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コウタは教本を無造作に放り捨てると、ティナの襟首を掴んでジムの外へと引きずり出した。
向かった先は、先日ティナが醜態を晒した、あの練習試合の会場だ。
ジムの門前に着くなり、コウタはティナの背中を無慈悲に突き飛ばした。
「……行け。ここからは、お前一人だ」
アスファルトに這いつくばったティナが、信じられないものを見る目でコウタを振り返る。
「……え……? あ、あの……コウタさん……?」
「耳まで贅肉で詰まったか。俺は入らんと言っている。対戦相手への挨拶も、ルールの確認も、リングへ上がる足取りも……すべてお前一人の意志で行え」
コウタはポケットに手を突っ込み、一歩も動こうとしない。
「……無理……無理だよ……。だって、私、何を言えば……どうすればいいか……っ」
ティナの巨体が、恐怖でガタガタと震え始める。
目の前にあるのは、自分を嘲笑し、同情し、あるいは嫌悪した「外の世界」の入り口だ。
コウタという絶対的な暴力の防波堤がない状態で、その中に飛び込む。
それは、生まれたばかりの雛が嵐の中に放り出されるような絶望だった。
「……助けて……コウタさん……お願い……指示を……指示をください……っ!」
ティナは地面を這い、コウタの靴に縋り付こうとした。
だが、コウタはその手を冷たく蹴り払う。
「教えたはずだ。『選ばぬ者は家畜なり』とな。指示を待つだけの肉塊に戻りたければ、そのままそこで野垂れ死ね。俺は人形に興味はない」
コウタの視線は、もはやティナを見ていなかった。
彼は背を向け、煙草を吸い始める。
ティナは一人、ジムの重い扉の前で立ち尽くした。
中からは、ミットを叩く鋭い音や、格闘家たちの荒々しい怒号が漏れ聞こえてくる。
一歩踏み出せば、そこには「自分の責任」しか存在しない地獄が待っている。
戻れば、コウタという唯一の繋がりを失う。
ティナは腫れ上がった拳を握りしめたまま、一歩も動けず、ただ激しい過呼吸に喘いでいた。
コウタはあえて「放置」という最大の突き放しを行いました。
ジムの閉館を告げるブザーが鳴り響き、中から練習を終えた生徒たちが次々と出てきた。
爽やかな汗を流し、充実感に満ちた表情で談笑する彼らの目に、入り口で数時間、置物のように立ち尽くしていたティナの異様な姿が映る。
コウタは壁から背を離すと、通り過ぎる生徒たちに淡々と声をかけた。
「お疲れ」
「あ、コウタさん! お疲れ様です!」
生徒たちが足を止め、敬意を込めて会釈する。
その視線の端には、ボロボロの体で硬直しているティナが、汚物か何かのように映り込んでいる。
ティナの耳には、彼らの何気ない会釈の動きさえも、自分を蔑む動作として翻訳され、増幅された。
コウタの冷徹な視線が、動けないティナの横顔を射抜く。
「……何をしている。挨拶だ。お前はまだ、そこに突っ立っているだけの『物』か?」
「……ぁ……あ、ぅ……」
喉が震え、声にならない。
自分を笑っている(と思い込んでいる)相手に対し、敬意を払う。
それは、今のティナにとって、自分の喉元に自らナイフを突き立てるよりも屈辱的な行為だった。
「声が小さい!! 腹の底から出せ!!」
コウタの怒号と共に、ティナの背中に鋭い蹴りが飛んだ。
「ひっ……! お、お疲れ様です……っ!!」
ティナは地面に這いつくばるような姿勢で、通り過ぎる生徒の足元に向かって叫んだ。
涙と鼻水が混じり合い、アスファルトに滴り落ちる。
「やり直しだ。相手の目を見ろ。お前が何者で、どれほど無力な存在としてここに立っているか、その声で自覚させろ!」
コウタは容赦なくティナの髪を掴み、強制的に顔を上げさせた。
「お疲れ様です!! お疲れ様です!!」
次々と出てくる生徒たち。
その一人一人に、ティナは自分の自尊心を一欠片ずつ差し出すようにして、叫び続けた。
生徒たちは気まずそうに目を逸らし、足早に去っていく。
その「拒絶」の気配を感じるたびに、ティナの心は粉々に粉砕されていった。
自分が一歩も踏み込めなかった場所から、平然と出てくる人々。
彼らに頭を下げるたび、ティナの精神からは「甘え」という名の贅肉が削げ落ち、代わりに真っ黒な、逃げ場のない「自意識」だけが剥き出しになっていった。
深夜、静まり返ったジムの中に、肉体を打つ音と、ひび割れた絶叫だけが木霊していた。
あの日、ジムの一歩手前で立ち尽くしたティナに、コウタが与えたのは「終わりのない反復」という地獄だった。
「……『私は、選択する……! 私は、逃げない……!』……っ、ごふっ……!!」
喉から血の混じった唾液を飛ばしながら、ティナは理念を叫び続ける。
声が枯れれば、コウタの竹刀が容赦なくその太腿を打つ。
一節叫んでは、一トンの重りを引きずり、一セット終えては、格上の相手とのスパーリングへ。
