隣の壷の中のジン様!
『隣の壷の中のジン様』の、アリーのお母さん側から見たお話。
アリーの母は、気落ちして丸まっている息子の背を、優しく撫でた。
それはきっと、息子の妻の役目であろうのに、彼は妻にその理由を告げることが出来ぬがゆえに、母である彼女の元へとやってきて、その胸のうちを語って肩を落としたのだ。
アリーが暗い気持ちになっているその訳は、彼の初恋の女性が行方不明になったから、というものであった。
アリーの母は、息子が気付かぬように、そっとため息をついた。
アリーと、その母は今、とても裕福な生活を送っている。
数ヶ月前まで、彼らは貧乏のどん底で、なにをしても暮らしぶりが良くなることはない、最下層の生活を送っていた。
苦しい生活の中でも、大事な家族や友人がいて、そして、ときどきふと訪れる小さな幸運に笑い、生きる為に仕事をする。
そんな生活を、彼らは苦ではあっても最低だとは思っていなかった。
それが突然に一変した。
あるとき、アリーが突然、畑仕事以外の仕事をするのでしばらく家を空けると言い出したことがあった。
それから、幾日も帰ってこなかったり、戻ってもすぐに居なくなったりという日が続いた。何をしているのかは分からなかったが、何かが起こっているということだけは彼女にもわかった。
息子が家に居ないだけで、それまで二人で狭いと感じていた部屋が、突然広く、さびしく感じられるようになった。
もらった卵の中身が双子だったと、そんな幸運を告げて一緒に喜んでくれる相手が居ないというだけで、悲しさを感じるようになった。
いつか、巣立ちの時が来るのは当然であるし、貧乏ゆえに母を置いて行けないと息子が考えていたことも知っていた。
それでも、それは、こんなふうに寂しい別れではなかったはずだ。
アリーの母は、言い知れない不安感でふさぎこむ日々が長く続いた。
そんなある日、突然、城から幾人もの遣いがやってきた。
そして、遣いの男たちはこう言ったのだ。
「アリー様は、その功績が認められ、王女様とのご結婚が決まりました」
なんの夢かと、アリーの母は思った。
今、アリーの母は、昔とは比べ物にならない裕福な生活を送っている。
それに不満があるわけではない。
けれど、今の生活が以前のそれよりとてもいいものだ、とも思えなかった。
息子が突然、なんの相談も無く居なくなっていた日々でさえも、悪いものではなかった。
息子が一番大事ではあるが、友人と呼べる者たちが居たのも事実。
それに加え、アリーが長い間帰らない日は、以前から世話になっていた近所の女性が、アリーの母が何かしら困っていないかと様子を見に来てくれてもいた。
近所でも評判の親孝行な女性であったその人は、足腰の弱った老人の世話もあるというのに、アリーに助けてもらった恩があるからと、いつまでもアリーとその母の世話をしてくれた。
彼女が世話をしていた老人も、貧民街に古くから住んでいるものたちからはとても慕われていた。
自らも苦しい暮らしぶりであるにもかかわらず、働き手の父親が怪我をした家の畑を手伝ったり、税を納めるための作物が不作となってしまった家に、自らの生活の為の分を分けてやったりと、ずいぶんなお人よしな男であった。
そんな義理人情に厚いその男が、ある日腰を痛めて畑に行くことができなくなった。そんなとき、彼の世話を買って出たのが孫娘であろう女性であった。
突然表れた彼女は、あっという間に老人の腰を揉んだりほぐしたりして回復させ、数日後には畑仕事に戻れるほどにしてしまったのである。
そのときの技を、彼女はアリーの母にも披露してくれた。
それは天にも昇るような心地の、味わったことの無いものだった。
『マッサージ』というらしいそれは、彼女の温かな手のひらからじんわりと広がる熱がここちよく、アリーの母は、いつも気が付けば寝入ってしまっているのだった。
その頃には、アリーの母も身体の衰えを感じており、日々の仕事や家事もだんだんと億劫に感じるようになっていた。いつまでも帰ってこない息子をただただ待つことにも、疲れを感じていた。
だから、「アリーのお母様、お加減はいかが? 今日も『マッサージ』いたしましょうか」とその女性が家にやってくるのを、いつも心待ちにしていた。
マッサージの最中、アリーの母は不安な気持ちのままに、アリーのことやこれからのことを話した。
そんなとき、彼女はいつも優しく相槌を打ち、アリーが早く帰ってくるといいですね、と慰めた。
いつしか、こんな優しい女性が娘になってくれればいいのに、と、アリーの母は思うようになった。
以前、アリーが、その女性に思いを寄せていたことがあったことを、アリーの母は知っていた。
女性にその思いを告げずに、その恋を終わらせてしまったようだったが、アリーの母は、この女性ならばアリーと共に幸せな生活を送ってくれるのではないかと思った。
