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倉庫の片隅で、ティナは支給されたペットボトルの水を喉に流し込んだ。
生温い。
かつてジムの床を這いずりながら、コウタに「許可」されてから啜った、あの鉄の味がするような冷水の鋭さとは、何もかもが違っていた。
「……暑い」
額を流れる汗を、乱暴に腕で拭う。
今の作業場も、決して涼しくはない。
だが、この暑さはどこまでも平坦で、意味がなかった。
コウタのジムで流した汗には、一滴ごとに「死」の恐怖と「生」の震えが混じっていた。
今の汗は、ただの生理現象だ。
エアコンの効きが悪いという、安っぽい不快感。
「……選択、完遂……」
習慣的に口から漏れた言葉に、自分でも驚くほどの虚しさを感じる。
あの夏、コウタの怒号の中で繰り返したその言葉は、自分の存在を繋ぎ止めるための呪文だった。
今は違う。
ただの「労働の終わりの合図」だ。
休憩時間が終わることを告げる、電子的なチャイムが鳴り響く。
周囲の作業員たちは「だりぃな」「もう一休みさせろよ」と、隠そうともしない怠惰を撒き散らしながら、重い腰を上げる。
かつてのティナなら、その光景に同族の安心感を覚えただろう。
だが、今の彼女にとって、その光景は耐え難い。
(……この人たちは、何に怯えているの?)
(どうして、誰も自分を壊そうとしないの?)
ジムの跡地で見た、あの何もない更地の風景が脳裏に焼き付いている。
そこにはもう、自分を限界まで追い込んでくれる「暴力的な理性」は存在しない。
自分で自分を動かさなければならない。
だが、その「自分」というエンジンが、どうやってもかからないのだ。
ティナは立ち上がり、巨大な木箱に手をかけた。
半年間で作り上げられた鋼のような筋肉が、意志とは無関係に収縮し、重量物を軽々と持ち上げる。
肉体は「怪物」のままだ。
だが、その内側にある精神は、かつての引きこもり時代と何ら変わらぬ、湿り気を帯びた「ニート」のまま、死んだ魚のような目で空虚を見つめている。
「……はい。次の作業に、入ります」
指示を出した上司に、ティナは深く頭を下げた。
それは社会復帰の証ではなく、ただ、自分に命令を与えてくれる存在への、悲鳴のような依存だった。
過酷な過去を「輝かしい基準」としてしまい、現状の平穏を「価値のない虚無」と感じるティナ。
翌朝、ティナは逃げるように自宅を出て、再び倉庫へと向かった。
昨日のパニックも、更地で上げた絶叫も、すべては「筋肉」の内側に押し込めた。
今の彼女にとって、唯一の規律は、この窮屈な作業着に袖を通すことだけだった。
だが、現場に着くなり、チームリーダーの男が軽い調子でティナに声をかけた。
「おー、ティナちゃん。今日はいつもの仕分け、適当に君の判断で進めておいてよ。急ぎの分だけ終わったら、あとは自由にやっていいから」
男は何の気なしに、彼女の肩を叩いて去ろうとする。
その瞬間、ティナの身体が、凍りついたようにその場で固まった。
(……判断?)
(……自由?)
思考の歯車が、異音を立てて停止する。
昨日、あの更地で突きつけられた「不在」が、鋭いナイフとなって脳を抉る。
コウタなら、秒単位で動作を規定し、一ミリの妥協も許さず、怒声と共に正解を叩き込んでくれた。
だが、この男は今、世界で最も恐ろしい言葉を彼女に投げた。
「……待って、ください。判断とは、何を、基準に……」
ティナの声は震え、視線は彷徨う。
リーダーは怪訝そうに振り返った。
「え? いや、適当でいいんだって。優先順位とか、やりやすいようにさ。君なら力もあるし、一人で任せても大丈夫だろ?」
「……できません。指示を、ください。何箱、どの順番で、どの位置に。……『自由に』では、筋肉が、動きません」
ティナは一歩、リーダーに詰め寄った。
その圧倒的な肉体の威圧感に、男は気圧されて後ずさる。
彼女の瞳は、まるで命令を待つ飢えた獣のように、ぎらぎらと濁っていた。
(……自分で決めたら、それは『家畜』の選択になる)
(間違えたら、コウタさんに捨てられる。お父さんが、ボタンを押してしまう……!)
「おい、ティナちゃん……? どうしたんだよ、そんな怖い顔して。分かった、分かったから。じゃあ、まずはこのAブロックの荷物を……」
「……Aブロックの、次は? 完了した報告は、誰に? 休憩は、何分、何秒から? 姿勢の矯正は、誰がしてくれるんですか……!?」
ティナはリーダーの胸ぐらを掴みかねない勢いで、細部への指示を懇願した。
自分で選ぶことは、彼女にとって「死」と同義だった。
かつてニートとして部屋にいた頃、何を選んでも自由だった時間は、ただ自分を腐らせるだけの沼だった。
あの地獄のような半年間で彼女が学んだのは、自律ではなく、「絶対的な命令への埋没」という快楽だったのだ。
周囲の作業員たちが、異様な光景に足を止める。
最強の肉体を持ちながら、一人の男に「支配」を求めて縋り付く女。
その姿は、どんな暴力よりも歪で、救いようのない「依存」の形をしていた。
休憩中、物陰で段ボールを整理していたティナの耳に、数人の同僚たちの話し声が飛び込んできた。
「あの子、ティナちゃん? ほんとよく働くよね。文句一つ言わずに重い物運んでくれるし、今の若い子には珍しいくらい、いい子なんだけど……」
「……でもさ、ちょっと変わってるっていうか。なんて言うか、ロボットみたいじゃない? 指示待ちっていうか、『今どきの子』って感じの、マニュアル通りの動きしかできないタイプなのかな」
ティナの動きが、指先から凍りつく。
(……今どきの、こ?)
