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「メモ? メモって?」

 星野さんがわたしの側に座り込み、優しい口調で言った。わたしを労っているのが分かった。いつもの鋭い目つきではなく、子どもや動物を見る時のような優しい目つきをしていた。

「13番を調べている時に更衣室のギターから変なメモが出てきて、それを言ったらチンさんが変な様子になって、それで」

「ちょ、ちょっと待て」星野さんが額に手のひらを当てて「もう少しゆっくり話してくれるかな」困ったように言った。

「とりあえずここだとあれだから、従業員室に戻ろうか」

 わたしは頷くと、すぐに立ち上がった。いつの間にか耳鳴りは消えていたし、さっきまでの息が苦しくなるような感覚もない。きっと話してしまったことで、心が軽くなったのだ。

 わたしは星野さんと共に従業員室に入る。

「その話は長くなりそう?」

 わたしは少し考えてから、首を縦に振った。

「じゃあ、駐車場のおじさんに電話しとくよ」

 星野さんは電話を取り、今日は終わるのが遅れることを伝えた。客室がとても散らかっていて、片付けに時間が掛かる、そんな理由をつけたようだ。星野さんは嘘が得意なようだ。流れるようにスムーズに話をしていた。わたしがやったら、きっとしどろもどろになってしまうだろう。

「よし、とりあえずこれでいいか」

 星野さんは電話を置くと、わたしの向かいに座った。体をこちらに向けて両腕をテーブルの上に乗せる。それから目で準備ができたことをわたしに伝えた。

「一昨日のことだったんですけど、夜に13番から電話が鳴ったんです――」

 星野さんには昨日も少し話をしていたけど、自分の頭を整理する為にもう一度最初から話をした。

 話している最中に気がついたが、ワカさんが13番の話をした時に急に様子が変わったのは、不機嫌だったのではなく、もっと別の原因があったように思える。今思えば、あの変わり様は不自然極まりない。

 ギターを見つけ、その中からメモが出てきたこと。それをチンさんに話すと、様子が突然おかしくなったこと。ギターがなくなっていたこと。

 全ての話を終えると、星野さんは腕を組んだまま考えていた。目線はテーブルの上に固定させ、真剣味を帯びた表情をしている。

 全てを話したことで、随分と気が楽になった。誰かに相談するというのは凄い力を持っている。

 やがて星野さんは視線を右の方へ映した。わたしはつられてそちらを見る。

「ギターがなくなっていたのは、これを見れば分かるかもしれないな」

 星野さんが視線を向けたのは、監視カメラの映像モニターだった。

 この店には監視カメラが設置されていて、レジのあるカウンターと自動ドアの入り口付近を一緒に映している。出入りする人は必ずこのカメラに映ることになる。他にも非常口が二つあるが、そこはプラスチックのカバーを割って鍵を開けなければ開かないようになっている。緊急時以外に開かれることはない。緊急時の扉はパーティションに仕切られた通路の手前と、21番の隣にある。

 カメラの映りはそこまで鮮明ではないが、性別、年齢、体格くらいなら判断できる。よく見知った人間なら間違いなく分かるだろう。そして映像は一ヶ月間分まではハードディスクに録画されるようになっている。

「分かりそうなところから順に整理していこうか。まず、ギターを持って行ったのは一体誰なのか」

 星野さんは視線を今度は左側の壁面に向ける。その先には今週のシフト表が貼りだされていた。B5サイズの用紙を横に使っていて、ひと目で全員の一週間分のシフトが確認できる。このシフトは時間数を計算しながらワカさんが作っていた。

