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次の日の昼過ぎにわたしは家を出た。目的は駐車場の管理室に過去のシフト表があるかどうかを調べる為だ。
外は昼間だというのに薄暗く、昨夜から続く雨が降り続いていた。
昨夜ミツノと電話をしてから、わたしはこの件からは手を引く方向に考えを変えつつあった。眠る直前まで考え抜いた末に、表面的にだけでも今までどおりに振る舞っていれば時間が解決してくれる。そう答えを出した。それがただの慰めだと自分でも分かっていたけれど、それ以外に答えは見つからなかった。これ以上踏み込めば、きっともう後戻りは出来ない気がした。人の秘密を探るというのは、そういうことなのだ。
今日は本当は一日ゆっくり過ごして、何もかもリセットしてしまおうと思っていた。
だが、朝ごはんを食べていても、テレビを見ていても、音楽を聴いていても、ふと池田真一のことが頭をよぎった。段々その感覚が狭まっていって、ついにはもう他のことが手につかないくらいに思考が支配されてしまった。
駐車場の管理室のシフト表だけ調べて、そこで何も見つからなかったら今度こそ諦めよう。そう考えてついに行動を起こしたのだった。
横殴りの雨だったので、傘を少し前向きにしながら坂道を下った。昨夜はかなりの雨が降ったらしく、道路の脇のドブから水が溢れている。なんとなく景色全体が白んでいて、霧の中を歩いているような気分になった。
ハイカラは雨の日でも客足はいつもと変わらない。それはA市から出ているローカル線がちょっとした雨でもすぐに止まるせいだ。カラオケで遊んでその時間を潰す人は結構多い。対して駐車場の方はおそらく暇だろう。おじさんが忙しくて話ができないということはなさそうだ。
駐車場にたどり着くと、案の定、暇そうなおじさんの姿が見えた。椅子に腰を掛けて入り口の方をじっと見ている。
わたしは近づいていきながら声を掛けた。
「お疲れさまです」
おじさんはゆっくりと立ち上がった。
「ああ、お疲れ。これから仕事?」
「いえ。ちょっと用事があって寄っただけです」
「へえ、そう」
おじさんはまた腰を掛けた。疲れ気味なのか、今日はあまり話が弾まない。わたしは胸の奥で深呼吸をしてから用意していた言葉を放った。
「おじさん。わたし、競輪やってみようと思ってるんだけど」
「え? どうしてまた?」
「おじさんに影響されたからかな」
「あらら。若いのに。競輪なんて辞めておいた方がいいよ」
そう言いながらもおじさんは笑っていた。その笑顔を見ると胸に痛みを感じた。しかし仕方ない。大きな目的がある。
「競輪って面白い?」
「うん。面白いよ。馬もやったことあるけど、競輪のほうが好きだね」
「どうして?」
「んー。競輪ってのは、人がやってるわけじゃない? そうすると色々馬とは違った面白さがあるんだよね。例えばさ、体力的に衰えてきたおじさんと若者と競争したらどっちが勝つと思う?」
「普通に考えると、若者ですよね」
おじさんは首を大げさに横に振った。
「いいや。競輪の場合はそうとも限らないんだ。競輪は個人競技だけど、団体競技の一面もあってね。お互いがお互いをサポートしながら走ったりする。だから体力や技術だけじゃなく駆け引きが重要になってくるんだよ」」
団体競技の一面があると聞いても想像することができなかった。あまり見たことはないけれど、一生懸命自転車を漕いでいたようにしか見えなかったと思う。
「それにやっぱ人間だから情ってもんがあるんだよ。競輪選手同士はライバルだけど仲間でもあるわけで、あの人に勝たせたいって心理が働くみたいなんだ。例えば誕生日だと勝率が上がるってデータもあるしね。あの選手は子供が今年中学を卒業するから賞金が欲しいだろうなとか、あの選手はもうじき結婚するだろうから気合入ってるだろうな、とか。余計なことまで色々考えちゃってね。そんなことを考えていると段々選手に愛着も湧いてきて、その時にはもう競輪にのめり込んでいるってわけ」
「へえ、なんか面白そう」
