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 スマホの音で目を覚ました。そのまま時刻を確認する。午前八時。学校がある日に起きる時間だった。頬に冷たさを感じ指で触れてみると、微かに濡れそぼっていた。わたしは泣いていたようだ。涙で枕がしっとりと湿っていた。

 嫌な夢を見た。いつもはすぐに忘れてしまうのに、今朝はひどく鮮明に思い出せる。思い出してしまう。去年の八月にチンさんと遊びに出掛けた時の記憶だ。そして突然、悪夢に変わった。

 体を起こしてみると、頭が異様に重く感じた。膝や背中がだるいように感じる。額に手を当ててみると、少しだけ熱があった。雨に長い間打たれていたせいで、風邪をひいたかもしれない。そう考えた瞬間、昨夜のことを思い出した。チンさんが夜中に待っていたことだ。

(もうあの時みたいに笑い合うことはないのかな)

 そう思うと、涙が出そうになった。

 わたしはあの店が好きだ。いろんな人と出会わせてくれた。そしてチンさんも大切な人だ。また一緒に出掛けたりお喋りしたりしたい。

 ――やっぱり、このままで終わらせたくない。

 わたしは静かに決意すると布団を出た。

 リビングへ行くとテーブルの上にサンドウィッチを乗せた皿が置かれていた。ママは仕事で出掛けたようだ。カーテンが開かれた窓から日光が射していて、熱気がじわじわと押し寄せている。わたしはエアコンと扇風機のスイッチを入れてから棚にしまってある体温計を取った。ソファに掛けながら測定する。体温は37度3分だった。

 少し考えてから、予定通りに学校へ行くことにした。いつもなら家で休んでいたかもしれないけれど、今日はじっとしていたくなかった。

 簡単にシャワーを浴び、少し涼んでから身支度を始めた。今日はいつもより支度に時間が掛かった。昨日化粧を落とさずに眠ってしまったからだ。メイクはいまいち納得がいかなかったけど、電車に乗り遅れてしまうので諦めた。食欲はどうしても出なかったので、サンドウィッチはお弁当にした。

 戸締まりを確認してからわたしは家を出た。

 陽射しとともに凄まじい熱気が顔面に迫った。サウナにいるようなジメジメとした暑さだ。日陰になっている場所を見ると、ところどころが濡れていた。きっと朝方まで雨が降っていたのだろう。そのせいで余計に蒸し暑いのだ。

 仕事がない日はなるべく歩くことにしている。駐輪場は有料だし、駅から少し離れているからだ。歩いても時間はそれほど変わらなかった。

 坂道を下って行く。左右に広がった雑木林から蝉の鳴き声が絶えず聴こえていた。まるで燃え盛る炎のような音だ。力強い生命力を感じる。昨夜チンさんに会った場所を通る時には、その蝉の声に集中して早足で下った。

 駅に到着すると今日も観光客が右往左往していた。日増しに人が多くなっている。この時期にこれだけの人がいるなら、八月はどうなってしまうのだろうと少し心配になった。

 学校は電車で四十分掛かる場所にある。最初の頃は通学が長く感じていたけれど、慣れてしまえばあまり気にならなくなった。それどころか、一人で考え事をしたり、音楽をじっと聴いたりすることができるので、最近では長い電車も悪くないと思えるようになった。

 今日はホームにも人が多くいたけれど、なんとか座ることができた。わたしはいつも通りイヤフォンを装着し、瞑想に入る。本当はもう少し音量を上げたいけれど、隣の人に迷惑が掛かるといけないので控えめにしておいた。

 音楽を聴きながら電車に揺られている間に、わたしは眠ってしまった。ふと気づいた時には目的の駅の三つ前だった。ヨダレが垂れているのに気がついて慌てて口元を拭う。キャップ帽を被った小学生の女の子がこちらを見ていて、少し恥ずかしくなった。

 駅を出て賑やかな大通りを進む。人が多いからか余計に暑く感じた。アスファルトが足元をじりじりと燃やしているようだ。なるべく日陰を選びながら進み、スターバックスがある交差点を折れた。このまま並木道を通り抜けると学校がある場所だ。

