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目が覚めたのは朝の十時過ぎだった。肉体的にも精神的にも疲労していたのか、よく眠れたと思う。目が覚めた瞬間にスマホを開いた。星野さんからの連絡は来ていなかった。駄目だと思いながら電話を掛けた。昨夜と同じように電源が入っていないとメッセージが返ってきた。
身を起こして窓を開いた。強い陽射しが降り注いてでいる。久しぶりに晴れ間を見た気がした。
ぼんやりと外を眺めながら昨夜のことを思い出した。まるでリアリティがない出来事だったけれど、細部まで思い出すことができた。
男が去った後も一時間以上軒下に身を潜めていた。待ち伏せされていると思うと、どうしても体が動かなかった。誰かに助けを呼ぶこともできなかった。電波がなかったからだ。
体が冷たくなって手足が麻痺してきた時に、これ以上ここに居たら死んでしまうと思った。そうしてようやく軒下から体を出したのだった。
全身が泥まみれだった。髪の毛も汚れていた。電波は軒下から出た時にもう復活していたけれど、誰かに電話を掛けることはなかった。あんな時間にあの姿をしていたら、暴行でもされたのだと疑われてしまうと思った。仕方なく物陰に隠れながら家に向うことにした。家に到着した時に、自分の身が助かったことを喜ぶ前に気に入っていた紫色の傘をなくしてしまったことにショックを受けていた。理由は分からない。何故かそのことが悔しくて仕方がなかった。
昨夜の追想をやめて窓を閉じた。
一階へ向かう。階段の途中からテレビの音が聴こえてきた。ママがリビングでテレビを見ているのだ。一階へ降りると足音に気がついたのかママがこちらへ振り返っていた。
「ねえ、あんた昨日どうしたの?」
うちわをパタパタと仰いでいる。しかしいつものダルそうな顔ではなかった。
「何が?」
「何がじゃないでしょう。服が泥だらけだったじゃない」
昨夜、風呂場で泥を洗い落としたけれど、完全には落ちなかった。仕方がなく洗濯機に入れたのだが、気付かれてしまったようだ。心配させたくなったので出来れば隠しておきたかった。
「ちょっと転んじゃって」
「バカね」
ママはくるりと体を向こうにむけた。良かった。信じてくれたようだ。
やっぱりママには相談できないと思った。心配させたくなかったし、相談したところで解決するとも思えなかった。洗面所に行こうとした時に、またママに止められた。
「ねえ、昨日火事あったの知ってる?」
「知らない」
そう答えつつ、昨夜どこかでサイレンが鳴っていたのを思い出した。雨が降っていたから火事だとは思わなかったけれど。
「あんたより少し上の子が亡くなったらしいよ」
「え? 誰?」
「神谷さんって苗字」
一気に目が覚めた。そんな、まさか。
「嘘……」
「知ってる人なの?」
わたしは首を横に振った。「知らない人」
「なら良かったけど」
神谷健太が火事で死んだ? 信じられない。
呆然と立ち尽くしていると「どうしたの?」と声を掛けられた。なんでもないと答えて洗面所に向った。
歯を磨きながら考えに没頭した。
神谷健太が死んだ。もし本当だとしたら、間違いなく池田真一が絡んでいるだろう。あの黒ずくめの男に殺されたのだろうか。もはや非現実的なことだとは思わない。現実に昨日わたしは追いかけられたのだ。もし捕まっていたら、殺されていたかもしれない。そう思うと今になって恐怖がこみ上げてきた。
星野さんは無事だろうか。いよいよ警察に行くときが来たかもしれない。わたしの手元には脅迫状がある。話を聞いてくれるだろう。池田真一が失踪しているかどうかも確認できる。
しかし早とちりをして、余計なことを警察に喋ってしまうことも避けたかった。池田真一が失踪していたとなれば、何度も警察に詳しく事情を訊かれることになるだろう。ハイカラの人たちにも気づかれる。警察に喋ったことを知られたら、今度こそ殺されるかもしれない。わたしが気をつけていても、家族の誰かが巻き添えにされる不安もある。
口を濯いだ。口元はさっぱりしたが、気分はちっとも晴れなかった。鏡を見てみると額の隅、前髪の生え際の所に擦り傷ができていた。あとに残ってしまうだろうか。指を触れると痛みが走った。
今日、星野さんは夕方の四時からハイカラで仕事だ。その時間まで待ってみよう。
ケータイを落としたとか、壊れてしまった可能性の方を信じたい。
次に神谷健太の自宅を確認してみようかと考えた。だいたいの位置は分かっている。人が死んだ火事なら今も消防車や警察がいるだろう。少し探せば見つける自信はあった。
しかし。
ハイカラの人たちも現場にいるかもしれない。もし姿を見られたら――。それは想像したくない未来だ。
ママと一緒に朝ごはんを食べた。味なんてほとんど分からない。ママの話も頭に入ってこなくて、何度もちゃんと訊いているの、と言われた。
