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息を切らしながら坂を上って、ようやく自宅に到着した。家に入る直前に、玄関の足元にまた石が置いてあるのを見つけた。家を出るときには置いてなかったので、わたしが出掛けている間に設置されたのだろう。
(何なんだろう)
石は前回よりも多い。やはりばら撒かれているというより、並べられているような形だった。わたしは前と同じように石を蹴り飛ばした。石の数は三十を超えている。一度では履けなかったので、何度も足を運んで玄関の脇に落とした。
ポケットから鍵を取り出して解錠する。
「いたっ……」
玄関を開く為にドアノブを握った時に、鋭い痛みが親指に走った。静電気かと思って指を離してみると、指の付け根から鮮血が流れていた。見てる傍から血が溢れてきている。慌てて指に吸い付いた。口の中に鉄の味が広がってくる。血を吐いてから傷口を見てみると、細い傷が真っ直ぐ付いていた。
(何なんだろう)
ドアノブが欠けているのかとでも思って目を近づけた。親指に触れる部分をじっと見る。そこにあったものを見つけた瞬間に、全身の血の気が引いた。
カッターの刃のようなものが、ドアノブの死角になっている部分に貼り付けられている。
(何よ……これ……)
ポタポタと音を立てて血が地面に零れた。赤いシミが点々と足元に広がっていく。急に傷口が熱を持ったように感じた。何かを主張するように脈を打っている。
反対側の手で玄関を開け、家に入った。ママはいない。仕事に出掛けている。リビングの棚に置かれている救急箱から消毒液と絆創膏を取り出した。
水道水で血を洗い落としてから、傷口に消毒液を注いた。歯を食いしばりながら痛みに耐える。
――さっきのあれは、誰かが意図的に仕掛けたものだ。一体いつ仕掛けられたのだろう。うちの玄関戸は全開にしない限り自動的に閉まるようになっている。出る時は外側のドアノブは握らない。恐らくママもそうしていると思う。昼にわたしが家を出た時には既に仕掛けられたのかもしれない。しかし自然に考えれば石を置いた者が同時に仕掛けを施したと考えるべきだろう。
手当てを終えて玄関に戻った。しゃがみ込んでカッターの刃を見る。ドアノブの下側に貼り付けられていて、刃の部分が僅かに飛び出ている。握った時に指を切るようにわざとそうしているのだ。
手を切らないように爪の部分で刃を引っ掛けてみた。力を込めてみたが刃はびくともしない。しばらく試してみたが剥がすことができず、一度家に入ってマイナスドライバーを持ってくることにした。
マイナスドライバーをカッターの刃とドアノブの隙間に差し込んで、テコの原理で力を掛けた。パリパリと音を立てながら刃が剥がれていく。簡単に剥がれないように、かなり頑丈にされている。
根気よく力を入れているうちに刃が落ちた。拾い上げてみると、白い斑点がこびりついている。どうやら接着剤を使ったようだ。両面テープと違って完全に密着するまで押さえつけなければならなかったはずだ。頑丈になる代わりにかなりの手間を要する。
一体誰がこんなことを。チンさんの顔が思い浮かんできて、慌てて頭を振った。あの人がこんなことをするわけがない。そう思いたい。しかし――。
「あんた、何してるの?」
振り返るとママがわたしを見下ろしていた。反射的に落ちたカッターの刃を踏みつぶして隠した。
「なんでもないよ。もう仕事終わったの?」
「だから帰ってきたんでしょ。さ、どいたどいた」
足を引きずりながら体をどかした。ママがドアノブを握る。わたしはその光景を見てはっとした。もしかしたら、指を切ったのはわたしではなく、ママだったかもしれないのだ。
「あ、そうそう」ママが半分家に入った所でわたしを見た。「あんたバイクどうしたの?」
「バイクって?」
「見てないの?」
見てない、と伝えると「ひどいことになってるわよ」とママは言って、そのまま家に入っていった。
バイクは家の前の道路に止めてある。わたしは玄関前の階段を下りバイクの元に急いだ。
異変にはすぐに気がついた。バイクのシートが引き裂かれている。それに加え、ボディにいくつかヒビが入っているのが分かった。
近寄ってみると、シートの切れ間から黄色いスポンジがはみ出ているのが分かった。水を吸っているのか所々が黒ずんでいる。
(ひどい……)