 学校が見えてきた辺りで、後ろから自転車が走ってきた。わたしのすぐ目の前で急に止まると、くるりと運転手が振り返った。金髪の髪が揺れている。

「あ、葵じゃん」

「おはよう」

 同級生のカオリだった。またカラコンを変えたのか今日は青い瞳だった。鼻が高いから、一見するとハーフみたいに見える。

「寝起き? ヨダレ付いているよ」

「え? 嘘?」

 わたしは慌てて口を拭く。するとカオリがケラケラ笑った。

「冗談だよ。葵はいつも眠たそうな顔してるよね」

「ちょっとぉ。からかわないでよ」

「あはは。騙される方が悪いんだよー」

 カオリがゆっくりとペダルを漕ぎだした。わたしも歩くのを再開する。わたしの隣にゆっくりとカオリが走っているような形になった。

「なんか会うの久しぶりだよね」

 わたしが訊くと、カオリが気だるそうな顔で答えた。

「うん、そうだね。最近学校来てなかったら」

「そうなの?」

「なんか面倒になっちゃって。でも親に怒られてさあ。それで今日は来たの」

 どこの親も同じようなことを言うんだなあ、と心の中で思った。わたしは面倒になっているわけじゃないけれど。

 二人でそこから互いの近況を報告しながら学校に入っていく。最近どこのライブに行ったとか、就職活動の結果についてとかだ。カオリは六本木のクラブでナンパしてきた男について愚痴っぽく語っていた。昨夜のことを話したくなったけれど、朝からする話ではないと思って我慢した。

 学校の玄関から入ってすぐの所に待合所のようなスペースがあって、そこでしばらく二人で話をしていたが、予鈴が鳴った所で一旦解散した。カオリとは取っている授業が違うのだ。

 階段で二階に上り教室に入る。エアコンがよく効いていた。教室を見渡すと数人の生徒がぽつぽつと間隔を開けて座っていた。

 今日の一番目は音楽史の授業だ。わたしの選んだコースでは必修ではないけれど、興味があったので希望して受講している。そういうわけでカオリのように気軽に話せるような友人はこの中にはいない。みんな別のコースの人たちだ。

 空いている席に座り待っていると、すぐに若い女の先生が入ってきた。この授業はちょっと特殊で、毎回別々の先生が教壇に立つことになっているらしい。確かこの人はピアノのコースの先生だったと思う。スタイルがよくて綺麗な人だ。

 授業の流れは決まっていて、音楽の歴史に少し触れ、それを実際に聴いてみる。そしてその曲やアーティストについて深く解説する、という流れになっている。どうしてこんな授業があるのか尋ねたことがあった。自分でインターネットで調べたり動画サイトで聴いても同じようなことができると思ったからだ。その時の先生は、アーティストとの話題作りの為に引き出しを作っておいた方がいい、音楽史にも常識のようなものがあって、それを抑えておくのには指針が必要だ、と述べた。

 今日の授業はクラシックの歴史らしい。わたしはちょっと残念だな、と思った。音楽界に旋風を巻き起こしたエルヴィス・プレスリーの時代から今に至るまでのロックンロールの歴史は面白かった。ビートルズがロックを確立し、クリームがハードロックを確立させた。キング・クリムゾンやセックス・ピストルズの曲が授業で流れたりもした。それらの楽曲は今聴いても新鮮に思えたし、素直にカッコいいと思った。わたしの好きなジャンルだったので、毎回楽しみにしていたのだ。

 クラシックに対して持っている印象と言えば、学校の放課後に流れている曲とか深夜のデニーズに流れている曲とか、その程度である。先生は熱心に語り始めたが、興味はあまり湧かなかった。テキストを読むと眠たくなるので形だけそのページを開くだけにした。

「それではまずは十八世紀のドイツを代表するバッハの曲を聴いてみましょう。バッハは有名だから、みんなも聞いたことあるんじゃないでしょうか? でも実はバッハ一族は音楽家が多いの。バッハと一口で言っても、色んなバッハがいるんですよ。みんながよく知っているバッハはヨハン・ゼバスティアン・バッハという名前の人で、音楽の父と呼ばれているのもこの人です」