最初はきっかけ作りで競輪の話をしただけだったが、おじさんの話を聞いていたら興味が湧いてきた。
「でもそれだと、八百長とは起きないんですか? 人がやってるわけだから、簡単にできそうな気がしちゃうけど」
「いや。その辺も昔より大分厳しくなってるよ。選手はレース開催期間は宿舎に閉じ込められて外部との連絡を禁止される。携帯電話も持ち込み禁止だよ。家族ですら連絡を取ることは禁止されているらしい。変な言い方だけど、監禁みたいなもんだな」
わたしは暇さえあればスマホを見ているので、そんなことをされたら不安になってしまいそうだ。退屈してしまうんじゃないかと思うのは、見当違いだろうか。
「おじさん、いつもメモに何か書いてますよね。あれは何をしているんですか?」
「ああ、あれか。あれは予想をしてるんだよ」
おじさんは立ち上がって管理室の方を見た。
「ちょっと待ってて。持ってくるよ」
「あ、はい」
おじさんが管理室に入っていくのを見てから、わたしもそちらに駆け寄った。なるべく管理室に近い場所で話をした方がいいと思った。
おじさんが管理室から出てきた。手にはメモを持っている。
「ほら、これ。車券の買い方は色々あるんだけどね。最初は一番人気と二番人気を少しだけ買って徐々に覚えていったほうがいいと思うよ。損もしないし」
メモを見ると色々な数字が組み合わさって書かれている。
「さっきも言ったけど競輪は一人で他の八人と戦うより、三人で残りの六人と戦う方が勝ちやすい特徴がある。年齢、競輪学校、先輩後輩、師弟関係。そんな人間関係を調べて予想してるんだ。その中でも家庭の事情や昇級降級のタイミングまで考えるとかなり勝ちやすい」
「へえ、そういうことだったんだ」
わたしは何気なくメモを裏返してみた。シフト表だ。わたしの名前が書いてあるのが見えた。最近のものだろう。
「そういえばこの間、大勝ちしたって言ってましたよね。それもこの予想の仕方ですか?」
「そうだよ。久々だったから嬉しかったなあ」
そういえば五年ぶりだと言っていた気がする……。そう思った瞬間にある考えが閃いた。
「五年前のレースもそうやって予想したんですか?」
「いや、その時は適当に買ったんだよ。自分の誕生日とかを組み合わせてね」
「へえ、でもメモ書きが記念に貼ってありましたよね?」
そうだ。その時のメモを記念に貼ってあったのをわたしは見ていた。
「そうそう。メモは役に立たなかったけど、初の万車券だったから記念に取っておいたんだよ」
わたしは背伸びをしておじさんの肩越しに管理室の扉を見る素振りをした。
「見たいの?」
「うん」
「見ても意味ないと思うけどなあ」
おじさんは再び管理室に入っていった。緊張しながら待っているとおじさんはすぐに出てきた。
「これだよ」
メモはさっき見たものと同じように数字が組み合わされて書かれているだけだ。紙はやや黄ばんでいる。タバコのヤニだろうか。手に持った感じではさっきのシフト表とは違う気もする。
「ただのメモだからね。人が見てもなんなのか分からないと思うよ」
わたしは神に祈るような想いでメモを裏返した。
(当たりだ……)
神様はわたしを味方した。間違いない。五年前のシフト表だった。
わたしはじっくりとシフト表を見た。おじさんに変に思われるかもしれないが、ここまで来たら強行突破するしかない。
「この時もシフト表をメモにしてたんですね」
「ああ、そうなのかな?」
(ついに見つけた……)
わたしはメモを持つ指に力を込めた。シフトは下半分が切られてしまっているが、その中に池田真一の文字を見つけた。彼はやはりハイカラで働いていた。
写真で撮るのは不自然すぎるし、このメモを持っていくことも難しそうだ。見て覚えるしかない。わたしはじっくりと名前の部分を見つめた。
村上恵子
戸高恵美子
若林栄利奈
加藤智子
神谷健太
高橋和臣
池田真一
野村明江
わたしは名前を頭に叩き込むと、おじさんにメモを返した。
「ありがとうございました」
「うん。参考にならなかったでしょ」
おじさんはシフトを見ていたことには関心がないようだ。
ここは思い切って訊いてみよう。
