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師の背中、弟子の孤独
コウタはジムの騒乱を背に、ティナの生家である立派な住宅の門を叩いた。
出迎えた両親は、煤と返り血で汚れたコウタの姿を見て息を呑む。
応接間に通されたコウタは、かつての荒々しさを削ぎ落とした、静かな佇まいで深く頭を下げた。
「世間の目にさらすような事態になり、申し訳ありません。私の力不足です」
差し出された茶を啜り、コウタは淡々と、だが誠実に現状を報告し始めた。
「一応このままいけば、身体能力的には社会復帰も可能でしょう。ですが……」
コウタの瞳に、厳格な教育者としての光が宿る。
「今のまま中途半端に御実家へ帰されても、また自堕落な生活に戻ると思われます。精神の核が、まだニートのままなのです」
両親は震える手を取り合い、コウタの言葉を一つも漏らすまいと聞き入る。
「あの子を……ティナをお願いします。もう、あなたしか頼れる人はいないんです」
母親の涙ながらの言葉に、コウタは再び深く、深く頭を下げた。
その頃。
主のいないジムでは、地獄の自習が続いていた。
「……はぁっ、はぁっ……まだ……まだ来るの……?」
ティナの前には、コウタが「教材」として集めた格闘家たちが、代わる代わるリングに上がってくる。
腕は鉛のように重く、視界は疲労で霞んでいる。
だが、ティナの脳裏には、コウタが去り際に残した言葉が呪いのように響いていた。
「サボったら、分かっているな」
その一言が、折れかけた心を強引に繋ぎ止める。
コウタが自分のために、泥を被りながら頭を下げていることなど、彼女は知る由もない。
ただ、師が戻った時に「情けなし」と切り捨てられないためだけに。
ティナは血の混じった唾を吐き捨て、次なる対戦相手に向かって、硬質な拳を構え直した。
コウタが両親に対して見せた「誠実な大人」の顔と、ティナがジムで繰り広げる「孤独な戦い」。
一週間連続の地獄のような組手の果てに、ジムの床は血と汗で黒ずんでいた。
コウタは無言でジムに戻り、静かに大きなタッパーを床に置いた。
「……自習は終わったか。食え、お前の両親から預かってきた」
蓋を開けると、そこには出汁の香りが漂う、里芋と鶏肉の煮物が入っていた。
彩り豊かな野菜、丁寧に面取りされた大根。
昭和のドロドロカレーとは対極にある、繊細で、温かな「家庭の味」がそこにあった。
「……あ……あぁ……」
ティナの腫れ上がった指が、震えながら煮物を掴む。
一口噛みしめた瞬間、慣れ親しんだ甘い醤油の味が、麻痺していた脳を直撃した。
一週間、ただ敵を砕くこと、そして生き残ることだけを考えていた彼女の理性が、激しく揺らぐ。
「……お母さん……っ」
煤けた頬を、大粒の涙が伝い落ちる。
それは、怪物の皮を被せられる前の、ただの寂しがり屋なニートの少女に戻った瞬間だった。
口の中に広がる優しい味は、彼女に「平和な日常」の記憶を呼び起こさせる。
温かい布団、テレビの音、そして自分を甘やかしてくれた両親の笑顔。
「……もう、嫌だ……。おうちに、帰りたい……コウタさん……私……」
ティナは煮物を抱えたまま、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
だが、コウタはその涙を、凍てつくような冷徹な目で見つめていた。
「その味が恋しいか。なら、勝って帰るしかないな。お前を待っているのは、その煮物だけじゃない。お前の無様な敗北を嘲笑った、世間の目だ」
コウタはティナの手から、無造作にタッパーを取り上げた。
「未練は食い尽くしたな。……さあ、百一人目だ。立て、ティナ」
ティナは嗚咽を漏らしながらも、重い腰を上げた。
目には涙を溜めながら、しかしその足取りは、先ほどよりも鋭く大地を捉えていた。
コウタの体が、残像を残してリングから消えた。
