「黒猫」というカフェには、この世のものではない“待ち続ける彼女”がいる
カフェ「黒猫」があなたを不思議な世界へ誘います。
「黒猫」という小さなカフェには、時々この世のものではない客がやって来る。
そして――その客たちは、決して一つの物語では終わらない。
これは、僕がそこで出会った、ひとつの“続いてしまった”物語だ。
雨が止まない午後、私は小さなカフェの扉を押した。
木製の看板には、「黒猫」と書かれている。
店内は薄暗く、壁には古い絵画やアンティークの時計が並んでいた。
微かに漂うコーヒーの香りと、時折木製の椅子がきしむ音だけが、空間を満たしている。
ドアを開けて入ると、黒いコートに長い髪の女が一人、アンティーク調のカウンターでブランデー入りのコーヒーを飲んでいた。
彼女は私に気づくこともなく、カップの縁に口を寄せるその横顔は、静かで、しかしどこか冷たい光を放っていた。
私はカウンターに座り、黒いコートの女を見ながら言った。
「マスター、彼女と同じものを。」
マスターは少し驚いたような顔をした。
「え? 誰もいませんよ。」
「さっきからそこで、ブランデー入りのコーヒーを飲んでいるじゃないですか。」
マスターは首をかしげた。
「うちはブランデー入りコーヒーなんて出していませんよ。」
言われて振り返ると、そこには誰もいなかった。
ブランデーの香りが漂うその周囲だけ、空気がほんの少し濃密に感じられた。
カウンターのアンティークの時計の秒針が、まるで彼女の存在を刻むかのように、淡々と音を立てている。
カップのコーヒーを口に含むと、甘くほろ苦い香りの奥に、鉄のようなかすかな匂いが混じっていることに気づいた。
視線を窓の外に移すと、雨に濡れた街路に黒猫がひょこり現れたような気がした。
しかし振り返ると、誰もいない。
しばらくして、私は立ち上がり、そっとカフェを後にした。
外の雨は少し強くなった気がする。
振り返ると、店の窓には人影はない。
ただ、アンティークの時計だけが静かに時を刻んでいた。
さっき確かに黒いコートの女が座っていた。
あれは本当に幻だったのか。
「雨、止まないですね」
声のした方を見て、思わず息を止めた。
黒いコートの女がそこに立っている。
長い黒髪から雨が滴り落ち、微かに光を反射していた。
思わず持っていた傘を差し出す。
「ずいぶん濡れましたね。大丈夫ですか」
女は真っ赤な口紅でわずかに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。もう慣れたので」
「よかったら駅まで一緒に行きましょう」
「いいえ、人を待っているので、もう少しここにいます」
彼女はそう言い、カフェの軒下に佇んだ。
なぜか得体の知れない寒気が胸を走り、身震いをしながら私はその場を離れた。
また同じカフェを訪れる機会があり、私はマスターに先日のことを話した。
マスターは顔色ひとつ変えず、淡々と答えた。
「ああ、あなたも彼女に会ったんですね。
実は彼女、ここで彼氏に別れ話を切り出されて、去っていく彼を追いかけたんです。
ドアを開けて走り出した途端、ちょうど走ってきた車に轢かれて亡くなった。
その日も冷たい雨が降っていました。
それから、別れた彼氏に似た人が訪れると、彼女も会いに来るみたいですよ」
頭から氷を浴びせられたように、身体が冷たくなった。
こんなことを淡々と話すマスターも、どうかと思う。
(もう二度とここに来ることはないだろう)
そう思いながらカフェのドアを開けた。
外はさらに冷たい雨が降り始めていた。
コートの襟を立て、ふとカフェの方を振り返ると、黒いコートの長い髪の女が、雨に濡れた髪を揺らしながら、真っ赤な唇で微かに微笑んでいた。
――あれから数日が経ったが、あの女のことを、忘れることができなかった。
怖いという気持ちと好奇心が胸の中で交差する。
そして結局、好奇心の方が勝ってしまい、僕はまたここへ来てしまった。
ドア越しに店の中を覗く。
――いた。
以前に見た時とまったく同じ姿だ。
黒いコートに長い黒髪、真っ赤な口紅。
静かにコーヒーを飲んでいる。
恐怖なのか、会えた嬉しさなのか。
妙に胸が騒ぐ。
意を決して店の中に入る。
僕はあえて彼女の隣の席に座った。
マスターが少し驚いたような顔をして会釈する。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「この人と同じものを」
そう言って、僕は彼女の方を見た。
マスターは不思議そうな顔をした。
「え……どなたもいらっしゃいませんが」
やはりマスターにはこの女が見えないらしい。
「ほら、この前マスターが話してくれたでしょう。彼女がここにいるんですよ」
「そうなんですか。私には何も見えませんが」
マスターは驚いた様子もなくそう言った。
僕は彼女に向き直った。
「マスターの話を聞いて、もう二度と来ないと思ったんだけど……なんだか気になって。また会いに来たよ」
女は誰もいないかのように、ただ黙ってコーヒーを飲んでいる。
思い切って彼女に聞いてみた。
「君はいつまで彼氏を待っているの?」
女はゆっくりとこちらを振り向いた。
「彼が会いに来てくれるまで、私はここにいる」
そう言うと、また一口コーヒーを飲んだ。
「彼はどこに住んでるの? 会いに行くことはできないの?」
女は俯き、悲しそうに答えた。
「ここを離れることはできないの……
ただ待つしか……」
僕は彼女が不憫に思えてきた。
なんとかして彼氏に会わせてあげたいと思ってしまった。
彼女に教えてもらった住所を頼りに、その家を訪ねた。
古びた一軒家だった。
チャイムを鳴らすと、白髪混じりの女性が出てきた。
事情を話すと、女性は静かに僕を家の中へ通した。
案内された先には、小さな仏壇があった。
そこに飾られていた写真を見て、息を呑む。
――僕によく似た男性だった。
「あの子、胃がんだったんです。
見つかった時にはもう手遅れで……一年前に亡くなりました」
さらに女性は言った。
「好きな子がいたみたいなんです。でも、その子に辛い思いをさせたくないからって、何も言わずに別れたらしくて……」
僕はすべてを話した。
女性は静かに頷き、言った。
「わかりました。私が会いに行きます」
写真を大切に抱え、僕たちはカフェ「黒猫」へ向かった。
店に着くと、彼女は軒下で空を見上げていた。
霧雨が彼女の黒髪を濡らしている。
女性は彼女に向かって話しかけた。
「ここに...いるのね...。あなたの大切な人を連れてきたわ」
写真を取り出した瞬間――
彼女の目が輝いた。
「あなた……!」
触れられないはずの手で、何度も写真を撫でる。
気がつくと雨は止み、光が差していた。
黒いコートは淡いピンクのドレスへと変わり、
その隣には、彼が立っていた。
彼は優しく微笑んでいる。
「嬉しい……やっと来てくれた」
彼女は彼に抱きついた。
二人は手を取り合い、虹の向こうへと歩いていく。
その姿は、やがて静かに消えていった。
もう、彼女がここで待ち続けることはないだろう。
ここは――
マスターさえ知らない、パラレルワールドの入口だった。
そしてきっと今日も、
誰かの「終わらなかった想い」が、この扉をくぐる。
次にその席に座るのは、
もしかしたら――あなたかもしれない。