(……マニュアル?)
彼女の脳裏に、あの地獄のような半年間がフラッシュバックする。
真夏の炎天下、皮膚が焼けるようなアスファルトの上で、肺が潰れるまで叫ばされた理念。
コウタに竹刀で叩かれ、泥水を啜りながら、前時代的な根性と精神論で叩き直された、あの「特訓」。
それは、「今どき」なんて軽薄な言葉とは対極にある、血と汗と暴力にまみれた「古い教育」だったはずだ。
(違う。私は、コウタさんに……あんなに、厳しく……)
(私は、魂を入れ替えられたんだ。効率とか、マニュアルなんて、そんなものじゃない……!)
だが、傍から見れば、彼女の「命令への絶対服従」は、ただの「主体性のない若者」の姿に映っていた。
命がけで手に入れた「規律」が、何も知らない他人からは、単なる「便利な使い勝手の良さ」として消費されている。
ティナは拳を強く握りしめた。
筋肉が膨張し、作業着の袖がはち切れんばかりに軋む。
(……コウタさんの教えは、古いなんて言わせない)
(私がやっているのは、崇高な『選択』だ……!)
しかし、そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、虚しさが募る。
どれほど過酷な特訓に耐え、肉体を作り替えても、結局のところ、自分は「誰かの決めた枠組み」の中でしか生きられない、中身が空っぽのニートのままなのではないか。
「……私は、家畜じゃ、ない……」
掠れた声で呟く。
だが、その声はフォークリフトの騒音にかき消され、誰に届くこともなかった。
「命がけの更生」が、世間からは「今どきの指示待ち」として矮小化される残酷なギャップ。
ティナの自尊心は、そのズレによって静かに、しかし確実に削り取られていきます。
休憩中、ティナは震える指でスマートフォンの画面をスクロールしていた。
画面の向こう側では、隠し撮りされた自分の「労働風景」が勝手にコンテンツ化され、無数の匿名者たちが好き勝手な言葉を投げつけている。
「……っ、な、に……これ……」
そこには、彼女が命がけで手に入れた「規律」を嘲笑う言葉が並んでいた。
「ティナ、完全に牙抜かれてて草。ただの便利な社畜じゃんw」
「コウタの洗脳が解けた結果、中身空っぽの指示待ちロボットが完成しました」
「あんな地獄の特訓受けて、やってることが倉庫番ってコスパ悪すぎだろw」
「違う……違う!! 洗脳なんかじゃない、私は……私は、選んだんだ!!」
倉庫の陰で、ティナの喉から獣のような咆哮が漏れた。
あの暑い日々、肺が焼けるような思いで叫んだ理念。
コウタに「家畜か、人間か」と問われ、血を吐きながら「人間」だと答えたあの瞬間。
それらすべてが、部外者の「コスパ」や「洗脳」という言葉で泥を塗られていく。
ティナの理性が、音を立てて千切れた。
彼女は自分のスマートフォンを掴み、インカメラを起動すると、ライブ配信の開始ボタンを叩きつけた。
「見てなさいよ……あんたたち!!」
画面の中に、怒りで血管を浮かび上がらせた、異形の肉体が映し出される。
作業着の袖を肩まで捲り上げ、半年間で岩石のように作り替えられた上腕二頭筋を、レンズの至近距離まで突き出した。
「これが……これが社畜の筋肉に見えるっていうの!? 私は、毎日死ぬ思いで、コウタさんの前で、理念を……!!」
休憩室の壁に設置された、誰も使っていない古い監視カメラに向かっても、彼女は吠え続けた。
周囲の作業員たちが悲鳴を上げて逃げ出す中、ティナは倉庫の中央で、かつてのジムでの「挨拶」を開始する。
「理念復唱!! 選ばぬ者は、家畜なり!! 私は……私は、私の意志で、この命令に従っているんだぁぁぁ!!」
鋼のような拳で、近くにあった鉄製のラックを殴りつける。
凄まじい衝撃音と共に、頑強なフレームがひしゃげ、周囲の荷物が崩れ落ちた。
配信のコメント欄は、爆発的な勢いで加速していく。
『うわ、マジで発狂した』
『やっぱり中身はモンスターのままじゃんw』
『誰か警察呼べ、スイッチ押せよww』
ティナは狂ったように笑い、涙を流しながら、崩れた荷物の山の上でポージングを繰り返した。
それは自立の証明などではない。
自分の「更生」が洗脳でしかなかったことを、自ら証明してしまうような、あまりにも悲しい暴走だった。
ネットの嘲笑に煽られ、ティナは最悪の形で「コウタの教え」を誇示してしまいました。




