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「ただいま」

 チンさんの声が聞こえた。顔を合わせるのは、あの雨の日に待ちぶせされて以来のことだ。眉間の辺りがチリチリと熱くなった。

 チンさんは靴を脱いでいる最中に、わたしの存在に気がついたようだ。靴を見てこちらを見たのかもしれない。目が合った。チンさんは目を見開いている。お互い見つめ合ったまま、数秒が過ぎた。先に動いたのはチンさんだった。普段通りの表情に戻り部屋に上がった。

「来てたの?」

「すいません。急に」

「言ってくれればすぐ帰ってきたのに」

 チンさんは手に持っていた紙袋を台所に置いた。いつもと同じような口調だったけれど、どこか拒絶の色を示していた。わたしを歓迎していないのだ。

「それで、なんの用?」

 チンさんは居間に来るとわたしの左前に座った。お腹をさすっている。前に見た時よりも大きくなった気がする。

「訊きたいことがあってきました」

 チンさんは何も言わず、お腹をさすり続けている。生まれてくる我が子への愛を感じた。

(躊躇するな……)

 わたしはつばを呑み込んでから、用意していた一言を放った。

「池田真一のことです。一体誰何ですか?」

 はっきりと語尾が強くなるように心がけた。

「知らないって言ったでしょ?」

「昔のシフトを見ました。そこにはあなたやカズオミさん、池田真一の名前が書いてありました。五年前のシフト表です」

 チンさんは視線を落とし「どうして……」と小さく呟いた。眉を寄せ苛立ちを前面に押し出す。

「教えてください」

「無理よ」

「池田真一は卒業間際失踪したそうですね。理由を知っているんじゃないですか?」

 どうして揃いも揃って頑なに拒否するのか。彼女たちは池田真一の失踪について何か事情を知っているのではないかとわたしは踏んでいる。全員があれだけ口を固くするのには、大きな理由が必要になるだろう。それに脅迫文を送ったり怪我を負わせたりするなんて、尋常ではない。

「忘れろって言ったよね」

 冷たい声がわたしの心をえぐった。有無を言わさぬ迫力があった。負けないように心を引き締める。わたしに後ろめたいことは何一つないのだ。

「どうしてですか?」

「いいから忘れなさい」

「野村明江の方はどうなんですか?」

 チンさんの表情が変わった。その質問は予期していなかったようだ。

「死んだそうですね。この人の死も池田真一と関係があるんですか」

 チンさんは答えずに虚ろな瞳でテーブルの上を見つめている。これではまるでわたしが悪いようではないか。徐々に夕方の怒りが蘇ってきた。

 わたしはポケットの中から脅迫文を取り出した。セロテープで繋ぎあわせている上にくしゃくしゃになっているが、読めないことはない。

「わたしにも引けない理由があるんです。今日、母が車に轢かれかけました」

 チンさんは手先が不器用だし、細かい作業が苦手だった。丁寧に切り取られた新聞の切り文字を見ると、どうしてもチンさんの仕業とは思えなかった。だからこそ見せたのだ。

 チンさんは脅迫文に指を触れ、口元を震えさせた。演技には思えなかった。この脅迫文を作ったのはチンさんではないと直感的に思った。

 しかしチンさんの次の言葉は、わたしの期待を裏切るものだった。

「だから忘れろって言ったのよ。……今ならまだ間に合う。葵が全てを忘れれば、今までと同じように過ごすことができる」

 まるで脅迫文の送り主のような台詞を聞いて、わたしは目眩を覚えた。悲しい衝撃が全身に走る。わたしはどこかでチンさんがわたしに同情してくれることを期待していた。

「葵ちゃん」

 その声に我に帰った。今まで黙っていたカズオミさんがわたしを見ていた。

「こういうのはどうかな。一つだけ真実を教える。その代わりにこれ以上俺たちには関わらない」」

 俺たち、という部分が強調されているように聞こえた。この人も池田真一について知っているのだ。そしてチンさんを守ろうとしている。カズオミさんの口調は穏やかだったけれど、目は笑っていなかった。

