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「……テン! ノックアウト!!」
レフェリーの腕が振り下ろされた瞬間。
張り詰めていたティナの糸が、静かに、だが完全に切れた。
巨木が倒れるような鈍い音を立てて、彼女の体はキャンバスへと沈んでいく。
「ティナ!!」
静寂に包まれていた客席から、悲鳴にも似た叫びが上がった。
駆け寄ってきたのは、一般席で震えながら見守っていた両親だった。
煤けた作業着のまま、なりふり構わずリングへ這い上がる父と、涙で顔をぐちゃぐちゃにした母。
「ああ……ティナ、よく頑張ったわね、本当によく……」
母の温かな手が、血まみれになったティナの頬を包み込む。
その温もりに触れた瞬間、ティナの薄れゆく意識の中に、柔らかな光が差し込んだ。
それはエデンの冷たい照明ではない。
ボロアパートの、あの狭くて騒がしい、愛すべき食卓の灯り。
(……お母さん……私、ちゃんと……立ててた……?)
言葉にはならない問いかけ。
だが、母の涙がその答えだった。
ティナは、自らを蝕んでいた「家畜」という名の恐怖から、ようやく本当の意味で解放されたのだ。
アリーナの出口付近。
喧騒を背に、一人の男が静かに歩を進めていた。
使い古された黒いブルゾンを羽織り、一度も振り返ることなく。
コウタは立ち止まり、懐から安物のタバコを取り出した。
火を点け、紫煙を深く吸い込む。
指先は、愛弟子の勝利を祝うように、微かに震えていた。
「…………ふん」
男の口元が、誰にも見られない暗がりのなかで、ほんの僅かだけ、不器用な形に緩んだ。
「合格だ。……バカ弟子」
コウタは煙を吐き出し、夜の闇へと消えていった。
そこにはもう、教えるべき「地獄」は何一つ残っていなかった。
リングの上では、新しい「人間」の誕生を祝う、止まない喝采だけが鳴り響いていた。
ドォォォォォンッ!!
石切り場の静寂を、耳を裂く爆音と衝撃波が蹂躙した。
崩落する岩壁から放たれた、数トンもの「礫」がライカを襲う。
だが、その視線の先から、さらなる絶望が飛来した。
「甘ぇぞ、ライカッ!! 爆風を食らうのは前提だ!!」
煙の中から、コウタが叫ぶ。
その手から放たれたのは、クレーン用のワイヤーを切断して取り出した、二十キロを超える「鋼鉄の塊」だった。
爆発の衝撃波に乗せられ、鉄球は弾丸のような速度でライカの胸元へ迫る。
「ハァッ……!!」
ライカは避けない。
爆風の圧力に肉体を「同調」させ、正面からその鉄球を受け止めた。
ドォッ!! と、鈍い音が石切り場に響き、彼女の足元がクレーターのように爆ぜる。
「……いい、返しです……コウタさん……ッ!!」
ライカは、胸部にめり込んだ鉄球の衝撃を、逆回転のエネルギーに変換した。
背後で次の発破が轟く。
爆風の追い風を背に、彼女は奪った鉄球を、全力でコウタの眉間へと投げ返した。
「……来いッ!!」
ガキィィィィンッ!!
コウタは飛来する鉄球を、素手で、あるいは自身の「硬化」した前腕で弾き返す。
もはやこれは、キャッチボールではない。
爆発という「面」の衝撃と、鉄球という「点」の破壊を同時に捌き、互いに投げつけ合う、殺し合いに近い修練。
「衝撃から逃げるな! 鉄球の重さも、爆風の熱も、すべてお前のガソリンだと言ったはずだッ!!」
「はいっ!! もっと……もっとください!!」
三連続の同時爆破。
爆炎の中から、時速百キロを超える鉄球が、卓球のラリーのような速度で往復する。
d-tubeの衝撃測定器は、すでに測定不能を示す「∞(インフィニティ)」の表示で固まっていた。
視聴者たちは、画面の前で戦慄していた。
「【悲報】伝説のコウタ、ついに教え子と爆破鉄球デスマッチを開始」
「これ、もう格闘技の練習じゃないだろ。……戦争だ」
L_White「待て、ライカが笑ってるぞ。爆風と鉄球を浴びながら、あの子、笑ってる……」
「おい、ライカ。……これで仕上げだ」
コウタは、最後の一際巨大な鉄球を、導火線が巻かれた爆薬の塊へと叩きつけた。
「爆風ごと鉄球を『愛して』、自分の一部にしろ。……それができれば、お前は天国すら超える」
直後、石切り場全体が、白銀の閃光に飲み込まれた。
爆煙と鉄の臭い。
その中心で、師弟は互いの命を、鉄球という名の言霊で語り合っていた。




