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 朦朧とした意識のまま、トイレの個室を出た。

 賑やかな声が、来店を告げるチャイムとともに聞こえてきたからだ。

 カウンターあるロビーに向かっていくと、予想したとおり大勢の客がひしめき合っていた。予約の客が到着したのだ。自動ドアが何度も開閉し、更に客は増えていく。見たところ、予約をした二つのグループが同時に来店したようだ。

 その群衆に紛れて、緑のシャツの下に長袖を来た人影が見えた。星野さんだ。わたしは胸を撫で下ろす。だがすぐに極度の緊張を再び背筋に感じた。カウンターに立っているチンさんが視界に入ったからだ。

 客の応対をしている彼女の声がここまで聞こえてくる。その声は、いつもとまるで変わらない。突き抜ける青空のような明瞭な声だ。だが、それが却ってわたしの不安を煽った。

 突っ立っているわたしに気がついたのか、星野さんが立ち止まりこちらを見た。不自然なわたしの立ち位置を見て、怪訝そうな顔を浮かべている。わたしが固まったままでいると、星野さんはこちらに向かってきた。

「なに? どうしたの? 客来てるよ」

 わたしは返事をしようとしたが、声が出なかった。喉の奥がひっついてしまったようだ。無性に喉が乾いていることに、その時初めて気がついた。

「葵! 星野! 注文来たよ!」

 急に名前を呼ばれて、わたしはびくりと体を震わせた。返事はできない。チンさんの顔を見ることもできなかった。

「まったく。来て早々忙しそうでうんざりするな。さあ、行こう」

 わたしは命じられたロボットのように、星野さんの後ろについていった。

 注文は殺到していた。テーブルの上に何枚もの伝票が並べられている。

 チンさんが厨房で料理を作っているのが見えた。忙しい場合は、厨房で料理を作る人と、酒やソフトドリンクを作り客室に運ぶ人、注文を受ける人とに別れることが多い。それが最も効率的だからだ。

 わたしは星野さんとともに飲み物を作っていく。電話やレジに人が来れば、わたしか星野さんが担当することになる。普段は星野さんが料理を作ることが多いけれど、今日はチンさんが先にその場所に就いていた。きっとわたしと一緒にいたくないんだ。そう思うと悲しい気持ちになった。と同時に安堵している自分がいることに気がついて、訳がわからない感情がこみ上げてくる。

 氷を入れたグラスにカシスオレンジを注ぎながら、星野さんが言った。

「どうした? 風邪?」

 多分、わたしがおかしいことに気がついたのだろう。わたしは曖昧に返事を返す。

 星野さんは何か言いたそうな顔をしていたが、その時客室からの電話が鳴った。わたしは電話機の方へ走っていった。

 それからも注文は増え続け、休む暇もないまま時間だけが経過していった。三人とも、黙々と自分の仕事をこなしていく。

 厨房と客室を行ったり来たりしたせいで、足が疲れてきている。急いで飲み物を作ったので、ユニフォームの裾がこぼれた酒で濡れていた。店は活気に溢れていて、個室から漏れてくる客の歌声がいくつも重なって騒音となっていた。目も回るような忙しさだったが、わたしにとっては幸運だった。機械のように黙々と仕事をこなしていれば、余計なことは考えずにすんだ。だが、チンさんがわたしに仕事の指示をする時にはその度に緊張が走った。顔は結局一度も見ることができなかった。

 ようやく客が途絶えはじめたのは、もう十一時半を過ぎた頃だった。忙しくなければ、チンさんは帰っているはずの時間である。

「やっと座れたな。そういえば、ここに来てから一回も座ってないよ」

 星野さんが従業員室のソファーに深くもたれた。

「チンさんも大丈夫でした? あんまり無理すると、マズイっすよ」

「まあ、まだ大丈夫でしょ」

 チンさんの声は、やっぱりいつもと一緒だ。一体、彼女は今どんな顔をしているのだろうか。いつものように笑っているのか、それとも……。

「そろそろ客も減ってきたし、チンさんは帰っても大丈夫ですよ」

「いや、もうちょっといるよ。まだ片付けしてない部屋とかあるし」

 チンさんのその言葉を訊いて落胆する。早く解放されたかった。

「いやいや。マジでいいっすよ。なんかあったらどうするんですか」

 星野さんが言い返した。彼の顔を見ると、珍しく真剣な顔をしている。頬が痩けているせいで、余計に目元が鋭く見えた。「帰ってくださいよ。お腹の子が大事でしょう? ね?」それはとても強い口調だった。

 チンさんは黙っていた。次に言葉を発するまでに数秒時間を置いた。妙に長い時間だったのは、多分気のせいではない。チンさんはこの場所に残りたいのだ。それはきっと、店が忙しいからではないだろう。さっきのことが関係しているのだ。