直後、ティナの視界が真横にひっくり返る。
「……がはっ……ぁ……っ」
鳩尾を深く抉るような右拳。
石切り場で鍛え、一トンの重圧を撥ね退けたはずの鋼の腹筋が、まるで薄い紙のように無力に陥没した。
コウタの打撃は、肉の表面ではなく、その奥にある魂を直接削り取るような異質な重さを持っていた。
「どうした! 一週間の自習で、自分の肉が最強にでもなったと錯覚したか!」
立ち上がろうとするティナの顔面に、容赦のない膝蹴りが叩き込まれる。
鼻骨が砕ける嫌な音が響き、鮮血がリングの床に散乱した煮物を赤く染めた。
ティナは反撃どころか、相手の動きを捉えることすらできない。
右、左、下、上。
全方位から浴びせられる正確無比な暴力の嵐。
「……痛い……やめて……コウタさん……っ」
「その口を閉じろ! 痛いのはお前が生きている証拠だ。やめてほしいのは、お前の中にまだ『他人への期待』が残っているからだ!」
リングに上がった百一人目の男は、目の前の光景に思わず拳を止めた。
全身傷だらけで、煮物のタッパーを抱えて子供のように泣きじゃくる巨漢の少女。
「……おい、あんた。もういいだろ、こんなの。これ以上はもう、見てられねえよ」
男はグローブを外し、困惑した顔でコウタを振り返った。
だが、その優しさがコウタの逆鱗に触れた。
「……戦場に、同情を持ち込むなと言ったはずだ」
コウタの影が、音もなくリングを跳んだ。
電光石火の蹴りが男の胸元を捉え、その巨体を場外の壁まで吹き飛ばす。
ドォォォン! とジムが震えるほどの衝撃。
「ぐはっ……な、何を……っ」
「同情? そんな安いもん、ゴミ箱にでも捨ててこい。お前が手を緩めた瞬間、この娘は『自分は可哀想な存在だ』と甘えるんだ。それがこいつを殺すと、なぜ分からん!」
コウタはリング外に転がった男を一蹴し、再びリング上のティナを冷徹に見下ろした。
ティナは煮物のタッパーを抱えたまま、恐怖で硬直している。
「見ろ、ティナ。今の男がお前に同情したのは、お前が弱く見えたからだ。お前を『対等な敵』ですらなく、ただの保護対象だと侮辱したんだ!」
コウタはティナの腕からタッパーを力ずくで奪い取り、床に叩きつけた。
中身がぶちまけられ、丹精込めて作られた煮物が、埃まみれの床に散乱する。
「……ぁ……あぁぁぁ……っ」
「泣くな! 怒れ! 同情されて嬉しいか? 哀れみの目を向けられて満足か? そんなニート根性のままで、いつまで地べたを這いずるつもりだ!」
コウタはティナの髪を掴み、無理やりその視線を散乱した煮物へと固定させた。
「これが最後だ。お前の『甘え』はすべて、俺がこのリングで叩き潰してやる。立て、ティナ! 次は俺が相手だ!」
相手の同情を切り捨て、コウタ自らがティナの「甘え」を断つためにリングに上がりました。
もはや逃げ場のない、師弟による極限の私闘が始まろうとしています。
コウタの回し蹴りが、ティナの巨体をリングのロープまで吹き飛ばす。
跳ね返ってきたところを、さらに強烈なアッパーが迎え撃った。
ティナの意識が白濁し、思考が断片化していく。
圧倒的な実力差。
目の前にいるのは、信頼すべき師匠ではなく、抗うことすら許されない「天災」そのものだった。
床に這いつくばるティナの背中を、コウタは冷徹に踏みつける。
「お前の贅肉は、まだ泣いている。お前の筋肉は、まだ震えている。……そのすべてが『弱さ』だ。俺が今ここで、根こそぎ叩き出してやる」
意識が遠のくティナの視界の隅で、泥まみれになった母の煮物が無残に転がっていた。
コウタの圧倒的な暴力により、ティナが積み上げてきた自信は粉々に砕かれました。
ジムの外へと逃げ出したはずの門下生たちが、一人、また一人と戻ってきた。
彼らの足を止めたのは、夜の静寂を切り裂く、到底人間同士の打ち合いとは思えない重低音だった。
ドォォォン……ッ!