「昨日の夜の時点ではあって、今はない。ということは、その間に誰かが持って行ったということだ」

 わたしは今日のシフトを確認する。

「紙に書きだしてみよう」

 星野さんはシフト表を見ながらペンを取った。


 10時~14時 ワカ、ケイ

 14時~16時 ワカ、戸高

 16時~18時 戸高、チン

 18時~20時 チン、葵

 20時~23時 チン、葵、星野

 23時~    葵、星野


 わたしは星野さんの書いたメモを見ながら昨夜のことを思い返していた。昨日、帰るときに戸高さんは手ぶらだった。それに彼女はわたしと一緒で原付バイクで通勤している。ギターを持って帰るのは無理があるし、もしそうしていたのなら絶対に分かるはずだ。つまり、まず間違いなく今日の朝の時点ではギターはあったはずだ。ギターを持って行ったのは今日のシフトに入った誰かということである。

「この中の誰かがギターを隠したんだな」

 星野さんはメモに丸印をつけていく。

 ワカ、ケイ、戸高、チン。この四名に丸が付けられた。

「あ、でも戸高さんは帰るときにギターを持ってなかったです。それに、チンさんも」

 ギターは大きなものだし、背中に隠してしまうこともできない。あの二人はギターを持っていなかったと断言できる。ということは、ワカさんかケイさんのどちらかがギターを持って帰ってしまったのだろうか。

 わたしが言うと、星野さんが小さく笑った。

「葵ちゃんが来る前に外のどこかに隠しておいて、ここを手ぶらで出て行けば戸高さんもチンさんもギターを運ぶことはできる」

「あ、そうか」

 そんな簡単なことに気がつかなかった自分の頭に呆れた。

 いや――。もしかしたら、彼女たちがそんなことをわざわざするわけがないと、頭のどこかで考えているのかもしれない。

「今の段階では容疑者は四人だ」

 星野さんはペンでメモの上の四人の名前をトントンと叩いた。容疑者という言葉を訊いて、ちょっぴり罪悪感が沸いた。裏でコソコソと嗅ぎまわっているようで居心地が悪い。

「映像を見れば分かるかもしれないけど、さすがに今日は無理だな。時間がなさすぎる。四倍速で見ても二時間くらいは掛かりそうだ。この問題は後に回そう」

 星野さんは今書いたメモの上に、もう一枚新しいメモ用紙を置いた。

「疑問そのニ。そのギターは誰のものなのか」

 わたしは昨日のことを思い出しつつ、思いついたまま発言する。

「なんとなくしか見なかったですけど、結構埃がついていたと思います」

「埃か。どれくらい放置してあったように見えた?」

「多分、一ヶ月や二ヶ月ではないと思います。もっと長い間放置されていたような感じでした」

「それはどれくらい? 五年? 十年?」

 どうだったろうか。昨日ギターを見たときにはあまり気にしていなかったから、細部までは記憶にない。

「ちょっと分からないですけど、十年以上という風には見えなかったと思います。多分」

「なるほど。それでギターは壊れていたんだっけ?」

「はい。ネックの根本が折れてました」

「ネック?」

「ギターの左手で持つ細い部分のことです」

 わたしはギターを持つ仕草をしながら説明した。星野さんはそれで分かったようで、色々とメモに書き込んでいった。

「可能性で言えば、客の忘れ物ってことも考えられる。スタジオ代わりにギターの練習をしに来た客が何かの理由でギターを壊してしまって、そのまま放置していった」

「そっか。そうですよね」

 ギターが客の物だとは、今まで考えていなかった。たしかに星野さんが言ったとおり、忘れ物だとしても全然おかしくない。

「ギターがなくなっていたのは、何年かそのままになった忘れ物は事務所に渡すような決まりがあるのかもしれない。今日の昼間に戸高さんが忘れ物だったことを思い出して、事務所に報告した」

 テレビに出てくる探偵のような口ぶりだ。落ち着いていて説得力がある。わたしはもう忘れ物説に流れそうになっている。

「でもその場合はチンさんの異様な反応の説明がつかない。客の忘れ物なら、そこまでギターに過剰反応すると思う?」

 わたしは首を横に振った。ことはそう簡単ではなさそうだ。

「それを踏まえると、やっぱりこの説は考えない方がいい。やっぱりあのギターはチンさんの知り合いの持ち物で、この店に置いてあったことを考えると、従業員の誰かのギターという可能性が高い」

