雪が降る日は
三宅に続いて暖簾をくぐったその店は、カウンター席しかなく、客が五人も入ると肩がぶつかってしまうような狭い居酒屋だった。カウンターの隅に置かれたテレビでは、日本列島を覆う寒冷前線について気象予報士が解説している。
「寒いはずだな」
三宅はテレビをちらりと見て、運ばれてきたホッケの身にこれでもかと醤油を垂らす。きつね色に焼きあがった皮の間からのぞく真っ白な身が見る見る間に黒く染まっていく。学生時代から変わらない三宅の濃い味好きに、僕は思わず笑いを浮かべてしまった。
「燗酒に変えようか?」
早くも空になった二合徳利をぶらさげると、三宅はうなるように声を上げてうなずいた。寒いと言いつつも、冷酒をあおるように飲んでいる。首筋はもう真っ赤に染まっている。とりたて酒が強いわけでもないのに、今夜の三宅はピッチが早い。
久しぶりの酒宴にもかかわらず、僕を呼び出した当の三宅は酒ばかり口にして、ろくに話をしようとしない。
もう一合ずつ飲むと良い頃合いか。ポケットから取り出した携帯で時間を確認してから、女将さんに徳利を手渡した。
三宅は食べるわけでもなく、ホッケの身を箸でつついている。醤油で汚された上にぼろぼろにほぐされた姿は、アスファルトに積もった雪のなれの果てのようだった。
「なあ、俺さ」
ホッケをにらみつけたまま、三宅がつぶやく。煙草を吸おうと僕がこすったライターの音にすらかき消されてしまいそうな声だった。僕は煙を天井めがけて吐き出し、三宅の次の言葉を待った。三宅はぐじゃぐじゃとホッケの身を崩しながら、声を絞り出す。
「俺さ、子供が出来たんだよ」
赤く充血した目が僕に向かった。火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付け、僕は思わず背筋を伸ばしてしまった。
「ゆっこちゃんとのか?」
何を当たり前のことを聞くのだという顔で三宅はうなずく。
「そうか、おめでとう」
とってつけたような僕からの祝いの言葉を受けても、三宅はむっすりとしたままだ。女将さんがカウンターの向こう側から腕を伸ばして徳利を突き出している。おしぼりで包むように受け取ってそのまま三宅の猪口に注いだが、一息に飲み干されてしまった。
三宅とは腐れ縁のような間柄だが、いつだってへらへらと笑っているこの男がこのように押し黙っている姿を見るのは初めてだ。三宅はじれったそうに手酌で飲み続ける。酒を注ぐ徳利の傾きは次第に大きくなり、僕が手をつけることなく空になっていくのがわかった。
「子供、嬉しくないのか?」
おそるおそる問いかけた僕を、三宅は焦点がぶれ始めた目でにらみつける。
「嬉しくないわけないだろ」
呂律があやしくなっているのが自分でも分かるのか、三宅はゆっくりと区切るように言葉を続ける。
「でもよ、この俺がよ、人様の親になるんだぜ。いまだに信じられなくってさ」
空になった徳利を、三宅が女将さんに突き出す。僕は、今夜が長くなることを覚悟するしかなかった。幸い、明日は午前中にたいした用事もない。二日酔いの重い頭で出勤しても問題になることはないだろう。
「ゆっこちゃんが家で待ってんじゃないか」
「あいつなら安定期まで実家に帰らせてる。大丈夫だ」
「だからって飲みすぎだろうよ」
「うるさいな、付き合えよ!」
諦めて、三宅がぼろぼろに崩したホッケに箸をつけた。すっかり冷え切っている。醤油の味しかしないそれを無理やり胃に流し込む。三宅はテーブルに肘をついて、やっとのことで体を支えていた。
「親になるのがこわいんか」
僕がかけた言葉に三宅はびくりと体をふるわせる。
「もうちょっと落ち着きってものを身につけなきゃダメなんじゃないか」
空気ばかり重くする三宅に腹が立ち、つい言葉がきつくなってしまう。三宅は泣き出しそうな顔で僕をじとりと見つめる。
