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家に到着して玄関の扉を開こうとした時に、足元に固い感触がした。見下ろして見ると、やや大きめな石がいくつか転がっていた。石はばら撒かられているというよりは、規則性を持って並べられているように見えた。
(近所の子供がイタズラしたのかしら……)
わたしは足をほうき代わり使って石をどかした。それにしても変なイタズラだ。石はかなりの数が置いてあった。わざわざここまで運んできたんだろうか。
家に入るとママが夕飯の支度をしていた。包丁を叩くリズミカルな音が流れている。
「ただいま」
「おかえり。遅かったね」
「うん。ちょっと寄り道してた」
そのままソファに座ってテレビを点ける。今日のニュースが流れていた。ぼんやりとテレビを眺めながら足首を持ってストレッチをしたり、指の爪を切ったりしているうちに、ママが夕食を準備してくれた。今日は冷やし中華だ。
「飲み物は自分でやってよ」
「はーい」
わたしは立ち上がって冷蔵庫から麦茶の紙パックを取り出した。ママは洗い物をしている。もう自分の夕飯は終えたようだ。
手を洗いテーブルに戻って箸を取った時にスマートフォンが着信した。見てみると、電車の中でメールを送ったうちの一人から返信が来ていた。池田真一という人物に心当たりはないそうだ。
わたしは簡単に返事を書いて送信した。今思えば池田真一が学生だったのは多分三年以上前のことだろう。星野さんが知らないことや古びたギターにメモが入っていたことを考えると、ここ最近の話ではないはずだ。去年入学したばかりの同級生たちが知っている可能性は低い。メールを送ったときは一種の興奮状態にあって、そこまで頭が回っていなかった。他の子達からの情報も期待しない方がよさそうだ。
冷やし中華を食べながらママと色々な話をした。ママの職場の話や、わたしの学校の話だ。ハイカラのことは言えなかった。ママはわたしがバイトばかりしているのをあまりよく思っていない。こんな話をしたら、辞めさせられるかもしれない。
夕飯を終えてから、すぐに部屋に入った。ベッドに仰向けに転がりながら天井を仰ぐ。少し考えをまとめたかった。色々な出来事が一気に起こっていて、そのどれもが置き去りになっている気がする。
まず考えたのは駐車場のおじさんの持っていたメモのことだった。
おじさんはハイカラのシフト表をメモに使っていた。昔はどうしていたのかは分からないけれど、もしも残っているのなら大きな手掛かりになるはずだ。次にハイカラに行くのは来週の月曜日、明後日だ。少し早く行って見てみようと思う。
わたしは転がってうつ伏せになった。スマホに充電器を差しながら画面を開く。ミクシィのページをもう一度見てみようと思った。池田真一の情報はさっきじっくりと見たが、唯一の友人、ニホイノエスシの方はあまりよく見なかった。
ニックネーム、ニホイノエスシ。これは一体どういう意味なんだろうか。英語でもなさそうだけど、日本語かと言うと違う気がする。もしかしたら内輪でしか分からないようなネタなのかもしれない。試しに頭の中でカタカナを並べ替えて見た。しかし意味になるような言葉にはならない。一番まともだったのは、ホシノニイエス。星野にイエス、だ。だがこれもきっと偶然だろうと思う。暗号のようにしているのなら、並べ替えた時にもっと明確にするはずだ。
下に続いているプロフィールはふざけて作ったとしか思えない。
年齢、五十歳。自営業。好きな言葉は「ジャージ」。趣味に「粘着」と書いてある。他には特に何も書いてない。最終ログインも三日以上前とある。やはりここから手掛かりを探ることはできなそうだ。
結局ミクシィで池田真一を見つけたものの、残念ながらこれ以上の進展はなさそうだ。
わたしはミクシィの件はこれで決着として、次にそのまま保存しておいた更衣室の文字を表示した。
映像を見た瞬間に再び違和感を感じた。何かが変なのだが、その正体が分からない。文字があんな所に書いてあること自体奇妙なのだが、それ以上の何かを感じる。
(……分からない)
目が疲れるまで画面を見ていたけれど、結局何も得ることはできなかった。
一旦諦めてシャワーでも浴びようと思った時に、またメールを着信した。さっきメールを送った同級生とは別の子だった。
わたしは特に期待せずにメールを開いた。しかし、開いた瞬間にかなりの長文だと分かって、胸が一気に高鳴った。
書き出しの所に「ゴメン、最初の一通目のあとすぐに学校の先生に言っちゃった」と書いてあった。誰にも言わないで欲しいと送る前のことだろう。
メールの内容はこのようなものだった。
池田真一という人を実際には知らないが、学校の職員の中に覚えている人がいた。池田真一は今から四年前の卒業生。年齢は当時三十五歳。富山県出身で、A市に引っ越してきた。就職先は神奈川県の座間市の整体院が決まっていたらしい。
そしてメールの一番の下には「メールだと説明しきれないから、電話にしよう?」と書いてあった。
わたしは慌ててベッドから起き上がると、すぐにペンと紙を探した。メールの内容はミクシィのプロフィールとも一致する。信憑性はかなり高い。これだけでもかなりの情報なのに、電話で説明とは一体他に何があるんだろうか。
メモとボールペンを見つけると、スマホの電話帳を開いた。メールを送ってきてくれたのはミツノという名前の同級生だった。高校時代はあまり接点がなかったけれど、町で偶然会えば世間話をする仲ではあると思う。