朝ごはんを終えてから部屋に戻った。神谷健太の自宅を探すのはあとからでもできる。それにわざわざ行かなくても、近くに住んでいる友達に訊いてみればいい。
今はできることだけしよう。
カオリからもらった楽譜をテーブルの上に広げた。昨夜逃げまわったせいで、所々が茶色く汚れている。バッグの中にも泥が入ってしまったのだ。シワもあちこちついていたし端の方が少し破れている。しかし読むことは問題なくできそうだ。
昨日眠る前に気がついたことがあった。音を使った暗号と言えばモールス信号だ。何かの漫画で読んだことがあったのを急に思い出したのだ。
スマホでモールス信号を検索する。検索結果の一番上にモールス符合と書かれたページが載っていた。説明文を読んでいくと、モールス信号は長い音と短い音を使ってアルファベットを表現するらしいことが分かった。だいたい漫画で読んだ知識と合致していた。あの曲はこれを使った暗号ではないだろうか。
楽譜を見てみた。
モールス信号の暗号だとすると、どこかで区切る必要がある。しかしどこで区切ればいいのだろう。節で切ろうにも、タイで繋がっている部分がある。それに音の長さは二種類じゃないようだ。見た感じでも四種類以上ある。
とりあえずレコーダーをもう一度聴いてみることにした。聴けば何か気付くかもしれない。イヤフォンを耳に装着して、あの無機質なメロディを聴き直す。
何度か繰り返し聴いてみた。この音を聴いていると、あの時の心情が蘇ってきて暗い気持ちになった。モールス信号を思いついた時は手応えを感じたが、どうも違うようだ。中途半端な長さの音もあるし、モールス信号には変換できないだろう。
それではやはり音程に秘密があるのだろうか。
昨夜ドレミとアルファベットに変換したメモを取り出した。
音の高さに関係しているなら、このメモから発展があるはずだ。例えばアイウエオにどうにか変換できないだろうか。
一節づつずらしたらどうなるだろう。
わたしは別のメモ用紙を出し、そこに楽譜を見ながら思いついたことを書いていった。アルファベットで同じようにずらしてみたり、反対側からやってみたりと片っ端から試していったが、手応えは何一つなかった。
考え方が違うのだろうか。もっと視点を変える必要があるのかもしれない。音はどうだろう。カズオミさんはギターではなくわざわざピアノを持ってきた。ギターではできなかったということだろうか。
しばらく様々なことを考えていたが、暗号解読の糸口さえ見つからないまま時間だけが過ぎていった。
こんなに自宅のテーブルに向ったのは高校生以来かもしれない。
わたしは背筋を伸ばした。もうお昼を回っている。一度立ち上がって屈伸した。窓を開けて換気をする。
本当に暗号なんだろうか。無意味なものを意味ありげに見せていただけなのかもしれない。時間とともにその疑いが強くなっていった。
その時メールを知らせる着信音が鳴った。わたしは急いでスマホを確認した。星野さんが連絡をくれたと思ったのだ。
メールの相手はポンさんだった。
――犯人は分かった?
わたしは反射的にスマホをベッドへ投げ付けた。私は貴女を見ている。脅迫文の切り文字を思い出した。首をゆっくり回しながら部屋を見渡した。盗聴されているのかと疑った。盗撮かもしれない。
棚に置いてあるものを一つづつ点検した。それから普段持ち歩いているバッグも逆さまにして床に中身をぶちまけた。目立つものは見つからない。
三段になっているプラスチックの収納ボックスから洋服を次々と取り出した。空になったボックスを持ち上げて宙にかざしてみる。ここにもない。
わたしを息切れしていることに気がついた。体を動かしたせいなのか、別の原因があるのかは分からなかった。
(落ち着け……)
胸に手を当てて目を閉じた。
考えすぎだ。この部屋にハイカラの誰かが来たことなんて今まで一度もない。わたしの留守中に入られたということも考えられない。近頃空き巣が頻繁に起こっていて、わたしもママも用心しているからだ。偶然タイミングが重なっただけだ。
わたしは無残に散らかった床を見渡した。掃除するのに骨が折れそうだ。足で物をどかし足場を作りながらテーブルに向かう。
なんとか椅子を引いて座ると、わたしは頭を抱え込んだ。頭痛がする。急激なストレスを受けたせいだ。
神谷健太は死んだ。もう手掛かりは得られない。星野さんも行方不明だ。
もう残っているのはこの楽譜だけ――。
わたしは楽譜を乱暴に掴んだ。
さっきよりも集中力が上がっているのを実感した。窮地に立たされると人は思わぬ力を発揮することがあるという。今がその時なのかもしれない。
何か見落としているんだろうか。暗号だとしたら、どこかに鍵が隠されているはずだ。午前中に試したような闇雲なやり方では解けるとは思えない。
そういえばカズオミさんは演奏する前に何か喋っていたような気がする。
