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 翌日、この町には朝から雨が降っていた。

 わたしは窓の外を見上げる。曇天の空は、地上にへばりついているような重々しさがあった。ようやく梅雨らしい日が訪れたのだ。きっと全国の農家やダムを管理している水道局の人間などは歓喜しているに違いない。

 昨夜家に帰ってくると、リビングには扇風機が出してあった。ママが出してくれたのだ。ありがたかったけれど、今日はまだ一度も使っていない。湿度は高いが、部屋の中はそこまで暑さを感じなかった。

 わたしは昼食にパンを食み、それから自室でだらだらと読書を続けていた。ポンさんから数ヶ月前に借りた小説だ。とある辺鄙な村に引っ越してきた主人公が、不可解な出来事に遭遇する。謎を追っていくと、村の住人が結束して自分を嵌めようとしていることに気付き、そして……。そんなあらすじである。

 普段、わたしは漫画と雑誌以外に本を読むことはない。この本は、ポンさんがどうしても読めというので読んでいる。活字は苦手だったから今まで放置していたけど、この本が意外と面白くて、飽きずに三時間ほど読み続けていた。今は夕方の四時である。

 そろそろ仕事に行く準備を始めなければならない。

 わたしは本を閉じ、クッションの上に置いた。学校に通う電車の中で読もうと思う。それからシャワーを浴び、簡単に化粧をした。わたしは元々化粧に時間を掛けない方だけど、仕事の時はなおさら短い。十分も掛かっていないと思う。

 今日は雨が降っているのでバイクはやめておくことにした。

 大きめの傘をさす。わたしの好きな淡い紫色に染められたお気に入りの傘だ。傘を回すと、水滴が幾何学的な模様を造りながら飛び散った。音楽プレーヤーと繋がったイヤフォンを耳に装着し、わたしは駅に向かって下りはじめた。駅までは長い下り坂で、細い道に民家と藪が並んでいるだけの静かな道だ。車もあまり通らない。

 歩きながら今日のシフトを確認するためにスマホを開く。六時から戸高さんとわたしが交代。八時まではチンさんと二人。八時になると星野さんが加わり、三人で十一時まで。それ以降は忙しくなければチンさんが帰宅し、星野さんと二人になる予定だ。

 今日が終われば、ようやく今週の出勤は終わる。明日と明後日は休みだ。今週は三連勤だったので、すっかり夜型のリズムになってしまった。明日は学校だけどしっかり起きられるだろうか。

 緩やかな道を下っていくと、徐々に駅前のビルが見えてきた。

 くすんだ白色の四角いビルで、曇天の空に溶け込んでいるように見える。空に近いところに掲げられた居酒屋の巨大広告がまるで浮いて見えた。このビルを見て、墓石みたいだと言ったのは確か星野さんだったと思う。

 緑色の柵の螺旋階段が建物を貫くように走っており、各階には駅前を見渡せる小さなラウンジがある。ショッピングモールのような造りで、各階のラウンジは空間的に繋がっていて吹き抜けになっている。そのせいかツバメが巣を作っていくことが多い。ハイカラのある四階からでは、屋根が邪魔してしまって半分ほど隠してしまうが、それでも開放感は十分だ。

 ビルに到着するといつも通りエレベーターに乗った。四階を押す。歩いているときは平気だったけれど、エレベーターの中でじっとしていると、額にじわりと汗が浮いてきた。歩いたことで体が火照っている。

 四階に到着し、自動ドアから店に入ると、音楽有線の音楽と冷やされた空気が全身を包んだ。気持ちがいい瞬間だ。

 カウンターには誰も立っていなかった。わたしが入ったのに誰も出てこないところを見ると、もしかしたら忙しいのかもしれない。

 そう思いながら従業員室に入る。戸高さんとチンさんが立ったまま向かい合っていた。仕事をしていたわけではなさそうだ。

「おはようございます」

 わたしが言うと、二人が同時にわたしを見た。わたしが来たことに気がついていなかったように見える。

「……どうしたんですか?」

 立っているままの二人に訪ねてみた。チンさんがいる時はいつも点いているテレビも今日は消えていた。

「ちょっと話をしてただけよ」

 戸高さんが言った。なんだろうか。いつもより表情が固い気がする。大事な話をしていたのかもしれない。

「葵、昨日は大変だったみたいじゃん」

 隣に立っていたチンさんが笑った。いたずらっぽい笑みだ。

「トッティから訊いたよ」

 チンさんは戸高さんのことをトッティと呼ぶ。歳はチンさんの方が一回り下、三十前半くらいだったはずだけど、ワカさんのことはワカと言うし、ケイさんのことはケイちゃんと呼んでいる。違和感は一つもない。副店長ということや、この店で一番の古株――たしか戸高さんより一年早くハイカラに入った――ということもあるが、一番はそのキャラクターによるものだと思う。そのような呼び方をしても許されるオーラがチンさんにはあった。

