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午後八時に戸高さんがやって来た。肩まで伸びた黒髪を揺らしながら、笑顔でわたしに手を振った。わたしは女子の中で身長が高い方だけど、戸高さんはそのわたしよりも更に10センチ程背が高い。背が小さなケイさんと並ぶ時などは、まるで子供と大人のように見えるくらいだ。
「おはよう」
戸高さんは従業員室に入るなり、ちらりとわたしの顔を見た。おそらく、わたしとワカさんの間に流れる微妙な空気を察したのだろう。
引き継ぎのためにワカさんと戸高さんがレジに向かうと、わたしはそこでようやく一息つくことができた。
疲れた。今日の六時から八時までの二時間は、苦痛以外の何者でもなかった。あの後、ワカさんとは一言も言葉を交わさなかった。重苦しい従業員室はわたしの神経をガリガリと削るようだった。テレビもついていないし、仕方なくスマホを見続けていたけれど、それもそろそろ限界だった。夜のラストまで一緒だったらと思うとゾッとする。いつもなら、どれだけ機嫌が悪くても最後には向こうから話しかけてくる。今日は心底機嫌が悪かったのだろう。
ワカさんと戸高さんが戻ってきた。
「じゃあ、あとはお願いね」
ワカさんは戸高にそう言った。わたしのことは見ない。
そうして、最後までわたしと一言も喋ることなくワカさんは帰っていった。
わたしはのったりとした動きで従業員室のソファに深く座った。緊張が続いたせいか、ひどく体が固くなっている。体をのけぞらせて、背中の筋肉をほぐした。
「何かあったの?」
戸高さんが訊いてきた。心配そうな瞳でわたしを覗き込んでいる。綺麗な目だった。今まで真っ当に生きてきた人にしかできない澄んだ瞳だ。
「戸高さん、訊いてくださいよぉ」
わたしは待ってましたと言わんばかりに、先ほどの話しを猛烈な早口で戸高さんに説明した。戸高さんは優しい微笑みを浮かべながら黙ってわたしの話をきいてくれた。
ひとしきり話を終えると、戸高さんが慈愛に満ちた表情で真っ直ぐにわたしを見つめた。
「そっかあ。葵ちゃん、偉かったねえ」
労いの言葉を掛けてくれた。たったそれだけで、さっきまでの鬱憤が吹き飛ばされたようだった。
「きっとワカさんも何かあってイライラしてたんだよ」
「でも、それにしたってあんまりです。あんなに怒らなくたっていいのに……」
「うーん。ワカさんも本当は怖かったのかしれないよ?」
二人で顔を見合わせて、くすくすと笑った。
戸高さんのおかげで、最悪だった心に活力が戻ってきた。八時からが戸高さんで本当に良かったと思う。他の誰でも、わたしをここまで元気づけてはくれなかっただろう。
いつも優しい戸高さんは、よく「みんなのお母さん」と評されている。嫌なことがあるとみんな戸高さんに話をする。ただ黙って訊いてくれる、それだけなのに、戸高さんの微笑みには不思議な癒しの力が宿っている。
「戸高さんも、13番の電話って聴いたことがあるんですか?」
「うん。あるよ」
「へえ。昔っからですか?」
「えっとね。……どうだったかなあ。忘れちゃったけど、結構前からだよ」
客の来店を告げるチャイムが鳴った。客が来たようだ。随分と人の声が聴こえたので、玄関前の監視カメラの映像を見た。すると、人がごった返しているのが分かった。
「うわあ、凄い人」
わたしが言うと「頑張ろうね」と戸高さんが言った。
忙しくなりそうだ。わたしは気合を入れなおしてカウンターに向かった。
忙しい時間が続いていた。
まとめて注文すればいいのに、一つ一つ言ってくるものだから、何度も客室と厨房を行き来するはめになった。忙しさの割りには売上が伸びない最悪のパターンだ。おまけに、トイレは誰かの吐瀉物で汚れていて、その片付けもしなくてはならなかった。客が帰ったあとも、部屋はめちゃくちゃに汚されていて、その片付けだけで何十分も費やすことになった。
ようやく席についたのは、十一時頃だった。動きまわったせいで、全身がベタついている。ただ悪い気はしなかった。こうして忙しい方が時間が速く感じる。ワカさんと過ごした二時間に比べると雲泥の差だ。
手を組んで腕を頭の上へ伸ばすと、心地よい充実感が背中に満ちた。
「疲れたー」
