「生活音」
夫が死んだ。
ちょっと散歩に行ってくると出掛けて行って車に跳ねられて死んだ。
あまりに呆気ない最期だった。
25歳の時に結婚して50年。
特別仲良しだった訳でも、仲が悪かった訳でもない。
ただ何となくいなかったらこまるなあと言う関係性だった。
亡くなった後は色んなことが目まぐるしく決まって実行されていく。
有り難いことに私がぼんやりしているうちに息子とお嫁さんが率先して動いてくれた。
色んな人が私の心配をしてくれる。
たくさんの「大丈夫?」をいただく。
大丈夫?
私は大丈夫なんだろうか。
よく分からないまま夫は骨になってしまった。
夫は物静かであまりしゃべらない人だった。
そのせいか1人になってもあまり変わりはなかった。
朝起きて、歯を磨いて、洗濯をして。葬儀の後も私は淡々と日常を過ごしていた。
朝8時。
2階の和室でテレビを見ながらじゃがいものお味噌汁を啜っている時だった。
ガタン。
3階から音がした。
私の身体はビクリと跳ねた。
え?
驚きで硬直する。
部屋の扉が開く音がする。
タン。
タン。
タン。
「それ」はゆっくりと階段を降りてくる。
私の心臓はドクドクと鳴る。
電話、警察、逃げる、どうやって、
頭の中を様々な言葉が駆け巡る。
そのうちに音は最後の階段を降りたようだ。
そのまま迷いなくこちらに向かってくる。
和室の扉は閉めている。
しかし、当たり前のように鍵など掛けていない。
扉がゆっくりと開く。
そこには──
「え……」
私は声をあげる。
そこには──誰もいなかった。
ギシッ……
「ひっ……」
音が続いて私は引き攣った声を出す。
歩いている。
畳の上を誰かが歩いている。
それはゆっくりと歩みを進めると私の向かいの席に座った。
向かいの席。
それは夫の席だった。
何かを探すような気配がする。
……もしかして?
私は立ち上がると台所に向かう。
何も入れていないからっぽの器。
夫のお椀とお茶碗を持ってくる。
お箸と共にそれを置くとカタカタと動き始めた。
浮いて、傾き、少し経つとお箸が置かれた。
食べた、のかしら?
満足したのか器を台所に持って行く。
水を流す音がする。
何もない器を彼はただ洗っていた。
洗面所で顔を洗う音。
トイレを流す音。
新聞を取りに行く音。
夫が生活する音がする。
姿は見えない。
でも、夫は確かにそこにいて暮らしていた。
自分が亡くなったと気付いていないのか。気付いていながらここにいるのか。それは分からない。分からないけれど、見えない以外はあまりにいつも通りだった。
知らなかったわ。物静かだと思ったけれど、あなたって結構、騒がしかったのね。
夫の音を聴きながら私はそんなことを思った。
朝起きて、日常を過ごし、夜になると3階の自分の部屋に帰っていく。
それの繰り返しだった。
人1人が生きる。
それは様々な音を生み出す行為なのだと私は知った。
息子やお嫁さんが訪ねて来てくれた時は不思議と音はしなかった。
今起きていることを話そうかと思ったが、私がおかしくなったと思われてはいけない。
知らない人が訪ねてきた猫のように夫はどこかに潜んでいるのだろうか。
そう思うとなんだかおかしかった。
49日の法要は自宅で家族だけでひっそりと行われた。
お坊さんを呼んで、納骨の後、帰った後に簡単な食事を作って和室でみんなで食べた。
息子がどこからかアルバムを出してきた。
「この時の父さんがかっこ悪くてさ」
クスクス笑いながら指さすのは小学校の運動会の写真。保護者参加型のリレーで夫が見事に転んでいるところだった。
運動神経0のくせに息子に恥をかかせることは出来ないと早朝にジョギングをしたり、やけにはりきっていたことを思い出す。
結果は散々で私が決定的瞬間を収めたものだ。
帰り道、口をきいてくれない息子にしょんぼりしていた記憶がある。
ガタン。
後ろから音がした。
息子とお嫁さんが振り返る。
不思議そうに首を傾げる2人に私は微笑んだ。
さすがに我慢できなかったか。
潜んでいた夫はたまらず出てきたらしい。
息子はじっと音がした空間を見つめた後、笑った。
「でも、俺のためにがんばってくれたのは嬉しかったよ……」
この言葉は届いただろうか。
ああ、残念。
見えたなら、あなたの泣き顔を見れたかもしれないのに。
息子の背中にそっと置かれたお嫁さんの手と共に私は温かい気持ちになった。
その夜のこと。
私は扉の開く音で目を覚ました。
夫の部屋からだ。
私は目をこすりながら寝間着姿でベッドから抜け出した。
時刻はもうすぐ24時を迎えようとしていた。
自分の部屋を出る。
ギシッ
夫は廊下を歩いていた。
息子の部屋だったところが開く。
電気が点く。
じっと見つめると扉を閉める。
また歩き出す。
私はその後を黙って付いていく。
タン。
タン。
タン。
台所。
和室。
洗面所。
トイレ。
次々と部屋の扉を開けると電気を点けて見つめて閉める。
タン。
タン。
タン。
お風呂場。
車庫。
そして、音は玄関へと向かう。
玄関の扉が開く。
「行ってらっしゃい」
私は告げる。
その声に応えるように扉は一瞬止まって──そして、閉じた。