 そこで先生は宙を指でなぞるような動きをした。

「J.S.バッハと略記されることが多いので、もし機会があったら見てみてください」

 どうしてヨハン・ゼバスなのに「J.S」なのだろう? そんなことを考えているうちにゆったりとしたチェロの音色が聴こえてきた。先生がテーブルの上のミニコンポを操作したのだ。先生はホワイトボードに「無伴奏チェロ組曲」と書いた。

 その春の木漏れ日のような軟らかい音色を聴いていると、だんだん眠たくなってきた。瞼が重い。何とか起きていようと抗っていたけれど、一分後には我慢できなくなって目を閉じてしまった。無理やり開こうとしても、片方の瞼しか開かない。まあ音楽の授業なんだし耳だけしっかり働かせていればいいか、と都合のいいことを考えながら、寝ないようになるべく曲に集中した。

 バッハの曲が終わると、次に流れたのはワーグナーという人の曲だった。先生の説明ではこの人も有名な人らしい。わたしは聞いたことがない名前だった。先生が色々と説明をしていくが、単語一つ一つが難しくて、余計に眠たくなってきた。「無限旋律」という単語が聞こえてきて少し気になったけれど、目を開くことはできなかった。

 半分起きて半分寝ているような朦朧とした意識のまま曲が流れだした。細い糸を丁寧に縫いこんでいくような繊細な旋律だった。どこまでも澄んだ水のような美しさを感じる。全ての音が調和されていて、完全な世界になっている。

 その後に続いたのはドビュッシーという人の曲だった。その名前はなんとなく聞いたことがあった。ワーグナーに比べると、なんとなく朧に包まれたような印象をその曲に持った。上手く表現できないが、ワーグナーがハリウッド映画だとすると、ドビュッシーは邦画のような感じだ。先生が色々と説明をしていたが、わたしは上手く理解することができなかった。声をしっかり聞こえているのに、そのまま意味を与えずに通りすぎていってしまう。

 気がついた時にはその曲は終わっていて、眠ってしまっていたことに気がついた。

 起きていなきゃと思ったけれど、次の曲が始まると再び強烈な睡魔がやってきた。

 ここの所、ずっと寝不足だったから。

 意識が遠のいていく。




 ふと今までと違う感覚を持って覚醒した。

 意識が強制的に持ち上げられたような妙な気分だった。

 この音はピアノの音だろうか。それにしても、変な曲だ。とてつもなく気味が悪い。さっき聴いていた心地よい音とは真逆の色を持っている。ピアノ以外に音はなく、そしてピアノ自体もゆっくりとした少ない音だけで構成されていた。不協和音が多用されているのに、そこには妙な調和が生まれている。複雑に絡み合った知恵の輪のような不自然と不自然の奇妙な合致。

 わたしは自然と目を開く。教壇の前で先生がキーボードを弾いている。この曲はコンポからではなく先生が演奏していたようだった。ホワイトボードには「ヴェクサシオン」と書かれている。それが曲名なのか作曲家なのかわたしには分からなかった。

 その音を聴いていると、足元から焦燥感が這い上がってきた。不安にも近いかもしれない。その場にじっとしていられないような感覚だ。わたしはその音を聴きながら意味もなく膝を組み替えたり、両手の指を組み合わせみたりした。その曲を聴いていると、何故か急に13番の部屋のことを思い出した。あの暗い部屋の前にわたしは立っていて、意味もなく闇をじっと見つめている。そんなイメージが浮かんできた。

 早く終わってほしい――そう思い時計を見ると、丁度授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。演奏がぴたりと止まる。

 結局授業の大半を寝過ごしてしまったことにようやく気がついた。

「はい、じゃあ今日はここまでね。お疲れ様。この曲をちゃんと聴きたい人はパジャマを持ってくるように」

 先生が言うと、生徒たちがみんなで笑った。わたしは意味がよく分からなくて、思わず左右を見た。一体どういう意味なんだろう。彼らの顔を見ると、何かの冗談だったように思える。

 この曲の説明などはされないようだった。生徒たちが一斉に席を立つ。椅子を引く音と喋り声が重なって、一気に騒がしくなった。さっきまで立ち込めていた暗い雰囲気は跡形もなく消え去った。