「おつかれ、葵ちゃん」
戸高さんはあまり汗をかいているようには見えない。涼しそうな顔をしている。いつも落ち着いているのも戸高さんの魅力の一つだ。
「あ、そうだそうだ」
戸高さんはそう言いながら、手提げ鞄を探った。
(何だろう)
気になって見ていると書類のようなものをテーブルの上に置いた。
「ようやく暇になったから、やっちゃおうかな」
「なんですか? それ」
戸高さんは書類の一枚上の紙を持って、わたしに見せてくれた。A4サイズの用紙で、写真がプリントされている。
「新聞みたいなもの。町内の人に頼まれてね。断れなかったのよ」
筆箱の中から、ノリとハサミ、それからカッターを取り出した。
戸高さんはこれから行う作業を簡単に説明してくれた。その写真を切り抜いて、別の用紙の決められた場所に貼り付ける作業をするそうだ。作業自体は簡単だけど、枚数が膨大らしく今からうんざりしているらしい。
戸高さんは真剣な顔つきで写真の切り抜きを始めた。ゆっくりと繊細な動きでハサミを操っている。寸分違わず切り終えると、今度はその裏面にノリをつけ、別の用紙に貼り付ける。ずれないように、汚さないように、とても丁寧に作業しているのが見て分かった。テーブルの上の書類を見た限り、相当な時間を要しそうだ。
二枚目の写真を切り抜いている時に、わたしは思わず「うわあ。戸高さんって、すごい几帳面ですね」と言った。
「ええ? ダメダメ。見ないで。緊張して曲がっちゃうから」
そう言いつつも、手先はやはり繊細そのものだ。わたしには到底真似できないと思った。わたしがやったら、きっと途中で大雑把になって曲がりくねってしまうだろう。
しばらくその作業を眺めていたけれど、見たいテレビがあったのを思い出した。戸高さんに断ってテレビをつける。わたしの好きなバンドが出演する音楽番組があるのだ。戸高さんに気を遣って、音量は小さめにした。
戸高さんは書類作りを、わたしはテレビを。ゆっくりとした時間を過ごす。さっきは忙しい方がいいと思ったけれど、やっぱりのんびりと過ごす時間も必要だなと思った。わたしは都合のいいことを考えつつ、コーヒーを片手にテレビに集中した。
そこから約一時間、テレビ番組が終わる時間まで忙しくなることはなかった。二、三人の客が何組か来ただけだ。注文もソフトドリンクのみだった。
時計を見ると、もうすぐ深夜〇時を越そうとしているところだった。戸高さんは相変わらず細かな作業を続けている。
静かだ。音楽有線の選曲がバラードばかりなのもあって、だんだん眠たくなってきた。ワカさんはうるさい曲が嫌いだ。だから音楽有線の番組をこれに変えたんだろう。わたしはあくびを一つすると、おもむろに立ち上がった。体を動かさないと、本当に眠ってしまいそうだ。
「ちょっと、ゴミが落ちてないか見回りでもしてきますね」
「そう? ごめんね」
「ううん。いいんです。本当は眠たくて体を動かしたいだけですから」
わたしは従業員室を出た。
客室を順番に眺めていく。たまにこうやっていると、男女のカップルが情事に及んでいることがある。しかし今日はそのようなカップルはいないのでその心配はしなくてよさそうだ。
奥に向かって歩いて行くうちに、13番の部屋のことを思い出した。昨夜のポンさんの話、その話で怖くなってしまったこと、深夜の鳴るはずがない電話、ワカさんに理不尽な理由で怒られたこと。忙しさに埋もれていた記憶が次々と蘇ってくる。
わたしは13番に入る。昨夜のような恐怖は感じなかった。今思えば、どうしてあんなに怖くなっていたのか不思議なくらいだ。今はむしろ腹が立っていた。この電話のせいでワカさんに理不尽に怒られたのだ。
照明を照らすと、わたしは部屋を見回した。
全体的に赤と黒を基調とした落ち着いた内装で、壁にはトランプのダイヤのようなマークが縦に並ぶデザインがされている。他の部屋は白っぽい内装ばかりなので、この部屋は他の部屋の雰囲気と違うものがある。普段から使用していないからなのか、他の部屋よりも綺麗な印象だ。
わたしは壁に備え付けられた内線用の電話の前に立つ。何かおかしくなっているところがないか確認してみようと思ったのだ。
幽霊なんているわけがない。だから、電話が鳴るには何か理由があるはずだ。