「この店にギターを弾く人はいないと思います。わたし、誰にでも楽器が弾けるか訊きますから」

「そうか。なら、昔ここで働いていた誰かのものだな」

 星野さんはそこでポケットを探った。

「ちょっと失礼」

 タバコを取り出したようだ。火をつけながら時計をちらりと見た。わたしも一緒に時計を見上げると、時刻は二時を少し過ぎた辺りだった。

 星野さんは口先を器用に曲げて厨房の方へ煙を吐いた。手元のタバコもこちらと反対側に遠のけている。そうしてもらっても、煙の匂いが漂ってきた。従業員室が狭いせいだ。あまり気にしてるわけではないけど、この店の人はみんなそうしてくれる。多分それは、ワカさんが居るからだろう。ワカさんはタバコが嫌いだ。彼女が機嫌を損ねないように、みんな気を遣っているのだ。

「ギターはちょっと置いておこう。先に別の疑問を整理しておこうか。その三。池田真一とは誰なのか。また何故チンさんはあんな反応をしたのか」

 池田真一。チンさんは忘れろと言った。凄まじい気迫を込めた声で。その男と喧嘩をしたとか、気にいらないとか、そんなちっぽけなものではないだろう。それ以上の何かがある。

「星野さんも知らないんですよね?」

「うん。聞いたことないな」

「ここに昔働いていた人でしょうか。それで、ここで何かがあった。チンさんが忘れろっていうような何かが」

「どうだろう。これだけの情報では何も分からないな。これ以上は憶測にしかならないし、とりあえずこの謎も保留にしておこうか。池田真一ってのが誰なのかが分かれば、チンさんの不自然さの理由が分かるかもしれない」

 星野さんはタバコを灰皿の上でもみ消した。目を細めて煙たそうな顔をしている。タバコの吸殻を指で弾くと、星野さんは静かに言った。

「話を戻すけど、あのギターの持ち主に関しては実は心当たりがある」

 言葉の端々に言いづらそうなニュアンスが含まれていた。

「誰ですか?」

「カズオミだよ」

「カズオミ?」

「あれ? 会ったことないっけ。チンさんの旦那だよ」

「あ。そうだ」

 そういえばそうだった。チンさんの話に出てくる登場人物はいつもアダ名なのですぐには分からなかった。チンさんがオミリンと呼ぶ旦那さんの名前がカズオミという名前だった。

「星野さんとカズオミさんは同じ時期に働いていたんですか?」

 星野さんは首を振った。

「いいや。微妙に被ってない。でもアイツがここで働いている時のことも俺はよく知ってるよ。俺とカズオミは小学校からの同級生なんだ。カズオミがここにギターを持ってきていたとしてもおかしくないと思う。家に居る時も暇さえあればギターを抱えてたし」

「カズオミさんはいつ働いていたんですか?」

「えっとね。確か高校卒業してからすぐだったから……」星野さんは指を折って数えていく。「八年くらい前かな。それから四年間は働いていた。ちなみに俺が入ったのは三年半くらい前」

 もしもあれがカズオミさんのギターだとしたら、池田真一とカズオミさんはきっと関係しているはずだ。それはチンさんとも関係がある可能性が高いことを示している。

 チンさんがあんな反応をする原因について、いけないと思っても低俗な想像が働いてしまう。男の名前に過剰反応する原因と言えば、思い当たるのは一つしかなかった。それはきっと――。

「葵ちゃん、まだカズオミのギターかは分からないよ」

 星野さんの声で、思考を止めた。まるで心を読まれたような気がしてわたしは少しだけ慌てた。この人はたまに鋭い発言をする。

「ギターに関しては、俺が探ってみるよ。借りてた本があったから、それを返すついでにね」

 星野さんは立ち上がり、テーブルの上に出しておいたタバコをしまった。帰る支度をしているのだ。時計を見ると、もう間もなく二時半になるというところだった。さすがにこれ以上遅れるとまずい。

