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二度目の公式戦。
泥にまみれ、死地を這いずるような勝利を収めた翌朝のことだった。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、まともに目を開けることすら苦痛なティナの前に、コウタはいつもの冷徹な表情で立っていた。
だが、その手には竹刀も、いつものストップウォッチもなかった。
「……卒業だ、ティナ」
無造作に放り出された言葉に、ティナの思考が停止する。
腫れ上がった瞼を必死に持ち上げ、目の前の男を見つめた。
「……ぇ……? そつ、ぎょう……?」
「お前はもう公式戦で勝った。筋肉もついた。理念も覚えた。俺が教えることはもう何もない。今日限りで、このジムへの出入りを禁ずる」
コウタは、まるで読み終えた新聞をゴミ箱に捨てるような、淡々とした口調で告げた。
ティナの心臓が、試合中よりも激しく脈打つ。
「自由」という言葉は、今の彼女にとって、宇宙の深淵に一人で放り出される死刑宣告と同じ意味だった。
「待っ……待ってください! 私、まだ……ガードも甘いし、スタミナだって、昨日の試合みたいに……!」
「それはお前自身が考えることだ。……言ったはずだ。選ばぬ者は、家畜なり。俺はお前の飼い主を辞める。これからは、自分の足で勝手に歩け」
コウタは背を向け、ジムの重いシャッターを下ろし始めた。
ガラガラと崩れ落ちるような金属音が、二人の世界を物理的に断絶していく。
「嫌だ……嫌です!! コウタさん!! 開けてください!! 何でもします……! また、あの挨拶だって、絶叫だって、何百回でも……!!」
ティナは爪が剥がれるのも構わず、閉ざされたシャッターを叩いた。
だが、中からは何の応答もない。
かつてあれほど憎み、逃げ出したかった地獄。
しかし、半年かけてその地獄のルールに適応してしまったティナにとって、外の世界は、もう呼吸のできない無酸素の空間だった。
数時間後。
ジムの入り口には、半年前と同じように、呆然と立ち尽くすティナの姿があった。
変わったのは、その体躯が岩石のように逞しくなっていること。
そして、その瞳に宿っているのが「怯え」ではなく、光を失った深い「絶望」であることだけだった。
彼女は一人、アスファルトの上に崩れ落ち、コウタの残像を求めて虚空を掻いた。
半年ぶりの実家。
かつては逃げ場だったその場所も、今のティナにとっては、一歩踏み出すたびに床が軋むほど、自分の肉体が「異物」として浮き彫りになる場所だった。
食卓には、かつての彼女が貪り食っていた、母の手料理が並んでいる。
だが、その横に置かれているのは、ティナ自身が慣れない手つきで茹で、ミリ単位で計量した鶏胸肉だ。
「……ティナ、そんなに急いで食べなくてもいいのよ。野菜の切り方、もう少し練習すれば、もっと柔らかく煮込めるようになるから」
母は以前と変わらぬ、穏やかで少しお節介な声で語りかける。
父もまた、テレビの音をBGMに「無理に働かなくてもいい、まずは家事から慣れていけ」と、かつての放任とは違う、確かな労いを持って接してくれていた。
だが、ティナの背筋は、食事中も定規を入れたように伸び切ったままだ。
彼女の耳には、優しく響く母の声の裏側で、常に冷徹な「警告音」が鳴り響いている。
(……もし、ここで私が感情を乱したら。もし、この拳が勝手に動いたら……)
彼女のスマートフォンのホーム画面には、一つのショートカットが配置されている。
それはコウタの端末へ直結された、緊急介入のシグナル。
自分が暴力をコントロールできなくなった瞬間、あるいは自立の道から逸脱した瞬間、あの死神のような師匠が、自分を「処分」しに飛んでくる。
「……はい。お母さん。次は、もう少し薄く切るように、意識……選択します」
「ふふ、選択だなんて、難しい言葉を使うようになったのね」
母は笑うが、ティナの指先は、包丁を握る感覚を思い出すだけで微かに震える。
彼女にとって、今の平穏は「自由」ではない。
コウタという絶対的な理性が、実家の天井から自分を常に見下ろしているという、心地よくも恐ろしい「緊張感」の上に成り立つ、かりそめの安息だった。
食事を終え、流し台で皿を洗う。
かつては母に任せきりだった家事。
洗剤の泡にまみれた自分の拳は、半年前よりも数倍大きく、硬く、そして破壊に適した形に変貌している。
「……私は、人間だ。家畜じゃ、ない……」
水の音に紛れ、ティナは自分に言い聞かせるように理念を呟く。
もし、この日常を壊してしまえば、自分は二度と「コウタの教え子」ですらいられなくなる。
その恐怖だけが、怪物の理性をつなぎとめる、唯一の細い鎖だった。
両親の温厚な態度と、コウタという不可視の重圧。
その狭間で、ティナの「人間らしい生活」がぎこちなく始まりました。
