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 駅を降りるとまっすぐにハイカラに向った。時刻は七時十五分。ハイカラには星野さんとマヨさんが働いているはずだ。スマホに保存してあるシフト表で確認したから間違いない。

 自動ドアをくぐった時に背筋が凍る思いをした。ロビーの中央でわたしは立ち止まっていた。マヨさんの後ろ姿がチンさんに見えたのだ。マヨさんはわたしより八つ上、星野さんより一つ上の先輩で、ハイカラではわたしと一番歳が近い女性だった。後ろ姿がチンさんとよく似ていて、いろんな人によく間違えられている。一方、正面から見たときは全然違う印象の顔だ。チンさんは眼力の強い顔立ちだけど、マヨさんはふんわりとした顔立ちをしている。

 マヨさんは丁度、ビールジョッキを両手に持ち廊下を奥に進んでいく所だった。

「おはようございます」

 なるべくいつもと同じようなトーンでわたしは言った。マヨさんが立ち止まってこちらを見る。

「おはよう」

 マヨさんは小さな声で言うとすぐに廊下の奥へ歩いて行った。彼女の表情がひどく疲れて見えたのはわたしの気のせいだろうか。それに、いつもならもっと色々と話しかけてくれるはずだ。

「来たね」

 星野さんが厨房から出てきた。星野さんは今日もシャツの下に長袖を着ていた。

 わたしは振り返ってマヨさんがいないことを確かめてから言った。

「痕跡って、なんですか?」

「うん。あとで見せるよ」

「でも、マヨさんがいるじゃないですか」

 わたしがあれこれ探っているのをマヨさんに知られたくなかった。わたしはマヨさんとも仲が良かったけれど、チンさんとマヨさんの付き合いの長さを考えると、マヨさんはわたしではなくチンさんの味方をするだろうと思った。

「一応、作戦は考えておいた」

「作戦って――」

 詳しく訊こうと思ったがマヨさんが戻ってきた。やはり顔色があまり良くないように見える。

「今日は……どうしたの?」

 マヨさんが言った。声が少し震えていた。目線はわたしの足元を見ている。わたしはその声を聞いて悟ってしまった。マヨさんは間違いなくわたしとチンさんの一件を知っている。根拠はないが直感がそう告げている。

「来週のシフトを見て行こうと思って」

 前もって考えておいた言葉を口にした。

「それだけ? メールで聞けば教えてあげたのに」

「どうせ暇ですから」

 お互いに白々しさが浮き出ていた。会話をしながら悲しい気持ちになった。こんな風に話さなければならない日が来るなんて、ほんの一週間前までは想像すら出来なかっただろう。

 誰からともなく歩き出した。三人で従業員室に向かっていく。歩きながら、場を持たせる為に星野さんに質問してみることにした。無言でいると、ぎこちない空気に負けてしまいそうな気がしたのだ。

「どうして長袖なんですか? 暑いじゃないですか」

「これ?」

 星野さんが袖を指でつまんだ。

「エアコンが効いてて寒いから。情けない話だけど、俺寒さに弱いんだよ。すぐ風邪引いちゃうし」

 自嘲気味に笑う星野さんを見て、少し気持ちが楽になった。それにしても凄い寒がりだと思う。確かにエアコンは効いているけど、わたしはこの時期に半袖で寒いと思ったことはない。

 従業員室に入るとマヨさんは奥に、星野さんは手前のソファに座った。ここは自分の家みたいに落ち着く場所だったのに、今はひどく息苦しい。狭い従業員室だけど、今日は一段と狭く感じた。わたしとマヨさんの距離はテーブル一つ分しか離れていない。そのことがわたしに圧迫感を与えた。

 わたしは従業員室の壁を見た。ハイカラでは週末になってようやく来週分のシフト表が壁に貼られる。スマホを取り出して来週のシフトをディスプレイ越しに確認した。

(何、このシフト……)

 最初はマヨさんの前で体裁を整えるだけのつもりだったが、すぐにおかしな点に気がついた。随分偏った編成になっている。わたしと星野さんが一度も被っていない。わたしも星野さんも週に三日か四日は出勤する。しかも夜だけだ。偶然一度も一緒にならないことなんてあるだろうか。少なくとも今までは一度もなかったと思う。

