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 スマホのアラームを止めた。午前九時。

 頭がぼんやりとする。暑くて寝苦しかったせいか、眠りが浅かったみたいだ。短い夢をいくつか見た気がするが、起きた瞬間に忘れてしまった。

 わたしは布団から出て背筋を伸ばした。体中に血流が巡っていくのを感じる。

 立ち上がり、カーテンを開いた。強い日の光が室内に射し込んだ。外の暑さが窓越しにじんわりと滲んでくるようだった。どこか遠くの方で、蝉が鳴いている。本当なら蝉が鳴くのは、あと一ヶ月程先のはずだった。

 今日も暑くなりそうだ。

 わたしは小さくため息をつき、部屋を出た。

 一階へ行くとママがリビングのソファに掛けながらテレビを見ていた。うちわを片手にパタパタと仰いでいる。押入れの奥の扇風機を出すのが面倒だからと、ここ一週間くらいそうしていた。今夜辺りはさすがに限界が来て、引っ張りだすかもしれない。

「おはよう」

 声を掛けるとママがだるそうに振り返った。額に汗をかいているようで、前髪がべったりと張り付いている。

「おはよう。あんた、学校は?」

「休み」

「へえ、そう」

 うちわを仰ぎながら、ママはテレビの方に向き直った。テレビには録画していたと思われるドラマが映っている。今人気の、物理学で事件を解決する推理ものだ。わたしはまだ見ていないので、なるべく視界に入らないように気を配った。

「ねえ、今日も仕事だから。だから、夜のご飯いらない」

「なに。また? あんた、最近バイトのしすぎじゃないの」

 説教が始まりそうだったので、わたしは洗面所へ逃げようとする。しかし、ママの追撃はそれよりも速かった。

「そろそろ就職決めないとまずいんじゃないの? バイトもいいけど、ちゃんと将来のこと考えなさいよ?」

「うるさいなあ。分かってるって」

 わたしは逃げるようにリビングを出た。

 歯を磨きながらママの言葉を思い返す。

 わたしは音楽の専門学校へ通っている。表舞台ではなく裏方系の方だ。ママは就職先が見つからないと思っているらしいけれど、そうではない。就職などしようと思えばいつでもできる。よりより条件の会社がないか探しているのだ。

 この業界では女性の方が圧倒的に有利だと学校の男友達が言っていた。求人は男女とも同程度だけれど、男性に求められる仕事は、わざわざ専門学校へ行かなくてもいいような単純作業や力仕事がほとんどだという。それに、この業界では新卒を採ることは珍しいらしい。というのは入れ替わりが極端に激しいのだ。そういう訳でわたしは特に焦っていない。強がりではなくて、本心からそう思っていた。

 その辺りの事情を説明するのも面倒なので、ママには毎回適当にはぐらかしている。最近だんだんうるさくなってきたので、ちゃんと説明した方がいいのかもしれない。

 顎と腕がだるくなってきたので、歯磨きを終えることにする。

 それから、簡単にシャワーを浴びてから、リビングに戻った。ママはさっきの続きをするつもりはないようで、さっき見た時と同じ体勢のままテレビを見ていた。さっきとは違うドラマがテレビに映っていた。

 ママの隣に座り、涼んでいると、眠たくなってきた。昨夜はあまりよく眠れなかった。今日は夕方から仕事だし、もう少し寝といた方がいいかもしれない。眠気はどんどん肥大していき、わたしはいつの間にかまどろみに落ちていた。




 午後五時半に、家を出た。

 バイクを走らせていると道行く人がかなり多くなったことに気がついた。夏が近づいてきて、観光客が増えてきているのだ。まだ海に行くには早いのに、彼らは何を求めてこの町に来ているのだろう。わたしが住むA市は全国的にも有名な観光地だ。海と温泉。そのニ枚看板で頑張っているが、年々観光客は減少傾向にあるらしい。

 しかしこの人だかりを見ていると、とてもそうとは思えなかった。ひょっとしたら今日は忙しいかもしれない。駅に近づいていくと、巨大な喧騒が渦を巻いていた。車のクラクションや大勢の人の話し声。加えて、駅前は最近四六時中工事をしているので、その音などが重なって、やたらと騒々しい。

 駅前ビルの立体駐車場に入り、いつもの定位置にバイクを止めた。

 昨日とは別の駐車場のおじさんにバイクの鍵を渡して、エレベーターに向かった。

 今日は誰と一緒だったろうか。スマホには今週のシフト表が保存されているけれど、わざわざ見なくてもあと数分、いや、数秒で分かる。わたしはそのまま店に向かうことにした。

