23
23
意識を失っていたのは、一分か二分か、あるいはもっと短い時間だと思う。そう思ったのは、目を覚ました時に景色が変わっていなかったのと、その場の状況が瞬時に理解できたからだ。体の感覚としても長く眠っていたとは思えなかった。背中に汗をびっしょりとかいていて、何故か奥歯がズキズキと痛みを伴う脈を打っていた。
更衣室の奥で星野さんが二人の男に抑えつけられていた。額を床に押し付けている。動物の唸り声のような低い声を発していた。
突然、まるで痙攣しているように星野さんが体を震わせた。振り解こうとしているのだ。鎖に繋がれた凶暴な犬を思い出した。
しかし拘束は更に力強いものだった。抑えつけているのはカズオミさんとポンさんだ。厳しい視線を星野さんに向けている。「暴れるな!」とポンさんが言った。彼らしからぬ高圧的な声だった。眼鏡を掛けておらず髪もボサボサで、一瞬違う人なのかと思った。カズオミさんが左足で星野さんの背中を踏みつけた。両方の拳が赤黒く染まっている。あれは多分、血だろうか。
次に肩に腕を回されているのに気がついた。腕の重さではなく、首元が妙に暑いなと思った時にようやく目が行った。
チンさんがわたしに寄り添って座っている。チンさんは涙を流しながらわたしの肩をきつく握りしめていた。「ごめんね」と声を震えせた。こんな顔を見るのは初めてだった。またしても新しい表情を見ることになって当惑した。
「大丈夫です」
自分でもよく分からない言葉をチンさんに言った。彼女は何度も頷いていた。
視線を更衣室の外に向けた。ワカさんと戸髙さん、それからケイさんの姿が見えた。ケイさんは戸高さんの背中から怯えた顔で更衣室を覗いている。ワカさんは扉に頭を密着させて寄りかかるように星野さんを見ていた。怯えと憐れみが同居した表情だ。戸高さんは直立不動で真っ直ぐに堂々と星野さんを見ていた。
今夜星野さんと会うことをチンさんにだけ打ち明けていた。悩み抜いた結果のことだ。だからみんなを呼んでくれたのはチンさんだろう。
カズオミさんのメッセージを解読しました。今夜の二時過ぎ、ハイカラで星野さんと会います。どういう結果であれ、わたしは警察に行くことになるでしょう。一方的にそうメールを送った。壁を破壊することを言ったつもりだった。暗号をまだ信じていなかったので、半分は宣戦布告の意味も兼ねていた。まさか守ってもらえるとはその時には想像さえしていなかった。
わたしは今一度星野さんを見た。抜けだそうと体を動かした時に、ちらりと顔が見えた。顔の一部が紫色に変色していた。歯茎を剥き出し目は充血していて、悪魔に憑かれたようにヨダレを垂らしながら呻き声を上げている。もうわたしの知っている人ではなかった。
「どうしてなんですか」
声を出した時に、変な音が混じっているのが分かった。舌を使って口内を探ってみる。鉄の味がした。きっと口の中を切ったんだろう。石のようなものが右の歯茎に転がっていた。血と一緒に吐き出してみると、それはわたしの奥歯だった。
「どうしてこんなことを……? 信じられません」
ゆっくりと喋るように心がけた。
星野さんの動きが止まる。唸り声も消えた。相変わらず地べたに額をつけたままだったが、顔を傾けて右目の鋭い視線をわたしに向けた。左目は潰れて見えなかった。
「君が知りすぎたからだ」
勇気を奮い立たせて「それはあなたが手助けしたからです」と言い返した。
星野さんの本性は身を持って知った。しかしわたしを手助けした動機が分からない。
「最初は恐らく裏切り者探しに利用するつもりだったんだろう」
そう言ったのはカズオミさんだった。
「俺たちは全員池田さんの死を知っていた。池田さんが壮絶な虐めを受けた末に殺され、そこの壁に隠されたのを知りつつ黙っていたんだ」
「それは……」
どうしてですか、と訊く前にカズオミさんが先を続けた。
「この男を恐れていたのさ。池田さんに対する仕打ちを知っていた俺たちは、こいつの異常さを嫌というほど知っていた。厄介なのは、家族や大切な人を狙ってくるんだ。仮に警察に通報しても、逮捕される前に何かされると思った。あるいは刑期を終えてから報復されることも考えた」
まるで懺悔するような口調だった。
「わたしを使ってみんなが秘密を守れるか試していたってことですか?」
星野さんに問うたつもりだったが、視線を向けることはできなかった。
「そうだ」それが星野さんの声だと思わなかった。いつもの声よりずっと低い。「神谷健太は殺した。君に秘密を打ち明けようとしていたからだ」様々な意味で、星野さんの本当の声を初めて聞いた。
「君は実に良かった。怯えている君を見ると股間が昂ったよ。虐めたい衝動を抑えるのに必死だった」