 すぐさまあの夜のことが頭に思い浮かんだ。チンさんが待ち伏せしていたあの夜だ。わたしが星野さんに喋ってしまったことにチンさんは気づいていた。この偏りの原因は、そのことが関係しているとしか思えない。

「どうしたの?」

 マヨさんの声に慌ててシフト表から目を逸らした。

「あ、いえ。ちょっといつもと違うなと思って」

 わたしがそう答えると、マヨさんはそれ以上質問してこなかった。きっといつもなら「何が?」と自然に会話が繋がると思う。本当はこのシフトの不自然さにもう気がついているはずだ。マヨさんはソファにもたれてテレビをじっと見ていた。ただ眺めているだけのように見えるのはわたしの気のせいじゃないと思う。

 そのまま星野さんに目線を移してみた。星野さんは本を読んでいる。その様子はいつもと変わらない。わたしとマヨさんの会話もまるで聞こえていないようだ。

 わたしは平然を装いつつ椅子に座った。テレビを見ているふりをしながら、来週のシフトの不自然さについてもう少し考えてみた。

 このシフトを作っているのはワカさんだ。それぞれの時間数は決まっていて、その週によって出れる日もみんな違う。毎回パズルのように組み合わせて作っているのだ。わたしと星野さんを一度も同じ時間にしないようにすると、シフトを作るのが相当難しくなるはずだ。よっぽどの理由でもない限り、ワカさんはこんなシフトにしないだろう。

 チンさんとワカさんはおそらく繋がっている。そう考えるのが自然だ。ワカさんが突然怒りだした時のことを考えると、池田真一についてワカさんも何か知っているかもしれない。

 テーブルに置いておいたスマホが点灯した。メールを着信をしたようだ。相手は星野さんだった。腕をストレッチしながら何気なく星野さんを見る。星野さんはさっきと同じように本を読んでいるだけだった。

 メールを開くと、長い文章が書いてあった。星野さんはメールを打っているように見えなかったから、きっと前もって準備しておいたのだろう。そこには自然に更衣室へ行くための指示が書いてあった。

 息を整えてから「ちょっとだけ歌ってきていいですか」指示通りにそう言った。マヨさんと星野さんの両方に問う形だ。

「うん。いいけど、部屋空いているかな」

 マヨさんのその言葉には「12番が清掃中だよ」と星野さんが答えた。

 各部屋はレジカウンターのパソコンで制御していて、通常は照明や機械の電源が入らないようになっている。客が入っている時か、客が退室して清掃中の間だけ電気が生きるようになっているのだ。店が暇で遊びたい時も、清掃中の部屋がなければ歌うことができない。

 更衣室の隣の12番が清掃中になっていたのは、おそらく星野さんがそう仕向けたのだろう。

「じゃあ行ってきます」

 わたしは席を立って12番に向かった。星野さんの指示では、五分ほど経ってから星野さんが12番に来ることになっている。レジや受付を空にするわけには行かないので、星野さんが12番に来ていればマヨさんはこちらには来ない。これが星野さんの作戦だった。単純だが期待はできるだろう。

 12番の部屋で待っていると予定通りに星野さんがやってきた。扉を開けると部屋には入らず「あんまり長くは居られないから、早速見てみよう」と言った。

「一体何が見つかったんですか?」

 部屋を出ながら訊いてみた。12番は廊下の正面にあるので急いで更衣室の方へ体を隠した。そこはもう更衣室の前だ。

「見れば分かる」

 星野さんが更衣室の扉を開いた。

 中に入り照明を点ける。見たところ変わったものはない。

「これだよ」

 星野さんが部屋の右手、ロッカーのない方の壁の下側を指さした。しかしそこには何も置かれていない。

「もっと近づかないと見えないよ。ここだよ」

 座り込んで星野さんが指さしている部分をじっくりと観察した。白い壁の下側には幅1センチくらいの枠組みがあって、その部分にうっすらと引っかき傷のようなものが見えた。

「なんですか? これ」

「この傷、よく見ると文字に見えないか?」

「え?」

 体を斜めにして影にならないようにしてから、もう一度その傷をよく見てみた。

 床スレスレの枠の部分に左からイ、ケ、ダと書いてあるように見える。少し空白があってその先にシ、ン、イ、チとあった。

「これって……?」

「分からない。最初はロッカーを動かしてみようと思ってたんだけど、傷がつかないか床を観察してた時にたまたま見つけた。それにほら。こっちにも傷がついてる」

 イケダシンイチの傷から少し離れた所にも傷がついていた。やはり木枠の部分だ。しかしそちらはメチャクチャに潰したような傷だった。まるで元からあったものを上から見えなくしたような感じだ。幅は10センチくらい。イケダシンイチと同じ七文字程度だろうか。