「……そこまで言うなら、帰るけど」

 チンさんが立った。渋々、という雰囲気が伝わってくる。

「じゃあ、あとよろしくね」肩に手を置かれた。わたしはつい見上げてしまう。「葵」

 チンさんは飛び切りの笑顔だった。わたしは何か声を出したが、しっかりとした言葉にはならなかった。心に強烈な感情が生まれる。それは恐怖に近いものだったが、嬉しさや安堵も含まれていた。

 チンさんはタイムカードを切ると、そのまますぐに店を出て行った。

 自動ドアが閉まるのを監視カメラ越しに見て、ようやくいつもの空間が戻ってきた、と思った。ロビーのソファには客が座っていて、何か話をしている。タバコの匂いがここまで漂ってきた。近くの客室からは激しい音楽の歌声が聴こえてくるし、音楽有線はいつもより音量が大きい。徐々に五感が戻っていく感覚を受けると、わたしは星野さんがいるのも気にせず大きく深呼吸をした。気が抜けて、思わずがくりと頭を項垂れてしまった。

 この場所は何かが狂っていた。いままでの世界が形を変えてしまったみたいだった。

「それで、何があったの?」

 星野さんが訪ねてきて、わたしは項垂れていた頭を持ち上げた。心配そうな顔でわたしを見ている。彼はきっとこれを訊くためにチンさんを帰らせたのだとすぐに分かった。

「それは……」

 先ほどのことを説明しようと思ったその直前に思い留まった。チンさんの言葉が、頭の中に鳴り響いたのだ。

「忘れろ!」わたしの頭の中で、またあの声が繰り返された。「忘れろ!」感情の読み取れない声、それなのに凄まじい意思が込められている声。思い出して、再び背筋に冷たいものを感じた。

「……何がって、どういう意味ですか?」

「いやいや。何かあったんだろ? 見てれば分かるよ」

「何もないですよ」

 星野さんは前傾姿勢を保ったまま、わたしに強い眼差しを向けている。わたしは思わず目を逸らした。

 星野さんはそれ以上何も訊いてこなかった。その代わりにテレビの音量を上げた。

 今は何も考えたくなかった。早く家に帰って、眠ってしまいたい。

 客室からの呼び出し音が鳴った。わたしと星野さんは同時に席を立つ。客が少なくなったとはいえ、店の状況は暇とは言い難い。わたしは率先して電話を取った。

 注文の電話はそれからも一定の間隔で鳴り続けた。




 最後の客が出たタイミングでわたしは一度トイレに行った。

 用を済ませてから手を洗う時に、何気なく鏡の中の自分の顔を見て驚いた。頬の部分が不自然に釣り上がったまま固まっていた。よく見ると、小刻みに痙攣している。きっと無理やり笑顔を作っていたせいだろう。ついにわたしにもチックが出てしまった。

 それに加え、目の下が黒くなっていて何日も寝ていないような人相になっていた。ひどい隈だと思い擦ってみると、指先が僅かに黒ずんだ。隈だと思っていたものは、単なる化粧崩れだったようだ。無意識に目元を擦ってしまったのかもしれない。

 しかし顔色とは裏腹に心はさっきよりもかなりマシになりつつあった。時間というのは偉大だ。あれだけ乱れた心も、なんとか余裕を取り戻しつつある。

 深夜〇時三十分になり、いつも通りに閉店業務が始まった。

 今日は片づけも大変だろう。酒をこぼされた部屋の床をモップで磨かなければならない。

 星野さんが音楽有線を切る。朝から働き続けていたスピーカーが鳴り止むと、外の雨の音が小さく聴こえているのに気がついた。雨はまだ降り続いているらしい。いつもなら音楽有線を切った時に奇妙な感覚に陥るが、今日は何も感じなかった。それどころか、客が消え静かになったこの店こそ本来の姿なのかもしれないと、何故かそんなことを思った。

 二人で部屋の片付けをしていく。机や椅子は星野さんが動かし、わたしはモップを掛けていった。

 12番の片付けが終わって部屋を出た時に、星野さんが言った。

「そういえば、昨日ここらへんに立ってたよね。電話のこと調べてたんだっけ。何か分かったの?」

 唐突にそう訊かれて、わたしは全てを話してしまいたい衝動に駆られた。昨夜、この更衣室でメモを見つけたせいで、何かがおかしくなってしまったのだ。

「いえ、別に何も」

 わたしはわざと素っ気なく答えた。

 星野さんは頭を掻いて困った顔をしていたが、わたしの態度を見て諦めたようだ。

「部屋の片付けはここで終わりだよね。それじゃあ、残りの部屋の確認だけしてくれるかな。俺はレジを閉めてくるから」

 そのまま星野さんはモップを片手に早足でカウンターの方へ歩いて行った。

 わたしは13番の部屋の方を見る。異様に暗い空間が扉の先に潜んでいる。この部屋はこの忙しかった今日でさえ使用しなかった。目に見えない力が、人を跳ね除けているような気さえしてくる。