 キーボードを片付けている先生にさっきの曲はなんですか? と質問したくなったが、やめた。きっと先生は演奏する前に説明したのだろうなと思ったからだ。そんなことを聞いたら怒られるかもしれない。わたしは「ヴェクサシオン」という単語をテキストの隅っこの方にメモだけして、そのまま教室を出た。

 廊下に出ると足元に熱を感じた。教室が冷えていたせいで、足元が冷えてしまったのだ。しゃがんで足首を持ってみると氷のように冷たくなっていた。

 カオリと待ち合わせをしていた四階へ向かう。わたしの受けた授業は本来は二限目で、この後はお昼休みになる。学校が遠いので一限目の授業は取らないことにしているのだ。どうしても一限目に出る必要があるときは、カオリや他の友達の家に泊まらせてもらっている。

 四階には休憩用の広いスペースがあって、お弁当を食べるときはいつもそこで摂っている。天井も高いし窓も大きいので、他のフロアよりも開放的だからだ。休憩スペースには音楽が流れていた。ダンスコースの子たちが練習をしているようだ。他にもお弁当を食べている人や缶コーヒーを片手に雑談している人がいて賑やかだった。

 ぐるりと見回してみたが、カオリはまだ来ていないようだ。

 なるべく静かなベンチを選んで座る。フロアに設置された扇風機の首がこちらを向くと、心地良い風がやってきた。そこまで冷えきっていることもなく、心地良い涼しさだ。背筋を伸ばしてみた。朝よりも大分体調が良くなってきているように感じる。電車と授業で眠ったおかげだろうか。

「お待たせ」

 カオリがやってきた。片手にファミマの袋をぶら下げている。わたしの隣に座ると袋の中からカロリーメイトを取り出した。袋の中を覗いてみると、中にはポカリスエットしか入ってなかった。

「お昼それだけ?」

「うん。ダイエット中だから」

「もう十分細いじゃん」

「いいのいいの。食べるの好きじゃないから」

 今だって折れてしまいそうなくらい細いのに、これ以上痩せたら骨と皮だけになってしまいそうだ。それに、訊いてみたらカオリは朝ごはんも食べないと言う。わたしだったら我慢できずにお菓子を買ってしまいそうだ。今日だって朝ごはんを抜いているから腹ペコだ。

「ねえ、ヴェクサシオンって知ってる?」

 サンドウィッチを準備しながらカオリに訊いてみた。彼女はカロリーメイトをかじりながら首を横に振った。

「知らないか」

「なんなの? その、ベクなんとかって」

「さっき授業で流れてたの」

「授業で流れてたのに分かんないの?」

「寝てたから」

「あんたいつも寝てばっかだね」

 カオリに呆れられると、なんだかとても悔しい気がする。わたしだっていつも寝ているわけじゃないのに。でもカオリからすると、わたしはいつも眠そうな顔をしているそうだ。

「どんな曲だったの?」

「なんかね、すごく暗い曲だった。静かなピアノの曲で、歯車が狂ったまま動き続けているような不気味な音色」

「へえ、そう」

 カオリはポカリを飲みながら答えた。あまり興味がないように見えた。あの曲は実際に聴いてみないとなかなか説明がしづらいのだ。カオリの反応を責めることはできない。それにしても、凄いインパクトがある曲だった。脳裏に焼き付くような印象がある。思わず13番を思い出してしまう程に。

(13番……)