毎日、毎日。
朝日が昇り、一般生徒が来る直前まで、コウタは一言も妥協せず、ティナの横に立ち続けた。
「……もう一度だ。今のスパーリング、なぜ左のガードが下がった。理由を叫びながら、腹筋を五百回こなせ」
コウタの指導は、以前のような「暴力による破壊」から、より精密な「精神の彫刻」へと変貌していた。
ティナが「分からない」と泣けば、分かるまで同じ動作を千回繰り返させる。
ティナが「できない」と崩れれば、できるまでその場に立たせ続ける。
それは、気の遠くなるような、辛抱強い「人間への再構築」だった。
一週間、二週間。
ティナの肉体から、実家の煮物でついた贅肉が完全に削げ落ちた。
代わりに、憎悪と理念、そして「自分はここに立っている」という逃げ場のない自覚だけが、筋肉の筋となって浮き彫りになっていく。
深夜、誰もいないリングの上。
照明に照らされたティナの瞳には、以前の怯えも、甘えも、そして中途半端な殺気さえもなかった。
そこにあるのは、ただコウタの理念を体現するためだけに磨かれた、冷徹な一人の格闘家の光だった。
「……コウタさん。次のセット、始めます」
掠れた声で、ティナが自ら告げた。
コウタは無言でストップウォッチを押し、再び地獄の秒針が動き出した。
絶叫、鍛錬、スパーリング。
会場の巨大スクリーンには、残酷なまでの対比が映し出されていた。
画面左半分には、半年前、ジムの入り口で震え、一歩も動けずに立ち尽くしていた、締まりのない肉体の女。
画面右半分には、今、暗い花道を無機質な足取りで歩んでくる、岩石のような筋肉を鎧った「怪物」。
「……あれ、本当にあの時のデブかよ……?」
「……目が、人間じゃない……」
観客席からは、歓声よりも先に、引き攣ったような困惑と、生理的な恐怖の入り混じったざわめきが漏れ出す。
d-tubeのライブ配信画面には「#放送事故」「#改造手術」「#コウタの最高傑作」という不穏なタグが並び、視聴者数は爆発的に跳ね上がっていた。
ティナの耳には、そのどよめきさえも、半年前の幻聴と同じ「ノイズ」としてしか届かない。
彼女はリングサイドに立つコウタの横を通り過ぎる際、一瞬だけ足を止めた。
視線は合わせない。
だが、その渇いた唇は微かに動き、深夜特訓で数万回繰り返した理念を、呪文のように呟いた。
「……選ばぬ者は、家畜なり……」
コウタは何も答えない。
ただ、冷徹な監視者の目で、彼女の背中をリングへと押し出す。
対戦相手は、プロのリングで数戦を経験している若手選手だった。
しかし、彼女は対峙した瞬間に悟った。
目の前にいるのは、格闘家ではない。
「自分を否定し続けた世界」への憎悪を、肉体という形に凝縮したナニカだと。
「……殺す」
レフェリーの声が響く前に、ティナの瞳から光が消え、深い闇が宿った。
試合開始のゴング。
それは、半年前の「弱者」を葬り去り、完成された「怪物」を世に解き放つ、処刑の合図だった。
ゴングが鳴ってから数分。
リングの上は、華やかな格闘技の舞台とは程遠い、泥を啜り合うような酸欠の地獄と化していた。
半年間の急激な肉体改造は、ティナに圧倒的なパワーを与えた。
だが、一度逃げ出した精神の「芯」までは、まだ完全には鋼へと変わっていない。
相手の粘り強いクリンチと泥臭い打撃に、ティナの呼吸が目に見えて乱れ始める。
「……はぁっ……はぁっ……う、あ……っ!」
視界が白く濁る。
筋肉が熱を持ち、鉛のように重くなる。
半年前、実家で寝転んでいた時の甘い記憶が、誘惑のように脳裏をかすめる。
その時、会場の怒号を切り裂いて、一際低く、刺すような声が届いた。
「……立て!! 泥仕合だ!! ここからは技術じゃねえ、根性じゃあ!!」
コウタがリングサイドのマットを激しく叩き、叫んだ。
「理念を思い出せ! お前は家畜に戻るのか!? 選べ!! 今ここで、死んでも一歩前に出ることを選べ!!」
その声が、ティナの耳の奥で爆発した。
「……ぁ……ああああああああ!!」
ティナは理性を捨てた。
ただ、コウタに見捨てられる恐怖と、自分自身への憎悪だけを拳に乗せ、泥にまみれた右腕を振り抜く。
グシャリ、と嫌な音が響いた。
相手の顔面に、ティナのすべてを乗せた一撃が食い込む。
もつれ合い、共に倒れ込みながらも、ティナは止まらなかった。
「……私は……っ! 私は人間だ……っ!!」
血を吐きながら叫び、崩れ落ちる相手の胸ぐらを掴んで、さらに拳を振り上げる。
レフェリーが慌てて割って入り、試合終了のゴングが乱打された。
判定、勝利。
だが、勝者として腕を上げられたティナの姿に、歓声はなかった。
あるのは、死地から這い出してきた獣を見るような、観客たちの戦慄と沈黙だけだった。
半年という短期間での「変異」と、泥沼の末に掴み取った狂気の勝利。
タイヤパンクした(泣)




