「愛しているから第二夫人に」と言ったあなたへ。私が誓いの指輪を返した日
「セリア、頼む、分かってくれ。君を愛する気持ちに変わりはないんだ。……だが、過ちを犯してしまった以上、彼女の責任を取らねばならない。君には、第二夫人として側にいてほしい」
目の前に佇む男——若くして騎士団長に上り詰めた私の婚約者、アルフレッドは、どこまでも真面目で、どこまでも絶望的な顔をしてそう言った。
私は、彼の指に光る銀のリングを見つめた。
私の指にも、まったく同じ意匠のリングが嵌められている。幼い頃から互いを想い合い、数年前に交わした「生涯ただ一人を愛する」という誓いの指輪だ。
「……責任、ですか」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
震えてもいない。取り乱してもいない。
胸の奥で、カチリ、と小さな音がした。あんなに愛おしかった熱が、まるで冷や水を浴びせられたかのように、すーっと引いていく音がした。
「ああ。クレア嬢の貞潔を奪ってしまった以上、騎士として、男として彼女を見捨てることはできない。だが、俺が心から愛しているのは君だけだ。正妻の座は渡してしまうが、実質的な妻として君を一生大事にする。……だから、分かってくれ」
アルフレッドの瞳には、一切の悪意も、浮ついた色もなかった。
あるのはただ、「困っている者を放っておけない」「己の過ちは正さねばならない」という、愚直すぎるほどの正義感だけだった。
だからこそ——私は、もう救いようがないのだと悟った。
異変が始まったのは、半年前のことだ。
子爵令嬢のクレアが現れてから、アルフレッドは変わってしまった。
いや、変わったのではない。彼の中に眠っていた「無自覚な鈍感さ」と「無防備な善意」を、彼女に徹底的に利用され始めたのだ。
『アルフレッド様、夜道が怖くて……』
『魔獣のトラウマで立ち眩みが……手を貸していただけますか?』
可憐な皮を被ったクレアの、見え透いた SOS。
私なら一目で看破できる嘘に、アルフレッドは「騎士の責務」として軽々と乗せられた。
私との大切な約束の日にも、「クレア嬢の発作」を理由に遅刻した。社交界で彼女にぴったりと腕を絡められても、「体調が悪い相手を突っぱねるのは不誠実だ」と突っぱねなかった。
『アルフレッド様、あの方とは少し距離を置いてほしいの』
一度だけ、私は勇気を振り絞って彼に乞うたことがある。
しかし、帰ってきたのは、私を窘めるような彼の言葉だった。
『セリア、君らしくもない。嫉妬かい? 彼女は守るべき可哀想な被害者だ。君は聡明なのだから、もう少し寛容になってくれ』
私の痛みに、彼は気づこうともしなかった。
彼にとってクレアは「可哀想な保護対象」であり、私は「何をしても理解してくれる都合の良い存在」だったのだ。
そして昨夜。
クレアの仕組んだ「薬入りの酒」と「密室の罠」によって、アルフレッドは彼女と同じ部屋で朝を迎えるという決定的な失態を犯した。
実際には何も起きていなかったとしても、外から見れば完璧な不貞。
クレアは涙を流して「責任を取ってほしい」と縋りつき、アルフレッドはその罠に易々とハマり、己の「責任」を果たすために、私に第二夫人になれと言い放ったのだ。
アルフレッドは、自分が私を傷つけているとさえ思っていないのだろう。
「第二夫人になっても愛し続ける」ことが、彼なりの誠意だと信じ切っているのだから。
私は静かに右手を伸ばし、左手の薬指に嵌められた誓いの指輪に触れた。
すっと引き抜き、手のひらに載せる。
「セリア……?」
アルフレッドが不審そうに眉をひそめた。
私は彼の手に、その指輪をそっと握らせた。
「私の愛したアルフレッド様は、もうどこにもいらっしゃらないのですね」
「……な、何を言っているんだ?」
「私を心から想い、私の痛みを見つめてくれたあなたは、もういない。……ただの鈍感で愚かな男が、そこにいるだけです」
「愚か……? セリア、俺は君のために、必死で……!」
「私のために?」
私はくすりと笑った。生まれて初めて、彼に向ける冷ややかな嘲笑だった。
「私の心を殺してまで果たす責任が、あなたの誇る正義なのですか。なら、どうぞその正義と添い遂げてください。——婚約を破棄させていただきます」
「待て! 待ってくれ、セリア! 第二夫人が嫌なら、もう少し話し合おう! 俺は君を失いたくないんだ!」
必死に手を伸ばしてくるアルフレッドを、私は一歩退いてかわした。
一度も振り返らず、私は彼の屋敷を後にした。
胸を裂くような痛みは、不思議となかった。
ただ、どこまでも冷たい虚無だけが、私の中に満ちていた。
その翌日。
私は実家である伯爵家の全面的な協力を得て、隣国への移住手続きを極秘裏に進めていた。
もとより我が家は隣国との貿易で立ち回っていたため、領地も財産もすべて引き払い、この国を去る決意をしたのだ。