「葵ちゃんは池田真一を調べてみてよ」

「でも、どうやって?」

「それは……まだ思いつかないけど。……とりあえず出ようか。そろそろマズイと思う」

 その一言を合図に、わたしたちは店を出た。

 外の様子を見てみようとラウンジの手すりに近寄ってみると、湿気を帯びた温い風が吹き抜けから吹き上げてきた。

 まだ雨は降り続いているらしく、屋根に当たる雨音が手を叩いているような音を奏でている。まるでわたしの不幸を嘲笑っているようで気分が悪い。

 エレベーターに乗り地下に向かった。室内の鏡を見てみると、さっきよりも顔色が良くなっていた。頬に手を当ててぐりぐりとマッサージをする。

「この話は、他の人にはしない方が良さそうだな」

 鏡越しに彼の顔を見ると、顎の部分に手を置いて、思慮深い顔つきをしていた。

「……そうですね。そうします」

 ワカさんが全員を上から束ねているとしたら、チンさんは全員を横の繋がりで束ねているような人だ。誰かにこの話をすると、その人からチンさんに話が行くかもしれない。

 地下に到着すると、駐車場のおじさんが待ち構えていた。耳の上に鉛筆を掛けている。どこかの競馬場にいそうな格好だ。

「遅かったねえ。お疲れ様」

 ニコニコと愛想の良い笑みを浮かべた。普段は仕事を済ませてしまうとすぐに管理人室に戻るのに、今日はそうではなかった。何かいいことでもあったんだろうか。

「すいません、遅くなって」星野さんが言った。

「いいよいいよ。興奮してまだ寝てなかったしねえ。見てよこれ」

 おじさんは胸のポケットから何か紙切れを取り出す。

「久々に当たったよ。万車券」

「万車券?」

 わたしが言うと「万馬券の競輪バージョンだよ」と星野さんが隣から教えてくれた。メモを見ると手書きの数字がぐちゃぐちゃと書かれていて、色々な所に丸やバッテンの印が書かれている。わたしが見ても一体何のことだかさっぱり分からなかった。

「それって凄いんですか?」

 わたしが言うと「ここの一ヶ月分の給料くらい勝ったからね」と嬉しそうに笑った。

 一ヶ月か。それってどれくらいなんだろう。少なくても十五万くらいは貰ってると思う。競輪というのは、そんなに大きなお金が手に入るのか。

 考えている最中に、ふとさっきのことを考えていないことに気がついて苦笑する。あれだけ重くのしかかっていたものが、すっきりと消えてしまったようだった。

「記念に貼っておこうかな」

 おじさんは事務室に一度戻り、壁の目立たない所にその紙を貼り付けた。半分だけ開いた扉から見ていると、おじさんが貼りつけたメモの隣にも同じような紙が張ってあるのに気がついた。

「その隣にあるのはなんですか?」

 扉の外から訊いてみた。

「ああ、こりや前回の万車券の時のメモだよ。五年くらい前かなあ」

「ふうん」

 五年ぶりと聞いて少し驚いた。イメージだと半年に一回くらいは誰でも大勝ちしているものだと思っていた。

 星野さんはおじさんといくつか言葉を交わしてから「それじゃあ、行きます」と告げた。おじさんは上機嫌のまま再び管理室に入っていった。

 階段を上り一階へ向かう。

 わたしも星野さんも歩きだったので、駐車場には終わったことを報告しただけだ。

「それじゃあ、また。何かあったら報告するよ。雨降ってるから足元に気をつけて」

「はい。星野さんも」

 星野さんが駅前のアーケードの方へ歩いていくのを見届けてから、わたしは反対側へ歩き出した。

 駅前は雨のせいか普段よりも車が少ないように思えた。大抵は深夜でもタクシーが何台か停まっているけれど、今日は一台もない。

 駅舎の光が雨に乱反射してぼやけて見える。その光を見ていると、なんだか別の町に来たような気持ちになる。幻想的でどこか儚い、いつもと違う別の顔だ。その明かりを見ながら、星野さんに相談してよかったな、と思った。もしも一人で抱えていたら、きっと今も暗い気持ちでいただろう。こんな風に周りを見ることもできなったと思う。