今朝ママが見ていたドラマに出ていた物理学の大学教授の探偵のことを思い出した。いや、もしかしたら朝それを見たせいで今調べて見る気になったのかもしれない。
わたしは電話機をまじまじと見る。見た限りでは異常はない。
わたしは電話が鳴らないように、フック部を指で抑えながら受話器を取る。こうして見ても、やはりおかしな点は見つからなかった。
当たり前か、と思った。だいたい何か壊れている部分があるのなら、深夜だけではなく普通の営業時間でも鳴るはずだ。今まで一度もそんなことはなかった。
わたしは照明を消して、廊下に出た。今度は12番の部屋へ入る。念の為12番の部屋の電話と見比べてみようと思ったのだ。
13番の部屋の電話と違いがないか調べてみたけれど、よく分からなかった。見た目で分かる不具合ではないのかもしれない。
では原因が考えられるとしたら、他に何があるだろう。
わたしは13番と12番の廊下の、丁度真ん中に立っていた。そして二つの部屋のドアを交互に見る。13番は鳴るのに、12番は鳴らない。
「何やってんの?」
突然背後から肩を叩かれて、声が飛び出そうになった。
振り返ると、見知った顔の男性がいた。
「なんだ。星野さんか。びっくりさせないでくださいよー」
「なんだとはなんだ」
芸人のような大げさな身振りで星野さんが言った。星野さんはわたしより七つ上の先輩で、色白で細身の男性だ。ここのところ更に痩せたようで、頬骨と顎が尖って見える。疲れているような顔に見えるけれど、この人はいつもこういう顔をしていた。ちなみに、この店の男声従業員は、ポンさんと星野さんだけである。
「どうしたんですか?」
「遊びに行った帰りに寄っただけ」
星野さんはこうやって出勤以外の日にも来ることが多い。もしかしたら週に六日は来ているんじゃないだろうか。
「山でも行ってたんですか?」
わたしは彼の格好を見てそう訊いてみた。この暑い中でも彼は長袖のシャツを着ている。背中には大きなリュックを背負っていて、足元はサンダルではなく靴を履いていた。
「まさか。友達のところに行ってただけだよ。それより葵ちゃんこそどうしたの? こんなところに立って」
わたしは足元を見た。星野さんが不思議に思うのも頷けた。普通ならこんなところで棒立ちにならないだろう。
「えっと。13番の部屋のことを調べてたんです」
昨夜ポンさんから聞いた話を簡単に星野さんにする。ワカさんとのことは伏せておいた。あまりその話をしてしまうと、話が大きくなってワカさんに聞かれると思ったからだ。
「――なるほど、夜の電話か。そういえばそんな話もあったね」
さして気にしていないという様子で星野さんが言った。
「星野さんも聴いたことあります? 電話の音」
「うーん。そんなことがあったと思うけど。よく覚えてないな」
「それって、いつからなんですか?」
星野さんは顎に手を置き、考えこむような仕草をした。
「俺がここに入ったのは三年半ぐらい前だけど、確か最初からその噂はあったね。実際に聴いたのはいつだったか忘れたけど」
三年以上前から……。だとすると、原因は一過性のものではないということだ。
「俺はてっきり更衣室に用事があるのかと思ってたよ」
わたしは自分が今立っている場所、つまり12番と13番の真ん中の廊下が、更衣室の前だったことに気がついた。
12番と13番の間には従業員専用の更衣室がある。更衣室の扉は、ガラスの小窓がついた客室の扉と違い、壁と同色でドアノブは扉に埋め込まれていた。まるで擬態するように壁に溶け込んでいる。そのせいか、ぱっと見では部屋があるようには見えない。扉の中央には『関係者以外立ち入り禁止』のステッカーが貼られているが、客がここに入ることはまずないだろう。わたしでさえ今の今まで扉があることを意識していなかったのだから。
わたしは更衣室に片手で数えるくらいしか入ったことがない。最初の頃はユニフォームを着るのに使っていたが、すぐに面倒になって家から着ていくようになった。学校がある日でもユニフォームを着てそのまま学校に行っている。この店がチェーン店でないこと、学校が離れていること、ユニフォームが普段着として着れるようなデザインだということ、その三つが主な理由だろうか。都会に行くと、コンサート会場のロゴが入ったTシャツを着た人をよくみかけるけれど、それと同じだ。