翌朝、ティナは父の紹介で、町外れにある大型倉庫のアルバイトへと向かった。
渡されたのは、彼女の肩幅にはいささか窮屈な、支給品の作業着だ。
「……ティナ。いいか、無理はするなよ。分からなくなったら、すぐに周りの人に聞くんだ」
送り出す父の言葉に、ティナは無言で深く頷いた。
その瞳には、かつての虚無感はなく、代わりに「任務を遂行する兵士」のような、硬い決意が宿っている。
父はそんな娘の背中を見送りながら、ズボンのポケットの中で、一つの端末を握りしめていた。
コウタから「もし娘が制御不能になったら、迷わずこれをおせ」と渡された、緊急介入のシグナルだ。
倉庫の中は、埃っぽさと、絶え間なく響くフォークリフトの走行音に満ちていた。
ティナに与えられた仕事は、重量物の仕分けと運搬。
屈強な男たちが二人掛かりで運ぶ木箱を、彼女は一人で、事も無げに持ち上げていく。
「……っ、ふぅ……。選択、完遂……」
一箱運ぶたびに、喉の奥で理念を反芻する。
浮き出る前腕の血管。半年間で培われた機能的な筋肉が、単純な労働を効率的に処理していく。
その異様な作業効率に、周囲の作業員たちは、感心を通り越した不気味さを感じ、遠巻きに彼女を見ていた。
だが、昼休憩の時間。
一人の年配の作業員が、ティナの筋肉質な背中に向かって、無神経な言葉を投げかけた。
「おい、ねーちゃん。えらい馬力だな。……ひょっとして、例の動画の『モンスター』だろ? コウタに絞られたっていう」
ティナの指先が、持っていた水筒のキャップを握ったまま止まる。
「……更生、しています。私は、人間として、ここにいます」
「ハハッ、更生ねぇ! でもその目は、まだ獣のままだぜ。……おい、ちょっとこっち見て笑ってみろよ。愛想振りまくのも、社会人の更生だろ?」
男の汚れた手が、ティナの肩に置かれた。
その瞬間。
半年間の深夜特訓で叩き込まれた「反撃の本能」が、脳の防壁を突き破ろうと暴れ出した。
(……殺せ。侮辱する者は、排除しろ。弱者は、踏み潰せ……!)
視界が赤く染まる。
ティナの右拳が、無意識に、相手の顎を粉砕する最短距離を描こうと微動した。
全身の筋肉が、闘争のために熱を帯び、膨張する。
「……ぁ、ああぁ……っ!!」
ティナは叫び声を上げながら、男の手を振り払い、その場に蹲った。
男は「なんだよ、気色悪い!」と吐き捨て、周囲も嘲笑に包まれる。
彼女を繋ぎ止めているのは、もうコウタの暴力ではない。
「これ以上、お父さんやお母さんを悲しませたくない」という、あまりにも健気で、あまりにも脆い、人間としての良心だけだった。
だが、その背中を、遠く離れた自宅から父が「スイッチ」に指をかけて見つめていることを、彼女はまだ知らない。
倉庫でのパニックを終えたティナは、逃げるように仕事を切り上げ、かつて自分を地獄から引きずり出した「あの場所」へと向かった。
身体が、震えが、あの日々のような絶対的な「規律」を求めていた。
だが、辿り着いたその場所に、ジムはなかった。
看板も、サンドバッグの音も、鉄の匂いも。
そこにはただ、アスファルトが剥がされた無機質な更地が広がっているだけだった。
「……ぁ、ああ……」
ティナは膝から崩れ落ちた。
跡形もない。
半年間、自分の血と汗と涙が染み込んだ聖域は、コウタの言葉通り、文字通り消滅していた。
自分を人間へと作り替えた神は、彼女が自立したと見なした瞬間、帰るべき檻すらも粉砕して消えたのだ。
(……どこへ行けばいいの)
(私は、誰に命令されればいいの……!)
強靭な肉体という「凶器」だけを持たされ、荒野に放り出された怪物の絶望。
彼女は震える拳を地面に叩きつけた。
かつてニートとして自堕落に過ごしていた日々の暑さと、今のまとわりつくような暑さを比較する。
あの頃の暑さは、ただ逃げるための言い訳だった。
今の暑さは、自分を繋ぎ止める鎖を失い、行き場をなくした魂が燃え尽きようとしている熱だった。
その時、ポケットのスマートフォンが微かに震えた。
父からのメッセージではない。
かつての「d-tube」のライブ配信通知だ。
タイトルは――『元ニート・ティナ、自立訓練の記録:最終章』。
震える指で画面を開くと、そこには隠しカメラで捉えられた、今の自分の姿が映し出されていた。
更地で蹲り、無様に泣き叫ぶ「怪物」の姿を、数万人が無機質な画面越しに眺めている。
「……っ、う、うわぁぁぁぁぁあ!!」
叫びは夜の静寂に吸い込まれていく。
一歩外に出れば、コウタの残影とネットの視線が自分を縛り付ける。
ティナは、鋼のような筋肉を誇示するように直立し、誰もいない更地に向かって、血を吐くような声で「挨拶」を始めた。
「……選択、完遂!! 私は、人間として……ここに、います……!!」
それは更生ではなく、もはや信仰に近い、壊れた機械の再起動だった。
ジムという依存先を物理的に失い、完全に「生ける屍」となったティナ。