電話を掛ける。最近はコール音を音楽にしている人が多いけれど、ミツノはそうではないようだった。異様に長く感じるコール音を三つ聴いたあと、ミツノが電話に出た。
「あ、もしもし。久しぶり、葵だけど」
「あ、うん。久しぶりだね。卒業式以来かな?」
久しぶりに聞いたミツノの声は、高校時代とあまり変わっていないように思えた。彼女は優等生タイプの子で勉強がよく出来た。わたしと成績を比べるとダブルスコアどころではないかもしれない。しかも性格的にさっぱりしていて、女子にも男子にも人気があったと思う。
「急にごめんね、変なこと訊いて」
「あ、うん。それはいいけど、どうしたの?」
「ちょっとね。深い事情があって」
「……そっか。さっきメールにも打っといたけど、先生以外には誰にも言ってないからね」
その声にはわたしを心配させまいとする気遣いが込められていた。相談したのがミツノで良かったなと思う。
「うん、ありがと。それで、他になにか分かったの?」
「メールが来た時に一緒にいた先生っていうのがね、就職とかをサポートする先生なんだけどさ」
相槌を打ちながら、きっとわたしの学校と同じようなシステムがあるんだろうなと思った。
「池田真一って人は結構変わった人だったみたい」
「変わった人?」
「変なエピソードがあったからこそ、先生がよく覚えていたんだけど……。例えばね、池田真一って人が面接を受けた職場からクレームがあったんだって。格好はしっかりスーツ姿だったんだけど、眉毛が油性ペンで書いてあったとか」
「油性ペン?」
突拍子もない話を聞いて、思わず声が裏返ってしまった。
「うん。授業は真面目に受けていたし、そんな常識外れなことをすると思っていなかったから凄くビックリしたんだって。あとね、冬でも半ズボンで来たりとか、たまに濡れたまんまのシャツを着て学校に来たこともあったって」
「どうして?」
「分からない。先生もそのことは訊けなかったみたい。池田真一って人は近寄りがたい雰囲気があったみたいだよ。真面目なんだけど、いつもイライラしているように見えたって。周りと歳が違うこともあって友達と一緒にいるのも見たことないって言ってた」
「三十五歳だっけ?」
「うん。卒業当時でね。三十過ぎで学校に行くのも珍しいよね。そういう意味でも変わってたのかも」
ミクシィのプロフィールでは、それまで働いてことになっている。学校に行ったということは自分の意思で仕事を辞めたのだろう。経済的に余裕があるのかもしれない。結婚している人が学校に行ったりはしないだろう。池田真一は高い可能性で独身だ。
「あ、それとね」受話器からの声ではっとした。電話をしている最中なのに考えこんでしまうのなんて久しぶりだ。「もっと変なことがあるんだけど」
「変なことって?」
「卒業間際になって突然学校に来なくなったんだって。就職も決まっていたし、誰もそのことにはあまり関心を持たなかった。他の人も同じように就職が決まると学校に来なくなる人もいたみたいだしね。ところが池田真一は卒業式の日になっても学校に来ることはなかった」
「仕事が忙しくなった?」
「ううん。違う。池田真一は就職先にも一度も顔を出さなかったみたい。座間の整体院から学校に連絡が来たんだって」
わたしはさっきから動かしていたボールペンを止めた。
「ちょっと待って。それって失踪ってこと?」
ミツノは少し間を置いてから「そうなるね」と続けた。
「実家に帰ったとか?」
「卒業できる条件だったから卒業証書を実家に送ったらしいけど、その時に母親に訊いてみたんだって。そしたら一度も帰ってないって言ってたみたい」
「じゃあ」わたしはつばを飲み込んだ「……事件に巻き込まれたとか?」言葉にするのがひどく躊躇われた。嫌でもチンさんやハイカラのことが頭に浮かぶ。
「どうなんだろう。学校では卒業証書を送ったきりって言ってたけど」
池田真一は失踪していた。その事実がずしりと頭の上に乗っかってきた。視界が暗くなった気さえしてくる。
「もしかしたら急に仕事するのがイヤになったのかもね。それで仕事場にも学校にも、実家にも帰ることができなくなったとか」
「うん。そうかも」
ミツノにはそう答えたが、頭の中ではきっとそんな単純なものではないと考えていた。
「葵がもっと知りたいなら調べてみるけど、どうする?」
「いや、大丈夫。ありがと」
わたしはミツノの申し出を本能的に断った。これ以上踏み込んではいけないと内なる自分が告げたのだ。
「そう? それならいいけど。……また何かあったら訊いてね」
「うん。ありがとうね」
「じゃあ、また。今度時間が合えばどっか行こうね」
「うん。そうだね、分かった」
バイバイと最後に言い合ってミツノとの通話を終えた。スマホをベッドの上に投げると、わたしは呆然と今書いたメモ書きを見つめた。失踪の二文字に釘付けになる。
瞬間的にチンさんの不気味な瞳を思い出した。
池田真一失踪とチンさんは関係している。そう思えて仕方がない。
耳に雑音を感じてメモから目を逸らした。
(雨だ……)
窓ガラスを叩く音が聴こえてくる。音の感じからすると大粒の雨のようだ。
カーテンを開いてみると、僅かに開いた窓の隙間からアスファルトの濡れた匂いがした。夏の夜の雨だ。生暖かく湿った風が吹いている。
雨の音を聴きながら、もうこれ以上関わらない方がいいのではないのかと自問した。チンさんともう一度笑い合う為に調べていたけれど、これ以上探り続けても、もう二度とあの日のような関係には戻れないのではないだろうか。
誰だって触れられたくない秘密がある。カオリのその言葉がふいに蘇った。わたしはそれからしばらく、無意味に窓の外を見つめていた。