「そうそう、すっごく大変だったんですよぉ」

「バカだね、空気を読まないからだよ」

 チンさんがからかうように言った。

「違うんです。最初は機嫌が良かったんです」

 泣きつくように言うと、チンさんは更に笑った。

「ワカの機嫌が読めるようになるまでは二年は掛かるからねぇ。ご愁傷様」

 男の子のような豪快な笑い方だ。

「まあまあ、もう終わったんだから。ね?」

 戸高さんがわたしを宥めた。

「さあさあ、早く引き継ぎを終わらましょう」

 まだ愚痴を言い足りない気分だったけれど、戸高さんとともにカウンターに向かった。チンさんはソファに座りテレビを点けたようだった。

 レジの金額合わせが終わり、戸高さんは更衣室へ向った。夕方番の時はそのあと買い物があるそうなので、着替えをしているのだ。横着をしない真面目な性格だから出来ることだ。

 従業員室に戻り連絡用のノートを見ていると、数分もしないうちに、デニムに白のシャツに着替えた戸高さんが出てきた。片手にはビニール傘を持っている。背が高い人は得だ。モデルみたいでかっこいい。わたしももう少しダイエットすれば、こんな風になれるだろうか。わたしはお腹のあたりをつまんだ。

「じゃあ、あとよろしくね」

 戸高さんは笑顔で店を出て行った。

 この店は交通費は出ないけれど、飲み物や食べ物は好きにしていい決まりがある。わたしは一度厨房へ行くと、氷を入れたグラスにメロンソーダを目一杯注いだ。ポテトチップスを食べようかと思ったけれど、太ってしまうと思って我慢した。

 従業員室に戻ると、チンさんはいつものようにテレビを見ていた。

 それから、どちらからともなく話しはじめた。

 チンさんと話をすると、何気ない話をしていたはずなのに、いつの間にか相談するような形になってしまう。今日もその例に漏れず、ママがわたしを心配している話をした。それは多分、チンさんの姉御肌な性格のせいだろう。戸高さんが後方から支援してくれる人だとすれば、チンさんは皆を引っ張っていくような存在だ。

 ちなみにチンさんというアダ名は、彼女が中学生くらいからのアダ名だという話だ。チンさんの旧姓が加藤という苗字で、彼女には二つ上のお姉さんがいる。お姉さんのアダ名がカトマンだったので妹のチンさんはカトチンというアダ名がついた。それが始まりらしい。中学生らしい安直な発想だ。その話を訊いたときは、大笑いした記憶がある。

 話をしている最中に、チンさんが思い出したように言った。

「あ、そうそう。わたし、もう少ししたら昼間だけの仕事にしようと思ってるから、よろしくね」

 口に加えた禁煙パイポを器用に上下に動かしている。

「いつ頃からですか?」

 理由は訊かないでも察しがついた。彼女は今、お腹に赤ちゃんを宿しているのだ。もうすぐ四ヶ月だそうだ。

「早ければ来週か再来週から。大変だと思うけど、ごめんね」

「いえ、全然大丈夫です。それより、体はどうですか?」

「うん、つわりも殆どないし、順調だよ。だけど夜は眠くてさ。家事をサボることも多いよ。オミリンがもう少し手伝ってくれればいいんだけどなあ。まあ最近は資格の勉強してるみたいだから、あんまり言えないけど」

 笑ったり怒ったり、僅かな間にコロコロと表情を変えた。表情豊かなところも、彼女の魅力だ。

 オミリンというのは旦那さんのことだ。チンさんより七つ年下の人だそうで、昔ここで働いていたらしい。ちなみに、星野さんとは小学生からの同級生で幼馴染だそうだ。話したことはないけれど、旦那さんのことはよく知っていた。チンさんがいつも話をするからだ。

「いいなあ。結婚か」

 わたしがぽつりとつぶやくと、チンさんはテーブルの上に上半身を乗り出した。上目遣いでわたしの顔を覗く。

「なによ。あんた、好きな人でもできたの?」

 早口でチンさんが言った。

「ええ? なんでそうなるんですか?」

 わけもなく慌ててしまう。

「わたし勘が良いんだよねー。絶対外れてないと思うんだけど」

 興味津々な瞳が輝いている。チンさんは恋の話が大好きなのだ。いや、多分恋の話が好きなのではなくて、人が幸せになる話が好きなのかもしれない。彼女はそういう性格だった。

「全然、話せることなんてないですよ。あ、でも最近――」

 それからわたしたちは恋の話で盛り上がった。

 夢中で話している間に、時間はあっという間に過ぎていった。雨のせいか、客はその間に二組しか来なかった。今日も暇なのだろうか。

「暇ですねぇ」

 話が落ち着いたところでわたしが言った。

「うん。でも今日は予約があるから、このあとは忙しくなるよ」

 チンさんは最近染めたばかりの髪を触っていた。この人の癖は枝毛探しだ。ちょっとでも時間が空くと、いつも髪の毛をいじっている。

「ええ? マジですか……」

「八時から。団体が二組ね」

 八時までもう間もなくだ。わざわざこんな雨の日に来なくてもいいのに、と思う。

(もしかして、雨、もう止んだのかな)

 従業員室には手軽に開けられる窓がない。換気用の小窓が上の方についているが、ウィンチで回さないといけないので滅多に開けることがないのだ。それに音楽有線や客室の音楽の音が絶えず流れ続けているので、外の様子が分からない。