ハイカラのユニフォームは友達にも人気があった。欲しいと言われたことが何度もある。下は黒のチノパンで、上はハイカラロゴの入ったポロシャツ、またはTシャツだ。シャツは緑とピンクと黒の三色があって、わたしは黒が一番好きだった。わたしが今着ているのも黒のポロシャツだ。袖や裾の所に青のラインがあって、それが可愛いと思う。
「星野さん、ここ使ってます?」
「いや? 多分使ってるのは戸高さんだけじゃないかな」
「そうですよね」
少し考えてみたけれど、戸高さんの他にここを使っている人はいなそうだ。みんな出勤時からハイカラシャツを着ている。戸高さんも更衣室を毎回使用しているわけではなく、夕方番の時だったと思う。
「あ、そういえば」星野さんが目線を更衣室の扉に向けて呟いた。「13番の電話がある壁の裏は、この更衣室なんだよな」
わたしは間取り図を想像してみた。おそらく13番と12番に挟まれる形で更衣室がある形だ。13番の電話機は12番側の壁に設置されているので、その裏は更衣室ということになる。
ここを調べれば電話の原因が分かるだろうか。
考えていると「それじゃあ、もう行くよ」と星野さんが従業員室の方へ帰っていった。
(更衣室か。どんな部屋だったっけ)
わたしはポケットに入れておいたスマホを取り出し、時刻を確認した。
〇時十五分。
あと少しくらいなら、まだ戻らなくても大丈夫だろう。電話のことを調べるというよりも、どちらかと言うと更衣室がどんな部屋だったのかが気になった。
埋め込まれたドアノブをこちらに倒す。ゆっくりと引っ張っていくと鍵が掛かっていないことが分かった。扉が壁に擬態しているおかげで鍵を掛けなくても平気なのだ。
更衣室の照明を点ける。ぱっと視界に広がった部屋を見て、さっきまで消失していた部屋の記憶が一瞬で蘇った。リノチウムの床、天井、壁は一面クリーム色で統一されている。和室にすれば四畳くらいの部屋だろうか。左手の壁には二段のロッカーで埋まっているので、部屋はさらに窮屈になる。多分布団を敷いて眠ることもできないだろう。
随分前に見たはずの部屋の記憶と全く変わっていなかった。
13番の電話機が掛けてある壁の裏は、この更衣室の左手にあたる。しかしここには壁一面にロッカーが置かれているので、どうにも調べようがなかった。
もう出ようと思って振り返ろうと思った時、視界のすみに気になるものが映った。
わたしはそちらを凝視する。左手のロッカーの奥の影に、茶色いギターが掛けてある。これは多分エレアコだ。
わたしはギターに近寄ってみた。埃がかぶっているところを見ると、かなり前からそこに放置されているのが分かった。多分、前にわたしが入った時からあったのだと思う。当時は緊張していて周りがよく見えていなかったのだろう。
(誰のだろう?)
わたしはギターにそっと近づいてみた。弦に触れるとざらついた感触を指に感じた。指先を見ると茶色く汚れている。弦がサビついてしまっているのだ。
店の中でギターを弾く人はいないはずだ。わたしは自分がベースを弾くこともあって、話題の一環として楽器が弾けるかどうか訪ねることが多い。この店の人たちにも訊いたのを覚えている。
私はギタ―のネック部分を持ち、上に持ち上げる。ボディに小さな音が響いた。
弦は全て張ってあるようだ。どんな音が鳴るのかなと思い、持ち替えようとしたその時だった。木の折れるような音を立てつつ、ボディ部分が下にずれ落ちた。わたしは驚いてギターを離す。やかましい音を立てながらギターが落下した。思わず耳を塞ぐ。床にぶつかってからもしばらく弦の震える音が何重にもなって部屋に響いた。
ギターをよく見ると、ネックとボディを繋ぐ結合部が、折れかかっている。壊してしまったかと心配したが、どうやらこのギターは最初から壊れていたようだった。接着剤のあとが折れた部分に付着している。
分解してしまわないように、ボディとネックを同時に持った。
「あれ……?」
思わず独り言を呟いた。
ギターのボディには、サウンドホールと呼ばれる丸い穴が空いていて、この穴で音を作っている。ギターを持った時に、そのサウンドホールから、紙くずのようなものが飛び出たのだ。紙くずは拳よりも少し大きいくらいの大きさに丸められたものだった。