 そうだ。あの部屋の電話の音を聞いてから歯車が狂いだした。今の状況は、まるでヴェクサシオンの不穏な旋律のようではないか。

「ちょっと相談があるんだけど」

 わたしはカオリに訊いてみることにした。

「なになに?」

 まるで噂話しでも聞くような口ぶりだ。カオリはもうカロリーメイトを食べ終わっている。対してわたしは殆ど手をつけていなかった。

「もし名前だけで人探しするとしたらどうする?」

「人探し? なんで?」

「理由はとりあえず置いといて、どうやって調べようと思う?」

「知ってそうな人に聞く」

「それができないとしたら?」

「ええ? なんでよ……」

 カオリは不満そうに唇を尖らせた。

「いいから。ね、どう?」

「探偵に頼むとか」

 探偵なら見つてくれそうだが、そこまで大げさなことをする気はない。それに探偵に頼むとなったらお金も掛かるだろう。まずは自分で出来る範囲でなんとかしたい。

「他には?」

「んー。それじゃあフェイスブックとかラインで探す」

 そうか。それなら簡単に出来るし、なんとなく見つかりそうな気がする。一度アカウントを作ればそうそう消さないものだし、今使っていないとしても情報が残っている可能性が高いと思う。あとで池田真一の名前で検索してみよう。数年前だったらミクシィの方が可能性があるかもしれない。

「誰か探してるの?」

「うん。ちょっと色々あって――」

 わたしは13番の怪談話から順に話をしてみた。遠く離れた街にいるおかげか、星野さんに話したときのような葛藤は全くない。最初は面白がって聞いていたカオリも次第に真面目な顔つきになっていった。昨夜チンさんが深夜に待っていたことを話すと、カオリは指でも切ったような痛々しい顔をしながら「こわー」と言った。

「なんでよ。信じられないくらい仲良しって言ってたじゃん」

「分からないから相談してるの」

「うーん。なんでだろね」

 カオリは腕組をしながら犬が唸るような声を上げた。しばらくして思いついたように口を開いた。

「夢でも見てたんじゃないの? 葵、いつも寝てるし」

「もう、真面目に考えてよ」

「じゃあ妄想とか? だってそんなの普通じゃないよ。夜中に帰り道で待ってるなんてさ」

「妄想かあ」現実感がなさすぎて、本当にわたしの頭に問題があるんじゃないかと思えてくる。しかしメモやギターは実際に戸高さんも見たんだ。「そうだったら良いのに」

「葵も悩むことあるんだね」

「なによそれ」

 ムッとしてカオリの顔を見たが、その顔を見て、わたしを元気づけようとして軽口を言ったのだとすぐに分かった。ちょっと嬉しくなる。

「辞めちゃえばいいじゃん。それでこっちに越してきなよ。どうせ就職口もこっちしかないでしょ」

「ダメ。仲直りしたいの」

 仲直り、という言葉が正しいのかは分からない。喧嘩をしたわけじゃないのだ。でもそれが一番しっくり来る気がした。またチンさんと普通に会えるようになるには、この問題から目を背けるわけにはいかない。なんとかして原因を突き止めなければいけないと思う。

 カオリが再び口を開いた。今度はさっきよりも真面目な顔つきだ。

「それか、やっぱ男じゃない?」

「男?」

「男の名前を聞いて忘れろって言ったら、やっぱ思いつくのはそれ系の話だよねえ。そのイケダシンイチくんはチンさんって人が忘れたい過去の彼氏なんじゃないの」

 その考えは一度わたしの頭の中にも浮かんだ。でもあの時の顔は尋常ではなかった。狂気に取り憑かれているとしか思えないような不気味な瞳をしていた。それに、待ち伏せまでするだろうか。

「二度と名前も聞きたくないような嫌なことがあったんだよ。多分。誰だって触れられたくない秘密があるでしょ」

 いつになく真に迫った声色だった。カオリにもそんな秘密があるのかもしれない。

「そうなのかな?」

「そうだよ」

 もしも池田真一を知ることがチンさんを傷つけることだとしたら、わたしがしようとしていることは間違っているのだろうか。今朝の決意が早くも揺らぎそうになる。

「早くそれ食べちゃわないと、間に合わなくなるよ」

 カオリがサンドウィッチを指さした。わたしはサンドウィッチを掴んで口に放り込む。熱で温まってしまってパンが生暖かい。口にパンが入っている間に、今度はカオリが話をしだした。音楽についての話だった。

 そこからはお昼休みが終わるまで音楽の話に没頭した。カオリは最近のレゲエとかトランスとかが好きで、土日にはクラブに行ってディスクを回したりしている。最近、昔からのクラブミュージックからテクノポップに主流が変わりつつあるそうだ。お昼休みの間に例の話が話題に出ることはなかったが、終わり間際に何かあったら相談してとカオリは言った。

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