 わたしは席を立ち、従業員室から直通になっている厨房に入った。こちらには窓があるので外を見ることができる。

 流し台にある小さな窓から外を見渡してみた。

 外はすっかり暗くなっていて、黒く塗られた窓には無数の斜線が走っていた。時折、雫が窓にぶつかって弾けている。雨はまだ降り続いているらしい。耳を澄ますと、かすかに雨の音がした。

 窓を少しだけ開けてみると、冷たい風が吹き込んできた。一日中降った雨が、すっかり外気の温度を下げてくれたらしい。

 窓越しに夜を眺めながら、なんとなくこれから到来する仕事のことを考えていると、昨夜のメモ書きのことを思い出した。もしも団体がもう一組来たら、13番を使用することになるな。そう一瞬思った時に、連想して思い出したのだ。

(そうだ、忘れないうちに訊いておこう)

 わたしは従業員室に戻ると、テレビを見ているチンさんに訪ねてみた。

「チンさん。そういえば昨日、変なメモを見つけたんですよ」

 チンさんは黙ったままテレビを見つめている。枝毛探しはやめたようだ。なんだろうと思ってテレビを見ると、何の変哲もない見慣れたコマーシャルが映っていた。何か違和感を感じたものの、わたしはそのまま昨夜のメモを探すことにした。それを見せたほうが早いと思ったのだ。その場から棚やテーブル、椅子の上などを眺める。

(あれ? ないな……)

 持って帰った記憶がないので、ここのどこかに置いてあると思っていた。しかしどこを見てもメモは見当たらない。どこに行ってしまったんだろう。わたしは記憶を探った。

 あまり思い出せないが、昨日店を出る時にはもうなかった気がする。もしテーブルの上に置いてあったら、どこか邪魔にならない所に自分で移動させるはずだ。片付ける時に戸高さんが捨ててしまったのかもしれない。

 まあいいか。口で説明しよう。

「昨日、更衣室に置いてあるギターの中から池田真一って書いてあるメモを――」

「知らない」

 まだ話している途中で、チンさんが言った。

「……え?」

 思わず聞き返す。チンさんは無表情のままテレビの画面を凝視している。ふざけているわけではないことが、ひと目で分かった。

「知らない」

「……知らないって?」

「知らない。そんなギターは、誰も知らない」

 低くゆっくりとした口調だった。まるで朗読しているような。感情のこもっていない彼女らしからぬ声。

 わたしはチンさんの顔を見て震え上がった。

 無表情に固めたまま、唇だけを上下させているその顔が、まるで壊れた人形のように見えたのだ。真っ黒な瞳に、テレビの液晶の光がちらちらと反射している。

「私たちは誰も、その男の名を知らない。その男は、どこにもいない。いなかった」

 まるで何かに取り憑かれたような冷淡な声に身震いした。

 と同時に、視界が白く霞んでいくのを感じた。世界から色彩が失われていく。テレビや音楽の音が、無意味な雑音に変化していった。後頭部に痺れを感じ、気を抜くと倒れてしまいそうな目眩を感じた。意識が曖昧になっていく。

 わたしは彼女から目を逸らした。

 なんだろう、これは。夢でも見ているのだろうか。

「その男のことを知ろうと思ってはいけない。口にしてはいけない。誰の耳にも聞かせてはいけない。忘れなさい」

「忘れるって……なんで……どうして」

「忘れろ!」

 わたしは逃げるように――いや、わたしは逃げた。従業員室から勢い良く出てトイレに向かった。足取りが覚束ない。まるで自分の足ではないようだ。耳の後ろで鼓動の音が鈍く唸っている。いつの間にか、自分が口で呼吸をしていることに気がついた。

 トイレの個室に入り、中から鍵を掛けた。

 座椅子に腰を落とすと、自然に目を閉じた。左耳に耳鳴りを感じる。続けて手先や膝が揺れているのを自覚したが、自力では止められそうになかった。

 あまりにも流れに脈絡がなさすぎる。さっきまで、わたしはチンさんと仲良く話をしていたじゃないか。

 そうだ。

 これはきっと夢に違いない。

 夢だと気づいた瞬間、目が覚めることがある。きっとこれもそうなんだ。夢だ。夢じゃなければ、説明がつかない。

 わたしは個室の中で、ひたすら覚醒を願った。

 しかし、いつになっても悪夢が終わることはなかった。

 それどころか次第に耳鳴りや頭の靄が去り、雨音がクリアに聴こえてきた。荒くなった自分の呼吸の音や、体をわずかに動かした時の布が擦れる音もしっかりと聴こえてきている。

 これが紛れもなく現実なのだと実感すると、今度は恐ろしくなった。

 さっきの彼女のあの顔は、まるで人間ではないようだった。機械のような、人形のような、しかし確実に底知れぬ迫力が込められている。一言で言えば、そう、狂っていた。何かのきっかけで、あの人は狂ってしまったのだ。そうとしか思えない。悪質ないたずらなどでは決してない。あの顔は、狂気に満ち満ちていた。

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