 駅を通り過ぎ、低いガードレールを潜ると、途端に道が薄暗くなった。暗闇に溶け込むように、わたしはゆっくりと歩を進めた。

 今日は異様に疲れた。頭の芯の部分が熱を持っているような感覚がある。まるで海に行った日の帰り道のような感じだ。疲労が全身に蓄積されているのを感じる。緩やかなカーブを水溜りを避けながら進む。辺りは静まり返っていて、雨の音しか聴こえない。

 そのまま歩いて行くと、道路の先が明るくなっていた。見た感じでは車のライトのように見える。わたしは立ち止まり、こちらに伸びている光をよく見てみた。カーブになっているので車は見えないが、どうやら停車しているようだ。

 この辺りには民家しかない。それにこの道はぐるりと一周回ってくるような形になっている。どこかに向かうのに通る道ではない。

どうしてあんな所に車が泊まっているのだろう。

わたしは傘の柄を強く握った。

最近は静かなこの辺りも物騒になっている。別荘が多いからか、空き巣被害が相次いでいるのだ。

 少しでも不穏を感じたら、あそこの脇道に駆け込めばいい。車は入ってこれないし、地元の人間にしか分からないような複雑な道に繋がっている。わたしはそう決めて歩き出した。

 カーブを進んで行くと、光の源が視界に入り込んだ。わたしは思わず右腕で目元を隠した。ずっと暗い道を歩いていたので、ひどく眩しく感じる。腕からそっと覗いて見ると、車のシルエットがうっすらと見えた。

 そこから二歩進んで、再び立ち止まった。

 車がこちらに向って来る。滑り落ちてくるように、ゆっくりと。

 わたしは動けなかった。膝から下が動かない。全身に流れる血液の凍りついた。それが爪の先まで流れこんで、体を硬直させているのだ。嘘でしょ……。そう心の中で呟いた。こちらに向かってくる白のタントを、わたしはよく知っていた。

 車はわたしの真横で停車した。ゆっくりと窓が開くのと同時にライトがふっと消えた。わたしは咄嗟に目線を地面に落とす。傘で顔を隠すように低く下げた。

「遅かったねぇ、葵」

 チンさんの声だった。小さな声なのに、耳元で囁かれたかのようによく聞こえる。

「今何時だろうね? もう二時四十分だよ。いくらなんでも、遅すぎるよね」

 何か声を出さなければ。そう思っても、どうしても声が出せない。音が喉の奥ですり潰されてしまう。口を開くと、上下の歯が何度もぶつかった。

「あんた……」獣が威嚇する時のような低い声だった。「話したね」

 刃物で貫かれたような衝撃を受けた。手に力が入らなくなって、傘を落とした。瞬間、彼女の顔が視界の隅に映る。顔が闇に潰れていて、表情は分からない。だが、わたしの頭の中では、夕方の狂った表情がフィードバックしていた。わたしは更に首を傾け、足元を凝視する。

 沈黙が流れた。鋭い視線をひしひしと感じる。

 どうして何も言わないだろう。わたしの言葉を待っているのだろうか。

 何か言わなければ――そう思った時、唐突に窓を閉じていくモーター音が聞こえてきた。

 そしてライトが再び点灯し、エンジンが唸る。車は急発進して、瞬く間に消えていった。テールランプの光が薄れていく。わたしは立ち竦んだまま呆然とエンジン音が遠ざかっていくのを聞いていた。

 やがて暗闇と雨の音だけが再びわたしを包んだ。

 あっという間の出来事だった。ぼうっとしている時に、ふと我に返った時のような感覚に陥った。まるで現実感が持てない。

 どうしてそうしたのかは分からないけれど、その時、わたしは黒い空を見上げた。

 月の光さえ見えない暗い夜空だ。雨粒が容赦なくわたしの頬を打つ。いつの間にか、目を開けていることができない程雨の勢いは強くなっていた。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 わたしはそれから十分近くそうしていた。

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