一方、アルフレッドの周りは怒涛の勢いで崩壊し始めていた。
私という「重し」を失ったことで、クレアの周りの不自然さに気づいたのは、私の兄と、アルフレッドの側近たちだった。
「団長、正気ですか!? クレア嬢が買い取った睡眠薬の記録と、彼女が買収した給仕の手紙が出てきましたよ!」
叩きつけられた証拠の数々。
そこには、クレアがアルフレッドを罠に嵌め、私から彼を奪うために画策した全容が克明に記されていた。
「な……に、だ……?」
アルフレッドの顔から、血の気が引いていく。
『彼女はただの可哀想な被害者だ』
『君らしくもない、嫉妬かい?』
『責任を取らねばならない。君には第二夫人として……』
自分がセリアに浴びせた言葉の数々が、脳内で恐ろしい毒となって彼自身を苛み始めた。
不貞などではなかった。
すべては愚かな罠であり、自分はその罠に踊らされ、己の誇りだと思っていた正義感で、最愛の女性の心を踏みにじり、自ら手放したのだ。
「あ……ぁあ……っ」
ガタガタと膝が震え、アルフレッドはその場に崩れ落ちた。
頭の中が真っ白になり、激しい吐き気が彼を襲う。
「セリア……セリア……! 俺は、俺はなんてことを……!」
クレアはその場で騎士団に拘束され、子爵家ごと厳しい処罰が下されることとなった。
だが、そんなことはアルフレッドにとってどうでもよかった。
「セリアは!? セリアはどこだ!?」
「セリア様なら、本日正午の船で、隣国へ発たれる予定ですが……」
側近の言葉が終わるより前に、アルフレッドは狂ったように駆け出していた。
港は、激しい雨に見舞われていた。
出航のベルが鳴り響く中、乗船口へ向かって歩いていた私の耳に、なりふり構わない叫び声が飛び込んできた。
「セリアーーーッ!!」
振り向くと、そこには泥まみれになり、雨に濡れそぼった男が走ってくるところだった。
かつての凛々しい騎士団長の面影などどこにもない。髪は乱れ、瞳は絶望に落ちくぼみ、今にも死にそうな顔をしたアルフレッドだった。
「セリア! 頼む、行かないでくれ! 待ってくれ!!」
警護の兵を振り切り、彼は私の足元へ滑り込むように膝をついた。
泥水が跳ねるのも構わず、私のドレスの裾を掴み、子供のように声を上げて泣きじゃくる。
「俺が愚かだった! 罠だったんだ、すべて彼女の……いや、違う! 彼女の罠以前に、俺が愚かだったんだ!! 守るべきだったのは、君の心だったのに! 俺が君を裏切ったんだ!!」
「アルフレッド様……」
「頼むから捨てないでくれ! 第二夫人なんて冗談じゃない、俺の妻は、俺の生涯の主は君だけだ! 君のいない人生なんていらない! 頼む、頼むから……っ!!」
かつて「第二夫人になれ」と上から目線で宣った男が、今は泥に塗れて、私の靴に額を擦り付けんばかりに乞うている。
プライドも、騎士の尊厳も、何もかもを投げ打って。
ただ、私を失う恐怖だけに狂いながら。
「……気づくのが、遅すぎます」
私は静かに見下ろした。
彼の肩が、ピクンと震える。
「あなたの無自覚な優しさが、私をどれほど殺したか、分かりますか?」
「分かっている……死ぬほど分かった! 一生かけて償う! 君が望むなら騎士団長も捨てる、何だってする! だから、俺を……俺を見捨てないでくれぇっ……!」
ボロボロと溢れ出る彼の涙が、雨水と混ざって流れていく。
その情けないまでの執着と、初めて見せた「余裕の欠片もない重すぎる本音」に、私の胸の奥で眠っていた冷たい塊が、ほんの少しだけ揺れた。
私は深く、息を吐き出した。
「……立ち上がってください、アルフレッド様」
「セリア……?」
「許したわけではありません。あなたの犯した愚かさを、私は一生忘れません」
アルフレッドは顔を上げ、絶望と、かすかな希望が混ざり合った瞳で私を見つめた。
「ですが……あなたが本気で、生涯をかけて私に償う覚悟があるというのなら。……その手紙(乗船券)は、破り捨ててあげてもよろしくてよ?」
その瞬間、アルフレッドの瞳に光が戻り、彼は弾かれたように立ち上がると、泥だらけの体も気にせず私を強く、壊れそうなほど固く抱きしめた。
「ありがとう……ありがとう、セリア……! 二度と、二度と君を離さない……!」
私を抱きしめる彼の体は、まだ恐怖でガタガタと震えていた。
——後日。
騎士団長アルフレッド・ヴァンジールは、社交界で「恐妻家」としてその名を知られることになる。
どんな可憐な令嬢が近づこうとも、彼はまるで悪魔でも見るかのような冷淡な顔で遠ざけ、妻である私にだけは、誰もが呆れるほどの過保護な溺愛を注ぎ続けるのだ。
「セリア、今日の髪型も素晴らしいよ。……あ、あの、何か気に触ることをしただろうか? 捨てないでくれよ?」
私の機嫌を伺い、ビクビクと顔色を窺う彼の姿に、私は少しだけ満足そうに微笑むのだった。