古いバイクだったけれど、愛着があった。思い出だってたくさんある。この無残な姿を見ると悲しい気持ちになった。
そのまま目線を移した。ハンドルの所にビニール袋がぶら下げられている。それは記憶にないものだった。白いビニール袋で、見ただけでは中身は分からない。ビニール袋を持ち上げてみると、重さはほとんどなかった。何も入っていないのかと思って上下に振ってみたら、予想に反して手応えがあった。
何が入っているんだろう。かなり固く閉じられている。何重にも縛られているらしい。解くのは大変そうだったので、力任せに破いてみた。
破れた部分から茶封筒が見えた。袋から取り出してみる。よく見るサイズの封筒だ。下の方にシミがついている。雨に濡れたのだろう。一体いつからここにあったんだろうか。ここの所雨続いていたので、バイクは使っていない。
(最後に使ったのは……)
わたしは記憶を辿った。
最初にギターを見つけた日だ。三日前になる。たまたま今日見つけただけで、本当はもっと前から置いてあったのかもしれない。
わたしは封筒を慎重に破いた。またカッターの刃が仕込まれているかもしれないと思うと、慎重にならざるを得なかった。
白い用紙が折りたたまれている。封筒から取り出し広げてみた。
『母親、そして今は一緒に住んでいない父や弟を大切に想うのなら、私を探るを辞めなさい。私は貴女を見ている。池田真一より』
指が震えた。
これは脅迫文だ。
A4サイズの白い紙に、新聞紙から切り抜いた文字が一文字づつ貼り付けられていた。ドラマなどではよく見るが、しかし画面を通して見るようなチープさは微塵も感じられなかった。
わたしは紙を両手で丸めると乱暴にビニール袋へ突っ込んだ。ビニール袋を鷲掴みし早足で玄関へ戻る。腹の底に恐怖とは別の感情が沸々と沸き上がっている。
家へ入るとママが立ったまま何かをしていた。わたしに気がつくと手に持っていたものをテーブルに置いた。それはわたしが先ほど使った消毒液だった。
「ねえ、消毒液使ったの?」
わたしは指を隠しながら「どうして?」と訊き返す。
「しまってある場所が違ったから」
急いでいて間違えたかもしれない。しかしどうしてすぐに気がついたのだろう。
そのまま様子を見ていると、ママは肘を持ち上げ首を傾けた。肘の辺りを見ると、擦り傷で汚れている。
「それ……どうしたの?」
わたしは持っていたビニール袋を握りしめた。
「ああ、これね。朝転んだのよ」
転んだと聞いて少し安心した。「もう、気をつけてよ」
ママは消毒液を肘の部分にかけた。こっちまで痛くなってきそうな顔だ。
「だって仕方ないじゃない。車が突っ込んできたんだから」
「え……?」
「思い出したらムカついてきたわ。横断歩道を歩いていた時に車が信号無視してきたのよ。もう少し気付くのか遅かったら轢かれてたかも」
「どんな車だったの?」
「普通の車よ。黒い乗用車」
ママが不思議そうにわたしを見ている。どうしてそんなことを訊くのかと今にも言いそうだ。
「……とにかく、気をつけてね」
わたしは逃げるように自分の部屋へ戻った。
このタイミングでそんな話を聞けば、嫌でもさっきの脅迫文を連想する。わたしはベッドに座ると、もう一度脅迫文を広げた。
この手紙には池田真一よりと書いてあるが、さすがにそれはないだろうと思う。自分を探るなと言いつつ、何故自分の名前を書くのだ。それだったら池田真一を探るな、とそれだけでいい。この文章は矛盾している。
脅迫文を見つめていると、わたしはあることに気がついた。
(そんな……)
恐ろしい。
脅し文句に恐怖しているのではない。その丹念な作り方に恐怖を覚えたのだ。寸分違わず几帳面に来られた新聞紙の文字群。そして丁寧に貼り付けられたそれらは、定規で測ったように几帳面に並べられている。これだけの長文を作るのは、さぞかし時間が掛かる作業だったろう。
そしてわたしは、一度似たものを見ている。この几帳面さには見覚えがある。
(戸高さん……)
考えたくはないが、そもそも最初に嘘をついたのは彼女だった。あの笑顔は欺瞞に満ちていたのだ。それに戸高さんならわたしの家庭のことも知っている。
わたしは脅迫文を力任せに破り捨てると、頭を抱え膝元に埋めた。呼吸が荒い。動機も激しくなっている。
――どうして家族のことが書いてあるんだろう。無関係じゃないか。
腹の底に沈む僅かな感情を、無理やり奮い立たせる。