「ちょっと!」

 チンさんがテーブルの上に両手をついた。

「お前は黙ってろ」

 カズオミさんは低い声でチンさんを制すと、わたしの方へ体を向けた。

「どうする?」

「簡単には信じられません」

「ならこの話はなかったことにしよう。帰ってくれ」

 わたしは彼らの前で舌打ちをした。

 このまま意地を張っていても、答えは訊けないだろう。カズオミさんの提案に乗ってもいいかもしれない。しかし、何を訊けばいいのだろう。訊きたいことは山ほどある。池田真一とは誰なのか。どうして何も言わないのか。どこへ消えたのか。野村明江はどうして自殺したのか。

 わたしは短い時間の中で頭をフル回転させた。一つの質問で出来るだけ多くの情報を知るには、なんと訊けばいいか。

「嘘はつきませんか?」

「信じてくれ」

 カズオミさんは力強く頷いた。無意味だと思いながらも訊かずにはいられなかった。その言葉を信じたわけではないが、わたしの中で決心が固まった。

「あなたたちは池田真一に何をしたんですか?」

 こう質問した。池田真一の失踪に関わっているのなら、何らかの答えが得られるはずだ。

 カズオミさんは自分の指先を見つめていた。しきりに親指を動かしている。思慮に耽っているようだ。

「あなたたちというのは?」

「当時のハイカラの人たちのことです」

「具体的には誰のことだ」

「それはあなたたちの方が知っているでしょう」

「いいから名前を言うんだ」

 一方的な態度に腹が立ったが、ここでこじれても面倒だ。わたしは五年前のシフト表に乗っていた名前を全員分読み上げた。わざと加藤智子、高橋和臣と本名で言ったのはわたしの精一杯の皮肉だった。

「それは葵ちゃんが見た五年前のシフトのメンバーか?」

「そうです」

「なるほどね」

 カズオミさんは息を吐くと、静かにこう言った。「……答えは何も、だ」

 耳を疑った。もう一度訊き返す。

「何もしていない」

「どういうことですか?」

「言葉通りの意味だよ。俺たちは何もしていない」

 嘘だ、とわたしはテーブルを叩いた。声が大きくなってしまったことに言い終えてから気がついた。エアコンの風の音が急に大きくなった気がした。

 わたしはテーブルに乗り出し、チンさんとカズオミさんの顔を交互に見た。一層二人から表情が消えている。何も読み取ることができない。

「ならどうして隠すんですか」

「答えられる質問は一つだ」

「信じられない」

「嘘はついていない。俺たちはあらゆる意味で何もしなかった」

 自分の唇が震えているのが分かった。怒りで震えているのだ。チリチリと焼けるような痛みが今度はこめかみに走った。

「時間の無駄でした」

 わたしは勢い良く立ち上がった。

「忘れ物だよ」

 カズオミさんがテーブルに置いてあったICレコーダーのチップをわたしに付き出した。わたしはそれを払いのけると何も言わず部屋を出た。




 家に帰って夕飯を食べてから、すぐに部屋に入った。本当はフェイスブックやミクシィで神谷健太について調べようと思っていたのだが、そんな気力は残っていなかった。

 何か考えようとしても、有耶無耶になってしまう。なのに無心でもいられず、辛い時間を過ごした。今日の強行はかなり精神力が必要だった。そしてそれがほぼ空振りだったのだから、疲れてしまっても当然だと思った。

 部屋に置いてあるベースを久しぶりに弾いてみた。アンプには繋がっていないので近所迷惑にもならない。レッド・ホット・チリ・ペッパーズのバイ・ザ・ウェイを演奏した。わざとスラップ奏法の所ばかりを演奏した。ベースを弾いている時はこのスラッピングをしている時が一番気持ちがいい。それにギターには出せない低音の粘りのある迫力を味わうことができる。

 普段は三十分もベースを触っていれば嫌なことを忘れることができたけれど、今日は一時間を過ぎてもモヤモヤとしたものが頭上を覆っていた。

 結局ベースを弾くのをやめてしまって、そのあとは部屋の棚に積んであった古いCDアルバムを聴くことにした。

 その深夜に星野さんから電話が掛かってきた。深夜二時を超えていた。わたしはベッドの中にいたけれど眠れないままでいた。

 「今日はどうしたの?」と電話に出るなり訊いてきた。わたしはカッターと脅迫状、ママが轢かれかけた件を説明した。星野さんが電話の向こうで直立不動している所が目に浮かぶようだった。