ジムの建物全体が震え、窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げている。
門下生たちは、恐る恐るジムの入り口から中を覗き込んだ。
「……なんだよ、これ……。あんなの、ただの暴行じゃねえか……」
一人が震える声で呟く。
リングの上では、コウタの拳が、もはや肉塊と化したティナを無慈悲に叩き続けていた。
打ち込まれるたびに、ティナの体から衝撃波が走り、周囲の空気が歪む。
血飛沫が舞い、床の煮物の残骸が踏み荒らされる凄惨な光景。
だが、見ていた者たちは、ある異変に気づき、言葉を失った。
「……待て。あのデブ娘……まだ、倒れてねえぞ」
コウタの、あの戦車をも穿つような打撃を全身に浴びながら。
ティナは白目を剥き、意識をとうに飛ばしながらも、その巨体は大地に根を張ったように立ち続けていた。
一撃食らうたびに、彼女の膨大な筋肉と脂肪が、衝撃を吸収し、即座に再構成されていく。
「……ほう、まだ意識が肉体に縋り付いているか」
コウタが狂気を孕んだ笑みを浮かべ、さらに拳の速度を上げた。
目撃者たちは確信した。
今、目の前で起きているのは、単なる更生でも、特訓でもない。
一人の「ニートのデブ娘」が、地獄の業火に焼かれ、純粋な「暴力の結晶」へと変貌する……。
それは、新たなる伝説が産声を上げる瞬間の、凄まじい胎動だった。
門下生たちの視線が、リング上の惨劇を「神話」へと変えていきます。
窓の外が白み始め、ジムの壊れた窓から冷たい朝の光が差し込んだ。
一晩中続いた肉体と肉体の衝突音が、ようやく止まった。
リングの上には、もはや原型を留めていないロープと、あちこちが陥没した床板。
その中心で、コウタとティナは肩で息をしながら、力なく座り込んでいた。
「……終わったぞ。一晩中、よく立っていたな」
コウタのシャツは汗で肌に張り付き、拳の皮は剥け、激しい熱を帯びている。
隣に座るティナはさらに無惨だった。
顔は倍ほどに腫れ上がり、目は僅かに開いているのがやっとの状態だ。
コウタは床に散らばったタッパーの残骸を寄せ集めると、辛うじて残っていた里芋と大根を、素手で拾い上げた。
冷え切り、砂埃が混じった里芋を、コウタは無造作に自分の口へ放り込む。
「……冷めても、美味いもんだな」
コウタはもう一つの大根を、動かないティナの唇に押し当てた。
ティナは一瞬、拒絶するように身を強張らせたが、やがて弱々しく口を開き、それを迎え入れた。
「……っ、ふ……ぅ……」
冷え切った煮物の味が、火照りきった体内にゆっくりと浸透していく。
それは一晩中、自分を殺さんばかりに打ちのめしてきた師匠の手から与えられる、唯一の報酬だった。
二人は一言も交わさない。
ただ、壊れたリングの上で、冷え切った家庭の味を無言で分け合う。
昨夜までの殺気は消え、そこには奇妙なほど澄んだ、静かな時間が流れていた。
ティナは、泥と血と出汁が混ざり合った味を噛み締めながら、自分が以前とは違う生き物になってしまったことを、朝日の中で静かに悟っていた。
暴力の果てに訪れた、静かな朝。