怒れ。怒りで恐怖を紛らわすのだ。
ママが傷つけられた。もうこうなったら後には引けない。このまま逃げるのは納得できない。意地でも真相を暴く。
わたしは決意を固めると頭を持ち上げた。今どんな顔をしているだろうか。きっと自分でも見たことないような恐ろしい形相をしているに違いない。
しかし気を抜くと、この怒りが収まってしまいそうになる。恐怖に負けそうになる。この怒りが持続している間に、行動に移さなければならない。
わたしはスマホを手にとった。やるべきことは山ほどある。
「土屋」と書かれた表札を確認し、インターフォンを押した。時刻は夜の七時半を越している。トタン屋根の古びたアパートだった。その一階の中央の部屋に、マヨさん――長谷川真世は住んでいる。表札の苗字が違うのは、彼女にも複雑な事情があるからだ。
「どちらさま?」
わたしのママと同じくらいの歳の女性が門口に出た。髪を茶色く染めていて、若々しいTシャツを着ていた。無理に若作りしているという雰囲気はなく、その格好はよく似合っていた。
「田中と申します。マヨさんは帰られましたでしょうか?」
「ああ、うん。帰ってきてますよ」母親らしき女性が家の中へ振り返る。「マヨ。お友達だよ」
わたしがここに来ることは事前に伝えてある。彼女は嫌がっていたけれど、わたしがしつこく食い下がったのだ。この時間なら居ることも聞き出していた。
母親と交代してマヨさんが姿を表した。普段より化粧が濃い。それに耳にイヤリングがぶら下がっている。どこかに遊びに出掛けていたとさっきは言っていたけど、それは本当だろう。
彼女はわたしと視線を合わそうとしなかった。足元辺りをじっと見つめている。ドアの隙間から体を半分だけ出していて、それはまるで訪問セールスに応えるような態度に見えた。
「池田真一という人を知ってますか?」
「……知らない」
この人も知らないフリをするのか。予想していたことだが、実際に聞くと落胆した。今までの楽しかった記憶が崩れ去っていく。
「質問を変えますけど、マヨさんは五年前はハイカラで働いていましたか?」
「どうして?」
「いいから答えてください」
強い口調だなと自覚した。マヨさんにこんな喋り方をしたことは一度もない。しかし躊躇はなかった。嘘をついているのなら、この人もママを傷つけたことになるのだ。
「働いていたと思うけど」
「それなら知ってるはずです。証拠を出せと言われれば、出すこともできます」
マヨさんは黙りこんだ。しきりに右手で髪を触っているし、目線も左右に何度も往復している。動揺しているのが手に取るように分かった。
「知らないものは知らない。さあ、もう帰って。これから夕飯だし、弟を送っていかなきゃいけないから」
ドアを閉められそうになる。わたしは即座にドアに手を掛けた。
「離してよ!」
「それなら神谷健太という人はどうですか? 今日星野さんからメールが来たでしょう? 返信したんですか?」
「なんのこと?」
「とぼけないでください」
わたしはマヨさんを睨みつけた。
「だからメールって?」
マヨさんがわたしを見返した。目が合ったのはこれが初めてだ。あくまでもしらばっくれるつもりらしい。
「それなら野村明江の方はどうですか? どうして自殺したのか――」
言い終える前にマヨさんはドアに思い切り力を込めた。わたしはドアを閉められないように必死で抵抗したが、数秒のやり取りの末、力比べに負けてしまった。派手な音を立てて扉が閉められた。
「どうして嘘をつくんですか!」
ドア越しに大声を出した。返事はない。
「誰なんですか? 池田真一って」
「もう帰って。お願いだから」
震える声が返ってくる。泣いているようにも聞こえた。
物音がしてそちらに目を向けた。隣に住んでいる人が声に気づいて窓を開けたらしい。
「また来ます」
わたしは一言だけ言うとその場から退散した。
足を運びながらアパートで共用しているらしい駐車場に目を向けた。車が数台止まっている。その中には黒い乗用車は一台もない。
傍らに止めていたバイクにまたがりエンジンを掛ける。外見はボロボロにされたが、運転は問題なくすることができた。
心臓が高鳴っているのが分かる。それが恐怖なのか、緊張なのか、怒りなのかは分からなかった。わたしは深呼吸を一つしてからアクセルを捻った。
次の目的地はもう決めてある。