 照明をつけて部屋を見渡した。当然ながら、昨日と何も変わりはない。

(……あのメモは一体なんだったんだろう)

 この部屋から電話が鳴らなければ、メモを見つけることもなかっただろう。そう思うと深夜の電話とあのメモが一連の事柄に思えてしまう。

 腹の底にじわりと探究心が湧いてきた。さっきの恐怖の代わりに、チンさんとの関係が壊れてしまうことへの恐れが大きくなってきている。

 普段明るい人だから、きっと無表情の彼女を見て不気味だと思ってしまっただけだ。

 わたしは自分を恥じた。

 わたしはあの人が好きだ。どうして彼女があんな顔をしたのか理由を知りたい。そして出来るなら解決してあげたい。いつも相談を聞いてくれたんだから。少しは恩返しをしたい。

 やはりこのまま放っておくことはできないと思った。

 池田真一が何者なのか。行動を起こさなければ、わたしは今日を忘れることができない。きっと一生後悔することになる。

 13番の照明を消して部屋を出る。わたしは14番へは向かわずに少し引き返し、更衣室の前に立った。あのギターをよく見てみれば、手掛かりが得られるかもしれない。

 強迫観念に近いものに囚われつつ、わたしは更衣室の扉を開いた。

 そして、その直後にわたしは後悔した。ほんの数秒前の自分を呪った。やはりチンさんの言ったとおりに忘れるべきだった。もうこの件には触れないようにするべきだった。

「どうして……?」

 昨夜この部屋に置いてあったはずのギターが消えていた。

 狭い部屋だから、物陰に隠れているということはありえない。誰かが持ち去ったのだ。そうとしか考えられない。よく見るとギターが置いてあった場所は綺麗に掃除されている。埃一つ落ちていない。

 わたしはすぐに部屋を出た。そこにいることが耐えられなかった。呼吸が浅くなっているのが自分でも分かる。チンさんのあの狂った瞳を見た時の恐怖が、再び蘇ってきた。

 一体、わたしは何に関わってしまっているのだろう。これは異常だ。戸高さんは帰るときに何も持っていなかったし、チンさんも何も持たずに出て行った。

 わたしが来る『もっと前』からギターはなかったのだ。

 チンさんはそれを知っていたに違いない。知っていて、わたしにいつもと同じように笑いかけていた。ギターが消えた理由を考えてみたが、想像することすら出来なかった。

 その時、なんとなく気配を感じた。

 はっとしてそちらを見ると、扉の形に四角く塗りつぶされた13番の暗闇があった。

 暗闇は深く、室内の様子は分からない。なのに、その部屋に何かが潜んでいる気がしてならなかった。

 わたしは踵を返すと、急いでその場から立ち去った。

 鼓動が早鐘を打っていた。何かがわたしを追ってくる。そんな気がして、自然と早足になった。カウンターに戻ると、星野さんがパソコンの前に立っていた。走ってきたわたしを見て、驚いた顔をしている。

「どうした? 何かあったのか?」

 わたしは走るのをやめ、ゆっくりとカウンターに歩いて行った。コツンコツンと音を立てながら一歩づつ進む。言うべきか、言わないべきか。呼吸を整えながら、自身の足音を聴きながら、何度も自分に問うた。心の内の天秤は激しく揺れて壊れてしまいそうだ。

 その時だった。

 電話の呼び出し音が鳴った。一昨日の時と全く一緒の無機質な電子音。喧しく鳴り響いてわたしを責めている。

「13番……」

 星野さんが電話機を見て呟いた。

 電話の音が次第に大きくなってきた。サイレンのように唸りながら、わたしの頭に入り込んでくる。瞬間、目眩を覚えた。わたしはその場にしゃがみ込む。

「……葵ちゃん? 大丈夫か?」

 星野さんが駆け寄ってきた。と同時に電話が鳴り止む。

 電話の音が消えた代わりに、今度は強烈な耳鳴りがした。こめかみ辺りに鈍い痛みが伴っている。

「あの、わたし……」

 頭に鈍く響く耳鳴りが、まるで電話の音のようにわんわんと唸っている。

 その音の奥から、低い轟音が重なって聞こえてきた。それが耳鳴りの一部なのか、雷が落ちた音なのかは分からない。わたしは、耐えられなかった。心の内の天秤が音を立てて瓦解した。

「変なメモを見つけたんです――」

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