テーブルに戻りイヤフォンを耳にした。曲が始まる時間よりももっと前まで巻き戻した。
「流れ込む電流と流れ出す電流の和はゼロである。電話の音が鳴るということは、そのぶん電流が流れている。じゃあその電流はどこから流れてきたんだろう。あるいはどこへ流れていくんだろう」
「一つ一つの音はそれだけでは無意味で、なんの意味もない。そんな孤独な音たちが寄り添って一つの形を創っている。そんな風に思うと、音楽がとても儚く思えるんだよ。まるで一人の人間みたいに愛おしくなる」
演奏が始まる。
「これで終わり。まだこれで完成じゃないけど」
わたしはレコーダを止めた。
一つ目の電気の話はともかく、二つ目の言葉と演奏後に言った言葉はこれが暗号だと示唆しているように聞こえた。しかしヒントになるとは思えない。
もう一度巻き戻した。
何度か聴いているうちに、言葉と曲以外にも、音が鳴っていることに気がついた。あの時指の体操だと思っていたラシドレミファソと白鍵を弾いた音だ。
ペースを変えながら繰り返している。これもヒントなんだろうか。
わたしはレコーダーを巻き戻した。
長い音でラシドレミファソと流れる。少しづつ音を短くしながら六回繰り返した。七回目、一番短い音の時はラシドレミファ、とここで途切れた。
(そういえばあの時カズオミさんは……)
あの日のことを思い出してみた。
あの人がレコーダーで録音したタイミングだ。曲だけじゃなく、もっと手前から録音していたような気がする。
もう一度巻き戻す。
音を聴きながら、指を折って音の回数を数えた。
ラシドレミファソ
ラシドレミファソ
ラシドレミファソ
ラシドレミファソ
ラシドレミファソ
ラシドレミファソ
ラシドレミファ
音の長さも音程もそれぞれ違う、四十八個の音。たしかここの部分も録音していたはずだ。これも暗号の一部なのか。
わたしは楽譜を見た。一番低い音はラ。一番高い音はソだ。ピンと来るものがあった。メモにアイウエオから順番に書いていく。
アイウエオ
カキクケコ
サシスセソ
タチツテト
ナニヌネノ
ハヒフヘホ
マミムメモ
ヤユヨ
ラリルレロ
ワヲン
五十音というくらいだから期待したが、全部で四十六個しかない。濁音を入れると今度はオーバーしてしてしまう。四十八個の音にそれぞれ文字が割り振られていて、それが曲となっているのだと思った。しかし四十八個の文字の方が分からない。アルファベッドでは少なすぎる。これも間違っているのだろうか。
いや――。わざわざ最後のソを削って四十八個にしているのだから、何か意味があるはずだ。
念の為「五十音」と検索した。どうして五十音というのに四十六個しかないんだろうと思ったからだ。何かヒントが得られるとも考えていた。
しかし特に気になった記述はなかった。母音と子音を五十個並べた図があり、それが元で五十音と呼ばれるようになったそうだ。必ずしも五十個の音があるわけではないとある。
いい線まで来ている気がする。しかし何かが足りない。
ひとまず、楽譜を暗号解読用に書きなおすことにした。わたしの今の考え方があっているなら、音の長さは全部で七種類。一番短い音のソは使われていないはずだ。
タイで繋がっている音符を一つの音符に置き換える。ここで間違うと絶対に解読できなくなる。慎重に一つ一つ確認しながら書きなおした。
ラ1 ド4 シ2 ソ8. ファ8
ラ1 ラ2. ソ2. ファ1 ミ4.
ソ2 ソ2. ミ4 ド4. ラ1
ソ8. ミ2. ミ4. ソ2. ファ1
ミ4. ソ2 ソ2. ド1 ファ8
レ1 ファ8 ド1 ミ1 レ8.
ミ4. シ8 シ1 レ8. ド8.
ソ8. ラ2 ド4. ミ4 ド1
ラ4 ミ2 ミ4. ド4. ソ4
レ1 ド8. シ2.
音の長さを隣に書いた。1が全音符。8が八分音符。点は付点を表している。予想したとおり全部で七種類の長さだった。
全音符。付点二分音符。二分音符。付点四分音符。四分音符。付点八分音符。八分音符。そして一番短い八分音符のソはどこにもない。もう間違いない。四十八個の音に対応した文字があるはずだ。
考えは間違えていない。
あとはラシドレミファソが何を表しているのかさえ分かれば……。しかしアイウエオじゃないなら、他に何があるんだろう。
何度も何度もカズオミさんの言葉や音を聴いた。
ラから始まっていることに意味はあるのだろうか。どうしてラから始まるのだろう。考えろ。もうこの楽譜以外に手掛かりはない。
そういえば最近この並びをどこかで見た。タモリが何か話をしていた気がする。あれは何だったろうか。
(ラから始まっている……)
頭の中に声が聴こえてきた。
「先生、じゃあなんでドレミはドレミなんですか。アイウでもええやないですか」
そうだ。
そういえば、『アレ』は一体何なんだろう。
わたしはスマホを取り検索した。
そして戦慄する。
わたしが検索したそれは、全部で四十八個の文字で構成されていた。