だから、よりいっそう、早く帰っておいで、と、母は思ったのだった。
ところが。
アリーが帰ってくる前に、ある事件が起きた。
あの優しい家族に悲劇が訪れた。
老いてなお、街の者に慕われていたあの老人が、亡くなったのだ。
病気や、事故ではない。
老衰。
穏やかな最後であった。
近所の者たちは、自分たちが世話になった老人との別れを思い悲しみ、しかし、彼を看取ってくれる娘が居た幸運を喜び、泣いた。
そして、残された娘のことを思い、泣いた。
アリーの母も、その中の一人であった。
共同墓地に埋葬された日、悲しげな風情でたたずんでいた女性は、老人が大事にしていたという壷をそっとその墓の前に置いた。
月日がたてば、砂や土に埋まり、割れてしまうだろう、と、アリーの母が忠告したが、彼女は「それでいいのです。この壷は、あの方と一緒に眠りにつくのが幸せなのです」と、微笑んで答えた。
その後、老人と共に住んでいた住居から消えた女性は、それでも毎日どこからともなくアリーの家に現れては、アリーの母にマッサージを施し、彼女の愚痴や不安を聞き、慰めて帰っていった。
一人きりになった者同士、娘のようにも思っていた女性に、一緒に暮らさないかと何度かアリーの母親は提案したが、女性が首を縦に振ることは無かった。
ああ、はやく、アリー、早く帰ってきて。
アリーの母は、毎日祈った。
けれど、帰ってくることは無かった。
成功を収め立派になった彼は、長年過ごしたあの家に帰ってくることはせず、ただ、遣いをよこしたのだ。
寂しい思いをした母親を、迎えにきたのは見も知らぬ人たち。
見送ってくれたのは、離れがたい友人と住み慣れた街、そして、別れの最後までいたわってくれた娘のように思っていた、優しい女性。
アリーの母は、息子との再会が成って、喜んでいいのか、怒っていいのか、複雑な思いであった。
よって、
「この、放蕩馬鹿息子ー!!」
アリーの母と、息子との再会の最初の言葉は、そんな言葉から始まることとなったのだ。
そして、息子が居ないあいだ、どれほど悲しんだか、心配したか、そして、どれほどいろんな人に世話になったかを懇々と説教したのである。
とりわけ、家族とも思っていた老人とその孫娘の話に及べば、力の入りようもまた格別であった。
わるかったよ、これから一緒に暮らしていこう、と、苦笑いで応じていたアリーも、彼女らの話になれば姿勢を正し、耳をかたむけた。
「おじい様を亡くされて、自分も大変な時期だって、いつでも私のところへきてくれてねぇ。本当にあの娘……『みっちゃん』には世話になったよ」
そう告げると、アリーの雰囲気が瞬時に変化した。
「じいさんが、死んだ!? そんな、あんなに元気だったのに……。じゃあ、みっちゃんはどうしてるんだ!?」
母が悲しんでいたというくだりではそれほどの食いつきは見せなかったというのに、この変わり様。ああ、この子はまだ初恋を引きずっているんだわ、と、母は胡乱な視線を向けた。
それでも、もうあの女性を嫁になどできようはずも無いアリーに、哀れに思った母は、老人が死んだ後もあの女性が毎日家に来てくれたことや、世話になった数々を詳細に解説した。
その間、アリーは深く考え込み、時折ぶつぶつとなにやら呟いていた。
「主が死んで、どうやって壷から出て……」「壷を悪用されて……」だのと、アリーの母にはまるでわからぬことであったが、そうやって思考が纏まったらしいアリーは、その後すぐに部屋を飛び出していった。
後でアリーの母親が聞いたところによれば、全力で老人の墓にあったはずの壷を探し、女性の行方を捜していたのだとか。
しかし、最高権力者に次ぐ力を保有してるアリーをもってして、その壷も女性も、見つけ出すことはかなわなかったのだという。
別れはいつも突然だ。
いつやってくるのかわからない別れに備えて、いつも、いつでも、大事なものは優しく包んで、気持ちを伝えることを怠ってはならない。
「だから、アリー。あなたはあなたの妻を、家族を今度こそ大事に守ってやらなければいけないよ。私と夫のように、みっちゃんとあの老人のように、私たちとみっちゃんのように、いつか別れのときは必ず来るのだから」
もう、みっちゃんに会うことはかなわぬのだろうと、心のどこかで確信していた。
だから、肩を落とす息子に、母は言う。
大事なものを守れるだけの心を養いなさいと。
あのやわらかく優しい手に、もう一度触れることがかなうなら、今度こそ、あなたを娘のように愛しているのよ、と伝えなければ。
そんな風に、彼女自身も、後悔と共に『家族』のことを思いながら。
END
今回は、アリーのお母さん側から見たお話。
ジン様に関して言えば、ちゃんとみっちゃんとラーシッドとランのその後を書きたいなーと思ってるので、いずれ小話にジン様が増えると思われます。
そのときにはまた見てやってくださいませ!