わたしはギターを元の場所に置き、その紙くずを拾った。
ギターの中身は空洞になっているので、そこに紙くずが入っていたことになる。紙くずは拳よりも少し大きいくらいの大きさに丸められたものだった。よくピックを中に落としてしまうことはあるらしいけれど、これくらいの大きさの紙くずが自然に中に入ることなんてあるだろうか。
わたしはサウンドホールと紙くずを見比べた。大きさ的に自然に入ったものではないだろう。そうなると、この紙くずは誰かがわざわざギターの内部に入れたことになる。触った感じからすると、普通のコピー用紙のようだ。わたしはその紙を広げてみた。広げると、手のひらくらいにはなっただろうか。端の方が丸くなっているので、破いたような形である。
くしゃくしゃになった紙をよく見てみると、何か文字が書いてあるようだった。わたしは広げた紙を上下に回転させて、読める位置を探す。
『池田 真一』
中央、やや大きめの文字で横書きにそう書いてあった。子供の落書きのような字体だ。急いで書きなぐったようにも見える
池田真一。聞いたことがない名前だった。
このギターの持ち主だろうか。どうしてこんな紙をギターを入れたのだろう。
わたしはこのメモをポケットに入れて、とりあえず更衣室を出た。そろそろ片付けが始まる時間だし、あまり戸高さんを一人にしておくのも悪いと思った。
わたしは時間を確認しながら従業員室に戻る。
時刻は〇時ニ十分だった。
従業員室に戻ると、星野さんは既に帰宅したらしく、戸高さんが一人で作業を続けていた。いつの間にか完成した書類がかなり高く積まれている。
「すいません。大丈夫でしたか?」
「うん。お客さん来なかったし、大丈夫よ」
わたしはソファに腰をかけながら、戸高さんに質問してみることにした。
「戸高さん。池田真一って人、知ってますか?」
戸高さんの手先がぴたりと止まった。それから三秒ほど間をおいて戸高さんが答える。
「知らないなあ」
戸高さんが知らないとなると、ここで昔働いていた人というわけではなさそうだ。戸高さんはこの店で働き始めて十年くらいになる。まさか十年以上前の従業員のギターがあそこに置いてあったとは考えにくい。ひょっとしてギターの持ち主の名前ではないのだろうか。
戸高さんは再び作業を始めた。相変わらず丁寧に紙を切り始める。
「誰なの? 池田真一って」
作業をしながらだったせいか、戸高さんの声がいつもより細く聞こえた。
わたしはポケットに入れておいた紙を出す。
「更衣室に置いてあったギターから、こんなのが出てきて」
池田真一、の文字がよく読めるように差し出すと、戸高さんはその紙を凝視した。
「確かに……書いてあるね、池田真一って」
「あの更衣室のギターって、誰のですか?」
「あぁ、あのギターね。あれは、そう、誰だったかしら……」
戸高さんは考えこむようにしてから「トモちゃんなら知ってるかもね」と続けた。
「チンさんですか?」
戸高さんは頷いた。
トモちゃんというのは、副店長のチンさんのことだ。本名は高橋智子。わたしやポンさん、星野さんなどはチンさんと呼ぶ。トモちゃんと呼ぶのはこの店では少数派だ。
「私って昔は昼間しか仕事してなかったの。だから、あんまり夜の人たちのことは知らなかったのよ」
「へえ、そうなんですか?」
それは初耳だった。
「トモちゃんなら昔っから夜だったし、あのギターのことも知ってると思うよ」
チンさんと次に一緒になるのはいつだろう。わたしは従業員室の壁に貼られているシフト表を見た。
「あ、明日一緒だ」
あしたは金曜日なので、夜は三人で仕事をすることになる。わたし、チンさん、星野さんの組み合わせだ。
「さあ、そろそろ片付け始めちゃおうか。お客さんもいないし」
「あ、はい」
わたしは『池田真一』のメモ書きを無造作にテーブルの上におき、席を立った。
ラストオーダーを取り、厨房を片付けていく。部屋とトイレは戸高さんが掃除して、ビル入口の電光看板のコンセントはわたしが抜いた。客が出てから売上の打ち込みと部屋の確認を行った。特に問題なく片付けは進行し、いつもよりも早い時間帯に業務は終了した。今日は13番から電話が掛かってくることはなかった。