再び酒で満たされた徳利が、女将さんの手から僕に渡る。僕も少し飲みすぎたのか、わきあがる酒の香りがいやに鼻についた。三宅の手が届かないところに徳利を置く。
「お前はそうやっていつも俺にいじわるするんだよな」
「飲みすぎなんだよ。もう顔が真っ赤じゃないか。お前を駅まで歩かせなきゃいけないこっちの身にもなってくれよ」
「いいじゃないか。もう、お前と飲むことだって少なくなるかもしれないんだぞ。俺は、これからは嫁さんと子供のためにさ、毎日、家と会社の往復だけで過ごさなきゃならんのだ」
三宅は僕の方へと身を乗り出し、徳利を奪っていくと、やけになったように飲み始める。すねた子供のように酒を飲む三宅の姿を見て、僕はようやく少しだけ理解が出来た。まだ結婚すらしていない僕との距離が開くのが、三宅なりに寂しいのだと。
僕と三宅の付き合いは長い。同じ学校で席を並べて、同じ店でアルバイトをして、同じ時期に就職した。
だけど、これからは、それは続かないだろう。いつまでも同じ立ち位置で人生を終えられるわけがない。
手酌を進める三宅から徳利を奪い返し、改めて猪口に注いでやると、僕にも注ぐよう促した。三宅の顔に笑みが戻る。 隣に座っていた背広の三人組が帰り支度を始める。テレビに映し出されていた天気予報はいつしか深夜の歌番組に変わっていた。三宅の頭も舟を漕ぎ始めている。
女将さんのあくびが僕に潮時を知らせる。勘定を済ませて引き戸を開けると、湿り気を帯びた冷気が僕の顔をなでた。
空から、ちらちらと白いものが舞い降りていた。
「あら、降っていたのね」
店の中から女将さんが声を上げる。僕らが飲んでいる間にも、雪は静かに降り続けていたのだろう。アスファルトの上にはいくつもの足跡が残されていた。ガードレールの上にはすでに白い層が出来上がっている。
その白い層を手のひらでこそぎとると、体の中にたまった熱が奪われていくのがわかった。 三宅はコートのポケットに手を突っ込んで、千鳥足に駅に向かっている。僕は再度、ガードレールに手のひらをすべらせると、三宅の背中に近寄った。
コートの襟を中のワイシャツごと力任せに広げ、手の内に隠し持っていた雪を流し込む。ひゃあ、と情けない声を出して三宅は跳ね上がった。
何が起こったのかすぐには判断できなかったのだろう。三宅はおびえた顔でコートをばたつかせていたが、背中にいる僕に気づくと、すぐに笑顔に変わった。
「やりやがったな!」
三宅もガードレールやポストの上に積もった雪をかき集め始める。僕も負けじと続いた。いい年をした男二人が雪遊びに興じている姿を見て、通行人はそそくさと横を駆け抜けていく。
駅前広場に置かれたSL車両にも雪は積もり始めていた。クリスマス用の電飾が雪で覆われ、光を鈍くしている。広場では、カメラを向けられたレポーターが「今年の初雪です」とアナウンスを続ける。
「この雪じゃ電車も止まってるかな」
三宅が息を切らしながら叫ぶ。僕は返事の代わりに雪玉を投げる。三宅の顔をめがけて投げたはずだったのだが、狙いは大きく逸れて、SL車両の横に設けられた喫煙所へと向かってしまった。良い顔に酔っ払ったサラリーマンから怒りの声が届く。
僕は悪戯がばれた子供のように、駅の反対側へと走り出した。三宅もあわてて僕を追いかける。後ろをついてくる三宅の表情は分からない。ただ、想像はついた。
「朝まで遊ぶか、飲むか、どっちにする?」
振り向いた先にある三宅の顔は、予想通り笑っていた。
「まだガキっぽいところが残ってんだな」
「お前と違って、独身で何の責任もないからな」
三宅の笑顔が苦笑いに変わる。ただ、居酒屋で向き合った時のような重さは感じられない。
「それにさ、雪が降った日ぐらい、子供に戻ったっていいじゃないか」
僕らはネオンに彩られた通りを駆け抜ける。まるで、提灯が並ぶ縁日の中を走っているようだった。