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ドォォォォォンッ!!
ソフィアの腹部に、ティナの拳が深々と沈み込んだ。
衝撃を逃がすための重心移動すら、ティナの圧倒的な圧力が強引に封じ込める。
ソフィアの鉄の肉体が、内側から爆ぜるような衝撃に悲鳴を上げた。
「が、……ぁ、……っ!?」
ソフィアの口から、鮮血が飛ぶ。
だが、その瞳から光は消えていなかった。
それどころか、極限の苦痛の中で、彼女の計算(合理)はさらに研ぎ澄まされていた。
「……甘いわ、ティナ。……そんな、……分かりきったバグ……!」
腹部に拳をめり込ませたまま、ソフィアが笑った。
彼女の腹筋が、異常なまでの収縮を見せる。
肉そのものが、ティナの拳を「噛み殺す」かのように硬直した。
「……修正、済みよ……ッ!!」
ソフィアが、自らの腹に突き刺さったティナの腕を、文字通り肉の締め付けだけで固定した。
逃がさない。
ティナが「捕まえた」と思ったその瞬間、逆にソフィアが「捕まえ返した」のだ。
ソフィアが、自身の髪を振り乱しながら、上半身を大きく後ろへ反らす。
ティナが驚愕に目を見開く間もなかった。
ゴッ!!
鈍く、重い、骨が砕け散るような音。
ソフィアの全体重と、弾力化した筋肉の反発を乗せた、渾身の頭突き。
それが、ティナの鼻面に真正面から叩き込まれた。
「……あ、……ぁがっ……!?」
ティナの視界が、真っ白に弾け飛ぶ。
鼻骨が砕け、溢れ出した熱い血が喉の奥を焼く。
合理の極致であるソフィアが、ティナの土俵である「野蛮」を、より洗練された暴力で塗り替えた瞬間だった。
「泥臭いのは……嫌いだけど。……たまには、悪くないわね」
頭突きを放ったソフィアの額からも、鮮血が滴り落ちる。
彼女の白銀の髪が、朱に染まっていく。
その姿は、冷徹な計算機ではなく、地獄の底から這い上がってきたばかりの、美しくも獰猛な格闘家のそれだった。
よろけるティナ。
だが、ソフィアもまた、腹部へのダメージで膝が笑っている。
二人は互いの血を浴びながら、至近距離で、もはやガードすら忘れて見つめ合った。
至近距離。
飛び散る鮮血。
互いの視線が、火花を散らす。
ソフィアの頭突きで鼻を砕かれたティナ。
ティナの腹パンで内臓を焼かれたソフィア。
どちらが先に倒れてもおかしくない、極限の死線。
……ああ、最高だ
ティナの脳内を、静寂が支配した。
師匠への依存も、科学への盲信も、もうここにはない。
ただ、目の前の美しい怪物を、この拳で超えたいという純粋な渇望だけ。
……最後よ、ティナ
ソフィアが、折れそうな呼吸を整え、最後のリミッターを外した。
彼女の肉体から、陽炎のような熱気が立ち昇る。
合理を焼き尽くした先にある、彼女だけの「真実」が拳に宿る。
二人の体が、同時に爆発した。
回避も、防御も、フェイントも。
そんな「正解」は、すべてこの熱の中に溶けて消えた。
ド、ォォォォォンッ!!
アリーナを揺るがしたのは、これまでのどの衝撃よりも重い、たった一つの音だった。
ティナの右拳がソフィアの顎を捉え、同時にソフィアの左拳がティナのテンプルを撃ち抜く。
完璧な、クロスカウンター。
交差した二人の腕。
その間で、時間は永遠のように引き伸ばされた。
ティナの拳に伝わる、ソフィアという人生の重み。
ソフィアの拳に伝わる、ティナというバグの熱量。
(……ありがとうございました、ソフィアさん)
(……やるじゃない、重機娘)
二人の口角が、同時にわずかに上がった。
次の瞬間。
糸が切れた人形のように、ソフィアの白銀の体がキャンバスへと崩れ落ちた。
ドサリ、という重い音がアリーナに響く。
だが、ティナは倒れなかった。
意識はとうに、闇の向こうへ溶け落ちている。
三半規管は破壊され、テンプルを撃ち抜かれた脳は、今すぐシャットダウンを求めて悲鳴を上げている。
(……立ってろ……ソフィアさんに、みんなに証明しろ)
崩れ落ちそうになる膝を、自らの「意志」という名の楔で、強引に床へ打ち付けた。
コウタに叩き込まれた理念。
母がよそってくれた、あの温かい飯の重み。
格闘家としての冷徹な「燃料」と、人間としての「誠実さ」。
その両方を飲み込んだ今のティナにとって、ここで倒れることは、自分を愛してくれたすべての人々への裏切りに他ならない。
「……、……、……ッ」
白目を剥き、鼻からは鮮血を噴き出しながら。
ここで膝をつけば、彼らが繋いでくれた私の命を否定することになる。
格闘家としての「正解」を捨ててでも。
ただ一人の「人間」として、自分を信じてくれた人々に、今の自分の姿を証明しなければならない。
「セブン……エイト……ナイン……」
ティナは、へし折れたプライドを無理やり繋ぎ合わせ、仁王立ちのままソフィアを見下ろした。
一人の「人間」が、血と涙と愛をすべて飲み込み、地獄の底で掴み取った……あまりにも無骨で、あまりにも尊い勝利の証明。
カウントが刻まれるたび、ティナの意識はさらに遠のいていく。
それでも、彼女の瞳だけは死んでいなかった。
自分を育ててくれたすべての人への感謝を、その立ち姿一つに込めて。
「……テン! ノックアウト!!」
終了のゴングが、祝福の鐘のように鳴り響く。
その瞬間、ティナは血の混じった吐息と共に、空を見上げた。
勝った。
私は、私の足で、最後まで立ち続けたんだ。