 わたしはその傷をそっと触ってみた。針よりももう少し太いもので削ったような跡だ。よく見ると傷の断面が黒ずんでいる。最近ついた傷ではなさそうだった。

 もう一度イケダシンイチの文字を見た。綺麗とは言えないが、丁寧に真っ直ぐ書かれている。

 胸がざわめいた。その傷を見た感想は『不自然』だった。なぜそんな所に文字があるのか、これが何を意味するのかも勿論気になったが、その違和感の方が遥かに大きかった。

「何か変じゃないですか? この文字」

「変って、そりゃ変だろ。こんな所に文字なんて」

「いや、そうじゃなくて。なんかおかしい気がします」

「なんかって?」

 わたしの感じたような違和感は星野さんにはないらしい。

 わたしはポケットからスマホを取り出した。星野さんのケータイは昔からのガラケーだ。わたしのカメラだったら鮮明に映ると思う。

 イケダシンイチの部分と潰したような傷跡を写真に撮った。思ったよりもかなり綺麗に映った。今は分からないけれど、この傷には何か意味があるはずだ。

「そろそろ出ようか。あんまりここにいるのもマズイ」

「あ、はい」

 更衣室を出ると、一緒に12番の部屋へ戻った。

 わたしは椅子に座ったが星野さんは入り口の方に立ったままだった。

「わざわざ来てもらって悪かったね。今週は何故か同じ出勤がなかったから」

「多分、わざとだと思います」

「わざと?」

 昨夜チンさんが待ちぶせしていたこと。時間が遅かったので星野さんに喋ってしまったことがバレてしまったこと。簡潔に話しをした。星野さんは立ったまま腰に手を当てて、わたしの話を黙って聞いてくれた。

「シフトまで影響が出るとなると話が大きくなってきたな」

「はい……」

 会話が繋がらなかった。何を話しても重たい気分になりそうだった。モニターには最近流行りのタレントが映っていて、お絵かきをしているところだった。カラオケ配信会社が流している番組だ。その楽しげな様子はこの場からあまりにも浮いていた。

「そろそろ戻るよ。葵ちゃんも頃合いを見て帰っていいから」

「分かりました。また連絡します」

「うん。よろしく」

 星野さんは部屋を出るとゆっくりと扉を閉めた。

 一人になると、流れている音楽が更に際立って聴こえた。すぐに帰るのも不自然だから、あと十五分くらいはいようと思う。しかし歌を歌うような気分にはなれなかった。

 先ほど撮影した画面を表示してみた。地面スレスレに書かれたイケダシンイチの文字。やっぱり何かがおかしい気がする。しばらく眺めていたけれど、答えは出てこなかった。

(あ、言うの忘れてた)

 スマホを眺めている時にミクシィの件を星野さんに言うのを忘れていたことに気づいた。池田真一にメッセージを送ることについて、星野さんは何と言うだろうか。今度時間がある時にゆっくり話してみよう。

 時間をどうにか潰してから部屋を出た。従業員室に戻る。星野さんは本を、マヨさんはテレビを。二人はさっきと同じように過ごしていた。

「そろそろ帰りますね」

「はいよ」わたしが言うと星野さんが本を読みながら言った。わたしの顔は見ない。その悠然たる様には関心してしまう。

 マヨさんは「気をつけてね」とそれだけ言うとすぐに目を逸らしてしまった。ここに来た時よりも更にわたしを避けている気がする。

 思わずどうして避けるんですかと問いたくなったが、じっと堪えた。ここで言ってしまったら、わざわざ星野さんが計画を立てたことが無意味になってしまう。

 釈然としなかったが、そのまま店を出た。エレベーターに乗って扉が閉まった時に、ようやく体の力が抜けた。たった三十分程のことだったけれど、今日で一番疲れた気がする。こんな調子では来週の仕事はかなり辛いものになりそうだ。