言葉が出なかった。そんな台詞は聞きたくなかった。涙がぼろぼろと溢れてきて、それが血と混ざり床にこぼれた。チンさんがぎゅっとわたしを抱きしめてくれた。
「こんな形になってしまい残念だ。君にはもっと早くこの腕を見せるべきだった。君はどんな表情をしただろうね。その顔が見れなかったのが唯一心残りだよ」
「お前、黙れよ」
カズオミさんが腕を締め付けた。その瞬間、星野さんがまた暴れた。三人の激しい息遣いが重なる。ポンさんが星野さんの頭を強く踏みつけた。硬いものが床にぶつかる音がして、その後赤い血がゆっくりと広がった。星野さんの動きが止まる。
カズオミさんが星野さんの腕を持ち上げた。これ以上曲げたら折れてしまうと思うような角度がついた。それでも星野さんはもう暴れなかった。きっと気を失ったのだ。
「こいつは神谷を殺した。その瞬間、俺は決心した。二人も殺したとなれば、まず無期刑だろう。君には申し訳ないが、今日は現行犯逮捕できる最後のチャンスだとも考えていた。だからみんなを呼んだんだ」
腕に彫られた神谷健太の文字を見た。殺した人間の名前を刻んでいるのだ。わたしが初めて相談した時もこの腕には池田真一の文字が入っていたはずだ。改めてそう思うと底知れぬ恐怖がこみ上げた。
全く気づかなかった。頼りになるとさえ思っていたのだ。
その時廊下を走る音が聞こえた。
「もうすぐ警察が来るよ!」
マヨさんの声が聴こえた。
「葵ちゃん、ハンマーで13番の方からそこの壁を叩いてみてくれ」
カズオミさんが顎でハンマーの場所を示した。
「急いで。警察が来る前に」
わたしは頷くとハンマーを手にとった。
「こっちよ」
更衣室を出ると戸高さんが前に立ってわたしを誘導した。後ろにはワカさんがついてきている。
「ここの壁に彼が埋まっている。辛いと思うけど、この作業はあなたがやるべきだわ。わたしたちにはそれをする権利がない」
ワカさんが指を指した。電話機のある場所から少し左にずれた場所だ。ここの裏は更衣室だ。ここの壁の中に池田真一がいる。
頭が痛い。今まで感じたことのないような痛みだ。暴力を受けたせいだけではないと思った。ハンマーを掲げると、その重さで足がふらついた。それにハンマーが血で滑ってしまいそうだ。両手を離すようにハンマーを持ち替えた。
思い切りハンマーを振った。音を立てながら壁の一部が崩れた。ずしりと腕が軋む。普段使わない腕の筋が悲鳴を上げたのが分かった。
さっき叩いた感触とは少し違う。弾き返されるのではなく、ハンマーが壁の奥に埋まったような手応えがあった。
「もっと穴を開けて」
戸高さんがわたしのすぐ斜め後ろに立っている。わたしではなく壁に空いた穴を真っ直ぐ見ていた。
もう一度力を込めてハンマーを振った。何度か繰り返していくうちに、次第に穴が大きくなっていく。途中から本来の目的を忘れて、腕を振ることだけに意識が集中していた。
中に何かが見えた。最初は木材かと思った。しかし茶色いそれは、少し歪な形をしている。
ある程度穴が大きくなった時に、ハンマーが壁を一気に砕いた。ちょうどいい場所に当たったのだろう。
壁の中の全容が明らかになった。そこには人間の骨が埋まっていた。頭がゆっくりとこちらに傾いてきて、頭蓋骨が落ちた。わたしはハンマーを投げて尻もちをついた。小さな悲鳴を上げた気もする。
いつの間にかケイさんが側に立っていた。頭蓋骨を持ち上げると、その胸で優しく抱きしめ、今までごめんねと呟いた。
骨は全体的に茶色く変色していて、とても『白骨』とは呼べなかった。首なしの骨をわたしは観察した。不思議ともう恐怖は感じなかった。
汚れた布が壁の中の骨に絡んでいた。色は分からなかったが、布の模様がカラオケハイカラのロゴの一部に見えた。それに何かの配線が絡んでいる。恐らく肩の辺りだと思う。ケータイの充電器の線より少し太いくらいの、黒くて捩れている線だ。線は電話機の方に向かっているように見える。多分電話の配線なんだろうなとやけに冷静にそう思った。
ついに池田真一を見つけた。
なのに達成感は全く感じない。極度の疲労と痛みだけが全身を貫いていた。
数分後、駐車場のおじさんとともに警察官が二人やってきた。マヨさんが説明を繰り返している。簡潔に要点を説明していた。動揺や恐怖を知性で抑え込んでいるのがわたしには分かった。彼女は強い人だった。
警察官の一人はカナザワと名乗った。無銭飲食をされた時に来てくれた人だ。何度か顔を合わせたことがあるが、今日は全く違う顔をしていた。眉間にしわを寄せて壁の中の骨を見ると、ふと立ち上がり誰かに連絡を入れたようだった。
更衣室の方から狂人の叫びが聴こえてきた。壊れたサイレンのように吠え続けている。目を覚ましたのか。耳障りな音だった。