 エレベーターを四階で降りると、そこは小さめのホールになっていて、左手すぐが店の入口だ。ちなみに、ここから左に少し行くと、このビル全体を管理している事務所がある。うちのカラオケ店も、その事務所で事務関係の業務がされているのだが、わたしは数えるくらいしか事務所に入ったことはない。完全に営業部門と事務部門が別れているのだ。しかも事務所に務めている人たちは四時くらいには退社してしまう。顔を合わせるのも月に一回あるかどうか、というところだ。

 ガラスの自動ドアから店内に入ると、ひんやりと心地よい涼しさが腕を撫でた。この店は独特の甘いような香りがする。ホール全体を照らす大きな葉っぱの形をした照明や、岩石や小さなヤシの木で飾られた南国風のインテリアとよくマッチしている。

 カウンターに立っている人物が見えた。ワカさんだ。

「おはようございます」

 挨拶をしつつ心の中で、今日はワカさんか、とため息をついた。正直に言うと、わたしはワカさんが少しだけ苦手だった。ワカさんは四十半ばくらいの女性で、この店の店長である。彼女は気分屋のところがあって、その時によって態度や言動に差があるのだ。そんなところが苦手と思う原因の一つだった。

「おはよう」

 若さんは長い髪をかきあげながら挨拶をわたしに返した。表情はいつもどおり無愛想だったけど、声色からすると、そこそこ機嫌はいいようだった。

 知らない人がワカさんの表情を見たら、どう見ても機嫌がいいようには見えないだろう。見た目が知的で綺麗な人だから、余計そう思えるのだ。わたしも彼女の機嫌が分かるようになるまで、半年くらいは掛かったと思う。

 従業員室に入り、タイムカードを機械に入れる。

 それから壁に張ってあるシフト表を確認した。

 今日ワカさんは八時で帰り、代わりに戸高さんがやってくる。わたしは胸を撫で下ろした。二時間だけ我慢していればいい。

「あら、おはよう、葵ちゃん」

 声を掛けられて振り返ると、昼間のシフトを主に担当しているケイさんがいた。

「おはようございます」

 ケイさんも四十代の女性で、おっとりとした人だ。小柄で、とても女性らしい印象がある。

「もうこんな時間かあ。早いわねえ」

 ゆったりとした口調でケイさんが言った。頬に手を添えながら時計を見ている。年上の人に対しては失礼な表現かもしれないが、なんだかその姿がとても可愛らしく見えた。

「じゃあ葵ちゃん、引き継ぎしちゃおうか」

「あ、はい」

 わたしはケイさんの後に続いてレジに向かった。

 昼間の仕事しかしない人とも、こうして交代時には必ず会うようになる。従って、この店で働いている人とは全員と面識があった。だいたいどんな人なのかも把握しているし、町で見かければ話し掛けたりもする。それはわたしだけではなく、この店で働く全員がそうだった。わずか九人の小さな店だけど、それは案外すごいことなんじゃないかと思う。わたしは今までいろいろなバイトをしてきたけれど、挨拶くらいしか交わしたことのない人は、どの店でも必ず一人は居たものだ。それが、全員が全員、例外なくお互いをよく知っている。

 仲の良いというのとは違う。絆とも違う。何か言いようのない親密な関係を築いているのだ。

 九人のうちの半分以上が、五年以上働いているベテランだというもの理由の一つかもしれないが、それ以上の何かを感じずにいられなかった。わたしがこの店を好きな理由であり、自慢でもあった。

 引き継ぎ業務が終わると、ケイさんは帰り支度を始めた。朝に蜂が店に入ってきて大変だったとか、今日の夕飯の話だとか、他愛のない話しをいくつかする。

 途中でワカさんが従業員室に入ってきたけれど、彼女は会話には参加してこなかった。

「それじゃあ、上がりますね」

 時間が来ると、ケイさんは手を振って店を出て行った。




 狭い従業員室に沈黙が流れる。ワカさんと二人だけになってしまった。

 店の様子を見ると客はまばらだった。予想に反して今日は暇らしい。

 仕事がないのならテレビを見たいところだけど、ワカさんと一緒だとそれも叶わない。原則、テレビは禁止されているのだ。半年前に突然その決まりができた。

 テレビを見ていて仕事に集中できないというのが主な理由らしい。ワカさんは、事務所が決めたルールだから仕方ないと言っていたけど、本当はワカさんはこのルールを喜んでいるんじゃないかと疑っている。彼女がテレビが嫌いだと漏らしていたのをわたしは知っている。店長である彼女が反対すれば、そんなルールは採用されなかったはずなのだ。そのワカさんはスマホをいじっていた。集中できないのが理由なら、本来はスマホも禁止すべきじゃないだろうか。

