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春は桜

作者: 月乃 ナミ

一度見ただけの、忘れられない女性がいるって言ったら、きっと笑われるだろう。



 季節は春。せっかくの満開の桜は、週末の雨でしけった空気に晒されて、重々しい雰囲気を醸し出している。月曜日の午後、非番の俺は特に予定もなく、ふらふらと散歩に出かけることにした。

幸いにも今日は晴れていて、しかも午前中から天気が良かったせいか、地面は十分に乾いている。


だだっ広い鶴見公園は、真っ昼間からブルーシートを敷いて騒ぐ大学生らしき人の声であふれていた。お花見、だろう。明らかにお酒を飲んで、お菓子やらなんやらを食べながらはしゃぐのがメインだろうけど。


わいわい、がやがや、わはははは。男女が笑いあう声。

大学生というものには、もう一生ご縁がないだろうと思うと、俺はなんだか羨ましいような妬ましいような気がするのと同時に、そんな風にはしゃぐ自分よりも年上だろう人たちを嘲笑いたいような気持ちになる。


時間を確かめるように、ポケットからスマホを取り出す。


観光だろうか、わずかに外国語らしきものが聞こえるのに混じって、一眼レフらしきカメラでシャッターを切る、カシャ、という軽快な音もする。写真を撮るのもいいかもしれない。



パシャリ。



刹那。

ずいぶんと近いところで、耳慣れた機械音がシャッターを切った。さっと顔を向けると、俺のいる位置より少し前に人が立っていた。胸あたりまである髪を揺らしながらiPhoneの画面を食い入るように見つめる女の人の横顔。うーん、と言うように唇を寄せて、鼻で息をついている。


白いジーンズに、ベージュの短いスプリングコート、黒いヒール、細い赤のベルト。


春らしい装いで、iPhone片手に首を傾げる彼女。白いパンツってのも履く人が履く人なら、結構サマになるんだな、なんて考えた。


何が気に入らなかったのか、白ジーンズの彼女はもう一度iPhoneを目の位置に掲げ、少し上に傾ける。桜にピントを合わせているらしい。パシャリ。パシャリ。パシャリ。立て続けに何度か機械音。

少し体を移動して、また。

少し風が出てきて、枝が揺れる。


パシャリ。


風が吹いて、俺の髪が視界を遮った。髪の間から透けて見えるヒールを履いた足が、さらに高いところにある何かを求めるように、ぐんと背伸びをしていた。


さっと指を通して前髪をかき分ければ、その女性はさらに顔より高い位置にiPhoneを掲げて、片手で顔の横の髪を押さえながらカメラアプリを駆使している。パシャリ。彼女のiPhoneの画面に四角く切り取られた景色が見えた。


パシャリ。


機械音が響いたと同時に、ひときわ強い風が桜の木を煽る。きゃっと小さく声が上がり、数歩よろけた彼女の体が、半分こちらを向いた。iPhoneはもう下ろされている。


風に持ち上げられた桜の花びらが、俺と彼女の間でくるくる舞い踊る。目の端で、スプリングコートの裾がはためく。





「あ、」




ぱしゃり。




目が、合った。

だらりと、手の力が抜けたような感じがした。


風になびく彼女の長い髪と桜の花びらの隙間から見える、驚いたように丸くなった瞳は、透けそうなほど淡い茶色をしていた。その目がふっと緩んで、彼女の薄い唇が優しく弧を描く。

見られていたのが照れくさかったのか、少しだけ瞳は伏せった。


いつの間にか止まっていた足を動かそうとしたところで、彼女がハッとして後ろを振り返る。少し距離のあるところから、誰かの声が誰かを呼んでいる。


「かっちゃん?かっちゃーん?」

「はーい!すぐ行く!」


何もなかったように叫び返した彼女は、iPhoneをコートのポケットに押し込んだ。

さくさく、と花びらと芝のような草を踏む音がする。


まっすぐに俺を見た彼女の口は素早く、でも確かに“お恥ずかしいところをお見せいたしまして”と動いた。そのままぺこりと頭を下げて、彼女はもう振り向かずに声の方へと走り去る。


ややあって、遠くから彼女と彼女を呼んだ誰かが、楽しそうに話す声が枝渡る風に乗って聞こえてきた。


俺はため息を一つ吐いて、ゆっくりと一歩踏み出す。

「写真、撮ればよかった…」

たった今まで、そこにいた彼女の。なんて、隠し撮りは犯罪か。


ぽつりと呟いて、俺は自分の手の中にあるスマホを見下ろした。未だに空を舞う花びらが、俺のスマホの上にちらちらと細かい影を落として通り過ぎていく。


俺は、おもむろにカメラアプリを起動して、一枚だけ、彼女が立っていた場所の写メを撮った。


綺麗、だった。


白いジーンズの足が映っているような気がした。

枝の下で揺れるスプリングコートが映っている気がした。

舞う花びらに混ざる彼女の髪が、映っている気がした。

黒いヒールがつけた足跡は、確かにそこに映っていた。



乱れた髪の間から見えた、あの光を丸ごと取り込むような瞳。

俺は、きっと、ずっと忘れない。




あの時、確かに俺はシャッターを切っていた。


読んでいただき、ありがとうございます。

細々としか営業しておりませんが、また読んでいただけると幸いです。

ちなみに全く出てきませんでしたが「かっちゃん」は「かすみ」です。

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