ぐしゃり、と真昼
良く晴れた真昼。
白昼夢も裏返りそうな寒さが、剥き出しの肌を刺している。
はぁ、と溜め息にも似た息を吐けば、白く薄化粧を施され、高く高く空へ。
いつかその吐息は、雲に変わるのだろうか、とアリストテレス。
そんなおとぎ話を何度か反芻してから、タケルは足元を見下ろした
地上から数十メートル真上に、タケルの両足爪先部分が顔を覗かせている。
少しでも空に近い場所を、と彷徨い歩いて見つけた廃ビルの屋上は
12月半ばの寒々しい風を遮断する事なく、タケル目掛けてぶつかって。
ゆらりぐらりと動かされる身体の動きを、ゆっくりとしたリズムに変換し、目を瞑る。
何もかもが綺麗だった、あの頃に戻りたい。
呪文のように頭の中で反芻してから目を瞑り、一息飲み込んだ。
終わりと始まりの鐘が、ぐわぐわと鳴り響く耳の奥。
降ろした目蓋の裏側で、手招きをしているのは誰だろう、と思案した時。
「ねぇ、ここから飛び降りるのはヤメてくれないかしら」
真後ろからの声に、ビクリと肩を震わせ、タケルは恐る恐る振り返ってみる。
ドクドクと心臓が脈打ち、何かしらの後ろめたさが襲い掛かってくるようだった。
「悪いけれど、他の場所選んで欲しいの」
視界に捉えた少女は、何とも奇怪な出で立ちをしていた。
眉より幾らか上で平行に切り揃えられた前髪。
頭の、黒と白のレースがあしらわれたヘッドドレスは、赤い薔薇のような花が、
そのヘッドドレスの真ん中を一直線に彩るように咲き乱れ、
サイドからは緩くロールの掛かった髪が、肩まで降りている。
赤と黒の別珍で作られたセパレートは、例に漏れず白のフリルが主張をし、
胸元は、黒の紐が編みこみを作り上げ、鎖骨の辺りで蝶結びをされている。
肩からはケープを覆い、首元には真っ赤なコサージュ。
膝丈のスカートも、ボリュームを含んだもので、赤と黒、そして白が基調を保っているようだ。
ソックスは、ラッセルレースにサテンリボンの付いたストッキングタイプで
その殆どが、黒のブーツに覆われ見えないが、リボンの部分だけがブーツの上に顔を覗かせている。
まるで、バッキンガム宮殿にでも居そうなその少女は、
雨も雪さえも降ってはいないのに、黒い日傘のようなものを差して、タケルをじっと見つめていた。
「ごめんね、別に邪魔する気はないけれど、ここから飛び降りるのはヤメて欲しいの」
日傘の柄をくるくると回しながら、その少女は一度視線を下に落とした。
そしてもう一度タケルを見ると「ね、聞いてる?」と柔らかく微笑んだ。
「…キミは、だれ?」
掠れるような声でタケルが問うと、少女は、くるくる回していた日傘の動きを止め
「そんなこと聞いて、どうするの?」と答えながら、日傘を丁寧に折り畳んだ。
小さな身長と小さな顔とは対照的に、大きな丸い目がタケルを捉える。
まるで全てを見透かしているようだ。深く、吸い込まれそうな黒い瞳。
「わたし、マリーって言うのよ。覚えておいても得なんてないと思うけど」
「…マリー。そう、マリーって言うんだね。僕は、、」
「いいの、あなたが誰かなんて興味ない。」
「…そう。悪かったね」
「でも、得なんてないと思うけど、名前、聞いてあげるわ」
言って、マリーはフフッと笑った。
「タケル。僕の名前はタケル」と告げれば、再びフフッと笑って「知ってる」
タケルは、マリーと名乗るこの少女が不思議だと感じた。
ただでさえ出で立ちだけで妙な印象を受けるが、こんな廃ビルに、この少女。
良く良く思えば、ミスマッチしているようでもあり、妙な情緒と統一感もある。
「なぁ、マリー。キミは僕が何をしようとしていたか知っているのかい?」
訥々と問えば、相変わらずの笑みで「知ってる」と答えた。
からかっているのだろうか。名前すら知っていると答えたこの少女は。
「ヒューン、と飛んで、ぐしゃり、って。そうしたいんでしょう?」
細く可愛らしい声には似合わない言葉だった。
けれど、それは図らずも正解だ。
「うん、そう。だから止めて欲しくないんだ。分かるかい?」
幾らかイラつき始めている自分に気付いていた。