 13番の電話の件、ギターのメモ、ミクシィ、更衣室の壁の文字。色々なことが続けざまに襲来して、脳がパンクしてしまいそうだ。せめて明日は何も考えずに家でゆっくりしたい。

 考え事をしていたせいか、いつもの癖で地下駐車場に来てしまった。当然だがバイクはここには置いていない。すぐにエレベーターに戻ろうとしたが扉が閉じてしまった。エレベーターは上に向かっていく。

「あーもう」

 わたしは舌打ちをした。些細なことに今日は何故か無性に苛ついた。

 仕方なく階段で一階に行くことにする。エレベーターを待っているよりもそっちの方が早い。

「あらら? 今日仕事だった?」

 階段に足を掛けた時に声を掛けられて振り返った。駐車場のおじさんだ。

「いえ、ちょっと寄っただけです」

「へぇ、そう。みんなお店が好きだねぇ。星野くんなんて毎日のように来てるんじゃない?」

 右手で鉛筆をクルクルと回していた。左手はメモ用紙を持っている。

「また競輪ですか?」

「そうそう。勝ちの味を知っちゃうともう辞めれんなあ」

 おじさんは思い出したように「今日もたまたま暇だったしね」と小さな言い訳を付け加えた笑った。

「せっかく当たったのに。負けたら勿体ないですよ」

「なあに。また勝てばいいんだよ」

 今日も機嫌がいいのか、愛想の良い顔を浮かべている。

 気分転換にもう少し会話を続けようと思ったけれど、不安が脳裏をよぎった。今日は土曜日。八時から三人の勤務になる。もう少ししたらポンさんがやってくるはずだ。出来ればハイカラの人とは会いたくない。

「じゃあ、そろそろ行きます」

 わたしは早々と切り上げることにした。

「はいはい。お疲れさま」

 おじさんはメモを持った手をひらひらと振った。その光景を見て、わたしは動きを止めた。帰るはずだったのに、足が動かない。

「うん? 行かないの?」

「おじさん。そのメモ見せて?」

「ああ、構わんけど。まさか競輪やりたくなったのかね」

 わたしはまるで奪い取るようにおじさんのメモを取った。

「こう言っちゃあ変だけど、競輪なんて損するばっかりだよ」

 おじさんの言葉を無視して、わたしはメモ用紙を凝視した。おじさんが書いたメモ書きの方ではない。その裏だ。それは見覚えのあるものだった。それもごく最近、いや、ついさっき見たものだ。元のサイズから四分の一程に切られているけれど間違いない。これはハイカラのシフト表だ。

「これって、うちのシフトですよね」

「ああ。いつもメモ代わりに貰ってるんだよ」

「誰にですか?」

「事務所だよ。結構メモ使うからねぇ。あ、競輪の為だけじゃないよ。勿論仕事で使うんだ。しかし、どうして?」

 おじさんは訝しげにわたしを見ている。続けざまに質問を浴びせたくなったが、自重した。ここでおかしな態度を取って誰かに話されても困る。

「なんか見覚えのある紙だったから、つい」

 おじさんにメモを返しながらそう言った。

「そっかそっか。いや、良かったよ。悪い道に誘っちゃったかと思ったよ」

 さりげなく時間を確認した。まずい。もう八時五分前だ。

「じゃあすいません。また」

「はいよ」

 バイクのエンジン音が聞こえてきた。ポンさんかもしれない。わたしは階段を駆け上がる。急に走ったせいで、頭がクラクラした。そういえば朝は熱があったんだと思い出した。

 階段を上りきった所で一度休んで、息を整えてから歩き出した。

 あのメモ用紙はシフト表を切られて作られていた。ひょっとしたら昔のシフト表がどこかに残ってるかもしれない。駐車場の管理室は調べる価値がありそうだ。そして調べるならなるべく早い方がいい。

 家に向かって歩きながら、わたしはずっと管理室を調べる作戦を練っていた。

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