 グチグチと考えていても仕方ないので、私もゲームでもしようとスマホを開いた。

 それから三十分ほど静かな時間が流れた。

 来店もなかったし、客からの注文もほとんどなかった。

 いいかげんゲームも飽きてきた。ちらりとワカさんを見ると、彼女はまだスマホで何かをやっている。

 たまにはこちらから何か話しかけてみようか。しかし、話題は何にしよう。軽はずみに話題を選ぶと、痛い目にあうことだってある。以前、わたしが好きなバンドについて話題を持ちかけたことがあった。だが、その時彼女はそのバンドが嫌いだとわたしに堂々と言い放ったのだ。それ以来、当たり障りのない彼女が好みそうな話題を選ぶようにしている。余計なことで腹を立てたくはない。

 何かないかな、と考えているうちに、昨日のことを思い出した。

 深夜に鳴る13番の電話の音のことだ。

「あの、ワカさん」

 声を掛けると、彼女はスマホをテーブルに置き、私に向き直った。

「なあに?」

 声色は優しげだ。内心ほっとする。会話がなかったので、本当は機嫌が悪いのかとちょっぴり思っていた。

「そういえば昨日、変なことがあったんですよ。夜、片付けしている時に13番から電話があって……」

 ワカさんは「あぁ」と小さく漏らした。そのことね、と後に続きそうなニュアンスだった。

「知ってるんですか?」

「うん。まあね」

「じゃあワカさんも聴いたことが?」

「うん。あるよ」

 ワカさんは言うと、再びスマホを手にとった。その姿にわたしは違和感を覚えた。

 ワカさんは、人と話しをする時、極力他のことをしないように心がけているのをわたしは知っている。何かをしながら会話をするのはマナー違反だと常々口にしているのだ。

 ずっとスマホを手にしていたのでネットオークションにでも参加していたのかもしれない。わたしはそう考えて、質問を続けることにした。

「それって、原因は分かってるんですか?」

 ワカさんはわたしを見ずにスマホを見つめたままだった。知らないということだろうか。

「どうして鳴るんですかねえ? ポンさんなんて、13番に幽霊がいるなんて言うんですよ。わたし、なんだか昨日は怖くなっちゃって、もう最悪でした」

 冗談っぽく言ってみたが、ワカさんは答えない。眉間に皺を寄せている。

(おかしいな。機嫌は良かったはずなのに……)

 しかしワカさんの機嫌が本当に悪かったのならば、毒舌で返してくるはずだ。だから何か別の理由があるのかもしれない。それにここで会話が途切れたら、それはそれでおかしいじゃないか。

 わたしはそのまま話し続けることにした。なるべく答えやすそうな質問を心がける。

「ワカさんは、幽霊っていると思います?」

 ワカさんはスマホをテーブルに置く。いや、置くというより、放り投げたような感じだ。彼女の顔を見て、しまった、とわたしは思った。

「葵。くだらないこと言わないでくれる? 13番に幽霊だなんて、お客さんが聞いたらどう思うの?」

 抑揚のない低い声だ。淡々と叱るのが彼女のやり方だった。

「なんとなく言ったんだと思うけど、噂ってすごい勢いで広まるんだからね。ちょっとは考えてくれないかしら」

 わたしは幽霊の存在を信じているか、という意味で訊いたのだが、ワカさんはそうは取ってくれなかったらしい。

 わたしは嵐が過ぎ去るのを待つ心境で、ワカさんの言葉を受け続けた。こちらが意見を言う隙なんて一つもない。きっと頭がいい人なんだろう。こんなに言葉が続くんだから。ちらりとワカさんの顔を見ると瞼の辺りが痙攣していた。この痙攣はチックというらしい。神経質な人に多いそうだ。久々にワカさんのチックを見た。

 機嫌がいいように見えたのは、きっと気のせいだったのだ。今日は多分、今までで一番機嫌が悪い日だった。

「すいません……」

 わたしは頃合いを見計らってそう言った。

 ワカさんはぴたりと声を止めた。とりあえずこれで収まってくれそうだった。この人は口答えをせずに素直に謝れば終わってくれるから、それだけが救いだった。

 そのタイミングで来店があった。客は四人組の男で、酔っ払っているのか大きな声で喋っている。いつもなら邪険に思うタイプの客だったけど、今回に限っては正直嬉しく思った。

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