もう言葉さえ発することなく、自分はあの頃に戻れる予定だったのに。
ひょんな事で現れたマリーのお陰で、予定は丸つぶれ。
「あら、別に邪魔はしないって言ってるでしょう?タケル、あなた何を聞いていたの?」
「邪魔をしないなら、声を掛けて欲しくはなかったんだ」
「だから、ここでそれをされるのはとても困るの。困る、というよりは、迷惑よ」
「迷惑?キミは一体何なんだ。こんな場所に、どうして居るんだ」
問い詰めるように捲くし立てれば、マリーはペタリと地面に座り込んだ。
そして、冷たい地面、詰まる所、コンクリートに手のひらを付くと、ポツリ。
「ここは、わたしのおうちなの。だから迷惑よ、死ぬなら他を選んで」
「ここがキミの家だって?この廃ビルが?僕をからかっているの?」
「タケル、あなたをからかっている暇なんて無いわ。ここはわたしのおうち」
「全く分からない。理解が出来ない。キミは頭がどうかしちまってるんだ!」
吐き捨てるように浴びせ掛けてから、タケルはハッと口を押さえた。
何をこんなにイライラしているのだろう。会ったばかりの少女に罵倒を浴びせ掛けたりして。
「ご…ご、めん…」
「気にしていないわ。あなたに理解して欲しいとは思っていないの」
「・・・ごめん。ごめんな…」
「わたしはタケルとは違う個体だから、理解なんて元々出来ないのよ」
再び苦笑して、マリーは立ち上がった。
タケルの横に立つように、屋上の際に足を掛け、ゆらりぐらりと身体を揺蕩わせている。
爪先は完全に宙に出ている。恐怖も無いような表情で、じっと下を見つめて。
別に、ここが死体の山になったって、自殺の名所になったって構わないの。
ただね、そうしたら野蛮な人達がここに入り込んできて、黄色いテープを貼るのよ。
そうしたらわたし、おうちに入れなくなっちゃう。警察の人がね、ダメって言うのよ。
迷惑なことでしょう?わたしのおうちなのに。みんな、バタバタ飛び降りてゆくの。
ねえ、聞いてる?タケル。本当に迷惑な事だと思わないかしら。
ゆらりぐらりと揺れながら、マリーが呟いた。
頬は赤みも差してはいないが、実態のないような恐怖は感じない。
タケルは一歩後退すると、力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
妙な恐怖は、マリーに対してではなく、死という曖昧な概念からだろうか。
はぁ、と息を吐けば、再び薄化粧。
「それが賢明ね」
「結局…僕はキミに邪魔をされてしまったよ」
「フフッ。知ってる?ここから空を目指したって、確立は五分五分だって」
「五分五分…?それはつまり、死ねないってこと?」
そうね。半分は生きて半分は死んだわ。
ただ、生きても、二度と歩けなかったり、酷く顔が破損したり。
どっちにしろロクな生き様にもなりはしないわね。フフッ。
その言葉に、タケルの背筋にゾクリと悪寒が走った。
フィフティーフィフティーで生き延びた場合を考えると、それは恐ろしい。
彼女が「賢明」だと言った言葉にも頷けた。
「人って脆いものなのね。一部が壊れたり、全部が壊れたり。」
「・・・それだけが人なら、先に光なんてないだろうな」
「フフッ。けれど、生きるからこそ世界は美しいのよ?タケル」
「それは、僕を諭しているのかい?」
タケルが問うと、マリーは再びフフッと笑った。
そして、後方のタケルを振り返ると、一言だけ返し、笑う。
「まさか。生きる権利と死ぬ権利は、等しく個人にあるものでしょう?」
あ、と声を上げる間もなく、マリーの身体は後へと重力に従った。
ふわりと後方へ倒れると、一気にタケルの視界からその姿が消えてしまった。
「マリー!」と、あらんばかりの声を上げて、コンクリートの切れ端に近づいたタケルは、
遥か下の地面を覗き込んだが、そこには予想をしていたような惨事は無い。
マリーの言った「ぐしゃり」もなければ、彼女の姿すらそこには無く
ただ、タケルの手元には、彼女の差していた黒い日傘が。
良く晴れた真昼。
白昼夢も裏返りそうな寒さが、剥き出しの肌を刺していた。
そんな真昼の、短い夢。