「おじさん、五年前のこと覚えてますか?」
「いや、あんまり覚えてないなあ」
「池田真一って人は知ってる?」
おじさんは顎の下に指を当てて考え込んだ。
「いや、覚えてないな。車で来てなかったんじゃない?」
池田真一は学校に通うためにこちらに越してきた。車はなかったかもしれない。
「それじゃあ、神谷健太って人は?」
さっき見た名前の中に知らない名前が二つあった。神谷健太と野村明江だ。
「うーん。なんとなく緑の車に乗ってた気がするけど。ごめんね。覚えてないな」
「それじゃあ、野村明江って人は覚えてますか?」
「ああ、その人ならよく覚えているよ。問題ばっかり起こしてたから」
「問題?」
「ああ、よく揉め事を起こしてね。この駐車場でもケンカばっかりしてたよ」
「ケンカって誰とですか?」
「誰ってわけじゃないけど、毎回君んとこで働いている人たちだったねえ。ケンカする度に相手が変わってたよ。今だから言うけど、いい歳して人前で声を荒らげてる所は正直見苦しかったね」
「何歳くらいだったんですか?」
「さあ。多分六十過ぎだったんじゃないかね。そこの旅館と掛け持ちでやってたみたいだけど、さすがにもう退職したんじゃないかな」
おじさんは駐車場の外に向って指を指した。そちらには老舗の旅館がある。道路を挟んだ向こう側で、横断歩道を歩いても三分くらいで到着できる所だ。道路を突っ切ればもっと早く到着する。
それにしても六十過ぎで二つの仕事を掛け持ちとは、相当タフな女性だったんだろう。
「悪いけど仕事だ」
おじさんの目線の先を見ると、車がこちらに入ってくる所だった。白いバンだ。サイド部分に電気屋の名前が書いてある。
後続車も続けて入ってきた。同じ業者だ。何か大掛かりな工事でもあるんだろうか。
「じゃあ、行きますね。ありがとうございました」
おじさんは手を上げてわたしに応えると、車の方へ走っていった。
わたしは階段の方へ急いで移動すると一段目の所に座り込んだ。スマホを取り出す。考えたいことは山ほどあったが、まずは忘れないうちにさっき見た名前をメモすることにした。
村上恵子
戸高恵美子
若林栄利奈
加藤智子
神谷健太
高橋和臣
池田真一
野村明江
ケイさん。戸高さん。ワカさん。チンさん。今も働いているのはこの四人だ。チンさんは旧姓だが、五年前だと結婚する前だろう。代わりに旦那さんであるカズオミさんの名前がある。逆に今働いている人で、ここに書いてない人は、わたし、星野さん、ポンさん、マヨさん、キュウさんの五人だ。キュウさんはわたしよりも少しだけ早く入った人で、朝専門で仕事をしている。最近会ったのは二週間くらい前だ。中学生になる子供が反抗的になって大変だと言っていた。この時期にはハイカラにいなかった。同じくポンさん、星野さんも五年前はハイカラにいなかった。マヨさんは働いていたはずだけど、シフトの下半分が切られていたので、そこに名前があったのだろうと思う。人数を考えると、ここに書いていない人間がマヨさん以外にも一人か二人居るはずだ。しかしこれ以上過去のシフト表を探す意味はないだろう。野村明江、神谷健太のどちらかに話を訊ければ、何か分かるかもしれない。
(あれ?)
メモを見ているうちに、おかしなことに気がついた。
戸高さんのことだ。ギターの中のメモを見つけた時に、わたしは戸高さんに池田真一を知っているか、と訊いたのではなかっただろうか。
(そんな……)
その事実に気がついた時、わたし衝撃を受けた。あの戸高さんが嘘をついていた。戸高さんの優しい笑顔が浮かんでくる。あの微笑みは、全て嘘だったのだろうか。にわかには信じられない。急に寒気を感じて腕を掴んだ。鳥肌が立っている。
わたしはチンさんのあの顔を見た時に、チンさんだけが池田真一と何かあったんだとばかり考えていた。しかし、そうじゃないのかもしれない。あの日、戸高さんにメモのことを話した時から既に始まっていたんだ。戸高さんもまたこの件に関わっている。
持っていたスマホが着信した。あまりにもタイミングが良かったので少し驚いた。相手は星野さんだった。




