかできなかった。赤い大地の上で星が賑やかに煌めいても、ティルにかかる青い影がただ寂しそうに転がり続けた。
20190505