「それであんな強攻策に出たわけか」

「すいません……」

「いや、それは構わないけど。しかし今後は気をつけた方がいいだろうね。もっと苛烈な攻撃をされないとも限らないし」

 わたしが何かされるのは覚悟もできるが、家族が狙われるのは納得がいかなかった。そのことを考えると犯人に対する怒りがあっという間に沸点に達しそうになる。

「マヨさんとチンさんの家にも行ってきました」

「何か情報は掴めたの?」

「いえ。何も。結局無意味でした」

 戸高さんとワカさんの家に行くことも考えていたが、多分結果は同じだろう。もう彼女たちの口から真相を聞き出すことは諦めた方がいいかもしれない。

「じゃあこっちの収穫を言おうか」

 わたしは無意識に電話を持つ手を右から左に変えた。誰かが左耳で聴く人は右脳人間だ、と言ってたのを思い出した。

「まず一つ目だけど、例のギターはカズオミのものだったよ」

「直接訊いたんですか?」

 あの人が簡単に口を割るとは思えなかった。

「いいや。昔の写真を見てたら葵ちゃんが言ってたのと同じようなギターを見つけたんだ。茶色いギター……エレアコって言うんだっけ? あれを抱えたカズオミが映ってた。高校生の時の写真だけど、偶然同じようなギターを持っていたとは思えないな。今度写真を見せるよ」

 カズオミさんの家のギターはよく手入れされていた。高校生の時というと十年前だが、あのギターが十年前だったと言われても違和感はない。しかしカズオミさんのギターだと判明したところで、今さらそれが何か手掛かりになるとは思えなかった。

「それともう一つだけど、神谷健太の連絡先が分かったよ」

「本当ですか?」

「マヨさんからは訊き出せなかったけど、同級生だった。簡単に調べることができたよ」

「同級生って、星野さんのですか?」

「そうだよ。俺とは違う中学だけどね。この町に住んでいるらしいし、会おうと思えば会えると思う。住所も調べたんだ。住所は――」

 詳しい場所は分からないけれど、わたしの家からバイクで十分程の場所だということは分かった。市街地ではなく山側に住んでいるらしい。そのエリアは星野さんやカズオミさんの中学ではなく、わたしが通った方の中学校のエリアだった。

「実家暮らしですよね」

「だろうね。わざわざ同じ町で一人暮らしはしないだろう。それで、どうする? 電話してみようか?」

「そうですね。せっかく調べてくれたんだし」

「じゃあ明日電話して見るよ」

「え?」わたしは自分が電話をする気でいたので驚いた。「いいですよ。そこまでしてもらったら悪いです」

 わたしに脅迫状が届いたということは、星野さんにも危害が及ぶ可能性は十分考えられた。この電話を最後に、もう手伝ってもらうのは止めようと思っていたくらいだ。

「いや、いいんだ。実を言うと連絡する手はずは整っている。女の子が電話をすると都合が悪い」

「でも……」

「大丈夫。好きで手伝ってるんだから。いいから俺に任せてよ」

 わたしはすいません、とだけ言った。星野さんが行動力がある人なのはこの数日で分かった。それに意外と頑固なことも知っている。わたしが何を言っても止まらないだろうなと思った。

「それじゃあ、もう遅いから切るけど、本当に気をつけて」

「ええ、星野さんも。星野さんと一緒に探っていることは、多分みんな知ってますから」

「大丈夫だよ。じゃあ、おやすみ」

 電話を終えると窓を開けて外の空気を吸い込んだ。鬱積したイヤなものが、空気と一緒に入れ替わってくれるように感じた。今夜はいい風が吹いている。暑くもないし、湿気も感じない。

 窓を閉じてベッドに飛び込んだ。

 相談したのが星野さんで良かった。あの人が大丈夫と言うと、本当に大丈夫な気がしてくる。

 さっきまで眠れなかったはずなのに、急に眠気が訪れた。

 目を閉じると、瞬く間に眠りに落ちた。


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